実語教と童子教
【実語教】と【童子教】は、鎌倉(1185年~1333年)末期から明治(1868年~1912年)初期まで使用されていた日本古来・日本独自の初等教育(7歳から15歳)の為の教訓書である。
江戸時代(1603年~1868年)には、寺子屋(武士の子供の為の学校である藩校とは別の、庶民の子供の為の学校)の教科書として使われていた。
【実語教】も【童子教】も、時代や国や老若男女問わず、『人生の教訓』となる書である。
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【実語教】
●平安時代(794年~1185年)末期成立
●作者不明
●全96句
●学問の大切さを説く
●儒教に基づく
山高故不貴 以有樹為貴
人肥故不貴 以有智為貴
富是一生財 身滅即共滅
智是万代財 命終即随行
玉不磨無光 無光為石瓦
人不学無智 無智為愚人
倉内財有朽 身内才無朽
雖積千両金 不如一日学
兄弟常不合 慈悲為兄弟
財物永不存 才智為財物
四大日々衰 心神夜々暗
幼時不勤学 老後雖恨悔
尚無有所益 故読書勿倦
学文勿怠時 除眠通夜誦
忍飢終日習
雖会師不学 徒如向市人
雖習読不復 只如計隣財
君子愛智者 小人愛福人
雖入冨貴家 為無財人者
猶如霜下花
雖出貧賤門 為有智人者
宛如泥中蓮
父母如天地 師君如日月
親族譬如葦 夫妻猶如瓦
父母孝朝夕 師君仕昼夜
交友勿諍事
己兄尽礼敬 己弟致愛顧
人而無智者 不異於木石
人而無孝者 不異於畜生
不交三学友 何遊七覚林
不乗四等船 誰渡八苦海
八正道雖広 十悪人不往
無為都雖楽 放逸輩不遊
敬老如父母 愛幼如子弟
我敬他人者 他人亦敬我
己敬人親者 人亦敬己親
欲達己身者 先令達他人
見他人之愁 即自共可患
聞他人之喜 則自共可悦
見善者速行 見悪者忽避
修善者蒙福 譬如響応音
好悪者招禍 宛如随身影
雖冨勿忘貧 雖貴勿忘賤
或始冨終貧 或先貴後賤
夫難習易忘 音声之浮才
又易学難忘 書筆之博芸
但有食有法 亦有身有命
猶不忘農業 必莫廃学文
故末代学者 先可案此書
是学問之始 身終勿忘失
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【童子教】
●鎌倉時代(1185年~1333年)中期成立
●作者不明
●全320句
●『人としての道』を説く
●仏教に基づく
夫貴人前居 顕露不得立
遇道路跪過 有召事敬承
両手当胸向 慎不顧左右
不問者不答 有仰者謹聞
三宝尽三礼 神明致再拝
人間成一礼 師君可頂戴
過墓時則慎 過社時則下
向堂塔之前 不可行不浄
向聖教之上 不可致無礼
人倫有礼者 朝廷必在法
人而無礼者 衆中又有過
公衆下雑言 事畢者速避
触事不違朋 言語不得離
語多者品少 老狗如吠友
懈怠者急食 痩猿如貪菓
勇者必有危 夏虫如入火
鈍者亦無過 春鳥如遊林
人耳者付壁 密而勿讒言
人眼者懸天 隠而勿犯用
車以三寸轄 遊行千里路
人以三寸舌 破損五尺身
口是禍之門 舌是禍之根
使口如鼻者 終身敢無事
過言一出者 駟追不返舌
白圭玷可磨 悪言玉難磨
禍福者無門 唯人在所招
天作災可避 自作災難逃
夫積善之家 必有余慶矣
又好悪之処 必有余殃矣
人而有陰徳 必有陽報矣
人而有陰行 必有照名矣
信力堅固門 災禍雲無起
念力強盛家 福祐月増光
心不同如面 譬如水随器
不挽他人弓 不騎他人馬
前車之見覆 後車之為誡
前事之不忘 後事之為師
善立而名流 寵極而禍多
人死而留名 虎死而留皮
治国土賢王 勿侮鰥寡矣
君子不誉人 則民作怨矣
入境而問禁 入国而問国
入郷而随郷 入俗而随俗
入門而問諱 為敬主人也
君所無私諱 無二尊号也
愚者無遠慮 必可有近憂
如用管窺天 似用針指地
神明罰愚人 非殺為令懲
