古書店にて
巧みなハンドルさばきで、フィムクゥエルが雪の積もった廃車を避けた。その様を見てシルエレィドは思う。一緒にカジマからクルマの運転を習ったが、その技量は随分と差を拡げられてしまった。まあ私のような年寄りよりも、若者のほうが飲み込みが早いのは当たり前か。
フロントウインドウから臨む行く手の空は、澄み渡った青空だった。遮るものなく降り注ぐ陽射しに、地上の雪が溶かされてゆく。シャーベット状の雪が覆う路面を、フィムクゥエルの運転する改造装甲車で西に向かう。時おり活死者が何体か現れるも、車両前面の衝角で刺し轢き潰す。その際の衝撃にも、もう慣れたものだ。少々手荒く扱っても、このクルマは動作不良を起こさない。いいものを譲り受けたものだ。シルエレィドはこのクルマの元の持ち主のことを思い出す。
「僕が戻らなかったら、好きに使ってください」亜邑が陥落したあの日の朝、彼はそう言って微笑んだ。「このクルマも、中の物も。あとこれを」
そうして手渡されたタブレットには、彼がこの世界で生き延び得た知識が詰まっていた。死者と怪物が徘徊する統京都の西部から湾岸まで、彼が訪れたあらゆる場所が危険度に応じて色分けされ、その詳細が記されていた。また稼働している復興庁配下の避難センターと穏健な勢力の位置情報、それを結ぶ比較的安全なルート……奥多魔を目指すこの旅が、ここまでたいしたトラブルもなく進んでいるのは彼のお蔭だ。遭遇するであろう生きものの特徴と習性、食べられるか否か、また食べられる場合は調理法まで載っている。このクルマ自体、元々軍用車両だったため堅牢であり且つ、簡易キッチンにベッド、作業デスクに各種工具等、移動拠点として運用できる装備を積んでいた。まさに至れり尽くせりだ。
そしてシルエレィドは今更ながらに後悔した。亜邑を出る時、もっと入念に準備すべきだったと。研究室に籠ってばかりで、有事の備えを怠った。亜邑の外はどうせ思考能力もない活死者ばかりだと高を括り、生き残りの人間たちの獰猛さを甘く見た。その結果、娘を捉われその暴虐に手を貸す羽目に陥った。そこを彼に助けられ、ついにはメルネヴェの無駄に長い歴史に名が残るであろう大逆を犯したわけだが。
狂える神々が去り、帳が下りた後。ほぼ更地となった人工島から魔王タケハヤとアルシェンナ、そして〈魔王軍〉の生き残りたちが本土に戻った。亜邑東区下層の主機関を管理していたカウフマルド師とその助手たち、そして僅かに生き残った亜邑の守備兵を連れて。
死人のように項垂れたカウフマルドは、第1ゲート跡でシルエレィドを見た途端に顔を上げた。彼の口には詠唱封じが嵌められ、言葉はない。しかし彼の目は雄弁に告げていた。キサマがマヴドを引き入れたのか、忌むべき裏切りモノめ、上層地獄の混沌どもに未来永劫弄ばれ続けよ、と。
シルエレィドはカウフマルドの激しい憎悪の視線を黙って受け留めた。カウフマルドの後に続く生き残りのメルネヴェびとたちも、大なり小なり同じ目をしていた。諦めの中に憎悪が滲む目を。
彼には、彼ら彼女らには私を憎み、ののしる権利がある。シルエレィドは思った。私がハルト君を〈帳の司書〉の元へ送り、魔王とアルシェンナに主機関の位置を教えた。そのせいで彼らは、否応なくこの播神に汚染された世界に留まることになったのだから。
シルエレィドに後悔はなかった。なかったが、痛みはあった。連綿と連なる歴史から、自らを切り離した痛みが。
ただそれも、そう遠からず薄れ、消えてゆくのだろう。シルエレィドは自らの種族の行く手に思いを馳せた。メルネヴェびとは現実的で合理的な種族だ。今、私に憎しみをぶつけてくる彼ら彼女らも、いずれは現状を受け入れ、生きる道を模索するだろう。私や娘と同じように。
