桜
「【童子教】について。
尊い人の前では、目立つような行動をとってはならない。
もし尊い人に道で会うことがあれば、敬意を表して通り過ぎなければならない。
招待されれば、敬って承らなければならない。
両手を胸に当て、慎んで真っ直ぐ見据え、問われない限り答えてはならない。
もし言葉を賜れば、謹んで聞きなさい。
『三宝(仏・法・僧)』には三礼(三度拝礼すること)し、『神明(神)』には二礼し、『人』には一礼しなさい。
特に、師や主君には尊敬の意を示して礼をしなさい。
墓の前を通る時は、恭しくしなければならない。
お寺の堂塔の前に向かって、不浄なことをしてはならない。
聖人の『訓え』に対して、無礼なことをしてはならない。
神社の前を通る時は、乗物から降りなければならない。
『神明』を冒涜すれば、必ず天罰が下る。
『人倫(秩序)』には必ず『礼(礼儀)』があり、『朝廷(政府)』には必ず『法(法律)』がある。
『礼』の無い人は、必ず『過ち』を犯す。
多くの人と話す時は、汚い言葉を使ってはならない。
汚い言葉は人を傷つけ、自分の信頼を失わせることになる。
事が済めば、速やかに其の場を離れなければならない。
執着を手放しなさい。
『心』が軽くなる。
事ある毎に、友人と対立してはならない。
価値観の違いは、誰にでもある。
自分が『思ったこと』を素直に話しなさい。
相手も『思ったこと』を素直に話してくれる。
言葉多き者は、あまり品が無い。
まるで、老いた狗が友である他の犬を吠えているように見える。
自重しなさい。
無精者は、食事のことしか考えていない。
まるで、疲労した猿が木の実を貪り喰らうように見える。
恬淡寡欲(無着無欲)な人となりなさい。
猛者は、災難に見舞われる。
まるで、夏の虫が火の中に飛び込むように。
無謀な行動は慎みなさい。
鈍感な人は、あまり過ちを犯さない。
まるで、春の鳥が林の中で優雅に遊ぶように。
鷹揚に構えていなさい。
たとえ密であっても、人を中傷してはならない。
壁に耳を当てて聞いている人がいるかもしれない。
常に警戒していなさい。
隠れて悪事を働いてはならない。
上の方から見ている人がいるかもしれない。
清廉に生きなさい。
車の車輪は三寸(約九センチ)の轄(車輪を車軸に留める為のもの)で確りと留められているから、長い距離を走ることが出来る。
自分の中に揺るぎないものがあれば、長く生きることが出来る。
舌先三寸の人(口先だけで本心を隠す人)は、必ず身を滅ぼす。
口は『禍の門』
舌は『禍の根』
必要最低限しか鼻を使わないように、慎重に言葉を選んで注意して口を使えば、失言によって身を滅ぼすことはない。
一度放たれた『言葉』は、取り消すことが出来ない。
清らかで白く美しい玉のような『言葉』が少し傷ついたとしても、磨けば美しくなる。
汚れた『悪言』は、幾ら磨いても煌めくことはない。
『禍福』に門はない。
ただ、人が招いているだけである。
『天災』は、準備をしていれば避けることが出来る。
しかし自ら作る『人災』は自分の『心』から生じるものなので、避けることが出来ない。
『善行』を積み重ねてきた家には、子々孫々に至るまで『幸運』に恵まれる。
『悪行』を積み重ねてきた家には、末代まで『災禍』が齎される。
人に『陰徳(陰ながら行う徳行)』あれば、必ず良い報いがある。
人に『陰行(陰ながら行う善行)』あれば、必ず名声を得る。
『表』に見えているものだけが、『全て』ではない。
『陰』ながら、異なる『形』で行っている『善』もある。
『陰』ながら、異なる『形』で行っている『悪』もある。
目に見えている『全て』のものが、『善』であるとはとは限らない。
目に見えている『全て』のものが、『悪』であるとはとは限らない。
『天網恢恢疎にして漏らさず』
たとえ『人』が隠しても、『神明』に見えないものは無い。
