Last part. 刻の欠片は降り積もり
トアは崩壊してゆくメルネヴェびとの都、亜邑を見ていた。シロの大きな背に乗って上空を旋回しながら。
遠く、人工島の東に残っていた最後の塔が、その半ばが巨大な六本指の手に握り潰される。塔は折れ、砕けて夜の海へと没した。その瞬間
「あら……?」
こちらの世界に伸びた神々の触手が、慌ただしく帳の向こうへと退き始めた。こちらを見ていた無数の眼が、一つ、また一つと閉じてゆく。暗黒の虚空に顕れていた齢永き神々も、いつの間にか姿を消していた。
トアは風を感じた。帳の向こうから、こちらの世界に風が吹いてくる。肌に冷たくも刺すほどではない、爽やかな風が。そして風の向こうに、帳の先に見た。夜の暗闇よりもなお黒い影を。影は巨大な人のような輪郭を持ち、左右の手に一振りずつ、合わせて二本の巨大な剣を持って見えた。
影は追っていた。神々を。影の剣が振るわれる。逃げ切れずその刃にかかった神は、苦しみ悶えて消えていった。
風が過ぎると神々はすべて帳の向こうに追いやられ、帳の先が海上の下端から上空に向かって塗り変わっていった。元の行き先たる清浄な世界へと。
狂える神々は消え去った。目覚め際の悪夢のように、見た者に恐怖と畏れの残滓だけを置いて。
トアがしばらく眺めていると、破壊されずに残った人工島の埠頭から、大小合わせて7隻の船が出航した。船は帳の向こう、汚れなき新世界を目指して夜の海を東へと進んでゆく。荒れ狂う神々の残した波濤を越えて。
「生き汚さは人間以上ね。さんざん見下してくれてたけど」感心半分呆れ半分に言うと、トアは最後の塔が没した海面を見降ろして「でも、ありがとうね。エリちゃん」
礼を述べ、西へと飛び去った。
沈んでゆくのか流れているのか。わからないまま、エリは腕のなかにあるものを抱き締めた。ほかにはもう何も要らない。
帳を戻したのは、単なるきまぐれ。というわけでも、ましてやメルネヴェの民のためでもなかった。あのままではこの世界が終わってしまう。それが少し嫌になっただけ。エリは思った。どんなに酷く凄惨な場所でも、この世界はあなたを生み育んだせかい。あなたとわたしが出会って生きた世界。終わりに向かっている世界だけど、まだ消えてほしくなかった。戻す前にナニカがやってきた気もするけど、それについてはよくわからない。
〈帳の司書〉の使命もメルネヴェびとの未来も。もう知らない。好きにして。あとは勝手にやっていって。わたしはこのままでいい。このままゆく。ハルトが向こうで待っている。きっとその場所には、もうわたしたちを隔てるものはない。わたしはハルトといるの。そうハルトと……わたし? ハルト? そこでエリは気がついた。おかしい、言語思考が明瞭なのは。帳の技に〈刻〉を、記憶を持っていかれたはずなのに、わたしはわたしがわかる。わたしの名はエリィルラル。エリィルラル・エィールウク・アムルイラ。そしてただのエリ。
自身の体をイメージできる。この星の公転周期で、43年生きたメルネヴェびとの女。運動不足でゆるんでいた体は、ハルトとの生活で締まっていった。ハルト、そう、ハルトの名前もわかる。大切な、大切なひとの名。その響きは暖かなはじまりの季節を思わせる。
これはどういうことなのか。そもそもここは何処なのか。帳の技を使う際に通る、現実と入神意識帯の狭間、のようには思うものの確証はない。帳の技も、これまで2度しか使ったことがないのに何がわかるのよ。
夜明けのような黄昏のような、薄明かりと薄暗さの同居した奇妙な空間に、エリは元のままの身体イメージでハルトを抱える自分を見出した。