神々が退いた後、数隻の船が帳の向こうに消えるのを見た、と言う魔王の兵もいた。それが見間違いでなければ、同胞たちはまた同じことを繰り返すのだろうか。数隻に乗り込んだ僅かな生き残りだけで。しかし船に〈帳の司書〉の予備が乗っていたとしても、もうその運用は覚束なかろう。アルシェンナがアルクトゥスの死を確認している。彼らが次の世界で生き延び繁栄するかは、まさしく「神のみぞ知る」だ。船旅を続ける彼らと、降りた私たち。どちらが正しかったのか。時を経ても知る術はあるまい。
シルエレィドがタブレットを操作していると、ふと今日の日付が目に入った。20XY年2月11日。結局、魔王の城塞に1ヶ月以上足止めされていたことになる。崩壊した亜邑東区の物資回収アドバイザーの役割を求められ、探索に同行して助言し、彼らに覚え書きを残した。諸々の仕事をひと通り終え、城塞を発とうとしたら大雪で道が閉ざされた。娘のフィムクゥエルともども、亜邑の戦いの功労者として厚遇されてはいた。しかしそう長居したい場所でもなく、焦れながら雪が止むのを待った。意外なことに、フィムクゥエルはカジマら穏健な兵たちの戦闘訓練に参加したりと、それなりに楽しんで過ごしていたように見えた。彼のことは吹っ切れたのだろうか? シルエレィドは運転席の娘の横顔をチラと見た。雪道の運転に真剣な顔で臨んでいる。きっと訊かずにおくのが良いのだろう。胸の秘め事を親、特に異性の親に訊かれたくあるまい。
雪が止み、溶け、クルマの走行に支障がなくなった頃にはもう、2月になっていた。魔王タケハヤにはこのまま留まって統治を手伝ってほしいと求められたが、シルエレィドはやんわりと、しかし断固として断った。個別の仕事を引き受けることは吝かではなかったが、彼らの一員になるのはご免だった。ケイコの徒党と同じく、彼らも人を人とも思わぬ暴虐を振るう側の存在であることに変わりはない。少なくとも今は。それに魔王の城塞に留め置かれる、かつての同胞たちとの兼ね合いもあった。彼ら彼女らは主機関を始め、魔法書、漂着物といった亜邑の資源の管理に従事させられている。
亜邑人工島で要するエネルギーのほとんどを賄っていた主機関を、彼ら〈魔王軍〉がどう扱うのか。気にならないと言えば嘘になるが、シルエレィドは訊かずにおいた。聞けば巻き込まれる。その確信があった。私が望むのは娘との平穏な生活だけだ。復興庁と〈魔王軍〉、二大勢力へ顔を売るだけのつもりが、これまで関わり過ぎるくらい関わってしまった。もう潮時だろう。
協力への謝礼として、バイオディーゼル燃料と大量の食料を受け取りクルマに積んだ。そして旅立つ日の早朝、アルシェンナが見送りにやって来た。
「ありがとう、シルエレィド、フィムクゥエル」そう言うアルシェンナの表情が優しい。かつて、この国の戦の焼け跡で拾ったマヴドの子を育てていた頃のように。「あなたたちと、そして彼がいなければ、私は望みを叶えられなかった」
「それはよかった」彼女の言う望みとは復讐、だったのだろうか? シルエレィドは苦笑しながら言った。「私は君と一緒に亜邑を落とすことになるなんて、思ってもみなかったよ」
「この世界は、予想外のことがたくさん起きる。放逐された大いなる混沌たちが、戻ったんじゃないかって思えてくるくらい」アルシェンナはつと、遥か遠くを見るような目をして、言った。メルネヴェ語で。「さようならシルエレィド。もう貴方と会うことはないでしょう」
「さようなら、アルシェンナ」シルエレィドもメルネヴェ語で返した。「貴女の行く道に、竜たちの歌が響くように」
「メルネヴェ上古の祝福、私には相応しくないのだけど。これを聞くのも言葉にするのも最後かしら」アルシェンナは小首を傾げて微笑んだ。「貴方たちの行く道に、竜たちの歌が響くように。旅の無事を祈ってるわ」