『神明』は『全て』を把握し、理解している。
『神明』は、『全て』の『真実』を知っている。
『神明』は『善』を行う者を必ず守り、天佑(加護)を授ける。
『神明』は『悪』を行う者を断じて許さず、必ず報いを受けさせる。
『善』には必ず、光が当てられる。
『悪』は必ず、白日の下に晒される。
此れは、『定理』である。
永遠に変わることは無い。
信心が堅固であれば、『災禍』に見舞われることはない。
信念が強固であれば、『幸福』が舞い込んで来る。
『心』の動きは、表情に表れる。
まるで、水が容器によって形が変わるように。
決して隠すことは出来ない。
他人の弓を引いてはならない。
他人の馬に乗ってはならない。
他人の『悪行』に巻き込まれる可能性がある。
もし前の車が覆るのを見たら、後ろを走る車は其れを『戒め』としなければならない。
以前の『過ち』を忘れず、其の『過ち』を必ず後に生かさなければならない。
『善』を行えば、『名』が知れ渡る。
『寵愛』が深過ぎると、『禍』を招く。
危機意識を持ち続けなければならない。
虎は『皮』を残し、人は『名』を残す。
虎が『美しい皮』を残すように、人も『美しい行跡』を残すべきである。
国を治める賢王は、弱い立場の人を軽んじてはならない。
君子が人を称えなければ、民の恨みを買うことになるであろう。
『国に入っては国の法律を聞け』
『郷(土地)に入っては郷に従え』
『境(地域)に入っては境の禁戒(規律・規範)を聞け』
『俗(風俗・慣習)に入っては俗に従え』
『門に入っては先ず緯(実名)を聞け。
主君の緯は尊いものである。
決して主君の緯を呼んではならない』
其の国、其の土地、其の地域、其の組織、其の家の『法令』『規則』『しきたり』は、絶対に守らなければならない。
『愚者』は、将来について考えない。
故に近い将来、必ず『不運』が降りかかる。
深謀遠慮をもって行動しなさい。
『狭い視野』で世の中を見ていては、広い世界を見ることは出来ない。
其れは、細い管を用いて『天』を窺うことと同じである。
多角的に世界を見なければならない。
俯瞰して見ると、見えなかったものが見えるようになる。
『狭い知識』で大きな物事を判断してはならない。
其れは、針を用いて『地』を指すことと同じである。
多くの情報を得て、綿密に、慎重に、周到に計画を立ててから、実行に移さなければならない。
『神明』は、『愚者』を罰する。
しかし、『神明』が『愚者』を罰するのは殺す為ではなく、懲らしめる為である。
師が弟子に対して厳しく接するのは、悪いからではなく、弟子を『尊い人』に育てる為である。
生まれながらにして『尊い人』はいない。
『尊い人』とは、『智徳』がある人のことである。
『智徳』とは学問から得た『知識』や、経験から得た『智慧』を以て、『物事を正しく判断できる能力』のことである。
『智徳』は誠心誠意学び、直向きに修練し、地道に努力して得るものである。
『尊い人』が、必ずしも『裕福な人』というわけではない。
『裕福な人』が、必ずしも『尊い人』というわけではない。
たとえ『裕福な人』であっても『欲』が多ければ、其の人は『心の貧しい人』である。
たとえ『貧しい人』であっても『心』が満たされていれば、其の人は『心が豊かな人』である。
師が弟子に『訓え』を伝えないことを、『破壊(『戒律』を破る行為)』と言う。
師が弟子の『誤り』を厳しく指導することを、『持壊(『戒律』を守る行為)』と言う。
『悪しき弟子』を養えれば、師弟諸共地獄に堕ちる。
『善き弟子』を養えば、師弟は共に『悟り』を開くことが出来る。
もし弟子が『訓え』に従わないのであれば、其の弟子は早々に父母のもとへ返すべきである。
『訓え』ても、無駄である。
不仲な人々を仲介すると、却って恨みを買う。