師匠打弟子 非悪為令能
生而無貴者 習修成智徳
貴者必不富 富者未必貴
雖富心多欲 是名為貧人
雖貧心欲足 是名為富人
師不訓弟子 是名為破壊
師呵責弟子 是名為持戒
畜悪弟子者 師弟堕地獄
養善弟子者 師弟到仏果
不順教弟子 早可返父母
不和者擬冤 成怨敵加害
順悪人不避 緤犬如廻柱
馴善人不離 大船如浮海
随順善友者 如麻中蓬直
親近悪友者 如藪中荊曲
離祖付疎師 習戒定慧業
根性雖愚鈍 好自到学位
一日学一字 三百六十字
一字当千金 一点助他生
一日師不疎 況数年師乎
師者三世契 祖者一世眤
弟子去七尺 師影不可踏
観音為師教 宝冠戴弥陀
勢至為親孝 頭戴父母骨
宝瓶納白骨
朝早起洗手 摂意誦経書
夕遅寝洒足 静性案義理
習読不入意 如酔寝讇語
読千巻不復 無財如臨町
薄衣之冬夜 忍寒通夜誦
乏食之夏日 除飢終日習
酔酒心狂乱 過食倦学文
温身増睡眠 安身起懈怠
匡衡為夜学 鑿壁招月光
孫敬為学文 閉戸不通人
蘇秦為学文 錐刺股不眠
俊敬為学文 縄懸頸不眠
車胤好夜学 聚蛍為燈矣
宣士好夜学 積雪為光矣
休穆入意文 不知冠之落
高鳳入意文 不知麦之流
劉寔乍織衣 口誦書不息
倪寛乍耕作 腰帯文不捨
此等人者皆 昼夜好学文
文藻満国家 遂到硯学位
縦磨簺振筒 口恒誦経論
又削弓矧矢 腰常挿文書
張儀誦新古 枯木結菓矣
亀耄誦史記 古骨得膏矣
伯英九歳初 早到博士位
宗吏七十初 好学昇師伝
智者雖下劣 登高台之閣
愚者雖高位 堕奈利之底
智者作罪者 大不堕地獄
愚者作罪者 小必堕地獄
愚者常懐憂 譬如獄中囚
智者常歓楽 猶如光音天
父恩者高山 須弥山尚下
母徳者深海 滄溟海還浅
白骨者父淫 赤肉者母淫
赤白二諦和 成五体身分
処胎内十月 心身恒苦労
生胎外数年 蒙父母養育
昼夜居父膝 蒙摩頂多年
夜者臥母懐 費乳味数斛
朝交于山野 殺蹄養妻子
暮臨于江海 漁鱗資身命
為資旦暮命 日夜造悪業
為嗜朝夕味 多劫堕地獄
戴恩不知恩 如樹鳥枯枝
蒙徳不思徳 如野鹿損草
酉夢打其父 天雷裂其身
班婦罵其母 霊蛇吸其命
郭巨為養母 掘穴得金釜
姜詩去自婦 汲水得庭泉
孟宗哭竹中 深雪中抜筍
王祥歎叩氷 堅凍上踊魚
舜子養盲父 涕泣開両眼
刑渠養老母 噛食齢成若
董永売一身 備考養御器
楊威念独母 虎前啼免害
顔烏墓負土 烏鳥来運埋
許孜自作墓 松柏植作墓
此等人者皆 父母致孝養
仏神垂憐愍 所願悉成就
生死命無常 早可欣涅槃
煩悩身不浄 速可求菩提
厭可厭娑婆 会者定離苦
恐可恐六道 生者必滅悲
寿命如蜉蝣 朝生夕死矣
身体如芭蕉 随風易壊矣
綾羅錦繍者 全非冥途貯
黄金珠玉者 只一世財宝
栄花栄耀者 更非仏道資
官位寵職者 唯現世名聞
致亀鶴之契 露命不消程
重鴛鴦之衾 身体不壊間
忉利摩尼殿 歎遷化無常
大梵高台閣 悲火血刀苦
須達之十徳 無留於無常
阿育之七宝 無買於寿命
月支還月威 琰王使被縛
龍帝投龍力 獄卒杖被打
人尤可行施 布施菩提糧
人最不惜財 財宝菩提障
若人貧窮身 可布施無財
見他布施時 可生随喜心
悲心施一人 功徳如大海
為己施諸人 得報如芥子
聚砂為塔人 早研黄金膚
折花供仏輩 速結蓮台趺
一句信受力 超転輪王位
半偈聞法徳 勝三千界宝
上須求仏道 中可報四恩
下遍及六道 共可成仏道
為誘引幼童 註因果道理
出内典外典 見者勿誹謗
聞者不生笑
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【実語教】と【童子教】は、儒教や仏教の影響を強く受けている。
しかし、其れだけではない。
時代ごとに先人達が育くみ、受け継いできた【日本の精神】も其の中に含まれている。
日本と日本人の為に、先人達は時を超えて『日本人としての在り方』や『人としての在り方』を伝えてくれている。
