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渚にて

 抱き締め合って触れ合って。いつまでもこうしていられたら、さぞかし幸せなことだろう。そうは思っていても、生きている限りそうもいかない。喉は渇くし腹も減る。そろそろ動き出さなきゃと思いつつ、ハルトはエリの肩越しに海を見遣った。そういえばどうやってここまで来たんだろう。あの塔から海に落ちて、ただ流されて、とも思えない。

「エリさん、立てそうですか?」

「ええ。体も前より軽い感じ」エリは上機嫌で答えた。ハルトの耳の傍で嬉しそうに。「ハルトのほうこそ大丈夫?」

 答えを示すように、ハルトはエリの両脇の下に差し入れた腕をそのままに立ち上がって見せた。そして互いに砂浜に立ったまま向かい合う。すると小さな違和感があった。ハルトは思う。エリさんも僕も、服装以外どこもおかしいところはないのに。なんだろう? 同じように感じているのか。エリも眉根を寄せ、怪訝な顔をし、そしてついには不機嫌な顔になった。

「どうしたんです?」

 ハルトは自分の行いを振り返った。あれか、持ち上げる時に重そうな顔とかしちゃったか? ならどうやってフォローしよう。と悩むハルトをエリは睨む。不機嫌、というより不満を美貌に浮かべて。

「背、伸びたわねハルト」

 ああ、そういうことか。ハルトは得心した。立って見つめ合う時、かつてはエリのことを見上げていたのが、今はそれほど見上げなくて済んでいる。離れ離れだった四ヶ月の間に、多少なりとも背が伸びたらしい。歳は17歳になったばかり。もう成長期も終わる頃合いなので、たぶんこれ以上の伸びはない。それでも多少なりとも身長が伸びたことは素直に嬉しい。

 なのにエリは不満げだ。

「僕の身長、伸びるとなんかまずいですか?」

「そういうことじゃないわ」エリの手が、ハルトの肩を、頬から頭を撫でてゆく。「あなたが成長する姿を、そばで見られなかったことが口惜しいだけ。人間の成長は速いのね」

 エリは溜息をつくと、踏ん切りをつけたように笑みを浮かべた。

「やっぱりさっさと攫って別次元に逃げればよかった」

 ハルトはなんだか恐ろしいことを言われた気がしたが、聞こえなかったフリをした。

 さてこれからどうするか。ハルトは周囲を見渡した。振り返れば草が伸び放題になった野原がある。その向こうには灌木が、その更に向こうには叢林が。そして叢林のなかに埋もれるように観覧車が見えた。

 統京湾岸の臨海公園のどこかかな。ハルトは奇跡的に無事だったベルトポーチから、地図データを入れたスマホを出して操作した。しかし水没したためか、スマホはうんともすんとも言わない。情報を得るためにも街に出たい。出れば看板やらで今いる場所の検討がつく。でも街、道路まで徒歩で行くのは避けたい。自分はともかく、エリさんが裸足だ。自分のブーツを貸すことも考えたけれど、サイズが合わなければ痛いだけだ

「ここが臨界公園なら、海の反対に行けば道路か街に出ると思うんです」ハルトは言った。途中で運良く動くクルマか、バイクでも見つかればと願いながら。「負ぶっていきますよ。裸足だと怪我するかもですし」

「裸足でも平気よ。見える範囲は草地だから」エリも周囲を見渡して、ハルトを見た。「それよりあなたのほうが心配。お腹に穴が空いてたのよ? もう塞がってるけど。消耗してないわけないもの」

「傷はすっかり治ってるから大丈夫です。それを言うならエリさんだって疲れてるでしょ? あれだけのことがあったんだし。僕はエリさんくらいは軽く運べます。筋力強化呪文唱えますから」

 ハルトが言うと、エリに半眼で睨まれた。

「それ、暗に重いって言ってない?」

「いやそんなことは……」

 慌てるハルトを見て一転、エリは楽し気な笑みを浮かべると、右手をハルトの頬に当てててむにむにと揉み撫でた。

「わたしはたっぷり寝たから平気。エルフは人間よりも概ね身体能力が高いわ。わたしがハルトを運ぶわよ。徒手搬送の講習はちゃんと受けてるから」

「いや無理しないでくださいよ。僕、まだあれこれ装備も持ってるんで重いですよ」

 互いに譲らず不毛な押し問答を繰り広げる。片手をつなぎ合ったまま。ハルトはエリに触れていないとなんとなく不安で離れがたくて。それはエリもまた同じようで、彼女も絡み合わせた指を離そうとしない。ハルトは、傍から見たら僕ら所謂バカップルかもなあと思うも、見てるのはせいぜいゾンビくらいだしいいやと開き直った。そんな時

