2-1. 雨の日の記憶
打ちつける雨が体温を奪い、雨を吸った服は重さを増した。一歩踏み出すたびにスニーカーがじゃぼじゃぼと水音を鳴らす。幸い、なのか。雨がこちらの立てる音と匂いを消してくれるおかけで、日中なのにゾンビどもが寄ってくる気配はない。
雨に煙る灰色の街路を、春斗は記憶を頼りに進んだ。もう少し。もう少し行った先のマンションの三階に、彼女と、紗枝さんと密かに物資を貯め込んできた非常拠点がある。そこまで行けば……
気持ちを奮い立たせて、春斗は紗枝の体を背負い直した。首に回った手はまだ暖かい。だから、大丈夫。
「春斗くん春斗くん」雨音にかき消されそうなか細い囁きが、春斗の耳に届く。「ボクを置いて戻るんだ」
「置いてなんていくもんか」言って、春斗は腕に力を籠める。「前に言ったじゃないか。あそこを出て、安全を確保したらエッチなことしようって」
「そうだねぇ、そんなことも言ったねぇ」
クスクス笑う彼女の声の力が、弱い。
「でもこんな状況じゃ、数は力だ」紗枝の声が、同い年と思えない冷徹さを覗かせる。「今ならまだ間に合う。戻るんだ。春斗くん」
「嫌だね」いつもなら、知識と判断力に優れた彼女の言葉に従う。でも今だけは、訊けない。「戻ってどうなるのさ? めぼしいものは取り上げられて。まともな装備もないまま、ヤツらの命令に従って物資集め。もっと早く出るべきだったんだ」
突如として人が苦しみ悶えて死に、腐りながら目に狂気を宿して立ち上がる。
この異変が起きて、春斗は駅チカの緋雁ヶ丘モールに逃げ込んだ。そしてモールに立てこもった生存者たちに発生したヒエラルキー、支配と被支配の構造に、春斗は絶望していた。魔法の力と腕力がある者が上に立ち、力の弱いものを従える。力のない男は上に立つ者に媚びへつらい、力のない女は身体を使って安全と衣食を確保する。そんな仕組みに囚われ続けるのはもう御免だ。
そう、もっと早く出るべきだったのだ。彼女がこうなってしまう前に。
「生存域が限定されると、サルはボスを、有力な個体を頂点とする群れを構築する。人間もサルの一種なんだ。本能に従うのは当然で、社会性動物としての最適解でもある」
「それが人間の本能だってんなら」こみ上げる怒りのままに、春斗は吐き捨てた。「ゾンビに喰われて滅べばいい」
「キミは面白い、ね……」
ぐったりと、春斗の背にかかる重みが増した。心なしか、背に感じる熱も。
物資の探索中にゾンビに咬まれた紗枝は、モールに戻ったものの消毒処置を受けられず傷が悪化した。ひとえに"上の連中"が貴重な医薬品を独り占めして、下々の物資集めを強制された生存者に分け与えなかったからだ。
春斗が懇願し、土下座し、靴もナニも舐めて、電気ショック呪文を受けてのたうち回っても、ヤツらはガーゼひとつ寄越さなかった。
モールの集団内で支配者側にいた男の一人が、紗枝に懸想していたのもあったのだろう。靡かなかった腹いせだ。莫迦らしいにもほどがある。
雨の幕の向こうにぼんやりと、フラフラと覚束ない足取りで歩む死者たちが見える。
春斗は建物の暗い陰に身を潜めた。
アイツらの視力は暗くなると落ちる。昼間に遭遇したら、建物の中の暗がりに隠れて視線を遮れば、やり過ごせる。
紗枝が常々言っていたことだ。今みたいな状況を想定していたのか。探索中に集めた物資を少しずつ、方々に分散させて隠すことを提案してきたのも彼女だった。
ゾンビたちの姿が雨の向こうに見えなくなったことを確認して、春斗は歩き出す。
何もかもが重かった。
