2-4. 帳のゆめ
夢を見ている。昏い荒天の空より降り、翻って輝く光の幕を。広大なオーロラの帳へと向かう船団の夢を。
夜か昼かもわからない。厚く黒い雲が覆う空から、大きな雨粒が絶え間なく降り注ぐ。超自然の強風に海は荒れに荒れ、メルネヴェびとの造船技術の結実たる渡界船も、波間の木っ端のごとく翻弄された。
船が大きく左に傾く。甲板の左舷側に退避していた人々が、幾人も海へと放り出された。悲鳴と助けを求める声は暴風に押し流され、闇を貫く奇怪な音にかき消される。夢の中のその音について、ハルトは記憶を掘り起こした。強いて言うなら、市立文化センターのクラシックコンサートで聞いた管楽器の音に似ていた。確か中学の時、授業の一環で強制参加させられて。同じクラスのバカどもが騒がしくして怒られたんだっけ。あの楽器は確かオーボ……何だったろう? 思い出せない。それに唐突に頭に浮かんだけど、メルネヴェびとって何だよ? 聞き覚えもなくはないけど。
船はまた傾き、今度は甲板右舷側の人々が海に落ちる。ハルトは帆柱にかかった縄を掴んでいたお蔭で、落ちずに済んでいた。縄を支えに立ち上がると、妙に視界が低い。周囲の人々と比べて、自分の背丈が半分ほどしかないことを自覚した。この夢で僕は子どもかドワーフ、ゴブリンなのか?
そこで気づく。この船に乗っている人々の違和感に。叫び、天に祈る人々は皆、ハルトの知る人間ではない。耳先長く、美しく賢き人々。エルフだ。
高波が甲板を洗う。ハルトは鼻から思いきり海水を呑んでしまい盛大にむせた。涙と涎でぐちゃぐちゃになりながら、船の進行方向、舳先に目を遣った。
舳先には〈帳の司書〉がただ一人、危なげなく佇んでいた。長い白金色の髪を風雨になぶらせながら。船上の人々に、そのたおやかな後ろ姿だけを見せて。ただ前を、昏き空より降りてゆらめく、広大なオーロラの帳を見据えて。
船が輝く帳に近づくにつれ、風が鎮まり波が穏やかになってゆく。甲板のあちこちから、安堵の溜息が聞こえてきた。
なんだかよくわからないけど、助かるのか? ハルトがそう考えている間も船は進む。振り返ると、オーロラの輝きに照らされて、この船を先頭に据えた船団の全容が見えた。1、2、3……ざっと見ただけで100隻以上ある? いや、数えきれない。
進行方向に目を戻すと、舳先の〈帳の司書〉が両手を前に差し伸べ、指で印を結び、虚空に複雑怪奇な図形を描いていた。彼女が何事かを唱えているのが耳に届くものの、それが何なのかはわからない。ただ船上のエルフたちが、彼女の動きとその歌うような詠唱を固唾をのんで見守っているのがわかるだけだ。
船は更に進んでゆく。オーロラの帳が視界いっぱいに拡がってゆく。海上から天の高みまで、刻々と色の変化する輝きの幕が覆い尽くし、巨大な崖となって迫りくる。
〈帳の司書〉の声が掠れていた。明らかに濃い疲労が滲んでいる。朦朧としているのか、彼女の頭はグラグラと危なげに揺れた。それでも詠唱も動作も止まない。
すると周囲のエルフたちから賛嘆の声が聞こえてきた。生き残ったエルフたちは皆、先ほどまでの絶望とはうって変わった歓喜を顔に浮かべ、互いに抱き合い喜び合う。その内一人が、船の進む先を指さした。
釣られてハルトは見た。輝くオーロラの帳が、徐々に、徐々に天へと上がってゆくのを。そしてオーロラの帳の向こうに、陽射しに照らされた蒼く静かな海原があるのを。
異なる空と異なる海。こことは異なる別の世界。
船団は帳の上がった先、蒼き海原を目指して進む。と、そこへ
――――――――!!!
船団の後方から、先の奇怪な音が海上に拡がった。
一体何が? 振り向いたハルトは想像を絶するものを見た。
船の群れなす海面が山なりに持ち上がる。その中心より爆発的な水飛沫を上げて、巨大で奇怪な姿が顕れた。
黒い雲を衝く巨体のブヨブヨと丸く膨張した頭には、蛸めいた触手が無数に生えてのたうっている。巨怪は背に生えた皮膜の翼を蠢かせながら、鉤爪のついた手でエルフの船を掴み取った。
ハルトはその様を見上げながら理解した。この船団のエルフたちは、嵐から逃れようとしていたんじゃない。この巨大で奇怪な、生きものかどうかも定かじゃないモノから逃げていたんだ。
巨怪が手の中の船をオーロラの帳に向かって投げつける。
大きな弧を描いて宙を飛んだ船が、オーロラの輝く帳に触れた。次の瞬間、船は乗員もろとも見えない何かに全方向から圧され、海面に落ちることなく圧壊。消えてしまった。
次に奇怪な音の咆哮が海上に轟くと、巨怪の周囲の海が暗緑色に光って沸き立った。そこを通った船は見る間に腐り、乗員もろとも溶け崩れてゆく。
急がなきゃ。この船は間に合うのか? 焦れながら、ハルトは異世界の海へと向かう船の舳先を見た。
そこには変わらず〈帳の司書〉が佇んでいた。
巨怪の出現に合わせて空は再び荒れ、強風が吹き荒れ始める。
風が〈帳の司書〉の長い白金の髪を吹き上げる。その白い首を、見覚えのある模様が巡っているのが見えた。あれは、どこかで……その模様をよく見定めようと、ハルトが目を凝らした時
舞台に幕が降り、輝くオーロラの帳とエルフの船団、海の巨怪の光景は消えてしまった。
ハルトは見覚えのある舞台を前にして、客席にいる自分に気づいた。ここは確か文化センターの大ホール。今はもうとっくに廃墟になっていたはず。訝しみながら辺りを見回していると、舞台の袖で何かが動いた。
何だろう。ハルトは客席を立つと、舞台袖へと近づいてみた。すると袖幕の中へと駆け込む小さな姿が垣間見えた。
やけにすばしこい。急に追いかければ、気づかれ逃げられてしまう。ハルトは足を忍ばせゆっくり舞台袖へ近づくと、そっと袖幕をつまんで横に除けた。
そして驚き固まった。
ハルトの目の前、というか目の下にいたのは小さな女の子。十歳になるかならないかくらいの。女の子はこちらを見上げている。青に、緑に、赤に黄に。刻々と、万華鏡のように色と幾何学模様が変化する不思議なドレスを着て。奇抜な恰好ではあるものの、そのことはハルトにとって別にどうでもよかった。
女の子の面差しは、あまりに紗枝に似ていた。彼女が小学生の頃は、きっとこんな姿だったのだろうと思えるほどに。
しかしその目は彼女のものではなかった。切れ長で、瞳は中心に向かって青から金にグラデーションする不思議な色。
女の子は、エリと同じ目を持っていた。耳の先も長く尖っている。
何がなんだかわからない。昔の心理学者は言った。夢は願望充足だと。ならこれは、この夢は僕の願望なのか? そう納得するには、何かがおかしい。これまで見た光景は、浮かび上がった言葉は、自身の内から出た夢だと思うには、あまりに……
女の子がくるりとハルトに背を向け、舞台の脇を走り去る。
「ちょっと待っ……」
手を伸ばし、踏み出した足が沈み込む。落ちてゆく。
落下の感覚に体がびくりと動き、ハルトの意識は覚醒した。
ハルトは珍しく鮮明な夢を見た気がした。けれど、その記憶は急速に忘却の沼へと沈んで見えなくなってゆく。頭が現実を認識して動き始める。ここは盗賊の居室のベッドの上。ハルトが瞼を上げると、目の前のごくごく間近にエリの顔があった。開きっぱなしの窓から射し込む月光に照らされて。あの激しい情事が嘘のように、穏やかな寝顔を浮かべている。
その白い首には、もうかすかな夢の記憶にある模様があった。黒い二本の蔦が螺旋を描いて絡み合い、鎖のように首を巡る。これまで幾度も目にはしてきたはずなのに、どうしてか、今、初めて目にしたように思える。
メルネヴェびと、渡界船、そして〈帳の司書〉
夢の欠片が頭に浮かんで消える。世界の境界を捲り上げる魔法使いの女。彼女の姿はエリとは似ていない。けれどどことなく、雰囲気が似ているようにも思う。種族が同じというだけでなしに。
「……まさかね」
夢の物語を消えるがままに任せ、ハルトは放り出したジャケットのポケットを探った。スマホを出して時刻を確かめる。3:43。そろそろ動き出したほうがいい。
けれど、もう少しだけ。
ハルトはあどけないエリの寝顔を楽しんだ。
