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一葉  作者: 野口 ゆき
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実語教と童子教

実語教(じつごきょう)】と【童子教(どうじきょう)】は、鎌倉(かまくら)(1185年~1333年)末期から明治(めいじ)(1868年~1912年)初期まで使用されていた日本古来(こらい)・日本独自(どくじ)初等教育(しょとうきょういく)(7歳から15歳)の為の教訓書(きょうくんしょ)である。

江戸時代(1603年~1868年)には、寺子屋(てらこや)武士(ぶし)の子供の為の学校である藩校(はんこう)とは別の、庶民(しょみん)の子供の為の学校)の教科書として使われていた。


【実語教】も【童子教】も、時代や国や老若男女(ろうにゃくなんにょ)問わず、『人生の教訓』となる書である。


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【実語教】


●平安時代(794年~1185年)末期成立

●作者不明

●全96句

学問(がくもん)の大切さを()

儒教(じゅきょう)(もと)づく


山高故不貴やまたかきがゆえにたっとからず 以有樹為貴きあるをもってたっとしとす

人肥故不貴ひとこえたるがゆえにたっとからず 以有智為貴ちあるをもってたっとしとす

富是一生財とみはこれいっしょうのたから 身滅即共滅みめっすればすなわちともにめっす

智是万代財ちはこればんだいのたから 命終即随行いのちおわればすなわちしたがいゆく

玉不磨無光たまみがかざればひかりなし 無光為石瓦ひかりなきをいしがわらとす

人不学無智ひとまなばざればちなし 無智為愚人(ちなきをぐじんとす)

倉内財有朽くらのうちのざいはくちることあり 身内才無朽みのうちのさいはくちることなし

雖積千両金せんりょうのこがねをつむといえども 不如一日学いちにちのがくにはしかず

兄弟常不合(けいていつねにあわず) 慈悲為兄弟(じひをけいていとす)

財物永不存ざいもつながくそんせず 才智為財物(さいちをざいもつとす)

四大日々衰(しだいひびにおとろえ) 心神夜々暗しんじんはややにくらし

幼時不勤学いとけなきとききんがくせざれば 老後雖恨悔おいてのちうらみくゆといえども

尚無有所益なおしょえきあることなし 故読書勿倦かるがゆえにしょをよんでうむことなかれ

学文勿怠時がくもんにおこたるときなかれ 除眠通夜誦ねむりをのぞいてよもすがらじゅせよ

忍飢終日習うえをしのんでひねもすならえ 

雖会師不学しにあうといえどもまなばざれば 徒如向市人いたずらにいちびとにむかうがごとし 

雖習読不復ならいよむといえどもふくせざれば 只如計隣財ただとなりのたからをかぞうるがごとし 

君子愛智者くんしはちしゃをあいし 小人愛福人しょうじんはふくじんをあいす 

雖入冨貴家ふうきのいえにいるといえども 為無財人者ざいなきひとのためには 

猶如霜下花なおしものしたのはなのごとし

雖出貧賤門ひんせんのかどをいづるといえども 為有智人者(ちあるひとのためには)

宛如泥中蓮あたかもでいちゅうのはちすのごとし 

父母如天地(ふぼはてんちのごとく) 師君如日月しくんはじつげつのごとし 

親族譬如葦しんぞくはたとえばあしのごとし 夫妻猶如瓦ふさいはなおかわらのごとし 

父母孝朝夕ふぼにはちょうせきにこうせよ 師君仕昼夜しくんにはちゅうやにつかえよ 

交友勿諍事ともとまじわりてあらそうことなかれ 

己兄尽礼敬おのれよりあににはれいけいをつくし 己弟致愛顧おのれよりおとうとにはあいこをいたせ

人而無智者ひととしてちなきものは 不異於木石(ぼくせきにことならず)

人而無孝者ひととしてこうなきものは 不異於畜生ちくしょうにことならず

不交三学友さんがくのともにまじわらずんば 何遊七覚林なんぞしちがくのはやしにあそばん

不乗四等船しとうのふねにのらずんば 誰渡八苦海たれかはっくのうみをわたらん

八正道雖広はっしょうどうはひろしといえども 十悪人不往じゅうあくのひとはゆかず

無為都雖楽むいのみやこはたのしむといえども 放逸輩不遊ほういつのともがらはあそばず

敬老如父母おいたるをうやまうはふぼのごとし 愛幼如子弟いとけなきをあいするはしていのごとし

我敬他人者われたにんをうやまえば 他人亦敬我(たにんわれをうやまう)

己敬人親者おのれひとのおやをうやまえば 人亦敬己親ひとまたおのれがおやをうやまう

欲達己身者おのれがみをたっせんとほっするものは 先令達他人まずたにんをたっせしめよ

見他人之愁たにんのうれいをみては 即自共可患すなわちみずからともにうれうべし

聞他人之喜たにんのよろこびをきいては 則自共可悦すなわちみずからともによろこぶべし

見善者速行ぜんをみてはすみやかにおこなえ 見悪者忽避あくをみてはたちまちさけよ

修善者蒙福ぜんをおさむるものはふくをこうむる 譬如響応音たとえばひびきのおとにおうずるがごとし

好悪者招禍あくをこのむものはわざわいをまねく 宛如随身影あたかもみにかげのしたがうがごとし 

雖冨勿とむといえどもまずしき忘貧(をわするることなかれ) 雖貴勿たっとしといえどもいや忘賤しきをわするることなかれ

或始冨終貧あるいははじめはとみておわりまずしく 或先貴後賤あるいはさきにたっとくしてのちにいやし

夫難習易忘それならいがたくわすれやすきは 音声之浮才(おんじょうのふさい)

又易学難忘またまなびやすくわすれがたきは 書筆之博芸(しょひつのはくげい)