日本の≪教育≫は『人の道』を説き、『人』を育てる為のものである。
日本の≪教育≫は【日本の精神】の根幹を成すもの、謂わば【日本人の精神】そのものである。
此の【日本の精神】が、幾度となく日本を守ってきた。
江戸時代(1603年~1868年)末期、諸外国が日本を植民地支配する為に開国を迫ってきた。
幕府は鎖国を堅持しようと試みたが、当時の日本と外国との間には『国力』と『武力』に於いて歴然たる大きな差があった。
自国よりも衰える国に対しては、『武力』で脅せば御し易い。
だから諸外国は、日本に対して幾度も不当な要求を突き付けてきた。
幕府は諸外国の軍事的圧力から日本を守る為に、それぞれの国と不平等条約を結ばざるを得なかった。
つまり〖『国力』と『武力』の弱体〗が、〖外国からの侵略を招く〗ということである。
安政5年(1858年)、日本はアメリカ・イギリス・オランダ・フランス・ロシアと修好通商条約を結んだ。
此れを『安政の五カ国条約』と言う。
<条約の内容>
〖開港と開市〗
函館・新潟・横浜・兵庫・長崎の五港開港と江戸・大阪の開市。
諸外国との貿易開始。
〖治外法権の承認〗
日本に滞在する外国人が、日本の法律に従わなくとも良い権利。
日本で外国人が罪を犯しても、日本の法律で罰することが出来ない。
罪人の母国の法律が、適用される。
〖外国人居留地の設置〗
外国人居留地とは、商取引等をする外国人が住む場所のことである。
外国人を一か所に住まわせることにより、外国人と日本人の紛争を最小限にするという目的もあった。
〖関税自主権の喪失〗
輸入品に対して日本は自由に税率を決定することが出来ず、関税率を低税率(5%)で固定された。
低税率の輸入品が日本に入って来た為、日本人は安い輸入品を買った。
其れにより、日本国内で日本の商品は売れなくなり、日本の産業は大打撃を受けることになった。
同時に日本は、輸入による関税収入も得ることが出来なかった。
また日本からの輸出品に対して諸外国は関税率を自由に決めることが出来たので、諸外国は輸出品に高税率(20~30%)を設定して輸出品が自国に流入しないようにした。
此の条約は、日本にとって不平等で不利なものであった。
しかし、必ずしも『そう』であるとは言い切れなかった。
〖外国人居留地〗については、外国人が日本国内で自由に動けないよう移動は居留地内に限定した。
外国人には行動に制限を設け、逆に日本人は居留地から多くの商品と情報を得た。
貿易に於いて、日本の輸出品であった生糸を買いに来た外国人は居留地から出ることが許されなかったので直接生糸の生産地へ赴くことが出来ず、商取引は居留地内に限定された。
日本は輸出品の税率を低税率で固定されてはいたが、生糸の価格は自由に決めることが出来た。
また居留地へ生糸を売りに来る日本人は限られた人数であり、購入する外国人の方が多かった為、供給(モノを売ろうとすること)よりも需要(モノを買おうとすること)が高くなった。
人は「何としてもモノが欲しい」と思えば、「たとえ高値でも買いたい」と思う。
売る側は其の心理を利用して、モノに高い価格を設定する。
買う側が多数であれば、それぞれが競争心に駆られて更に高い価格を提示してモノを買おうとする。
そして、モノの値段が一層上がる。
価格が高騰した生糸を、外国人は日本人から買わざるを得なかった。
日本人にとって不利な部分が殆どではあったが、其れを逆手にとって有利にしたものもあった。
日本は不平等な条約を結んではいたが、外国を利用・統制しながら外国からの支配を極力抑えるよう尽力すると同時に、起死回生の一手を打つ為の『力』を蓄えていた。
条約を撤廃する為の多くの情報を収集し、外貨を獲得する為に群馬に富岡製糸場を設立するなど、『国力強化』を進めた。