安易な気持ちで『悪人』に関わると、後で大きな代償を払うことになる。
軽率な行動は、慎むべきである。
『悪人』に従い、関係を続ければ、柱に繋がれた犬の如く柱の周りを走り回って永遠に逃げることが出来ない。
『善人』に親しみ、常に傍にいれば、大きな船に乗っているように安心して生きることが出来る。
『悪しき友』と共に生きれば、藪の中で荊が曲がって育つように、『悪しき友』の影響によって少しずつ『悪人』に変わっていく。
『善き友』と共に生きれば、麻の中で蓬が真っ直ぐ育つように、『善き友』の影響によって自然と『善人』に変わっていく。
『尊い人』を志すのであれば、『善人』を選びなさい。
両親から離れ、厳しい師のもとで『戒(戒律)』『定(禅定)』『慧(智慧)』を学びなさい。
生まれつき才能が無くとも、一生懸命努力を続けていれば、必ず『道』を極めることが出来る。
全て、自分の『努力』次第である。
一日一字を学べば、三百六十字覚えることが出来る。
一字は千金に値し、たとえ一字という些細なものであっても、少しずつ続けていれば将来必ず役に立つ日が来る。
たとえ師から一日しか『訓え』を受けていなくとも、其の師の『訓え』が素晴らしいものであれば、『訓え』を受けた師への『恩』を忘れてはならない。
況してや数年もの間、師から『訓え』を受けたのであれば、敬意を払うことは当然のことである。
人を裏切り、『恩』を『仇』で返すようなことをしてはならない。
其れは『人の道』に悖る、卑怯で卑劣な行為である。
断じて許されない。
師と弟子の関わりは、『三世(前世・現世・来世)の契(固い約束)』である。
両親との関わりは、『今生』のみである。
弟子は師の影を踏まぬよう七尺(約二メートル)離れて後ろを歩き、礼儀を尽くしなさい。
観音菩薩は師である阿弥陀如来の『訓え』を守る為に、自らの宝冠に阿弥陀如来を戴いている。
勢至菩薩は『親孝行』を忘れない為に、頭上の宝瓶に父母の白骨を納め戴いている。
朝早く起き、確りと手を洗って心身を清め、『心』を込めて経書(儒教の経典)を読みなさい。
夜遅くとも、確りと足を洗って心身を清め、『心』を静めて『真理』について熟考しなさい。
いくら読んでも、いくら考えても『心』に入って来ないのは、酔って睦言(親しい会話)を語っているようなものである。
たとえ千巻の書を読んだとしても、身に付くことはない。
やる気が無いのであれば、やっても無駄である。
其れは、財も無いのに繁華街(歓楽街)へ行くことと同じである。
『土台』となるものが無ければ、何も成し得ない。
冬の夜に薄衣を着ていても、寒さに耐え、夜通し勉学に勤しみなさい。
食物の乏しい夏の日も、空腹を忘れるくらい一日中勉学に努めなさい。
但し、無理をし過ぎて体を壊してはならない。
心意気を高めることが重要である。
深酒は心を乱し、過食や享楽は人を怠惰にさせる。
自制心を持って行動しなさい。
偉人は苦しく辛い環境の中でも、粉骨砕身(骨が粉々になるまで、一生懸命努力すること)して自ら『道』を切り開いた。
匡衡の家は貧しく、灯りの為の油が買えなかった。
故に匡衡は夜に勉強する為、壁に穴をあけて月光を部屋に取り入れた。
孫教は学問に集中する為、戸を閉じて家の中に誰一人入れなかった。
蘇秦は学問の為に眠気が襲って来た際、錐で自分の股を刺した。
俊教は学問の為に自分の首と家の梁を縄で結び、眠りそうになって前のめりした際に首が絞めつけられるようにした。
車胤は夜に勉強することを好んだので、蛍を集めて蛍から発せられる光を灯りとした。
宣士は夜に勉強することを好んだので、雪を積んで月光で雪に反射した光を灯りとした。
休穆は読書に没頭するあまり、自分の冠が落ちたことに気付かなかった。
高鳳は読書に没頭するあまり、干していた麦が雨で流されていることに気が付かなかった。