そこでアルシェンナは、助手席のフィムクゥエルに意味深な視線を投げた。途端にフィムクゥエルが耳朶をほんのり赤くしつつ余所を向いた。その様を見てアルシェンナは小さくも声を立てて笑う。
まあ女同士の話があったのだろう。踏み込むまい。そう思いつつ、シルエレィドはエンジンをスタートさせた。クルマがゆっくりと動き出す。
「私たちに祈る神はいないだろう?」
シルエレィドが運転席の窓を開けて言った。すると
「神がいなくたって、無事や安息を祈っていいのよ。煩く言ってた連中は皆、上層地獄か帳の向こうなのだから。〈夜明けの風〉だってその程度、目くじら立てないでしょう」
アルシェンナはその身を翻すと、市庁舎への階段に向かった。振り返ることなく。
彼女の言葉から、シルエレィドは思い起こした。亜邑の塔群から戻った彼女は、帳の向こうに蠢く神々を追い立てる"二振りの剣を持つ黒い影"を見たと言っていた。それが伝承にある神追う猟獣、〈夜明けの風〉の分身たちの一つだったなら、この次元は神々の侵入についてはいくらか安全になった、と言えるかもしれない。希望的観測でしかないが。
「父さま、ちゃんとナビしてる?」
娘に言われ、シルエレィドは追想から我に返った。いかん、ついつい思い返してしまう。反省しつつ、タブレットに出した地図と道路標識を確認した。国道を西に進んで、今は板羽市の西部辺り。タブレットの地図上、黄色、警戒地域となっている砦北公園周辺までもう間もなくだ。
シルエレィドは双眼鏡でフロントウインドウの先を見た。遠く小さく、根を器用に使って廃墟を這い回る若木が視野に入る。
「フィムクゥエル、次の交差点で左折だ。活死者の掃討が済んだ迂回ルートがある」
「例の食屍植物の森ってヤツね」
フィムクゥエルがハンドルを切り、クルマを迂回ルートに入れた。タブレットの記載どおり活死者は出ないものの、広狭入り混じり放置車両のある道を行くため、速度を落とさざるを得なくなる。これなら仮に、敵対勢力が東から錬馬市避難センターに攻め入ろうとしても、カムヅミカズラに阻まれ、カムヅミカズラを避けても入り組んだ道に行軍を遅らせられる。シルエレィドは感心した。錬馬市のスドオ調査官とやらは相当なやり手のようだ。
そうして進んでゆくと廃墟が途切れ、急に車外の視界が開けた。
「わぁ……」
フィムクゥエルが感嘆の声を上げる。
一面、広大な畑が広がっていた。流石に2月とあっては作物も少ない。が、白菜等の葉物野菜がちらほら植わっている。そして重機の立てる大きな機械音が聞こえてくる。畑の外縁部では住む者のいない住居が取り壊され、農場の拡張作業が行われていた。
「地図上はもう錬馬市だ」娘と同じ光景を見ながら、シルエレィドは言った。「少ない人員と資源で大したものだね」
シルエレィドだちがこれまで訪れた避難センターも、区域内に農場を持ってはいた。が、ここまでの規模のものを目にするのは初めてだった。
「この分だと、錬馬市の避難センターはかなり発展していそうだ」
奥多魔に着く前に錬馬市避難センターを訪れることは、父娘で決めたことだった。「いい人たちが割といます」と彼は言っていた。シルエレィドは単純に、彼が〈帳の司書〉と暮らした街に興味があった。奥多魔までの中継地としても丁度よく、安全な街なら何日か滞在するつもりでいた。
「そうみたいね」
言いながら、フィムクゥエルは窓の外に視線を送った。釣られてシルエレィドも同じ方向を見遣ると、小型のドローンがクルマに追随して飛んでいるのが目に入る。
監視、というよりは示威だろうか。「おかしな真似をすれば、相応の対応をする」と、そのように見えた。案外もっと前から、監視自体はされていたのかもしれない。