階段を上がり、かつてバールでこじ開けたドアを開けてくぐる。やっと着いた。ゾンビとかち合わずにここまで来られた。春斗は安堵にへたり込みそうになるも、奥のベッドルームへと急いだ。休んでいる暇なんてない。
紗枝をベッドに横たえる。ぐったりと力なく、されるがままで呼吸が荒い。濡れた衣服を脱がしてゆくと、白い肢体が顕わになった。
「ごめんねぇ、おっぱいなくて……」
うっすらと目を開けて力なく笑む紗枝と、春斗は目が合わせられない。
「いいからじっとしてて、拭くもの持ってくるから」
春斗はバスルームに積んでおいたタオルをありったけと救急キット抱えて戻ると、濡れた紗枝の身体を拭いた。雨水を吸ったタオルを放り、乾いたもので更に拭く。恥ずかしがっている余裕はなかった。憧れていた女の裸身にも、劣情は欠片も湧かない。拭いていると感じる体温の高さに、嫌な予感が頭を過る。そんな予感を振り払うように彼女から水を拭い取る。
そうこうしていると、紗枝は目を閉じ、カチカチと歯を鳴らしながら体を震わせ始めた。
濡れたシーツを毛布に替える。春斗は箪笥から誰の物とも知れない厚手のスウェットを引っ張り出すと、彼女に着せた。細い少女の体に毛布を3重にかけて、保管物資からカセットコンロを出して点火し傍に置く。今は少しでも熱源がほしかった。
紗枝の呼吸が少し落ち着いたのを見計らって、春斗は毛布の下から彼女の左腕を引き出した。
左肩の鋭く抉れた咬み跡が、いまだに赤黒い血を滲ませている。
春斗がなるべく清潔なタオルで血を拭うと、裂けた肉の中で何かが這い、蠢いているのが見て取れた。それが何なのか。医療従事者でも学者でもない春斗にはわからない。未知の病原菌? 寄生虫? わかるのは、それが紗枝を死に、あるいは更に最悪な状態に追いやろうとしていることだけ。
春斗は救急キットから消毒薬の小瓶を出すと、ガーゼを浸して紗枝の負った咬み跡に当てた。
瞬間、紗枝の身体がビクンと跳ねる。
「ったい、なぁ……」紗枝の目が薄く開き、春斗を非難の目で見上げた。「もっと、やさしくしてよ……」
「ごめん」減らず口に安堵しながら、春斗は紗枝の左肩に包帯を巻く。「少し遅れたけど、消毒できた。これで何とかなるよ」
何とかなる。何とかなれ。これが正しい処置かも定かじゃない。初期の咬傷は速やかな洗浄と消毒で何とかなることは、経験則で知っていた。なのにモールのヤツらはボディチェックまでして医薬品を取り上げた。
間に合う。間に合え。できることはやった。後は………髪から滴った水が目に入って、春斗は初めて自分がずぶ濡れなことを自覚した。
残ったタオルで早々に頭と顔を拭いて、春斗は部屋の隅に積んだ食料を確認した。ミネラルウォーターの大ペットボトルが8本、各種缶詰にインスタント麺、菓子類。切り詰めれば3~4日はここに篭れる。このマンションの未探索の部屋を漁ればもっともつ。雨水だって煮沸すれば飲める。
コンロのお蔭で少しだけ室内の温度が上がり、紗枝の震えも治まってきた。
聞こえてくる音は、紗枝の少し喉が絡んだ呼吸の音と、窓の向こうから聞こえる雨音だけ。
さて、これからどうしよう。春斗はようやく今後に思考を巡らせることができた。紗枝さんの回復を待って、体力をつけて。異変の直後には、避難シェルターへ向かえって市のスピーカーが鳴ってたっけ。最近は全然聞かなくなったけど……あ、僕も着替えなきゃ。
乾いた予備の服に着替えようと、春斗が上着を脱ぎかけたその時
鳥のような獣のような、春斗がこれまで聞いたこともない奇怪な絶叫が紗枝の喉から迸った。