「馬でもあったらね」ふと冗談めかしてエリが言った。「燃料いらないし、メルネヴェびとが調教した馬なら、居眠りしても早々事故にはならないし」

「それはさすがに無理じゃないですかね」ハルトは思う。仮に〈審判の日〉を生き延びた馬がいても、今頃は野生化して人の言うことなど聞かないんじゃなかろうか。それにしても「エリさん、馬、乗れるんですか?」

 ハルトは想像してみた。颯爽と馬を駆るエルフ美女、の図は絵的にも大層映える。

「あら、乗馬はメルネヴェの基礎教養よ。亜邑と本土に専用の馬場もあったんだから。こう見えてもわたしは――」

 ハルトは得意げに語るエリを楽しく眺めつつ、さくっと抱えて運んでしまおうと呪文〈巨鬼の剛力〉を唱えようとした。その時

 ヴィヒヒヒーンと遠くから、馬のいななきが聞こえた。最初ハルトは幻聴かと思ったものの、顔を見合わせたエリも驚いているので現実だとわかる。馬? こんなところで?

 二人して戸惑っていると、浜の砂を蹴立てる規則正しい蹄の音まで聞こえてきた。音の源を見遣れば、波打ち際をこちらに向かって駆ける白い馬が目に入る。白馬は驚くべきスピードで二人の前にやって来ると、大きく棹立ちになってもう一声いなないた。

 白馬は前肢を下ろして二人の前で停まる。すると驚く二人の頭の中に声が響いた。重厚な男の声で。

『女王の誕生を言祝ぎ(ことほぎ)に参り申した。実に一万年ぶりか。いやめでたい』白馬はエリを、ハルトを順に見つめた。『拙者はラハノルス。メルネヴェ最初の王と友諠を結んだ幻獣の一頭。いの一番に馳せ参じたかったが、タヴヴェルムめに先を越された。さあ、拙者の背に乗るがよい。行きたい場所までお送り申そう。さあ』

 白馬は文字どおりの馬面をぐいぐい出してくる。何この押しの強い馬……馬かな?とハルトは思う。その姿は一見、王子様の白馬そのものだけれど、黒い眼の中に赤い炎のようなものが灯ってゆれ動いている。そもそも馬は人の頭の中に語りかけたりしない。その上、馬の背には鞍が。鐙や手綱、はみまで付いてる。準備万端なのが怪し過ぎる。

『怪しむのも無理はない。王配殿よ』

 ラハノルスと名乗った馬は、ぐいと鼻面をハルトに向けた。

 おうはい、王配? って確か、女王の夫とかを指す言葉じゃなかったっけ。それが僕? 戸惑うハルトにラハノルスは告げる。

『拙者ら、そなたの活躍をハラハラしながら見ておった。女王の危機に全員で助けに向かったのだが、あの都市にかかった呪いのせいで近づけなんだ。おまけに〈夜明けの風〉の影めが暴れ回る始末。そなたがおらねばメルネヴェ王の血が完全に絶えるところであった。七幻獣を代表して御礼つかまつる。見事であった』

 そしてラハノルスはハルトに向かって馬頭を下げてみせた。

「巨人の鋤を引いて荒野を一晩で耕地に変えた駿馬ラハノルス。若き王の挑んだ九つの謎にヒントを与えた賢亀タヴヴェルム」白馬を前に、エリは驚きに目を丸くする。「おとぎ話の七幻獣、実在したの? 復古主義者が民話をかき集めてでっち上げたのだとばかり……」

『ウム。歴史とはえてしてそういうもの。嘘が誠で、誠が嘘。統治者の都合でな。よほど王家の偉業を遺し伝えるのが嫌だったらしい』

「でも、最後の王は全ての超自然的存在との契約を破却したはず。なのに何故、貴方はここに?」

 エリが問う。どうやらこの馬はメルネヴェびとにゆかりのある存在らしい。そこでハルトは思い出した。エリさんに置いて行かれたあの日、物見櫓の上で、彼女からこの馬のようなものの話を聞いた気がする。

『もちろんそれは、エリィルラル女王の誕生を言祝ぐために」ラハノルスは答えた。胸を張るように堂々と馬首を上げる。『そして苦境の一助となるために。拙者らが王とともにあったのは契約にあらず。友諠の故なり。拙者らは王に相応しい者に力を貸す。友を助けるのに理由は要らぬ。拙者らは約束したのだ。エルドの子々孫々を見守り力を貸すと。この一万年、王の子らを見つけるも、手が届く前に失うの繰り返しでな。ここでようやくそなたを見い出せたのだ。ようやく、やっと……』