農場が視界から消え、クルマは比較的大きな道路に合流した。タブレットの地図のとおりなら、このまま道なりに南西に進めば、錬馬市避難センターに到着する。
徐々にすれ違う人が、クルマが現れ始める。錬馬市庁舎と思しき建物が見える頃には、徐行でなければ進めない状態になった。
木材を積んだ軽トラックが過ぎ、電子機器や衣服といった廃墟の収穫物を背負った探索者たちが、避難センター方面へ向かう。皆、塵芥と返り血に薄汚れた姿だが、その目と歩みに活力があった。それは亜邑人工島に引きこもり、評議会の定めた予定調和の下で小奇麗に飾っていたメルネヴェびとにはないものだ。
人々の流れの中をゆっくり市庁舎へ近づいてゆくと、クルマの外から唐突に
「錬馬市避難センターヲ訪レルカタハ、指定ノ駐車場ニクルマヲ停メテクダサイ」
電子音声で呼びかけられた。
シルエレィドはウインドウを下ろして音声の源を確かめる。すると銃口を備えた四脚のロボットがクルマに並走していた。
「繰リ返シマス」四脚のロボットはまた音声を発した。「錬馬市避難センターヲ訪レルカタハ、指定ノ駐車場ニクルマヲ停メテクダサイ。従ワナイ場合ハ」
ロボットの銃口がシルエレィドを向く。
「待ってくれ! 従う、従うから!」
シルエレィドが慌てて言うと、ロボットは銃口を逸らした。そして
「ゴ協力、感謝シマス。デハコチラヘ」
四脚で跳ねるようにクルマの前に出た。ロボットはそのまま先を進むと、シルエレィドたちのクルマを伺うように時おり止まって銃口を向けてくる。
「フィムクゥエル、あのロボットに追従してくれ」
「ずいぶん物騒な案内人ね」
フィムクゥエルの運転するクルマはロボットに導かれ、狭い路地を抜けて、市庁舎の建物脇に確保された駐車場へと入っていった。
駐車場には大小の車両が所せましと停まっている。フィムクゥエルがその空きスペースにクルマを停車させると
「ゴ協力、感謝シマス。錬馬市避難センターヘヨウコソ」
お決まりのフレーズと思しき台詞を発して、ロボットは何処へともなく跳ね去った。
シルエレィドはジャケットの懐から愛用の懐中時計を出した。現在時刻を確かめると、午後3時12分。明るい中で街を散策するには充分な時間があった。
「では行こうか、フィム」そう言いつつ、シルエレィドは胸ポケットのサングラスをかけ、長い耳を隠すために大きめの登山帽を被った。「変装を忘れるなよ。私たちは目立つからな」
「わかってる」
父に言われるまでもなく、フィムクゥエルは防弾ゴーグルと軍用ヘルメットを装着していた。このクルマの前の持ち主、彼が予備に置いていたものだ。そしてロングコートに袖を通して尾を覆い隠す。
シルエレィドもフィムクゥエルも、自分たちの容姿がトラブルを引き寄せることは、嫌というほど理解できていた。
父娘二人でクルマを降りて、市庁舎前広場の雑踏の中を歩き出す。街の人々のほとんどは人間、マヴドだったが、時おりドワーフやゴブリンも見かける。皆、着ているものはあり合わせだったが、探索帰りと思しき者以外は皆、清潔にしている。ありがちな汗と垢の臭気もほとんどない。これまで訪れた避難センターは、せいぜいが難民キャンプに少々の露店と畑がある程度で、生存者の衛生面など二の次だった。そのことを考え合わせると、人々の服装だけでも、ここの発展ぶりが良くわかる。
そしてチラホラと、獣毛で覆われた者や鱗や牙を持つ者、蔦となった髪がうねる者、3m近い身長の巨躯の持ち主や、逆に1mにも満たない小躯の者も見かける。変異者たちも、人々の奇異の視線を受けながらではあれ、普通に生活している様子だ。
「変装、別に要らなかったんじゃない?」フィムクゥエルが言った。姿を偽らずにいる者たちを見るその目は、少し羨ましそうだ。「さすがにメルネヴェびとは見かけないけど」