エリが戸惑っていると、目の前に白く細い足先が顕れた。そして足先から足へと、姿が順に露わになってゆく。巡って変わる幾何学模様の裾が翻る。現れたのは、あの奇妙な少女だった。
長く黒い髪の間から、細面の顔が現れた。少女の顔を見てエリは思う。細おもての、マヴドの娘の顔立ちね。けれどその目はメルネヴェびとのもの。髪から覗く耳の先はほんの少し尖っている。その眼差しは誰かに似て……そう、鏡の向こうに見るわたしに似ている。
「ここならちゃんと話ができる」少女はニホン語で言った。どうしてか、同じ意味のメルネヴェ語も重なって聞こえた。「あなたの刻は、もう少しで全部、元に戻る。船賃は船に乗る人たちが支払うべき。でないと公平ではないわ」
それでわたしの刻が、記憶が戻ってきているというの? そんな説明は、〈百万の帳の書〉を抱えたエリに納得できるものではない。〈帳の司書〉は他者の〈刻〉など奪えない。そもそもこの娘は何者? 死に際に見る幻覚? 〈百万の帳の書〉に記載のない精霊か上位存在だとでもいうの? 書に記載されていればわたしにはわかるはず。
「わたし、たち。そう、わたしはサエリ。サエリというもの。そう決めた」少女は考えつつ、エリの疑問に答えた。少なくとも答えようとしているように見えた。何が嬉しいのか、言葉にしながら彼女の顔には小さく笑みが浮かんでいく。「そのひとがわたしに名を付けた。わたし、たち? わたしはそれを受け入れた」
少女、サエリと名乗るものの視線が、エリの抱えたハルトに移る。
名を付けた? ハルトが? エリには意味が分からない。少なくとも共に過ごしていた間は、このような少女のことなど話題に上がったこともない。
「わたしたちは、ずっとあなたたちの中にいた」
語るサエリの背後を、女たちが通り過ぎてゆく。老いた女がいた。若い盛りの娘がいた。中年も老婆も、年端もゆかぬ少女もいた。身に付けている服は年代もデザインも元の文化世界もバラバラ。髪の色も長さも目の色も異なる。女たちすべてに共通しているのは、皆、メルネヴェびとの特徴を持っていること。
その女たち皆を、エリは知っている気がした。すると声が聞こえてきた。いや、読んでいるのか。女たちの言葉が次々と流れてくる。
あなた、あの子を、リムウィディルをよろしくね。
次の世界でも無事で、元気でいるんだよ。あたしのことは忘れていいから。
いやだ! お願い忘れないで!
嗚呼、もっと一緒にいたかった。ちゃんと好きって言えればよかった。
やっぱり嫌! わたしはまだ消えたくない!
達者で暮らすんだよ。スーリオネルド。もうおまえしか残ってないんだ。
多元宇宙に溶け込んで、私は貴方を見守ります。だから夜明けの風よ、どうか……
これは……メルネヴェ一万年の彷徨を支えて消えた女たちの、〈帳の司書〉たちの記憶? その言葉は短くとも、込められた願いが、祈りが、後悔が、哀しみが怒りがエリの胸を打つ。理解できてしまう。彼女たちの苦悩と未練を。恐らくは誰よりも。そして一緒に見えてくる。女たちが愛したひと、憎んだもの、寂しさに打ち震えた夜のこと、幸福の絶頂で描いた未来、絶望の底に突き落とされた孤独。それらはまるで、砕けたガラスの欠片に映りこんだ風景のように。
「記憶、とは少し違う」流れゆく言葉の数々が、サエリのなかへ吸い込まれてゆく。「これらは、本の余白に書かれた走り書き、ページの隅の書き残し。消えゆく女たちが最後に書き置いて行った、何より忘れがたきもの。決して消えない、最も深い〈刻〉の欠片。いくつものそれが集まって、いつしかわたしたちは"わたし"を自覚した」
〈帳の司書〉たちの〈刻〉の一部が、〈百万の帳の書〉に保存され蓄積された。ということ?
「そう」サエリは頷いた。「この本にはそういう働きがあったの。蓄積された〈刻〉は、ずっとただの無作為な羅列だった。でもある時、気づいたの。見て、感じて、知りたいと欲し、自らも記録をすることができることを。そうやって〈刻〉を重ねることができるのだと」
全体は個の集合以上の存在たりうる。蓄積された〈刻〉が、ある時点で閾値を超え、上位構造に転化し自我を獲得した? そんなことが起こりえるの? エリのなかで疑問が湧き上がる。興味深くもある。そしてこうも思った。神々が自らを希釈し自我を失うこの世界。その逆が起きても不思議ではないのかもしれない。
「そう、そんな感じ」サエリは微笑んだ。「そしてわたし、たち、わたしはあなたの目を通して、あなたが現実と呼ぶ階層を観察した。そして一緒に〈刻〉を重ねていって……ある時"こぼれてしまった"」
エリの前に、見覚えのある光景が浮かんだ。一目見てそれが何かを理解し、エリの思考は一瞬、固まった。ここに肉体があったら顔を紅潮させていたに違いない。その光景は、エリの視点で今まさに、ハルトをベッドに引き込もうとした場面だった。
なんでこんなものが……エリは戸惑った。これが大人が相手であれば、逆に恥じることもなく堂々としたことだろう。しかし今、目の前にいる少女には、少なくとも少女に見える存在には、どうしてか格別の気恥ずかしさがあった。
「この時、あなたは初めて自分から誰かを知ろうと思ったの」サエリは愉しそうに断言する。「そしてつながろうとした。最初は体を使って。次には心で」
場面が変わる。雨の日、魔術士のリーダーに率いられた略奪者集団を制圧した夜へと。エリは思い出す。あの夜はどうかしていた。ハルトの中に見え隠れしていた誰か。今はもういない誰かに、わたしはたぶん、嫉妬したのだと思う。
「そうしたら、わたし、たち、わたしは」サエリはまた視線を、エリの腕のなかのハルトに向ける。「そのひとのなかに"こぼれてしまった"。『いいよ、おいで』って、そのひとが言ってくれたから。そこで、わたしは、あやふやだった"わたし"のカタチを見つけたの。そのひとが何より求めるひと。何より求めたひと。わたしたちはそれを、わたしのカタチにした」
その理屈ならこの少女、サエリのカタチの半分はわたしで、もう半分は彼の中の、もういない誰かなのだろう。少し癪に障る気もするけれど、出会う前の過去のことでは致し方ない。癪に障るけど。
ではその、カタチを得たサエリという存在は、何の目的でわたしに〈刻〉を戻してくれているの? エリが心のなかで思うと
「それが、すべての〈帳の司書〉の願いだったから」サエリは答えた。幾重にも重なって聞こえる声で。「帳の御業に〈刻〉を捧げて消える。そんな女は自分で最後に。わたし、たちは皆そう願っていた。そして理由はもうひとつ……」
そこでサエリは言い淀んだ。少し俯き加減に首を曲げ、上目遣いでエリを見ると
「……そっちは、ないしょ」
とだけ言って黙り込んだ。不意の子どもらしさに、エリは不覚にも可愛いと思ってしまった。
しばらく俯いて黙りこくった後、またサエリは口を開いた。
「わたしは〈百万の帳の書〉の一部で、〈百万の帳の書〉はわたしの一部。カタチと名を得たわたしは、死にかけた神の〈刻〉を毟り盗ってきた。今は帳の技を自由に使える。あなたの〈刻〉はあなただけのもの。もう、あなたに帳の技を強いるものはない」
サエリが右手を伸ばすと、エリの首を廻る黒い紋様が肌から浮き上がった。紋様はこの空間を一回りして、サエリの右手に吸い込まれていく。同時にエリは自分の頭が軽くなるのを感じた。ずっと、幼少期に〈百万の帳の書〉を受け継いでからずっとあった圧迫感が消えていく。
帳の技を自在に使う、自我を持つ存在。彼女は知性を持った本の域を超えている。精霊、むしろ神に近いものか。
ならば、とエリは思う。ならばどうして、もう少し早く来てくれなかったの?
「ごめんなさい」サエリはしょんぼりと俯いた。「さっきまでのわたしは、現実に干渉することがほぼできなかった。帳の技も、少ししか使えなかった。あなたが帳を上げた時、〈刻〉の流れを変えようとはしたの。でもあなたにかかった呪紋の力が強くて敵わなかった。呪紋に命令してたヤツが死んで、なんとか変えられると思ったら、あなたが……」
今度はエリが俯く番だった。ぼんやりとだけど覚えていた。わたしは帳の行き先を変え、この世界もろとも亜邑のメルネヴェびとをまとめて滅ぼそうとした。
「怖いものがたくさんやって来て、あなたとそのひとが死んじゃう! って叫んだら」サエリは顔を上げた。「大きな剣を二本持った影みたいに黒いひと、ひとかな? がやって来て、やさしい声で『ここに神さまはいるかい?』って訊いてきたの。わたしは『大きくて怖いのがいっぱい来てます』って答えたの。そうしたら、影のひとがみんな追い払っちゃった」
エリ自身、ほんの一瞬垣間見た。剣もて神々を追い立てる影を。あれが〈夜明けの風〉の猟獣〈影の獣〉? 確信はないものの、昔読んだ記録の記述にそっくりに見えた。
どうやら様々な偶然と何かの思惑が重なって、帳に費やした〈刻〉が戻っているらしい。こうして思考できているのが何よりの証拠だ。
でも、とエリは思う。今さら〈刻〉が戻ったとて、そこにハルトはいない。だからサエリに頼んだ。どうか、わたしをこのまま逝かせて。逝った先でわたしはハルトともう一度会うの。
「大丈夫」サエリは笑みを浮かべてやさしく言った。「大丈夫だから。ほら」
何かを促すように、サエリはエリの腕のなかに視線を向けた。その視線を辿って、エリはハルトの胸に顔を、耳を寄せる。
……とん、ことん、ことん、と小さくも力強い鼓動が聞こえた。
生きている。ハルトが、生きている。イメージの体しかないのに、エリは胸があたたかさで満ち溢れ、目からこぼれ出すのがわかった。生きている。ああ、生きてる!