但有食有法ただししょくあればほうあり 亦有身有命またみあればいのちあり 

猶不忘農業なおのうぎょうをわすれず 必莫廃学文かならずがくもんをはいすることなかれ

故末代学者かるがゆえにまつだいのがくしゃ 先可案此書まずこのしょをあんずべし

是学問之始(これがくもんのはじめ) 身終勿忘失みおわるまでぼうしつすることなかれ


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


【童子教】


●鎌倉時代(1185年~1333年)中期成立

●作者不明

●全320句

●『人としての道』を説く

仏教(ぶっきょう)に基づく


夫貴人前居それきじんのまえにいては 顕露不得立けんろにたつことをえず

遇道路跪過どうろにおうてはひざまずいてすぎよ 有召事敬承めすことあらばうやまってうけたまわれ

両手当胸向りょうのてをむねにあててむかえ 慎不顧左右つつしんでさゆうをかえりみず

不問者不答(とわずんばこたえず) 有仰者謹聞おおせあらばつつしんできけ

三宝尽三礼さんぽうにはさんれいをつくせ 神明致再拝しんめいにはさいはいをいたせ 

人間成一礼にんげんにはいちれいをなせ 師君可頂戴しくんにはちょうだいすべし

過墓時則慎はかをすぐるときはすなわちつつしめ 過社時則下やしろをすぐるときはすなわちおりよ

向堂塔之前どうとうのまえにむかって 不可行不浄ふじょうをおこなうべからず

向聖教之上しょうぎょうのうえにむかって 不可致無礼ぶれいをいたすべからず

人倫有礼者(じんりんれいあれば) 朝廷必在法ちょうていかならずほうあり

人而無礼者ひとにしてれいなきものは 衆中又有過しゅちゅうまたとがあり

公衆下雑言しゅにまじわりてぞうごんせず 事畢者速避ことおわらばすみやかにさけよ

触事不違朋ことにふれてともにたがわす 言語不得離げんごはなるることをえず

語多者品少ことばおおきはしなすくなし 老狗如吠友おいたるいぬのともをほゆるがごとし

懈怠者急食けたいするものはしょくをいそぐ 痩猿如貪菓やせたるさるのこのみをむさぼるがごとし

勇者必有危いさめるものはかならずあやうきことあり 夏虫如入火なつのむしのひにいるがごとし

鈍者亦無過にぶきものはまたあやまちなし 春鳥如遊林はるのとりのはやしにあそぶがごとし

人耳者付壁ひとのみみはかべにつく 密而勿讒言ひそかにしてざんげんすることなかれ

人眼者懸天ひとのめはてんにかかる 隠而勿犯用かくしておかしもちうることなかれ

車以三寸轄くるまはさんずんのくさびをもって 遊行千里路せんりのみちをゆぎょうす

人以三寸舌ひとはさんずんのしたをもって 破損五尺身ごしゃくのみをはそんす

口是禍之門くちはこれわざわいのかど 舌是禍之根したはこれわざわいのね

使口如鼻者くちをしてはなのごとくならしめば 終身敢無事みおわるまであえてことなし

過言一出者かごんひとたびいずれば 駟追不返舌(しついしたをかえさず)

白圭玷可磨はくけいのたまはみがくべし 悪言玉難磨あくげんのたまはみがきがたし

禍福者無門(かふくはもんなし) 唯人在所招ただひとのまねくところにあり

天作災可避てんのつくるさいはさくべし 自作災難逃みずからつくるさいはのがれがたし

夫積善之家それせきぜんのいえには 必有余慶矣(かならずよけいあり)

又好悪之処またこうあくのところには 必有余殃矣(かならずよおうあり)

人而有陰徳ひとにしていんとくあれば 必有陽報矣(かならずようほうあり)

人而有陰行ひとにしていんぎょうあれば 必有照名矣かならずしょうめいあり

信力堅固門しんりきけんごのかどには 災禍雲無起さいかのくもおこることなし

念力強盛家ねんりききょうせいのいえには 福祐月増光ふくゆうのつきひかりをます

心不同如面こころのおなじならざるはおもてのごとし 譬如水随器たとえばみずのうつわにしたがうがごとし

不挽他人弓たにんのゆみをひかざれ 不騎他人馬たにんのうまにのらざれ

前車之見覆ぜんしゃのくつがえるをみて 後車之為誡(ごしゃのいましめとす)

前事之不忘(ぜんじのわすれざるを) 後事之為師(ごじのしとす)

善立而名流(ぜんたってなをながす) 寵極而禍多ちょうきわまってわざわいおおし

人死而留名ひとはししてなをとどむ 虎死而留皮とらはししてかわをとどむ

治国土賢王こくどをおさむるけんおうは 勿侮鰥寡矣かんかをあなどることなかれ

君子不誉人(くんしはひとをほめず) 則民作怨矣すなわちたみにあだとなる

入境而問禁きょうにいってはいましめをとい 入国而問国くににいってはくにをとい

入郷而随郷ごうにいってはごうにしたがい 入俗而随俗ぞくにいってはぞくにしたがい

入門而問諱もんにいってはまずいみなをとえ 為敬主人也しゅじんをうやまうがためなり

君所無私諱くんしょにわたくしのいみななし 無二尊号也ふたつなきはそんごうなり

愚者無遠慮ぐしゃはとおきおもんばかりなし 必可有近憂かならずちかきうれいあるべし

如用管窺天くだをもちいててんをうかがうごとく 似用針指地はりをもちいてちをさすににたり

神明罰愚人しんめいはぐにんをばっす 非殺為令懲ころすにあらずこらしめんがためなり

師匠打弟子ししょうのでしをうつは 非悪為令能にくむにあらずよからしめんがためなり

生而無貴者うまれながらにしてたっときものはなし 習修成智徳ならいじゅしてちとくとなる

貴者必不富たっときものはかならずとまず 富者未必貴とめるものはいまだかならずたっとからず

雖富心多欲とめるといえどもこころおおきはよく 是名為貧人これをなづけてひんにんとす

雖貧心欲足まずしきといえどもこころほっせればたれり 是名為富人これをなづけてふじんとす

師不訓弟子(しのでしにおしえざる) 是名為破壊これをなづけてはかいとなす

師呵責弟子しのでしをかしゃくする 是名為持戒これをなづけてじかいとなす

畜悪弟子者あしきでしをとどむれば 師弟堕地獄(していじごくにおつ)

養善弟子者(よきでしをやしなえば) 師弟到仏果(していぶっかにいたる)

不順教弟子おしえにしたがわざるでしは 早可返父母はやくふぼにかえすべし

不和者擬冤やすらかならざるものをなだめんとぎすれば 成怨敵加害おんてきとなってがいをくわう 

順悪人不避あくにんにしたがってさけざれば 緤犬如廻柱つなげるいぬのはしらをめぐるがごとし

馴善人不離ぜんにんになれてはなれざれば 大船如浮海たいせんのうみにうかべるがごとし

随順善友者よきともにずいじゅんすれば 如麻中蓬直まちゅうのよもぎのなおきがごとし

親近悪友者あしきともにしんきんすれば 如藪中荊曲やぶのなかのけいきょくのごとし

離祖付疎師そにはなれそしにつきて 習戒定慧業かいじょうえのごうをならえ

根性雖愚鈍こんじょうはぐどんなりといえども 好自到学位おのずからこのめばがくいにいたる

一日学一字いちにちにいちじまなびて 三百六十字さんびゃくろくじゅうじ

一字当千金いちじせんきんにあたる 一点助他生いってんたしょうをたすく

一日師不疎いちにちしをおろそかにせず 況数年師乎いわんやすうねんのしをや

師者三世契(しはさんぜのちぎり) 祖者一世眤(そはいっせのむつみ)

弟子去七尺でしはしちしゃくさって 師影不可踏しのかげをふむべからず

観音為師教かんのんはしこうのために 宝冠戴弥陀ほうかんにみだをいただき

勢至為親孝せいしはしんこうのために 頭戴父母骨こうべにふぼのほねをいただき

宝瓶納白骨ほうへいにはっこつをおさむ 

朝早起洗手あしたははやくおきててをあらい 摂意誦経書こころをおさめてきょうかんをじゅせよ 

夕遅寝洒足ゆうべにはおそくねるともあしをそそぎ 静性案義理せいをしずめてぎりをあんぜよ

習読不入意ならいよめどこころにいれざれば 如酔寝讇語よいてねてむつごとをかたるがごとし 

読千巻不復せんかんをよめどもふくさざれば 無財如臨町ざいなくしてまちにのぞむがごとし 

薄衣之冬夜うすきころものふゆのよも 忍寒通夜誦かんをしのびてつうやにじゅせよ 

乏食之夏日とぼしきしょくのなつのひも 除飢終日習うえをのぞきてひねもすならえ

酔酒心狂乱さけによえばこころきょうらんし 過食倦学文しょくをすごせばがくもんにうむ 

温身増睡眠みをあたたむればすいみんをます 安身起懈怠みをやすんずればけたいおこる 

匡衡為夜学きょうこうはやがくのため 鑿壁招月光かべをうがちてげっこうをまねく 

孫敬為学文そんきょうはがくもんのため 閉戸不通人とをとじてひとをつうせず 

蘇秦為学文そしんはがくもんのため 錐刺股不眠きりをももにさしてねむらず 

俊敬為学文しゅんきょうはがくもんのため 縄懸頸不眠なわをくびにかけてねむらず 

車胤好夜学しゃいんはやがくをこのんで 聚蛍為燈矣ほたるをあつめてともしびとす

宣士好夜学せんしはやがくをこのんで 積雪為光矣ゆきをつみてともしびとす 

休穆入意文きゅうぼくはぶんにこころをいれて 不知冠之落かんむりのおつるをしらず 

高鳳入意文こうほうはぶんにこころをいれて 不知麦之流むぎのながるるをしらず 

劉寔乍織衣りゅうかんはきぬをおりながら 口誦書不息くちにしょをじゅしてやすまず 

倪寛乍耕作げいかんはこうさくしながら 腰帯文不捨こしにふみをおびてすてず

此等人者皆(これらのひとはみな) 昼夜好学文ちゅうやがくもんをこのみしに 

文藻満国家(ぶんそうこっかにみつ) 遂到硯学位ついにせきがくのくらいにいたる 

縦磨簺振筒たとえさいをみがきつつをふるとも 口恒誦経論くちにはつねにきょうろんをじゅせよ 

又削弓矧矢またゆみをけずりやをはげども 腰常挿文書こしにはつねにぶんしょをさしはさみ 

張儀誦新古ちょうぎはしんこをじゅして 枯木結菓矣(こぼくこのみをむすぶ) 

亀耄誦史記きもうはしきをじゅして 古骨得膏矣ここつにあぶらをえたり 

伯英九歳初はくえいはきゅうさいにしてはじめに 早到博士位はやくはかせのくらいにいたる

宗吏七十初そうりはしちじゅうにしてはじめて 好学昇師伝がくをこのんでしでんにのぼる

智者雖下劣ちしゃはげれつなりといえども 登高台之閣こうだいのかくにのぼり

愚者雖高位ぐしゃはこういなりといえども 堕奈利之底(なりのそこにおつ)

智者作罪者(ちしゃのつくるつみは) 大不堕地獄だいなれどもじごくにおちず

愚者作罪者(ぐしゃのつくるつみは) 小必堕地獄しょうなれどかならずじごくにおつ

愚者常懐憂ぐしゃはつねにうれいをいだく 譬如獄中囚たとえばごくちゅうのとらわれびとのごとし

智者常歓楽ちしゃはつねにかんらくす 猶如光音天なおこうおんてんのごとし

父恩者高山ちちのおんはやまよりたかし 須弥山尚下(しゅみせんなおひくし)