また洋式軍隊を取り入れたり、『地租改正(土地の値段を基に算出された税金を土地の所有者が現金で納める制度)』によって得た税金を軍事費に充てるなど、『武力強化』も図った。
其の後、日本は諸外国に対抗する為の、日本を守る為の『豊かな国力』と『強い武力』を以て『富国強兵策』を推進し、全ての不平等条約の撤廃を実現させた。
明治27年(1894年) 〖治外法権の承認〗撤廃
明治32年(1899年) 〖外国人居留地〗廃止
明治44年(1911年) 〖関税自主権〗回復
日本が不平等条約の撤廃を可能としたのは、日本人に信念や理念、自信、覚悟、能力、実力があったからである。
日本人の中に『確たるもの』があれば、どれ程強大な相手であろうとも、毅然とした態度で対抗することが出来る。
多くの日本人の中に【日本の精神】が生きていたからこそ、日本は諸外国に引けを取らない『強さ』を得ることが出来た。
幕末に諸外国に対して、断固たる意思を持って立ち向かった小栗忠順(1827年~1868年。外国奉行・勘定奉行・江戸町奉行・軍艦奉行を歴任)もそうである。
小栗忠順に【日本の精神】が受け継がれていたからこそ、『強さ』を発揮することが出来た。
万延元年(1860年)、幕臣であった小栗忠順は幕府の命令により遣米使節団の目付(監察役)として渡米した。
目的は、アメリカと結んだ不平等条約である日米修好通商条約の批准(調印した条約の最終承認)の為であった。
其の際、小栗は以前から問題であった日本とアメリカ間の金銀交換比率の違いを指摘した。
当時、日本では国内の金の流出が問題となっていた。
原因は、諸外国との金銀交換比率の違いであった。
日本では一両小判(金貨)が、アメリカではメキシコドル(銀貨)が流通していた。
日本は『金本位制度(金を基準にした貨幣制度)』を取り入れており、一分銀(銀貨)を単なる計算用の貨幣として利用していた。
一両小判(金貨)1枚 = 一分銀(銀貨)4枚
〚アメリカの主張〛
アメリカは『同種同量交換(同じ種類(金は金、銀は銀、銅は銅)を同じ重さで交換)』の原則を取り入れている。
一メキシコドル(銀貨)には27グラムの銀が含まれていて、一分銀(銀貨)には9グラムの銀が含まれている。
故に
一メキシコドル(銀貨)1枚 = 一分銀(銀貨)3枚
であると、アメリカは主張した。
しかし、此のアメリカの主張を悪用する外国人が急増した。
当時、日本は金と銀の交換比率が諸外国と異なっていた。
〚日本〛 金:銀 = 1:5
〚諸外国〛 金:銀 = 1:15
日本の金は、諸外国では3倍の価値があった。
外国人は、金銀の交換に群がった。
外国人が日本で一メキシコドル(銀貨)4枚を一分銀(銀貨)12枚に交換し、更に其れを一両小判(金貨)3枚に交換。
其の後、外国人が上海で一両小判(金貨)3枚を一メキシコドル(銀貨)12枚に交換。
〚日本〛一メキシコドル(銀貨)4枚
↓
〚上海〛一メキシコドル(銀貨)12枚
多くの外国人が日本で大量にメキシコドル(銀貨)を一分銀(銀貨)に交換し、其の一分銀(銀貨)を大量の一両小判(金貨)に交換、つまり外国人が金を買い漁った為に日本国内から大量の金が流出した。
幕府から此の通貨問題解決の命を受けた小栗は、フィラデルフィア造幣局でアメリカと交渉した。
〚小栗の主張〛
アメリカで使用されている二十米ドル(金貨)には、金が30グラム含まれている。
一方、一両小判(金貨)には金が6グラム含まれている。
つまり
二十米ドル(金貨) = 一両小判(金貨)5枚
⇒四米ドル(金貨) = 一両小判(金貨)1枚
日本では
一両小判(金貨)1枚 = 一分銀(銀貨)4枚
つまり
四米ドル(金貨) = 一両小判(金貨)1枚 = 一分銀(銀貨)4枚