春斗の目の前で、ベッドの上の紗枝の体は激しく痙攣し、仰け反り、毛布を払い飛ばした。
彼女の身に何が起きているのか。わからないまま、春斗は紗枝を抑えるべくその肩を掴んで、気づく。なんだこれ。ついさっきまで異常に高くなっていた体温が、今は冷たい。驚くほどに。そして見開かれた彼女の大きな目。その左眼が、白目だった部分は黒く染まり、かつて淡いブラウンだった瞳は濃い赤に変色していた。
「あ……がっ」激しく上下する胸から吐き出すように、紗枝は声を発した。「あ、あ……そういう、こ……とな……」
「紗枝さん!」
名を呼ぶことしかできない春斗に向かって、紗枝の首が捻じれるように曲がる。
「どう……ら、ボクは、ここまで……たい……」
「消耗するから黙ってて!」
どうすればいい。何をすれば正しい? わからない。わからないまま、春斗は効果がありそうなものを見つけようと救急キットを引っ掻き回す。
その春斗の右手を紗枝の右手が掴んだ。強く、制するように。
「もう、いい……よ。春斗、くん」紗枝の右の瞳が、春斗を捉えた。「ボク、に、薬……もった……い」
「ダメだ!」
春斗は叫んだ。何がダメなのか。自分が何を言いたいのかもわからないまま。死ぬのはダメだ。生きなきゃダメだ。何が何でもそれだけはダメだ。
僕を置いて、逝くのはダメだ。なのに
「ごめん、ねぇ……約束、し……のに」痙攣する紗枝の右の瞳の焦点が、虚ろにゆらぐ。熱に浮かされたように、かすれがちな言葉が続く。「えっちな、こと。してみたかっ……ねぇ」
そんなことはどうだっていい。生きてさえいてくれたら。そんな春斗の願いを聞き届けるものは何もなく。
どうしてこんなことになってる? 僕は何を間違えた? これはどんな罪を犯した報いなんだ? どうにもならない現実に、無限に巡る問いかけにはまり込む。しかし状況は滞ることなく進行し、春斗を即座に現実へと引き戻す。ゾンビに咬まれ、処置が遅れた者が迎える結末は二つ。死か、生者を襲う怪物に成り果てるか。だからモールでは咬傷を受けたことが発覚すると、即座に建物のバリケードの外へ放り出された。
紗枝の痙攣が少しずつ弱まる。触れた彼女の肩の温度はもう、室温とほとんど変わらない。瞬きの間隔が開き、胸の上下動も鎮まってゆく。
何もできない。春斗にできたのは、ただ彼女の肩を掴んで、彼女の顔を見つめていることだけで。
「あの、ね……はる……くん」紗枝の右手が、強く、強く春斗の右手首を握った。「ボク、さ……」
虚ろだった右の瞳が、こちらを認めて焦点を結ぶ。そして彼女は言った。その声はとても小さくて。けれどはっきり聞きとれた。そのはずなのに。
ヴヴヴと胸に感じた振動に驚いて、ハルトは目を開けた。予定の時刻まで少し目を閉じるだけのつもりが、けっこう深く眠っていたらしい。ジャケットの胸ポケットからスマホを出して、振動を切る。時刻は18:40。行動開始時刻まで残り20分ほど。
これから取り掛かる仕事のために、ハルトは板金製の腕甲と脚甲、胸甲を自身の体に留めてゆく。日没間際の薄暗がりのなかでも、慣れきった動作なので支障はなかった。ただ、壁の向こうから聞こえる雨音が妙に耳についた。
ああ、そういうことか。とハルトは思い至った。仮眠中の夢に彼女が顕れたのは、雨のせいか。あの日も雨が降っていた。そして随分と久しぶりに思う。そう、エリさんと暮らしはじめてからは、どういうわけかあまり彼女の夢を見ていなかった。
夢に見れば思い出さないわけにはいかず、思い出せば気分は沈む。それでも夢であれ彼女に会えるのは、嬉しくないわけでもなく。思い出せない彼女の最期の言葉を、いつか夢のなかでもう一度言ってもらえるのではないかという期待もあって。