母徳者深海ははのとくはうみよりもふかし 滄溟海還浅そうめいかいかえってあさし

白骨者父淫(はっこつはちちのいん) 赤肉者母淫しゃくにくはははのいん

赤白二諦和しゃくびゃくにたいわして 成五体身分(ごたいしんふんとなる)

処胎内十月たいないにおることとつき 心身恒苦労しんしんつねにくろうす

生胎外数年たいがいにうまれてすうねん 蒙父母養育ふぼのよういくをこうむる

昼夜居父膝ひるはちちのひざにいて 蒙摩頂多年まちょうをこうむることたねん

夜者臥母懐よるはははのふところにふして 費乳味数斛にゅうみをついやすことすうこく

朝交于山野あしたにはさんやにまじわりて 殺蹄養妻子ひづめをころしてさいしをやしなう

暮臨于江海くれにはこうかいにのぞみて 漁鱗資身命うろくずをあさってしんめいをたすく

為資旦暮命たんぼのいのちをたすけんために 日夜造悪業にちやあくごうをつくりて

為嗜朝夕味ちょうせきのあじわいをたしなまんとす 多劫堕地獄(たこうじごくにおつ)

戴恩不知恩おんをいただきておんをしらざるは 如樹鳥枯枝きのとりのえだをからすがごとく

蒙徳不思徳とくをこうむりてとくをおもわざるは 如野鹿損草ののししのくさをそんぜしむるがごとし

酉夢打其父ゆうむそのちちをうてば 天雷裂其身(てんらいそのみをさく)

班婦罵其母はんふそのははをののしれば 霊蛇吸其命れいじゃそのいのちをすう

郭巨為養母かくきょはははをやしなわんため 掘穴得金釜あなをほってこがねのかまをえる

姜詩去自婦きょうしはじふをさって 汲水得庭泉みずをくむにていせんをえる

孟宗哭竹中もうそうはちくちゅうになげきて 深雪中抜筍しんせつのうちにたけのこをぬく

王祥歎叩氷おうしょうなげきてこおりをたたけば 堅凍上踊魚けんとうのうえうおおどる

舜子養盲父しゅんしはもうふをやしないて 涕泣開両眼ていきゅうすればりょうがんひらく

刑渠養老母けいきょはろうぼをやしないて 噛食齢成若しょくをかみてよわいわかくなる

董永売一身とうえいはいっしんをうりて 備考養御器こうようのぎょきにそなう

楊威念独母よういはひとりのははをおもいて 虎前啼免害とらのまえになきてがいをのがる

顔烏墓負土がんうはかにつちをおえば 烏鳥来運埋からすきたりてはこびうずむ

許孜自作墓きょしみずからはかをつくるに 松柏植作墓しょうはくうわりてはかとなる

此等人者皆(これらのひとはみな) 父母致孝養ふぼにこうようをいたせば

仏神垂憐愍ぶっしんれんみんをたる 所願悉成就のぞむどころことごとくじょうじゅす

生死命無常しょうしのいのちはむじょうなり 早可欣涅槃はやくねがうべきはねはんなり

煩悩身不浄ぼんのうのみはふじょうなり 速可求菩提すみやかにもとむべきはぼだいなり

厭可厭娑婆いとうてもいとうべきはしゃばなり 会者定離苦(えしゃじょうりのく)

恐可恐六道おそれてもおそるべきはりくどうなり 生者必滅悲しょうじゃひつめつのかなしみ

寿命如蜉蝣じゅみょうはぶゆうのごとし 朝生夕死矣あしたにうまれてゆうべにしす

身体如芭蕉しんたいばしょうのごとし 随風易壊矣かぜにしたがってやぶれやすし

綾羅錦繍者りょうらのきんしゅうは 全非冥途貯まったくめいどのたくわえにあらず

黄金珠玉者(おうごんしゅぎょくは) 只一世財宝(ただいっせのざいほう)

栄花栄耀者(えいがえいようは) 更非仏道資さらにぶつどうのたすけにあらず

官位寵職者(かんいちょうしょくは) 唯現世名聞ただげんせのみょうもん

致亀鶴之契きかくのちぎりをいたすとも 露命不消程(ろめいきえざるほど)

重鴛鴦之衾えんおうのふすまをかさぬるも 身体不壊間しんたいのやぶれざるあいだのみ

忉利摩尼殿(とうりまにでんも) 歎遷化無常せんげのむじょうをなげく

大梵高台閣だいぼんこうだいのかくも 悲火血刀苦かけっとうのくるしみをかなしむ

須達之十徳(しゅだつのじっとくも) 無留於無常むじょうをとどむることなし

阿育之七宝(あいくのしっぽうも) 無買於寿命じゅみょうをかうことなし

月支還月威がっしのつきをかえせしいきおいも 琰王使被縛えんおうのつかいにしばられる

龍帝投龍力りゅうていのりゅうをなぐるちからも 獄卒杖被打ごくそつのつえにうたる

人尤可行施ひともっともほどこしおこなうべし 布施菩提糧(ふせはぼだいのかて)

人最不惜財ひともっともざいをおしまざれ 財宝菩提障ざいほうはぼだいのさわり

若人貧窮身もしひとひんきゅうのみにて 可布施無財ふせすべきざいなくんば

見他布施時ほかのふせするときをみて 可生随喜心ずいきのこころをしょうずべし

悲心施一人こころにかなしみていちにんにほどこせば 功徳如大海くどくたいかいのごとし

為己施諸人おのれのためにしょにんにほどこせば 得報如芥子むくいをうることけしのごとし

聚砂為塔人すなをあつめてとうとなすひとは 早研黄金膚はやくおうごんのはだをみがく

折花供仏輩はなをおってほとけにきょうずるともがらは 速結蓮台趺すみやかにれんだいのはなぶさをむすぶ

一句信受力いっくしんじゅのちから 超転輪王位てんりんおうのくらいにこえたり

半偈聞法徳はんげもんほうのとくは 勝三千界宝さんぜんかいのたからにまされり

上須求仏道かみはすべがらくぶつどうをもとむ 中可報四恩なかはしおんをほうずべし

下遍及六道しもはあまねくりくどうにおよぶ 共可成仏道ともにぶつどうをなすべし

為誘引幼童ようどうをゆういんせんがために 註因果道理いんがのどうりをしるす

出内典外典ないてんげてんよりいでたり 見者勿誹謗みるものひぼうすることなかれ

聞者不生笑きくものわらいをしょうずることなかれ


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【実語教】と【童子教】は、儒教や仏教の影響を強く受けている。


しかし、其れだけではない。


時代ごとに先人達が(はぐ)くみ、受け()いできた【日本の精神】も其の中に(ふく)まれている。


日本と日本人の為に、先人達は時を()えて『日本人としての()り方』や『人としての在り方』を伝えてくれている。


日本の≪教育≫は『人の道』を説き、『人』を育てる為のものである。


日本の≪教育≫は【日本の精神】の根幹(こんかん)()すもの、()わば【日本人の精神】そのものである。



此の【日本の精神】が、幾度(いくど)となく日本を守ってきた。



江戸時代(えどじだい)(1603年~1868年)末期(まっき)諸外国(しょがいこく)が日本を植民地支配(しょくみんちしはい)する為に開国(かいこく)(せま)ってきた。


幕府(ばくふ)鎖国(さこく)堅持(けんじ)しようと(こころ)みたが、当時の日本と外国との間には『国力』と『武力』に()いて歴然(れきぜん)たる大きな差があった。


自国よりも(おとろ)える国に対しては、『武力』で(おど)せば(ぎょ)(やす)い。


だから諸外国は、日本に対して幾度(いくたび)不当(ふとう)な要求を()き付けてきた。


幕府は諸外国の軍事的圧力(ぐんじてきあつりょく)から日本を守る為に、それぞれの国と不平等条約ふびょうどうじょうやくを結ばざるを得なかった。


つまり〖『国力』と『武力』の弱体(じゃくたい)〗が、〖外国からの侵略(しんりゃく)(まね)く〗ということである。


安政(あんせい)5年(1858年)、日本はアメリカ・イギリス・オランダ・フランス・ロシアと修好通商条約しゅうこうつうしょうじょうやくを結んだ。


此れを『安政の五カ国条約』と言う。



<条約の内容>


開港(かいこう)開市(かいし)

函館(はこだて)新潟(にいがた)横浜(よこはま)兵庫(ひょうご)長崎(ながさき)の五港開港と江戸(えど)大阪(おおさか)の開市。

諸外国との貿易(ぼうえき)開始。


治外法権(ちがいほうけん)承認(しょうにん)

日本に滞在(たいざい)する外国人が、日本の法律(ほうりつ)(したが)わなくとも良い権利(けんり)

日本で外国人が(つみ)(おか)しても、日本の法律(ほうりつ)(ばっ)することが出来ない。

罪人(ざいにん)母国(ぼこく)の法律が、適用(てきよう)される。


〖外国人居留地(きょりゅうち)設置(せっち)

外国人居留地とは、商取引(しょうとりひき)等をする外国人が住む場所のことである。

外国人を一か所に住まわせることにより、外国人と日本人の紛争(ふんそう)最小限(さいしょうげん)にするという目的もあった。


関税自主権(かんぜいじしゅけん)喪失(そうしつ)

輸入品(ゆにゅうひん)に対して日本は自由に税率(ぜいりつ)決定(けってい)することが出来ず、関税率を低税率(5%)で固定された。

低税率の輸入品が日本に入って来た為、日本人は安い輸入品を買った。

其れにより、日本国内で日本の商品は売れなくなり、日本の産業(さんぎょう)大打撃(だいだげき)を受けることになった。

同時に日本は、輸入による関税収入(かんぜいしゅうにゅう)も得ることが出来なかった。

また日本からの輸出品に対して諸外国は関税率を自由に決めることが出来たので、諸外国は輸出品に高税率(20~30%)を設定して輸出品が自国に流入(りゅうにゅう)しないようにした。


此の条約は、日本にとって不平等で不利(ふり)なものであった。


しかし、必ずしも『そう』であるとは言い切れなかった。


〖外国人居留地〗については、外国人が日本国内で自由に動けないよう移動は居留地内に限定した。

外国人には行動に制限(せいげん)(もう)け、逆に日本人は居留地から多くの商品と情報を得た。


貿易に()いて、日本の輸出品であった生糸(きいと)を買いに来た外国人は居留地から出ることが許されなかったので直接生糸の生産地へ(おもむ)くことが出来ず、商取引は居留地内に限定された。

日本は輸出品の税率を低税率で固定されてはいたが、生糸の価格は自由に決めることが出来た。

また居留地へ生糸を売りに来る日本人は限られた人数であり、購入する外国人の方が多かった為、供給(きょうきゅう)(モノを売ろうとすること)よりも需要(じゅよう)(モノを買おうとすること)が高くなった。

人は「何としてもモノが欲しい」と思えば、「たとえ高値(たかね)でも買いたい」と思う。

売る側は其の心理(しんり)を利用して、モノに高い価格を設定する。

買う側が多数であれば、それぞれが競争心(きょうそうしん)()られて(さら)に高い価格を提示(ていじ)してモノを買おうとする。

そして、モノの値段が一層(いっそう)上がる。

価格が高騰(こうとう)した生糸を、外国人は日本人から買わざるを得なかった。


日本人にとって不利な部分が(ほとん)どではあったが、其れを逆手(さかて)にとって有利(ゆうり)にしたものもあった。


日本は不平等な条約を結んではいたが、外国を利用・統制(とうせい)しながら外国からの支配を極力(きょくりょく)(おさ)えるよう尽力(じんりょく)すると同時に、起死回生(きしかいせい)一手(いって)を打つ為の『力』を(たくわ)えていた。


条約を撤廃(てっぱい)する為の多くの情報を収集(しゅうしゅう)し、外貨(がいか)獲得(かくとく)する為に群馬(ぐんま)富岡製糸場(とみおかせいしじょう)設立(せつりつ)するなど、『国力強化』を進めた。

また洋式軍隊(ようしきぐんたい)を取り入れたり、『地租改正(ちそかいせい)(土地の値段を(もと)算出(さんしゅつ)された税金(ぜいきん)を土地の所有者(しょゆうしゃ)が現金で(おさ)める制度)』によって得た税金を軍事費に()てるなど、『武力強化』も(はか)った。


其の後、日本は諸外国に対抗(たいこう)する為の、日本を守る為の『豊かな国力』と『強い武力』を以て『富国強兵策(ふこくきょうへいさく)』を推進(すいしん)し、全ての不平等条約の撤廃を実現させた。


明治27年(1894年) 〖治外法権の承認〗撤廃

明治32年(1899年) 〖外国人居留地〗廃止(はいし)

明治44年(1911年) 〖関税自主権〗回復(かいふく)


日本が不平等条約の撤廃を可能としたのは、日本人に信念(しんねん)理念(りねん)自信(じしん)覚悟(かくご)、能力、実力があったからである。


日本人の中に『(かく)たるもの』があれば、どれ程強大な相手であろうとも、毅然(きぜん)とした態度(たいど)で対抗することが出来る。


多くの日本人の中に【日本の精神】が生きていたからこそ、日本は諸外国に引けを取らない『強さ』を得ることが出来た。


幕末(ばくまつ)に諸外国に対して、断固(だんこ)たる意思を持って立ち向かった小栗忠順(おぐりただまさ)(1827年~1868年。外国奉行(がいこくぶぎょう)勘定奉行(かんじょうぶぎょう)江戸町奉行(えどまちぶぎょう)軍艦奉行(ぐんかんぶぎょう)歴任(れきにん))もそうである。


小栗忠順に【日本の精神】が受け継がれていたからこそ、『強さ』を発揮(はっき)することが出来た。


万延元年(まんえんがんねん)(1860年)、幕臣(ばくしん)であった小栗忠順は幕府の命令により遣米使節団(けんべいしせつだん)目付(めつけ)監察役(かんさつやく))として渡米(とべい)した。

目的は、アメリカと結んだ不平等条約である日米修好通商条約にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく批准(ひじゅん)調印(ちょういん)した条約の最終承認(しょうにん))の為であった。

其の際、小栗は以前から問題であった日本とアメリカ間の金銀交換比率きんぎんこうかんひりつの違いを指摘(してき)した。


当時、日本では国内の(きん)流出(りゅうしゅつ)が問題となっていた。

原因は、諸外国との金銀交換比率の違いであった。


日本では一両小判(いちりょうこばん)金貨(きんか))が、アメリカではメキシコドル(銀貨(ぎんか))が流通(りゅうつう)していた。

日本は『金本位制度(きんほんいせいど)(きん)を基準にした貨幣制度(かへいせいど))』を取り入れており、一分銀(いちぶぎん)銀貨(ぎんか))を単なる計算用の貨幣として利用していた。


一両小判(金貨)1枚 = 一分銀(銀貨)4枚


〚アメリカの主張〛


アメリカは『同種同量交換どうしゅどうりょうこうかん(同じ種類((きん)(きん)(ぎん)(ぎん)(どう)(どう))を同じ重さで交換)』の原則(げんそく)を取り入れている。

一メキシコドル(銀貨)には27グラムの(ぎん)が含まれていて、一分銀(銀貨)には9グラムの(ぎん)が含まれている。


(ゆえ)


一メキシコドル(銀貨)1枚 = 一分銀(銀貨)3枚


であると、アメリカは主張した。


しかし、此のアメリカの主張を悪用(あくよう)する外国人が急増(きゅうぞう)した。


当時、日本は(きん)(ぎん)の交換比率が諸外国と異なっていた。


〚日本〛  (きん)(ぎん) = 1:5


〚諸外国〛 (きん)(ぎん) = 1:15


日本の(きん)は、諸外国では3倍の価値があった。


外国人は、金銀(きんぎん)の交換に(むら)がった。


外国人が日本で一メキシコドル(銀貨)4枚を一分銀(銀貨)12枚に交換し、更に其れを一両小判(金貨)3枚に交換。

其の後、外国人が上海(しゃんはい)で一両小判(金貨)3枚を一メキシコドル(銀貨)12枚に交換。


〚日本〛一メキシコドル(銀貨)4枚

    ↓

〚上海〛一メキシコドル(銀貨)12枚


多くの外国人が日本で大量(たいりょう)にメキシコドル(銀貨)を一分銀(銀貨)に交換し、其の一分銀(銀貨)を大量の一両小判(金貨)に交換、つまり外国人が(きん)を買い(あさ)った為に日本国内から大量の(きん)が流出した。


幕府から此の通貨問題解決の(めい)を受けた小栗は、フィラデルフィア造幣局(ぞうへいきょく)でアメリカと交渉した。



〚小栗の主張〛


アメリカで使用されている二十米ドル(金貨)には、(きん)が30グラム含まれている。

一方、一両小判(金貨)には(きん)が6グラム含まれている。


つまり


二十米ドル(金貨) = 一両小判(金貨)5枚

⇒四米ドル(金貨) = 一両小判(金貨)1枚


日本では

一両小判(金貨)1枚 = 一分銀(銀貨)4枚


つまり


四米ドル(金貨) = 一両小判(金貨)1枚 = 一分銀(銀貨)4枚


故に


四米ドル(金貨) = 一分銀(銀貨)4枚

⇒一米ドル(金貨) = 一分銀(銀貨)1枚


アメリカの主張する


一メキシコドル(銀貨)1枚 = 一分銀(銀貨)3枚


ならば


三米ドル(金貨) = 一メキシコドル(銀貨)1枚 = 一分銀(銀貨)3枚


となる。


(きん)の方が(ぎん)よりも価値が高いにも(かか)わらず、三米ドル(金貨)と一メキシコドル(銀貨)1枚の価値が同じという状態である。

此れでは、整合性(せいごうせい)が取れない。


故に、「小判(金貨)とメキシコドル(銀貨)の比較(ひかく)ではなく、小判(金貨)と米ドル(金貨)の比較とすべきである」と主張。


小栗は日本から持ってきた一両小判(金貨)と二十米ドル(金貨)の金銀含有量(がんゆうりょう)の比較を天秤(てんびん)算盤(そろばん)を用いて示し、造幣局責任者の目の前で事実を明らかにして金銀交換比率の改定(かいてい)をアメリカに要求した。