その鼓動をもっと聞きたくて、夢中で彼の胸に顔をすりつける。あたたかい。早く目を覚ましたあなたに逢いたい。でももっと休んでいてほしい。あんなに焼け焦げ血を流し、お腹に大穴まで空けていたのだから。
エリがそんな幸せな矛盾に酔いしれていると、目の端に、サエリの姿が少しずつ遠ざかっていくのが見えた。直観的にわかった。彼女は何処かへ行こうとしている。
「ええ」サエリはエリに向ける笑みの中に寂しさと、決意を滲ませる。「いろいろわかったことがある。今、世界が……いいえ、この世界だけじゃない。他の世界も含めた多元宇宙は混乱してる。大きくて怖いもの、多元連続存在、神々の暴走で。その原因のひとつが、たぶん、あの大きな二本の剣を持つ影のひと。わたし、は知りたくなったの。この混乱が何なのか。だからあの影のひとが来た道を逆に辿ってみる。次元を越えて、行けるところまで行って見てくる。足跡がもう消えそうだから急がなきゃ」
それはとんでもない冒険の旅になりそうね。エリは語りかけた。定命者にはとうてい無理。でもあなたならきっと行ける。真相に辿り着いたら聞かせてくれる?
「必ず」サエリの姿は遠ざかり、徐々に薄くなってゆく。そして視界から消えそうになる一瞬、サエリは言った。ちょっと躊躇って、はにかみながら。「お父さんに苦労をかけるのもほどほどにね、お母さん」
夢から覚める間際の地平で、幾何学模様の服の裾が翻る。旅立つ彼女は言っていた。照れくさそうな笑みを浮かべて。
またね、お父さん。必ず帰るから。
「うわっ!」
バッサバッサと羽ばたく音が耳元で聞こえ、ハルトは思わず声を上げた。視界を、羽ばたく白い海鳥たちが横切ってゆく。雲一つない青空から注ぐ陽射しが眩しい。穏やかな波の音が、耳にやさしく響いてくる。海? そう思って頭を起こすと、波の寄せる砂浜が、そしてそこに居座る大きな生きものが見えた。
何あれ? 見慣れないその生きものは、強いて言うなら亀に似ていた。乗用車ほどのサイズがある。ごつごつとした甲羅を持ち、見えている四肢は硬そうな黒い鱗に覆われている。こちらをじっと見つめる大きな眼は綺麗な橙色で、瞳孔は黒く縦長。顎には見るからに鋭い牙が並んでいた。頭には幾本もの角、棘が生えている。
変異生物かと思うも、どうもそうは見えない。大きな亀に似た生きものの眼には、古い古い巨木のような、膨大な年輪を感じた。その視線はこちらを獲物とは見ていないようで、静かで穏やかだ。ハルトは中学生の頃に慕っていた老理科教師のことを連想した。
見ていると、亀に似た生きものは波打ち際をずるずると後退し、巨体を巡らせ海へと戻っていった。
ハルトは頭を戻し、空を見た。どうも砂浜に横たわっているらしい。馴染んだ重みを体に載せて。ここは死後の世界だろうか。その割には感覚がリアルだ。潮くさいし。そこで視界の隅の、人体拡張装置が出すメッセージに気づいた。減りゆくゲージがあった箇所が、そっくり入れ替わっている。
REPAIR NANOBOTS PACKAGE REMAINING AMOUNT 0%
(修復ナノマシンパッケージ 残量0%)
ご丁寧に0%の文字が点滅している。ではあのゲージはナノマシンの残量表示だったのか。
修復ナノマシンは、1パッケージ1回使いきりの貴重な人体拡張装置だ。残存電力を消費して人体の損傷を治してくれる。重大な損傷を負った臓器まで。あのショッピングモールの研究所で見つけたのを覚えている。確かアツロウさんたちの取り分だったはず。体に人体拡張装置を埋め込むにあたって、これを入れてくれと頼んだ覚えはなかったのに。
アツロウさんがこっそり入れてくれたのだろう。無茶をやらかすことを見越して。
せめてひと言ほしかった。とハルトは思うも、この存在を知っていたら、これを前提に行動していたと確信もできた。だからこれが最適解なのだろう、うん。これは現実で、僕は生き延びた。それにしても
「お父さん、か」
どうやら知らぬ間に父親? になっていたらしい。エリさんに抱かれて眠る夢の中、そんなことを聞いた。父親になるような行為は、行為自体はたくさんした覚えがあるものの、実感はない。人間とエルフ、マヴドとメルネヴェの間に普通、子はできない。でも女神か何かのような不思議な存在は生まれたらしい。
「僕らの娘、なんだってさ」
ハルトは体にかかる重みに、手を回した。あたたかい。でもまだ少し服が濡れているので、〈暖気の衣〉の呪文で寒さを防ぐ。生きてる。確かめるように手に力をこめる。体つきはとっくに、少女の姿から元に戻っていた。
生きている。生きていてくれた。ハルトはあふれる喜びに強く抱きしめたくなるも、穏やかな眠りを邪魔したくなくてがまんした。首に回った彼女の腕はあたたかく、耳もとに受ける呼気も規則正しい。それでもハルトは不安だった。サエリは元に戻ると言っていた。そんな気がする。けれどエリさんがどうなっているのかは、実際に言葉を交わしてみるまでわからない。
「ん……」
もぞもぞと、エリがハルトの上で身じろぎする。顔をより深く彼の首元に埋めて。彼女の長い手足が、仰向けに横たわるハルトの身体に絡みついた。
そしてまた静かになると、規則正しい呼吸に戻る。そのタイミングが実に意図的だ。
「エリさんもしかして、起きてます?」
ハルトは恐る恐る問いかけた。もし言葉を話せなくなってたらどうしよう。そんな不安を抱えながら。その時はその時でお世話するけど。エリさん、僕より長生きするだろうしなあ。
するとエリは、ハルトの首に腕をきつく巻きつけた。
「いいじゃない、まだ」彼女の言葉はいつもの調子で。「もう少しこうしていましょう」
「そう、ですね」
ハルトは言葉が、記憶が失われていないことに安堵する。よかった。一時はどうなることかと思った。
言いたいことも聞きたいことも、ちょっと考えるだけで幾つもあった。けれどいざ、こうして再会を果たしてしまうと、後でいいかとなってしまう。僕らを隔てる帳はもうない。
抱き合って互いの鼓動と体温、呼吸を感じながら横たわっていると、ハルトは右腹にくすぐったさを感じた。何だろうと思って確かめると、破れたジャケットとシャツの下から、エリの手がすべりこんで撫でている。やさしく労わるように。され続けていると、なんだか妙な気持ちになってくる。すると
「痛かった、わよね」
躊躇いがちにエリは言った。掠れた声で、ハルトの耳に囁くように。
ああ、そのことか。ハルトは思い当たった。ここまで全力疾走するような毎日だったので、今の今まで思い出せなかった。確かに刺された時はショックだった。でも今は事情があったのだろうと思う。例えばエルフたちの目を騙すため、みたいな。エリさんの説明を聞きたい気持ちもなくはなかった。
けれど今は、ずっと言おうと思っていたことを言おうと思う。
「痛かったです。すごく」言うと、エリの体が少しだけ強張った。ハルトは抱き締める腕に力を込める。「絶対に許しません。だからエリさんの〈刻〉の一部をもらいます。僕が生きてる間は、ずっとそばにいてもらいます」
ダメですか? とハルトは訊いてしまいそうになる気持ちを抑えて、応えを待つ。
「ダメ」
即答でバッサリ斬り捨てられた。まあしょうがないかあ、寿命違うだろうし。とハルトが泣きそうになっていると
ハルトはエリの両手で頭をがっちり掴まれ固定され、エリに猛然と唇を奪われた。え、ダメなんじゃないの? 考える間ももらえず貪られる。四ヶ月ぶりの快感に陶然となりながら、ハルトは貪り返し、返され、絡め合い。ゆっくりと離れた。
「一部なんかじゃダメ」エリは額と額が触れ合う距離で、ハルトの目を真正面に見つめる。「全部よ、わたしの〈刻〉は全部もっていきなさい」
そんな無茶な。と思いながらハルトは体を起こし、嬉しさを返すべくエリの唇を奪い返した。
そして二人はどちらからともなく互いの手を探し当て、重ねて指を絡める。強く。
この世の始まりからその形であったかのように。
SPECIAL THANKS!!
豚蛇さん、下読み、校正、感想いつもありがとうございます!
またここまで読んでくださった皆様へ、心からの感謝を。
このお話はここで幕となります。
この後、ささやかなポストクレジットシーンが2篇ほど控えております。
お時間に余裕がございましたら、席をお立ちになるのはいましばしお待ちください。