 二人の頭の中の声が徐々に涙声になってゆく。何だか不気味な馬らしきものの眼からはらはらと涙が落ちる。それを見てハルトは思う。悪い生きものではない。かもしれない。きっと。いやたぶん。

 エリはラハノルスに近寄ると、垂れた手綱を手に取った。そしてハルトに向かって振り返ると

「乗っちゃいましょ。ハルト」

 あっけらかんと言った。

「いいんですか? 怪しくないですか?」

「彼は無害よ。少なくともわたしたちには。なんとなくだけどわかる」そう言うとエリは慣れた動作で鐙に足をかけ、鞍に飛び乗った。所々裂けたワンピースの裾がめくれ、露わになる脚がなやましい。そして鞍上からハルトへと手を差し伸べてくる。「さ、乗って」

「エリさんの着替えも早めに探さないとですね」

 ハルトはエリの手を取ると、一度落ちかけながら苦労して鞍に跨った。落ちないようにバランスを取るのが難しい。

「ハルト、わたしの腰に手を回して。そう、しっかり掴まって」

「こういうシチュエーションの男女の位置、逆じゃないですか?」エリに言われるままに、ハルトは腕を彼女の腰に回してしがみつく。「ほら、バイクとかだと」

「あら、じゃああなたが手綱を取ってみる?」

 エリは楽しそうに後ろのハルトを振り返る。するとおそらく馬のラハノルスの声が二人の頭に響いた。

『いや拙者、行きたい場所を指示してもらえれば別に御二人のどちらが手綱を取っても……』

「ちょっと黙っててくれる?」

『はい』

 エリにドスの効いた声で言われ、ラハノルスは黙った。ハルトは思う。別に乗馬経験とか要らない感じ? まあエリさんが楽しそうだからいいか。

「ハルト、どこへ行きたい?」

 どこへ? エリのその問いかけは単純でありながら、ハルトにはとても新鮮に感じられた。これまで生きるために、復讐のために、そしてエリと再会するために、ずっと何かに駆り立てられるようにしてここまで来た。行き先は探すまでもなく、望むと望まざるに拘わらず常にそこにあった。

 ここで初めて、僕は自分の気持ちに従って行き先を決められる。そんな気がした。どこへ行こう。きっとどこへでも行ける。どこでも生きられる。終わりかけた世界でも、今、腕のなかにいるあなたと一緒なら。

「そうですね」ハルトは考えを述べていく。「まず水場。飲料水がほしいんで。森羅の呪文で浄水できるんで水溜まりでも何でも。エリさんの服も探しましょう。靴も。そうしたらいったん帰りましょうか。僕らの家に。何ヶ月も帰ってないんで、荒らされてないといいんですが」

 彼女と長く過ごしたあの場所を今、拠点、と呼ぶのはなんだか違う気がした。

『邸や城がほしいと仰るのであれば、地龍魚アドゥナムに頼めばあやつは喜んでノームどもと……』

「ちょっとうるさいわよラハノルス」

 差し挟まれた推定馬の声に、エリが言った。棘のある声で。明らかに苛ついている。

『すまぬつい』

 ラハノルスは謝った。ハルトはちょっとだけ同情した。

「そうね、帰りましょう」エリはうって変わってやさしい笑みを浮かべると、首を巡らせハルトの頭に頬を寄せる。「まずは高所を探しましょうか。そこから見渡せば色々わかるはず。行くわよ!」

 エリが颯爽とラハノルスを駆る。おそらく馬は異次元とも呼べるスピードで加速し、草原を駆け抜け叢林を越える。ラハノルスの蹄は地面に触れておらず、地表のやや上を滑るように進んでゆく。戸建て家屋など楽々と跳び越えてしまう。その驚異にハルトは声も出ない。まるで魔法だ。

「どうなってるのよこれ?」

 エリが驚きの声を上げると、二人の頭にラハノルスの声が響いた。

『地上に拙者の行く手を阻めるものはござらん。ま、白鳥アリアノウラには負けるがな』

 得意げに言いながら、おそらく馬は走ってゆく。草木の繁茂する廃墟の間を吹き抜ける風のように。その行く手の青空で、鳥たちが舞い歌っていた。冷たい冬の夜を越え、迎えたあたたかな朝を祝うように。

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