「油断は禁物だぞ、フィム。カジマも言っていただろう」
シルエレィド自身、若干疑心暗鬼になってはいないかと思わなくもなかった。しかし、ケイコの徒党に囚われた時のような事態は二度と御免だった。
広場の雑踏を抜け、人通りの多い商店街の通りに出る。商店街とわかったのは、通り沿いの建物にわかり易い看板が出ていたからだ。どの店も二ホン語だけでなく、記号イラストを掲げている。シャツと針のイラストは衣類と仕立て、PCモニタとキーボードの看板は電子機器の店だろうか。コック帽を被ったブタは食肉を扱っているのか。串の肉を焙る、食欲をそそる脂の匂いがシルエレィドたちのところまで漂ってくる。
「ここまで発展しているとは思わなかったな」
シルエレィドは食肉店を見た。繁盛しているようで、店頭で串焼きを買っていく客が絶えない。
「見て父さま! 宿屋まである!」
フィムクゥエルが指さす先を見ると、小さな3階建てのビルにベッドのイラストの看板が掛かっていた。その下には宿泊6000、休憩1500の記述がある。これは旅人用の宿なのか、それとも逢引用のそれなのか。両者兼用か。なかなかに判断が難しい。
「久しぶりに柔らかいベッドで寝たいなあ」
「それは止めておこうか」チラ見で要求してくる娘に、シルエレィドは言った。「ベッドで寝て起きたら、縛られて檻の中なんてこともあり得る。用心に越したことはない」
「もう、父さまはそればっかりね」
文句を言いつつも、フィムクゥエルは反論しなかった。父娘揃って、あの頃のことはトラウマになっていた。
「いつもどおり車中泊がいいだろう。市庁舎の近くなら、あの治安維持ロボットたちも巡回している」シルエレィドは商店に目を向けた。「食材も売っているから、今晩は久しぶりに料理でもしようか。そろそろ缶詰と栄養バー、軍用レーションも飽きたろう」
「あの看板、食堂じゃない?」
ここにあるすべてに興味が尽きないようで。フィムクゥエルは目についた店へと小走りで向かってゆく。その後を追いかけながら、シルエレィドは胸の内の亡き妻に語りかけた。フィリウィラル、私たちの娘はたくましく育っているよ。全てから見放されたような、この世界でも。そして短くも濃密な時を共に過ごしたマヴドの若者にも語りかけた。君はここで〈帳の司書〉と過ごしたのだね。なかなか良い街じゃないか。
フィムクゥエルは食堂の店員にメニューを訊ね、アクセサリーの露店に並ぶ、ドワーフの手作りと思しきネックレスやブローチの細工に目を輝かせる。そうやってあちこちの店を覗いて回り、商店街のある通りの終端、廃墟との狭間にある書店に目を留めた。
「あのひと……」
娘の視線の先を、シルエレィドも追って見た。
客のまばらな書店の奥に、背の高い女がいた。ニット帽を被り、薄いブルーの偏光グラスをかけている。それでもその整った面立ちは隠しきれていない。ダウンジャケットの襟元に銀髪が覗いている。厄介事除けの扮装なのだろう。同族であるシルエレィドとフィムクゥエルにはわかる。彼女はエルフ、メルネヴェびとだ。
思わぬ所で出会った同族に、興味が湧かないわけがない。そんな父娘が見ている前で、メルネヴェの女は店主らしき老齢のゴブリンと何やら言い合っていた。
その言葉に耳を傾けてみると
「だからキリよく3万でいいじゃない。このままここに積まれてたって、わたしみたいに価値のわかるお客はもう来ないわよ」
「3万8千。勉強してここまでじゃな。お客というものは忘れた頃にひょっこり現れるもんじゃ。あんたみたいにな」
ゴブリンの老店主は、エルフの女を半眼で睨んだ。
「3万3千」
「3万7千500。これ以上は負からんよ。ご亭主と相談するんだね」
「くっ……」