劉寔は機を織りながらも、絶えず音読した。
倪寛は畑を耕しながらも、常に腰に書物を帯びていた。
此れらの人々は学問を好み、昼夜問わず勉学に励むことにより国中に其の才能が知れ渡り、ついには『碩学の位(学問に精通した人)』にまで達した。
たとえ博打で筒の中の簺を振っている時でも、経典(仏教の『訓え』が書かれた書物)や論語(孔子や其の弟子が遺した言葉)を唱えなさい。
たとえ弓を削って矢を作り戦闘準備している時でも、腰には常に書物を帯びて、いつでも勉強できるようにしていなさい。
弛まぬ努力をした偉人には、不可思議な『力』が宿る。
張儀が新旧の書を唱えると、枯れ木に実が生った。
亀耄が史記(歴史書)を唱えると、古い骨に脂が戻った。
伯英は九歳から学問を始めたので、若くして博士の位を得ることが出来た。
宗吏は七十歳から学問を好んだが、其れでも功績を残すことが出来た。
たとえ身分が低くとも、『智者』は高い位に就くことが出来る。
たとえ身分が高くとも、『愚者』は地獄の底まで堕ちる。
『智者』が大きな罪を犯したとしても、『智者』が地獄に堕ちることはない。
『愚者』が犯した罪はたとえ小さなものであっても、『愚者』は必ず地獄に堕ちる。
『智者』の『心』の中には、常に『喜び』がある。
まるで、『光音天(『三界(『欲界』『色界』『無色界』)』の一つである色界十八天の第二禅第三番目の天界)』に住む住人のように。
『愚者』の『心』の中には、常に『憂い』がある。
まるで、獄中の囚われ人のように。
父の『恩』は、山よりも高い。
其の『恩』は、須弥山(世界の中心に立つ聖なる山)さえも凌駕する。
母の『徳』は、海よりも深い。
其の『徳』は、大海よりも遥かに広く深い。
子供の白い骨は、父の『情愛』である。
子供の赤い体は、母の『慈愛』である。
『父の白』と『母の赤』、二つの『愛情』が和合して子供の五体(身体)が出来る。
子供は母の胎内で十月過ごし、母は身を削って子供を守る。
生まれてからも数年間、子供は父母から『愛情』を一身に受けて育つ。
昼は父の膝に乗って、頭を撫でてもらうこと多年。
夜は母に抱かれながら、多くの母乳を飲ませてもらう。
人は、朝、山野を駆け回って生き物を殺し、妻子を養う。
人は、暮れに川や海に潜って魚を捕まえ、妻子の命を繋ぐ。
人は、家族の命を守る為に日夜殺生などの悪業を重ね、朝夕の食料を調達する。
人は、生きる為に多くの罪を犯す。
人は、罪を犯せば報いを受ける。
誰であろうと、罪を犯せば罰せられる。
其れが、『法の下の平等』である。
『恩』を受けて其の『恩』を忘れることは、鳥が自分の棲む木の枝を枯らすことと同じである。
『徳』を受けて其の『徳』を忘れることは、野鹿が草を食い荒らして草を枯らすことと同じである。
『善因善果』
『悪因悪果』
此れを、『因果応報』という。
何人たりとも、『因果応報』の理から逃れることは出来ない。
酉夢は父を殺し、落ちてきた雷によって其の身が引き裂かれた。
班婦は母を罵しり、蛇の霊に命を吸い取られた。
郭巨は貧しさで自分の母が食を減らすのを見て、口減らしの為に自分の子供を土の中に埋めようとした。
すると、掘った穴の中から黄金が出てきた。
姜詩は母の為に遠くまで水を汲みに行っていたが、ある日突然、庭から水が湧き出てきた。
孟宗は母の為に真冬に筍を探していた時、深い雪の中から筍を見つけた。
王祥は継母が生きた魚を食べたいと言ったので、魚を捕りに氷が張る川へ赴いた。
氷の為に魚が捕れず嘆きながら氷を叩いたところ、氷が割れて魚が飛び出てきた。
舜子が盲目の父を養いながら嘆いていると、父の両目が見えるようになった。
刑渠が老いた母の為に食べ物を噛み砕いて食べさせると、老母は若返った。
董永は自らを売って、父の葬儀費用を作った。