夜明け前の暗がりの中、ハルトは路上に放置された車列を縫うようにクルマを走らせた。時速20Km前後の低速で。ゾンビの活動が少ないルートを選んでいるものの、エンジン音を聞きつけて、いつ目の前に飛び出してくるかわからない。暗視呪文の範囲もせいぜい50m前後。スピードを出すことはできなかった。
それでもそろそろ、市役所を中心に掃討の進んでいる区域に出る。ハルトはちらと横目で助手席のエリを伺った。
エリは窓の外を眺めていた。頬杖をついて、黙りこくったまま。
盗賊の拠点を出てからここまで、ハルトはエリとほとんど言葉を交わせていなかった。拉致された二人の遺体を焼こうと木や布の可燃物を集めるときに、二言三言話しただけで。
嫌われたわけではないのだと思う。こうして一緒にいるのだし。でもなんとなく気まずい、というか恥ずかしい。昨夜は自分でもよくわからない心の底を、行為にかこつけてぶつけてしまったように思う。きっと本来は、言葉で伝えるべきことを。
そしてそれはたぶん、エリさんも。
こんな時、女慣れした男ならウィットに富んだ小粋なトークとかできるんだろう。でもまあここにいるのは、男女交際経験皆無の高校中退脱法魔術士なわけで。
「エリさん、強いんですね。びっくりしました」
まずは誉める。それできっと大きくは外さないはず。ハルトは拾ったメンズ・ナンノ誌の男女交際特集に書いてあった内容を思い出す。「少しけなしてから持ち上げろ」とかも書いてあった気がしたものの、そんな技術はイケメンにだけ許された高等技術だ。できるわけない。たぶんやっても効果ない。
「でもあっさりやられたわ」嘆息するエリの声から悔しさが滲んだ。「いいところ、見せられると思ったのに。結局あなたに助けられて……」
恥ずかしいのか。そっぽを向いたエリの耳がほんの少し紅潮して見える。
不機嫌なの、黙ってたの、思ってたほど活躍できなかったから? ハルトとしては充分以上に働いてくれたと思っていたし、むしろ自分が色々見誤ったせいで負担をかけてしまったと思っていた。
急に胸に湧いてきたおかしみに、我知らずハルトの口の端がゆるむ。
「この仕事でウォーハンマー壊れちゃったんで、新しい呪文を覚えようと思うんです」今回の戦いを終えてからずっと考えていたことを、ハルトは口にした。これにはエリの協力が必要だった。「造技領域の、光剣創成呪文。剣の扱い方なんて知らないし、ヘタして自分の指や足を斬りたくなかったから避けてたんです。そこでひとつ相談なんですが」
ひと呼吸おいて、ハルトは提案した。
「エリさんの剣術。僕に教えてくれませんか?」
殊更「エリさんの剣術」部分を強調して。
受けてくれたら嬉しいし、断られたらもちろん悲しい。けれど回答はどちらでもよかった。どちらにせよエリが自信を持っていることについて、知ることができるのは単純に楽しい。
「……全集」
ハルトの体感で数秒ほど置いて、エリは言った。
途端に障害物―ゾンビ化しかけた死体―を轢いてクルマがバウンドする。濁った呻き声が聞こえたがもう慣れた。
そのせいでうまく聞き取れなかった。ハルトは慣れたハンドル捌きでクルマを立て直しながら訊き返す。
「えっと、何です?」
するとエリはハルトに向き直り、耳元に顔を寄せて
「柿本薫全集。全巻セット買ってくれたら教えてあげる」
ああ、前から欲しがってたやつだとハルトは思い当たる。状態もよくてそれなりの量なのでけっこうなお値段で。せがまれても心を鬼にして拒否してたやつだ。
それでもエルフの剣技―〈審判の日〉前であれば中流層以下にはまず触れられない技術を学べるなら、安い対価だ。……この仕事の報酬、たぶんほとんど消えるけど。
「じゃあ市庁舎に行って報告したら、早速買って帰りましょう」こみ上げてきた暖かなものを受けとめて、ハルトは笑った。「よろしくお願いします。先生」
「何がそんなにおかしいの? ハルト」
エリが不思議そうな目で見つめてくる。
「誰かにものを教わるの、久しぶりなんです」ハルトは言った。運転中なので、エリの瞳を横目で見ながら。「それが何だか、嬉しくて」
「なんだか莫迦にされてる気分」
「そんなことないです」ハルトは言った。言葉に適う限りの誠実さをこめて。「絶対に、ないです」
「……そういうことにしておいてあげる」
憮然とするエリから視線を離して、ハルトは前を見た。暗い空の東の端がうっすらと白んでいる。もう、夜明けだ。
徐々に強くなる陽の光に目を細めながら、ハルトは笑った。どれだけ地に死者と怪物が跋扈しようと、生者同士が殺し合おうと、こうして夜を越えていける気がした。
このひとと、一緒なら。