故に
四米ドル(金貨) = 一分銀(銀貨)4枚
⇒一米ドル(金貨) = 一分銀(銀貨)1枚
アメリカの主張する
一メキシコドル(銀貨)1枚 = 一分銀(銀貨)3枚
ならば
三米ドル(金貨) = 一メキシコドル(銀貨)1枚 = 一分銀(銀貨)3枚
となる。
金の方が銀よりも価値が高いにも拘わらず、三米ドル(金貨)と一メキシコドル(銀貨)1枚の価値が同じという状態である。
此れでは、整合性が取れない。
故に、「小判(金貨)とメキシコドル(銀貨)の比較ではなく、小判(金貨)と米ドル(金貨)の比較とすべきである」と主張。
小栗は日本から持ってきた一両小判(金貨)と二十米ドル(金貨)の金銀含有量の比較を天秤や算盤を用いて示し、造幣局責任者の目の前で事実を明らかにして金銀交換比率の改定をアメリカに要求した。
アメリカは小栗の主張を認めたが、残念ながら改定することは出来なかった。
遣米使節団の渡米前後の話ではあるが、幕府も金の流出を防ぐ為に奔走していた。
初代駐日領事ハリスに、日本とアメリカの金銀交換比率が異なることを主張して是正を求めた。
しかしハリス自身も売買差益を得て私腹を肥やしていたので、幕府の要求を拒否。
其ればかりでなく、ハリスは幕府に金の価値を下げれば良いと提案。
幕府にとっては受け入れ難い提案であったが他に方法が無く、ハリスの提案を受け入れざるを得なかった。
其の後、幕府は『天保小判(金貨)』の三分の一の大きさに改鋳した『万延小判』を大量に発行。
金の含有量を三分の一に減らして金の質を劣ろえさせ、海外への流出を防ごうとした。
しかし貨幣の価値が下がってしまった為に、物価(モノの値段)が高騰してしまった。
今まで一両小判(金貨)1枚で買えたモノが、一両小判(金貨)3枚で買わなければならなくなった。
つまり貨幣の価値が下がり、モノの価値が上がった(インフレーション)。
また、輸出によりモノが少なくなった為にモノ不足に陥り(需要が供給を上回った)、更にモノの値段が上がった。
其の為、人々の生活は益々厳しいものとなっていった。
遣米使節団渡米時に金銀交換比率の改定は実現できなかったが、小栗の理路整然とした主張や博識さ、毅然とした態度は、日本に対するアメリカの見方を変えた。
アメリカに「小栗は『タフ・ネゴシエーター』である」と言わしめ、小栗は一目置かれる存在となった。
小栗が堂々と主義主張できたのは、小栗に≪学問≫や≪教育≫により裏付けされた『知識』や『智慧』があったからである。
小栗は渡米後、日本とアメリカとの『国力』と『武力』の差を痛感し、更なる『富国強兵策』を進めた。
『国力』と『武力』の強化は、諸外国の理不尽な要求を抑止する為、そして緊急事態が発生した際に実際に戦う為でもあった。
元治二年(1865年)
『横須賀製鉄所(後の横須賀造船所)』建設
ペリー来航(1853年)以来、幕府は海軍力強化の為に諸外国から軍艦を購入していた。
しかし小栗は、其れに懸念を抱いていた。
小栗は高額な軍艦を諸外国から購入するよりも日本国内で軍艦を建造すれば費用を抑えることが出来、且つ、たとえ軍艦が故障したとしても、迅速に確実に正確に安全に安心して修理できると考えていた。
渡米中、小栗はワシントン海軍工廠を視察し、日本と欧米の造船技術の格差に危機感を覚えた。
そして小栗は、ワシントン海軍工廠から一本の【ネジ】を持ち帰った。
【ネジ】は、日本の『近代化』を誓う小栗の決意であったのかもしれない。
小栗は帰国後、フランスの技術を取り入れた『横須賀製鉄所(造船所)』の建設を提言した。
其の際、ある幕臣が言った。
「幕府の運命も、今後どうなるか分からない。
そういった状況であるにも拘わらず、大金を掛けて製鉄所を造る必要はあるのか?