楊威は、山で出会った虎に老母を思いながら命乞いした。
すると、虎は黙って立ち去って行った。
顔烏が両親の墓を作る為に土を運んでいると、鳥が飛んで来て土を運ぶのを手伝ってくれた。
許孜は松と柏の木を植えて、両親の為に立派な墓を作った。
此れらの人々の『願い』が叶ったのは、『心』から両親に孝行したいという『思い』が神や仏に届いたからである。
『純粋な心』で願えば『思い』は届き、『願い』は叶う。
しかし、全ての『願い』が叶うわけではない。
人の命は、『永遠』ではない。
生きている人は、必ず死ぬ。
人の命は蜉蝣と同じく、儚い。
朝に生まれて、夕べに死す。
人の身体は、芭蕉のように風に吹かれれば破れてしまう。
出会った人との『別れの苦しみ』は、必ずある。
長命である鶴や亀の契りも、命がある間だけである。
仲睦まじい夫婦も、『この世』に身体がある間だけである。
早く涅槃(『悟り』の境地)に至りたいと願っても、命が足りない。
最も『避けるべきもの』は、『欲』に満ち溢れた『この世』である。
美しい織物も衣服も、『あの世』への貯えにはならない。
黄金や珠玉も、一代限りの財宝である。
官位や寵愛を受けて得た職は、現世だけのものである。
栄耀栄華は、『悟り』を妨げるものである。
最も『恐れるべきもの』は、死後に転生する『六道』である。
『六道』とは、『天道』『人道』『阿修羅道』『畜生道』『餓鬼道』『地獄道』のことである。
『天道』とは、『天の世界』のことである。
『人道』とは、『人の世界』のことである。
『阿修羅道』とは、『闘争の世界』のことである。
『畜生道』とは、『獣の世界』のことである。
『餓鬼道』とは、『飢餓の世界』のことである。
『地獄道』とは、『罪人の世界』のことである。
人は死後、『この世』での『業(行い)』に応じて、此の『六道』の何れかに輪廻転生する。
全ての『世界』が、苦しく恐ろしい。
『欲界』の一つである忉利天の宮殿に住む人でさえ、人々の死は避けることが出来ないと嘆く。
『色界』の一つである大梵天の楼閣に住む人でさえ、人々が畜生や餓鬼や地獄に苦しむことを悲しむ。
須達長者(釈迦を支えた富豪)の『十徳(『姓貴』『位高』『大富』『威猛』『智深』『年耆』『行浄』『礼備』『上歎』『下帰』)』があったとしても、『無常』を止めることは出来ない。
阿育王(インドを統一し、仏教を保護した王)の『七宝(『金』『銀』『瑠璃』『玻璃』『珊瑚』『瑪瑙』『硨磲(シャコガイ)』)』があったとしても、寿命を買うことは出来ない。
月氏国(インド)のように月を還すことが出来る力があったとしても、閻魔大王の死者を返すことは出来ない。
龍帝のように龍を投げる力があったとしても、獄卒(地獄に堕ちた亡者を責める鬼)の杖に打たれてしまう。
たとえ『この世』で地位や名誉や富や権力を得ていたとしても、『六道輪廻』から逃れることは出来ない。
況してや道義に反する行為により得た富貴栄華が、『悟り』を開く為のものになるわけがない。
『強欲』は、『悪徳』である。
『強欲』な人間は、永遠に『悟り』を開くことは出来ない。
『強欲』な人間は、『阿修羅道』『畜生道』『餓鬼道』『地獄道』を永遠に巡ることになる。
煩悩(欲望)に満ちた不浄の身では、『悟り』を開くことは難しい。
煩悩は、『輪廻転生』からの解脱(解き放たれること)を阻む。
限りある命の中で早く『菩提(悟り)』を開きたいのであれば、『悟り』を開く為の『努力』をすべきである。
人は、他者に『施し』を行うべきである。
布施(無償の施し)は、『悟り』を開く為の糧である。
人は、自らの財産を惜しんではならない。
財産は、『悟り』にとって阻害物でしかない。
もし自分が貧しい為に『施し』が出来なくとも、他の誰かが『施し』ている姿を見て共に喜びなさい。
同じ『心』であることが重要である。