アメリカは小栗の主張を認めたが、残念ながら改定することは出来なかった。


遣米使節団の渡米前後の話ではあるが、幕府も(きん)の流出を防ぐ為に奔走(ほんそう)していた。

初代駐日領事しょだいちゅうにちりょうじハリスに、日本とアメリカの金銀交換比率が異なることを主張して是正(ぜせい)を求めた。

しかしハリス自身も売買差益(ばいばいさえき)を得て私腹(しふく)()やしていたので、幕府の要求(ようきゅう)拒否(きょひ)

其ればかりでなく、ハリスは幕府に(きん)の価値を下げれば良いと提案。

幕府にとっては受け入れ(がた)い提案であったが他に方法が無く、ハリスの提案を受け入れざるを得なかった。

其の後、幕府は『天保小判(てんぽうこばん)(金貨)』の三分の一の大きさに改鋳(かいちゅう)した『万延小判(まんえんこばん)』を大量に発行(はっこう)

(きん)の含有量を三分の一に減らして(きん)(しつ)(おと)ろえさせ、海外への流出を防ごうとした。

しかし貨幣の価値が下がってしまった為に、物価(ぶっか)(モノの値段)が高騰してしまった。


今まで一両小判(金貨)1枚で買えたモノが、一両小判(金貨)3枚で買わなければならなくなった。

つまり貨幣の価値が下がり、モノの価値が上がった(インフレーション)。

また、輸出によりモノが少なくなった為にモノ不足に(おちい)り(需要が供給を上回った)、更にモノの値段が上がった。

其の為、人々の生活は益々(ますます)(きび)しいものとなっていった。


遣米使節団渡米時に金銀交換比率の改定は実現できなかったが、小栗の理路整然(りろせいぜん)とした主張や博識(はくしき)さ、毅然とした態度は、日本に対するアメリカの見方(みかた)を変えた。

アメリカに「小栗は『タフ・ネゴシエーター』である」と言わしめ、小栗は一目置(いちもくお)かれる存在となった。

小栗が堂々(どうどう)主義主張(しゅぎしゅちょう)できたのは、小栗に≪学問≫や≪教育≫により裏付(うらづ)けされた『知識』や『智慧』があったからである。


小栗は渡米後、日本とアメリカとの『国力』と『武力』の差を痛感(つうかん)し、更なる『富国強兵策』を進めた。


『国力』と『武力』の強化は、諸外国の理不尽(りふじん)な要求を抑止(よくし)する為、そして緊急事態(きんきゅうじたい)が発生した際に実際に戦う為でもあった。


元治(げんじ)二年(1865年)

横須賀製鉄所(よこすかせいてつじょ)(後の横須賀造船所)』建設(けんせつ)

ペリー来航(らいこう)(1853年)以来、幕府は海軍力強化の為に諸外国から軍艦を購入(こうにゅう)していた。

しかし小栗は、其れに懸念(けねん)を抱いていた。

小栗は高額な軍艦を諸外国から購入するよりも日本国内で軍艦を建造(けんぞう)すれば費用(ひよう)を抑えることが出来、()つ、たとえ軍艦が故障(こしょう)したとしても、迅速(じんそく)確実(かくじつ)正確(せいかく)安全(あんぜん)安心(あんしん)して修理できると考えていた。

渡米中、小栗はワシントン海軍工廠(かいぐんこうしょう)視察(しさつ)し、日本と欧米(おうべい)造船技術(ぞうせんぎじゅつ)格差(かくさ)危機感(ききかん)を覚えた。

そして小栗は、ワシントン海軍工廠から一本の【ネジ】を持ち帰った。

【ネジ】は、日本の『近代化(きんだいか)』を(ちか)う小栗の決意(けつい)であったのかもしれない。

小栗は帰国後、フランスの技術を取り入れた『横須賀製鉄所(造船所)』の建設を提言(ていげん)した。


其の際、ある幕臣(ばくしん)が言った。


「幕府の運命も、今後どうなるか分からない。

そういった状況であるにも拘わらず、大金(たいきん)()けて製鉄所を(つく)る必要はあるのか?

製鉄所が完成した頃には、幕府は無いかもしれない」


小栗は答えた。


「幕府の運命には限りが有る。

しかし、日本の運命には限りが無い。

私は幕臣なので幕府の為に尽くすが、其れは(すなわ)ち日本の為でもある。

もし幕府の行ったことが後々(のちのち)日本の為となり、後世(こうせい)の人々に徳川家の行ったことが成功したのだと言われれば、此れほど徳川家にとって名誉(めいよ)なことはない。

国の利益ではないか」


此の『横須賀製鉄所(造船所)』の第一ドックは、今も在日米海軍横須賀基地ざいにちべいかいぐんよこすかきち内で稼働(かどう)している。


慶応(けいおう)三年(1867年) 5月

滝野川火薬製造所たきのがわかやくせいぞうしょ』と『滝野川反射炉(はんしゃろ)』建設

日本国内での西洋式大砲(たいほう)鋳造(ちゅうぞう)を目的として、滝野川村(東京都北区(きたく))に建造する計画であった。

しかし、幕府が滅亡した為に頓挫(とんざ)