でも今は、そんなことをつらつら考えている時間はなかった。ハルトは頭を切り替えてヘルメットを被ると、割れたガラスの残った窓の脇に立った。双眼鏡で、割れ窓越しに目代大通りを挟んだ斜向かいを覗う。三階建ての小さなオフィスビルがあり、二階の窓からぼんやり光が漏れている。その周囲の路上を2人の人間が、それぞれナイフ槍と消火斧を手に巡回していた。一方は工事用の、もう一方はバイク用のヘルメットを被っている。マスクやマフラーで口も覆っているので、顔つきや年齢、性別はわからない。
確かなのは、彼らがゾンビ、時に街を徘徊する怪物以上に危険な存在―盗賊、強盗、追剥ぎ、略奪者、即ち他の比較的穏当に生きる生存者を襲う生存者集団の一員であること。
今から3日ほど前、収集品の査定に錬馬市庁舎を訪れた時のこと。
「ほう、薬か」臨時職員勤めの黒髭ドワーフ、エンドーは目の前に積まれたダンボール箱を開けると、中の小箱を取り出ししげしげと眺めた。「今時これだけまとまった量は珍しいな」
「運よく手つかずの薬局を見つけたんだ」
薬は一般的な市販薬でさえ希少で貴重なこのご時世、ハルトとエリは高値で売れると見込んでクルマに積めるだけ積んで持ち帰った。数にしてダンボール5箱分。その中から消毒薬や鎮痛剤、解熱剤に抗生剤といった二人の知識で利用可能なものを除いた4箱をここに持ち込んだ。
「フゥム。オレじゃ薬の値打ちはわからんな。〈審判の日〉から一年以上経ってるから、薬効切れもあるかもしれん。さて……」
どうしたものかと、エンドーは思案にくれる。
その時、エンドーの背後で金属ドアが開き、一人の麗人が現れた。二ホン人離れした鼻梁と面立ちに、こんな時代なのに艶やかな黒髪を編み上げている。背は高く、180cmはあるだろうか。軍服ともスーツともつかないダークブルーの制服姿は、男装歌劇の男役を連想させた。体型といい美貌といい、人類として完ぺき過ぎるその姿には、嫉妬の念すら湧いてこない。
復興庁復興支援局の地上調査官、スドオ・ミコト女史。この人に比べれば、エリさんのほうがまだ親近感あるな。とハルトは思った。
「査定に3日ほど預からせてもらえるかな? ハルトくん」顔の上半分を覆うミラーグラスのせいで表情はわかり難いものの、その口調はだいぶ砕けていた。「ここのシェルター施設は製薬プラントが弱くてね。高値で買い取れると思うよ」
「ええ、それで構いません。では3日後に」
ハルトは言うと、さっさと背を向けた。正直、復興庁の人間と直接やり取りするのは気が進まなかったし、彼女のことがなんとなく苦手だった。その口調が妙に記憶に障って。そこへ
「そう邪険にされると傷ついてしまうよハルトくん」見透かしたようにスドオ調査官は言った。「少し私の話を聞いていってくれないかな」
「嫌ですよ。この間のミ=ゴ討伐、大変だったんです」ハルトは顔だけねじ向けスドオ調査官を見た。「他を当たってください」
「これは君たちの安寧にも関わることなんだ」
ハルトはスドオ調査官の言葉に確信する。ああ、知っているのか。今はエリさんと暮らしていることを。ハルトはこれまで、エリと一緒に市庁舎内に足を踏み入れたことはなかった。今も彼女には商店街で時間を潰してもらっている。
「……じゃあ、話だけ」
溜息をつきつつ、ハルトはスドオ調査官に向き直った。何だかんだ今の生活は気に入っている。余計な懸念事項はできるだけ排除したかった。
「けっこうけっこう」スドオ調査官は脇に抱えたタブレット端末を手に取ると、地図情報を開いて見せた。「高荷台地区に、敵対的な生存者集団が棲みついた。彼らによって商工会の輸送トラックが襲撃を受け、積み荷と人員を奪われている。これまで2度、交渉のためにドローンを派遣したが全て破壊された」
「軍の部隊を出すべきでは?」
ハルトは言った。商工会の輸送トラックには武装した警備員も付く。それを制圧するとなると、ただのゴロツキ以上の装備と能力のある集団である可能性が高い。自分と同じように呪文を使う者もいるかもしれない。
「現状、兵は出払っていてね」
その言葉にハルトは思い出す。例の噂、軍が〈魔王軍〉とやらにかかり切りというのは本当なのだろうか。
「君の想像どおり、敵はそれなりに強力だろう。この一年、混沌の地上で生き抜いた連中だからね」言って、スドオ調査官はミラーグラスを外した。「でも君なら排除は容易い。そうだろう?」
スドオ調査官は色素の薄い瞳でハルトを見つめてくる。彼女なりの誠意、ということらしい。
期待のこもった美女の視線を受け留めながら、ハルトは思う。以前は妙にドギマギさせられたものだけど、今は落ち着いていられる。エリさんと暮らして色々慣れたからかな。
「そう簡単にはいかないでしょうが」ハルトはこれまでの探索生活で、縄張りを主張し物資を独占しようとする連中は皆、排除してきた。今回もやることはそう違わない。が「輸送の人員がまだ囚われてる可能性は?」
非常の場において、生かす者と生かす必要のない者を分けるのは至難だった。
「……不明だよ。ドローンで観測できた範囲では」そこでスドオ調査官はミラーグラスをかけ直した。「輸送人員含めて生死は問わない。現場で自由に判断してくれ。最優先は反社会的敵対生存者集団の排除。報酬は成功時に350万、追加でまた呪文書電子データの提供。先に希望を出してくれると助かるよ」
報酬は破格。それだけの面倒があるということ。避けたくはあるけれど、こちらの生存圏と重なる以上、衝突するのは時間の問題だ。
「わかりました。位置情報をください」
データ受信のためにスマホを胸ポケットから出しながら、ハルトは自問する。
以前のように一人で生きていたなら、僕はこの仕事を引き受けただろうか、と。
市庁舎周囲の路上に形成された、避難民たちの居住区……と呼ぶほどのものでもない、掘っ立て小屋とテントの群れ。その北側にある隘路を抜けると、二、三階建ての小さなビルの立ち並ぶ、かつての商店街に出る。
右を向けばスマホやタブレット、PCパーツ、モーター、各種蓄電池とソーラーパネルといった電子・機械部品が山と積まれ、左を向けば洗濯された衣服が什器に掛かっていた。元の店構えを利用したそれらの商店が並ぶ通りは、かつての賑わいには及ばないものの、生存者が持ち寄る品々を交換・売買する商店街となって人を集めていた。
商店街を行き交う人々は、市庁舎周りの人々とはいささか様相が違った。市庁舎で栄養バーと飲料水の配給を受けるだけの人々は、シェルターの開放を長く待ち続けるあまり、どこか無気力な様が目立つ。それに対してここにいる人々は、割れたアスファルトを踏むその足に生きる意志が見えた。自らの足で廃墟を歩み、生きる糧を探し、ないものを造り出すその目に力がある。
そんな通りを、ハルトはエリの姿を探して歩く。大して広くも長くもない通りなので、3分も歩けば警備ロボと監視ドローンの巡回範囲外、即ちゾンビと変異生物の蔓延る廃墟となってしまう。なのですぐに見つかるはず。