『慈悲の心』を以て一人の人へ『施し』を行えば、其の『功徳』は大海のように深く広がる。
但し、『慈悲の心』を悪用して『施し』をすれば、『無限地獄』に陥ることになる。
断じて、『慈悲の心』を私利私欲の為に利用してはならない。
見返りを考えて多くの人に『施し』を行なっても、其れは芥子粒のように小さなものである。
『無私無欲』でありなさい。
砂を集めて仏塔を築く人であっても、『敬う心』があれば黄金の身体を得て『悟り』を開くことが出来る。
『無心』でありなさい。
花を折って仏に供えるという些細な行為であっても、極楽浄土へ行くことが出来る。
『量』ではなく、『質』が大切である。
たった一句の短い『言葉』でも、其の『言葉』を『信じる力』があれば転輪王(インドに於ける理想の王)の位を超えることが出来る。
『不動の心』を持ちなさい。
仏の『訓え』の半分でも聞くという『功徳』は、三千世界(全宇宙)の財宝をも凌ぐ。
自らは、只管仏道修行に励みなさい。
そして、『四恩(父母・師匠・国王・三宝)』に報いるよう努めなさい。
其の後、『六道』にいる全てのものに対して『訓え』を広めなさい。
そうすれば全てのものが『悟り』を開き、『仏』となることが出来る。
【童子教】は子供たちを『仏の世界』へ導く為に、『因果の道理』を説いたものである。
【童子教】は、『内典(『仏典』)』や『外典(世間一般の『訓え』)』から引用したものである。
此れを読んで、【童子教】を批判してはならない。
此れを読んで、【童子教】を嘲笑ってはならない。
以上が、【実語教】と【童子教】についてである。
日本の≪教育≫は『人の道』を説き、『人』を育てる為にある。
日本の≪教育≫は、日本人が求め続けてきた『理想の人』を育てる為にある。
高度な『知識』や様々な『智慧』があるということは、とても素晴らしいことである。
並々ならない努力をしなければ、其れらを得ることは出来ない。
しかし、単に『知識』や『智慧』を得れば良いというわけではない。
学問から得た『知識』や、経験から得た『智慧』は、ただ『有る』だけでは役に立たない。
「国や人にとって何が『善』であるのか、何が『悪』であるのか」
「国や人にとって何が『正』であるのか、何が『誤』であるのか」
「自分の『知識』と『智慧』は、いつ、どのように、何の為に
生かすことが出来るのであろうのか?」
「自分の『知識』と『智慧』は、いつ、どのように、何の為に
生かすべきなのであろうか?」
「自分は今まで、何の為に学んできたのであろうか?」
日本の≪教育≫は『知識』や『智慧』の【生かし方】を自分で学び、自分で考え、自分で見極め、自分で判断し、自分で選択できる『能力』を持つ『人』を育てる為にある。
得た『知識』や『智慧』は、『善』と『正』の為に生かさなければならない。
『知識』や『智慧』を『善』と『正』の為に使えば、其れは必ず『守り』となり『強さ』となる。
『知識』や『智慧』を『悪』と『誤』の為に使えば、其れは必ず『狂気』となり『凶器』となる。
『知識』や『智慧』を『善』と『正』に生かす為に、日本は≪教育≫によって『人』を育ててきた。
『日本人としての在り方』や『人としての在り方』を説き、『知識』や『智慧』を『善き道』『正しき道』へと導いてきた。
『善き道』『正しき道』は、『国家安泰』『国泰民安』『天下太平』に通じる。
そして其れは、平和で、穏やかで、静かな世界へと繋がる。
日本の≪教育≫は、国家の安寧秩序を保ち守る『人』を育てる為にある。
日本人の良心を利用して日本の≪教育≫を悪用するなど、断じて許されるべきことではない。
【実語教】と【童子教】は、≪教育≫の悪用を封じる為に在る。
【実語教】と【童子教】は、此の先も受け継いでいかなければならない日本の≪教育≫の基である」