其の後、設備の一部は明治政府に引き継がれた。


慶応三年(1867年) 6月

日本初の株式会社(かぶしきがいしゃ)兵庫商社(ひょうごしょうしゃ)』設立

日本の輸出品の多くは外国人によって不当に安く買い取られ、日本側は不利益(ふりえき)(こうむ)っていた。

そこで小栗は、三井家(みついけ)鴻池家(こうのいけけ)など大阪の豪商(ごうしょう)20人ほどに出資(しゅっし)させて『兵庫商社』を設立し、日本からの輸出品は全て『兵庫商社』を通すようにして適正価格(てきせいかかく)で取引できる組織(そしき)構築(こうちく)した。

また貿易で得た利益(りえき)の一部を幕府に還元(かんげん)出来るようにして、幕府の財政再建(ざいせいさいけん)道路(どうろ)水路(すいろ)通信(つうしん)など社会・産業基盤(さんぎょうきばん)整備(せいび)()てようとした。

慶応三年(1867年)10月の『大政奉還(たいせいほうかん)(将軍家が持っていた政権(せいけん)朝廷(ちょうてい)返還(へんかん))』の為に『兵庫商社』は(まぼろし)のものとなってしまったが、此の商社は現在の日本の『総合商社(そうごうしょうしゃ)』の原型(げんけい)になったと言われている。


小栗は、日本の『近代化』を急速(きゅうそく)に進めようとしていた。


しかし、慶応4年(1868年)1月 『戊辰戦争(ぼしんせんそう)勃発(ぼっぱつ)


新政府軍(しんせいふぐん)との徹底抗戦(てっていこうせん)を主張した小栗は、『第十五代将軍だいじゅうごだいしょうぐん徳川慶喜(とくがわよしのぶ)(うと)まれ罷免(ひめん)

其の後、小栗は知行地(ちぎょうち)(支配地)であった権田村(ごんだむら)群馬県高崎市(ぐんまけんたかさきし))で隠棲生活(いんせいせいかつ)を送っていた。

小栗は其の地で用水路(ようすいろ)の整備や若者達への教育に(つと)め、静かに暮らしていた。

しかし、突如(とつじょ)(あらわ)れた新政府軍に出頭(しゅっとう)を命じられて捕縛(ほばく)

慶応4年(1868年)4月、無実(むじつ)(つみ)烏川(からすがわ)斬首(さんしゅ)された(享年(きょうねん)四十二歳)。


小栗は先見(せんけん)(めい)があり、有事(ゆうじ)の際にも冷静沈着(れいせいちんちゃく)迅速果断(じんそくかだん)に行動できる不世出(ふせいしゅつ)の天才であった。

そして、国を守る為に命を()けることが出来る『強さ』と、人を(いつく)しむ『(やさ)しさ』を()(そな)えた人でもあった。


日本を守ろうとした小栗は無惨(むざん)にも殺されたが、小栗が(のこ)してくれたものは、後に日本を救うことになる。


明治37年(1904年)2月 『日露戦争(にちろせんそう)』勃発。


日本海海戦(にほんかいかいせん)の際、日本の連合艦隊(れんごうかんたい)が世界最強と呼ばれたロシアのバルチック艦隊(かんたい)撃破(げきは)

日本の連合艦隊司令長官(しれいちょうかん)は『戊辰戦争』の際、幕府の敵であった薩摩(さつま)東郷平八郎(とうごうへいはちろう)であった。


戦後、東郷は小栗の遺族(いぞく)を自宅に(まね)いた。


そして、こう言った。


「日本海海戦で連合艦隊がロシアに勝利(しょうり)したのは、小栗上野介(こうずけのすけ)さんが横須賀造船所を建造してくれたおかげである」


此の『日露戦争』の勝利により、明治44年(1911年)、外務大臣(がいむだいじん)であった小村寿太郎(こむらじゅたろう)が条約を結んでいたアメリカ等と交渉(こうしょう)し、〖関税自主権〗を回復させることに成功した。

此れにより、日本の不平等条約は完全に撤廃することが出来た。


小栗がアメリカから持ち帰った、たった一本の【ネジ】が、日本を諸外国から救い、守った。


小栗の高度な『知識』と様々な『智慧』が、(かつ)ての敵を助け、共に日本を救い、共に日本を守った。


小栗は、日本を守る為の『言葉』と『功績(こうせき)』を数多く(のこ)してくれた。


私達は、今も其れらに守られている。



日本の≪教育≫は、『知識』と『智慧』を『()(みち)』『(ただ)しき(みち)』へと導く為にある。


日本の≪教育≫は、『善き道』『正しき道』を示す『道標(みちしるべ)』である。


日本の≪教育≫によって『善き道』『正しき道』へと導かれた『知識』と『智慧』は、永遠に生き、日本を守り続ける。


日本は、【日本の精神】を理解し、受け継ぐことが出来る『人』を育てるべきである。


日本の≪教育≫は、日本と日本人を救い、守る『人』を育てる為にある。




―小栗忠順の言葉―



一言(ひとこと)で国を(ほろ)ぼす言葉は


『どうにかなろう』


の一言である。


もし江戸幕府が滅亡するのであれば、此の一言である」




小栗の言葉通り、幕府は滅びた。



『どうにかなろう』



という(あさ)はかな考えが、幕府を滅ぼした。



小栗は、【警告(けいこく)】している。



『決して、油断(ゆだん)してはならない』


『決して、目を()らしてはならない』


『決して、人(まか)せにしてはならない』



そして、此れは【忠告(ちゅうこく)】でもある。



『どうにか()()()』では、どうにもらならない。


『どうにか()()()』は、危険(きけん)である。


『どうにか()()()』という意識(いしき)を、変えるべきである。



『どうにか()()()





『どうにか()()()


『どうにか()()()


『どうにか()()



に、変えれば



()()()()()



『国を滅ぼす』か、『国を守る』か、選ぶのは自分の『心』である。



全て、自分の『心』が決める。



************************************************************



〖参考文献〗


加藤咄堂 『実語教・童子教』(2020年)温古堂文庫

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