どうやら本の値引き交渉中だったらしい。メルネヴェの女は口惜しそうに、手にした本を元の棚に戻した。すると同族の父娘に気づいて、偏光グラス越しに切れ長の目を向けた。
「あら珍しい。奥多魔以外にもまだ生き残りがいたのね」
「ええ、亜邑が陥落する前に島外に出ていたのでね」シルエレィドはメルネヴェ語で言うと、左手を傍らのフィムクゥエルの肩に置く。「娘と難を逃れられました。今は友人の伝手を頼って、奥多魔に向かう途中です」
亜邑が攻め落とされ〈魔王軍〉の支配下にあることは、各避難センターの生存者に知れ渡っていた。その事件に大きく関わったことについて、シルエレィドは口を閉ざした。口外して得なことなど一つもなかろう。
「あらそう」メルネヴェの女に、さして興味を惹かれた様子はなかった。「それがいいわね。まだまだ同族で固まったほうが生きやすいでしょう」
「貴女は合流しないのですか?」
完全に他人事な彼女の言葉に好奇心が湧き、シルエレィドは訊いてみた。少し気になったこともあって。彼女の言葉遣いは……
「わたしは行かないわ」メルネヴェの女は悩む素振りもなく即答した。「特に不自由もないもの」
「確かにここの治安は良いようですが、貴女のような方が一人で過ごすのは……」
自身の経験から、シルエレィドは言った。大半がマヴドたちの間に、美貌のメルネヴェの女が一人でいるのは危険極まりない。仮に彼女が卓越した魔術師であったとしても、だ。
「大丈夫。ここには夫といるの」そんなシルエレィドの不安を見越したように、メルネヴェの女は言った。皇玉石よりも硬く輝かしい信頼をこめて。「彼はマヴドなのよ」
シルエレィドは思い出す。確かにさっき、フウブグムルの老店主が、彼女に伴侶がいるようなことを言っていた。このような時勢だ。危機的状況下にあって、異種族同士で結びつきが強くなるケースも多々あるのだろう。娘と同じように。
と、そこに思い至って、シルエレィドの頭の中でバラバラだった直観の欠片が集まって形を成した。彼女の言葉遣い。そしてマヴドの夫。シルエレィドは自然と頬がゆるんでしまうのを、右手で覆い隠す。まだだ。まだ確定したわけじゃない。
「何だか不思議。貴女とは初めて会った気がしない」フィムクゥエルも何かに気づいたのか、メルネヴェの女に話しかけた。いささか剣呑な口調で。「貴女の夫って、どんなひと?」
「そうね……」少し考え込んでから、メルネヴェの女は言った。半ば叱るような口調で。「押しに弱いクセに強情で、いつも無茶ばかりして。でもその大半はわたしのためで……この頃になってやっと落ち着いてきたの。そろそろここに来るから、当人に会ってもらったほうが早いわね」
しかし語る彼女の眼差しは何よりもやさしい。
推定かつての〈導きの司書〉の視線が、書店の入り口に向く。彼女の口元に、小さくも蕾がほころぶような笑みが浮かんだ。
シルエレィドとフィムクゥエルは、その視線を追って背後を振り返る。そして
「「ハルト」」
メルネヴェびとの女二人の声が、見事な和音で重なった。フィムクゥエルの声はいくぶんか怒気をはらんでいたが。
あの惨状をどうやって生き延びたのか。湧き上がる疑問も、彼の呆気にとられたような顔を見て、シルエレィドはどうでもよくなってしまう。そしてこれから必至のひと騒動を想像し、声を上げて笑いたいのを懸命にこらえた。
「商売の邪魔だから他所でやってくれんかの」
店の奥のカウンターで、老店主がぼやいた。
素人文芸にお付き合いくださった皆さま、お疲れ様でした。このお話はこれまで。
少年とエルフのお姉さん、二人が中心のお話なので、それほど長くならないと思って書いていたのですが
気づけば私が書いたなかでは最長になってましたね。
流行らない題材を、ない文章力で書き殴りました。もし楽しんでいただけたのなら、それに勝る喜びはありません。