製鉄所が完成した頃には、幕府は無いかもしれない」
小栗は答えた。
「幕府の運命には限りが有る。
しかし、日本の運命には限りが無い。
私は幕臣なので幕府の為に尽くすが、其れは即ち日本の為でもある。
もし幕府の行ったことが後々日本の為となり、後世の人々に徳川家の行ったことが成功したのだと言われれば、此れほど徳川家にとって名誉なことはない。
国の利益ではないか」
此の『横須賀製鉄所(造船所)』の第一ドックは、今も在日米海軍横須賀基地内で稼働している。
慶応三年(1867年) 5月
『滝野川火薬製造所』と『滝野川反射炉』建設
日本国内での西洋式大砲の鋳造を目的として、滝野川村(東京都北区)に建造する計画であった。
しかし、幕府が滅亡した為に頓挫。
其の後、設備の一部は明治政府に引き継がれた。
慶応三年(1867年) 6月
日本初の株式会社『兵庫商社』設立
日本の輸出品の多くは外国人によって不当に安く買い取られ、日本側は不利益を被っていた。
そこで小栗は、三井家や鴻池家など大阪の豪商20人ほどに出資させて『兵庫商社』を設立し、日本からの輸出品は全て『兵庫商社』を通すようにして適正価格で取引できる組織を構築した。
また貿易で得た利益の一部を幕府に還元出来るようにして、幕府の財政再建や道路・水路・通信など社会・産業基盤の整備に充てようとした。
慶応三年(1867年)10月の『大政奉還(将軍家が持っていた政権を朝廷へ返還)』の為に『兵庫商社』は幻のものとなってしまったが、此の商社は現在の日本の『総合商社』の原型になったと言われている。
小栗は、日本の『近代化』を急速に進めようとしていた。
しかし、慶応4年(1868年)1月 『戊辰戦争』勃発。
新政府軍との徹底抗戦を主張した小栗は、『第十五代将軍』徳川慶喜に疎まれ罷免。
其の後、小栗は知行地(支配地)であった権田村(群馬県高崎市)で隠棲生活を送っていた。
小栗は其の地で用水路の整備や若者達への教育に努め、静かに暮らしていた。
しかし、突如現れた新政府軍に出頭を命じられて捕縛。
慶応4年(1868年)4月、無実の罪で烏川で斬首された(享年四十二歳)。
小栗は先見の明があり、有事の際にも冷静沈着・迅速果断に行動できる不世出の天才であった。
そして、国を守る為に命を懸けることが出来る『強さ』と、人を慈しむ『優しさ』を兼ね備えた人でもあった。
日本を守ろうとした小栗は無惨にも殺されたが、小栗が遺してくれたものは、後に日本を救うことになる。
明治37年(1904年)2月 『日露戦争』勃発。
日本海海戦の際、日本の連合艦隊が世界最強と呼ばれたロシアのバルチック艦隊を撃破。
日本の連合艦隊司令長官は『戊辰戦争』の際、幕府の敵であった薩摩の東郷平八郎であった。
戦後、東郷は小栗の遺族を自宅に招いた。
そして、こう言った。
「日本海海戦で連合艦隊がロシアに勝利したのは、小栗上野介さんが横須賀造船所を建造してくれたおかげである」
此の『日露戦争』の勝利により、明治44年(1911年)、外務大臣であった小村寿太郎が条約を結んでいたアメリカ等と交渉し、〖関税自主権〗を回復させることに成功した。
此れにより、日本の不平等条約は完全に撤廃することが出来た。
小栗がアメリカから持ち帰った、たった一本の【ネジ】が、日本を諸外国から救い、守った。
小栗の高度な『知識』と様々な『智慧』が、嘗ての敵を助け、共に日本を救い、共に日本を守った。
小栗は、日本を守る為の『言葉』と『功績』を数多く遺してくれた。
私達は、今も其れらに守られている。
日本の≪教育≫は、『知識』と『智慧』を『善き道』『正しき道』へと導く為にある。
日本の≪教育≫は、『善き道』『正しき道』を示す『道標』である。
日本の≪教育≫によって『善き道』『正しき道』へと導かれた『知識』と『智慧』は、永遠に生き、日本を守り続ける。
日本は、【日本の精神】を理解し、受け継ぐことが出来る『人』を育てるべきである。
日本の≪教育≫は、日本と日本人を救い、守る『人』を育てる為にある。
―小栗忠順の言葉―
「一言で国を滅ぼす言葉は
『どうにかなろう』
の一言である。
もし江戸幕府が滅亡するのであれば、此の一言である」
小栗の言葉通り、幕府は滅びた。
『どうにかなろう』
という浅はかな考えが、幕府を滅ぼした。
小栗は、【警告】している。
『決して、油断してはならない』
『決して、目を逸らしてはならない』
『決して、人任せにしてはならない』
そして、此れは【忠告】でもある。
『どうにかなろう』では、どうにもらならない。
『どうにかなろう』は、危険である。
『どうにかなろう』という意識を、変えるべきである。
『どうにかなろう』
を
『どうにかしよう』
『どうにかしたい』
『どうにかする』
に、変えれば
『何とかなる』
『国を滅ぼす』か、『国を守る』か、選ぶのは自分の『心』である。
全て、自分の『心』が決める。
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〖参考文献〗
加藤咄堂 『実語教・童子教』(2020年)温古堂文庫