辺りを見渡すと、武器防具の販売・加工の店の前に、トゲ付き肩パッドを付けた青年がいた。彼は店先にリュックを降ろして、店主のドワーフと何やら交渉している。あの人はモギさん。何度か街中で探索中に会ったので、ハルトも覚えていた。こんな状況なのに腰の低い人で、電力確保で色々相談に乗ってくれたいい人だ。確か〈審判の日〉前は剣菱のエンジニアしてたって言ってたっけ。トゲ付き肩パッドは「いつか来る終末世界のために用意してたんだ」と言って笑ってた。
その少し先、店の内外に本が山と積まれた古書店には割と人がいる。ネットもサブスクも電気インフラも死んだこの時代、電力不要で知識と娯楽を得られる紙の本は価値が見直されていた。
だいたい見たけど、どこにいるんだろう。ハルトはエリの姿を探して古書店内を覗き込む。奥の席で万引きを警戒するゴブリンの店主、アサマツさんのサングラス越しの目と目が合った。
今のエリはニット帽に長い耳を隠し、瞳を偏光サングラスで隠している。青から金にグラデーションする瞳の色は目立つのだ。更には厚着して体のラインも目立たなくしているんだけど。なんだかんだ目立つひとだからすぐ見つかるはず。
そこでハルトは店の奥に入ろうとして、何かに躓いた。
「っ…と、すみませ……ん?」ハルトは体勢を直しながら謝りかけて、気づいた。足元にしゃがんで本を読んでいたのは誰なのか。「エリさん、こんなとこで何してんですか」
淡い偏光レンズの向こう、ちょっとばつの悪そうなエルフ女性の目と目が合った。
「ハルト」開いていた本を閉じて、エリは立ち上がる。「もう収穫の査定は済んだの?」
「3日ほどかかるみたいなんで、また来ましょう。あとは野菜を買って帰ろうかと。屋上農園やってるヤマガさんが、ジャガイモと玉ねぎの出来がいいって話してたんで」話しながら、ハルトは気づく。エリは本を棚に戻していない。「エリさん、その本ほしいんですか?」
サングラスの向こうでエリの目が泳ぐ。
「この前渡したお小遣いは……」
と訊きかけて、ハルトは続く言葉を飲み込んだ。使ってしまったに決まっている。一緒に暮らしはじめておおよそひと月。このエルフ女性は一般的な経済観念に乏しいことが明らかになってきた。彼女はこうして古書店を訪れると、小説、漫画、歴史書、研究書に至るまで気になる本は手当たり次第、有り金全部使って買ってしまう。読書好きなのはハルトも同じで親近感を覚えるものの、まあまあ困る。
「その……ダメ?」
エリはおずおずと訊いてくる。手にしているのは、さる少女漫画の愛蔵版だ。
彼女は人間の大衆娯楽も好きなようで。探索や野外作業のできない雨の日などは、日がな一日、漫画や小説を読んでいたりする。映画のDVDやBlu-rayの上映会などはすごく好評だ。
エリは少し腰を屈めて、やや下から伺うようにハルトを見上げた。
なんなんだよこのひとはもう、僕より背が高いくせにこういうことする。上目遣いは反則だ。エリの魂胆はわかりきっているのに、ハルトの心はゆらぐ。まあ、余裕がないわけじゃないし次の仕事でまたけっこうな額が入ってくるし。
「今回だけですよ」溜息をついてハルトは言った。「さ、会計に行きましょ」
エリは花咲くように笑顔を浮かべると、手にした本の続刊と思しき本も4冊ほど抱えて店主の元に向かう。
ちゃっかりしてるなほんと。ハルトは足取り軽いエリの後ろ姿を追いながら、彼女が後に迎えるちょっとした悲劇を思って少し意地の悪い笑顔を浮かべた。
エリさん、その漫画、〈審判の日〉以前にもう長く休載してました。今は当然、作者の生死は不明。完結はほぼ望めないです……




