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7-7. かなしき女王へ

 その声は、戦車ゴーレムで亜邑人工島東区に乗り込んだシルエレィドにも聞こえた。

 既にメルネヴェの守備兵は潰走し、残敵らしき影は一つもない。先ほど主機関確保の報も流れてきた。この戦は〈魔王軍〉の勝利で確定したと言っていい。シルエレィドは思う。生き残りのメルネヴェびとが船でも何でも使って、帳を越えて去ってくれるなら、それに越したことはない。それはハルト君の敗北を意味するが。もうこれ以上、血が流れるのは願い下げだ。

 声が止んだ。女の声、だとシルエレィドは思うも自信はなかった。ただ何かに似ていると思った。そう、哀切なあの声は、つがいを失くした狼の咆哮によく似ている。

「ふ……ぅ……」

 後ろからフィムの嗚咽が聞こえてくる。

「どうした?」

「これ、きっと〈帳の司書(フェイアラ)〉の声よ」フィムは涙声で断言した。「泣いてるの。だからもう、ハルトは……」

 星霊アストラル領域はかつての、王国期の魔法に最も近い。そのため星霊の魔術を学ぶ者は、超自然的感覚が強くなる傾向にある。あるいはその逆で、超自然的感覚が強い者が星霊領域を学ぶ。だから娘は何かを感じ取ったのだろう。

 シルエレィドは胸の内で嘆いた。結局、私の予想どおりになってしまったか。君ならあるいは、と思ったのだが。

 戦車ゴーレムの視覚を東に向ける。この地点からでも上がっていく帳が見えた。その向こうの光景に、朝焼けの海原に羨望を覚えたのも確かだった。生き残りのメルネヴェびとたちは、あの帳を越えてゆくのだろう。

 そう思って見て、シルエレィドは愕然となった。

「何だ、あれは……?」

 帳の向こう、澄み渡る新世界が混沌に塗りつぶされてゆく。代わりに顕れたのは百億の手に千億の眼。はるかな上位存在が集う気配に、肌が泡立ち嫌な汗が止まらなくなる。

「父さま、あれは……うっ」

 言いかけて娘は口を押える。

「見るなフィム! 目を閉じているんだ。できれば耳も塞げ。観測霊も下げろ」

 シルエレィドは鋭く言った。超自然的感覚が強い者があんなものを直視すれば、身体に変調が出て当たり前だ。そして

「先生! シルエ先生!」

 戦車ゴーレムの足元で、〈魔王軍〉の兵士サムライカジマが手を振っていた。

「どうした?」

 シルエレィドが訪ねると、セイウチ牙の兵士は口に両手を添えて大声で返した。

「目耳がいい連中が軒並みおかしくなっちまった! 泣いたり蹲ったりで使いもんにならねぇ! って、うわぁっ!」

 カジマが慌てて走り出す。その後を追うように巨大な触手が降り下り、すぐ近くの邸宅と塔を一撃で叩き潰した。

「もうここまで来たか」

 この次元は狂える神々に目をつけられた。帳の接続先が書き換わった。そんなことができるのは……ああ、そうだな。シルエレィドは納得した。彼のような若者を失えば、そうもなろう。この世界で生きると決めた私たちには迷惑極まりないが。

「カジマ! 動けぬ者たちは無理にでもクルマに運び込め。撤退だ!」

「ええっ? って、それしかねぇよな」カジマの視線の先で、道路を不定形の粘体の波がじわじわと押し寄せてくる。「こんなのどうにもならん。でも何処へ?」

「西だ」言ってシルエレィドは乗り込む戦車ゴーレムを西、第1ゲートへ向けた。「とにかく帳から少しでも距離を取るしかない。のんびりしている余裕はないぞ」

「了解だぜ先生!」

 カジマが路上に控えた部隊の元へ駆け戻ってゆく。

 とはいえ、とシルエレィドは思う。このまま神々の浸蝕が進めば、僅かな延命にしかならないかもしれないが。他にできることはない。帳を、次元の門どうこうするなど〈帳の司書〉以外の誰にできよう。

「運を天に任せる、だったか」

 マヴドの言い回しを思い出してみながら、シルエレィドはふと夜空を見上げた。

 すると奇妙なものが、遠く小さく空を舞うものが見えた。それは炎上する亜邑市街の火明かりに照らされて、大きな白い翼をゆっくりと羽ばたかせている。

 帳から現れた異界の生きものか? しかし今はそんなものに構っている時間はない。カジマたちの様子も気になる。シルエレィドは戦車ゴーレムの操縦に集中した。




 アルクトゥスは目を覚ますと、己の体を確かめた。小さい手足に、低い視界。試しに手足の指を動かす。問題ない。無事に予備の肉体に移れたな。育成途中の肉体だが、贅沢を言える状況ではなかった。あの忌々しいマヴドのサルめ。

 栄養タンクにつながる臍の緒を引き千切り、手元のロックを外して培養槽を出た。〈生命の塔〉の外からは、絶え間なく轟音が響いてくる。何事だ? アルクトゥスは訝しんだ。それに状況はどうなっている? 帳の御業はどうなった?

 至急〈導きの塔〉に戻らねばならない。メルネヴェの民の種族としての存亡がかかっている。私は播神の禍を生き延びたあの日に決めたのだ。メルネヴェの民を二度と破滅の憂き目には遭わせぬと。培養液のしたたるままに、アルクトゥスは予備体育成室の扉を開けた。そして

「ブラヴィーラ!」従僕の生きものを呼ばわった。「服を持ってこい。若年用のを適当に見繕ってな」

 そしてしばらく待った。外の轟音は相変わらず続いている。しかし待てども待てども、体毛のない灰色の従僕は現れない。

「ええい、使えぬヤツめ!」

 しびれを切らしたアルクトゥスは、ビチャビチャと濡れた足音を立てて私室に向かう。その途中、書斎の前を通り過ぎようとすると

「あら?」

 書斎から、女の声がした。

「誰だ?」書斎の白い扉は開け放たれていた。アルクトゥスは扉を抜けて標本の列を過ぎ、思索を巡らせてきた書棚の空間に至る。「入室は許可しておらぬが」

 愛用の書机の前に、女が一人立っていた。長く編んで垂らした髪は亜麻色。その両目は奇妙な帯で覆われている。

「あらまあすいぶんと可愛らしい御姿ね」女な端整な口の端を小さく上げて、言った。「メルネヴェの魔術師ともあろう御方が」

「入室は許可しておらぬと言っている」アルクトゥスは不遜な侵入者に眉根を寄せた。何処の誰かは知らぬが、思い知らせねば。「ブラヴィーラ。こやつを殺せ」

 あれは並みのメルネヴェびとの何倍もの膂力と速さを持つ。こんな女など一瞬で肉塊に変えられる。アルクトゥスはその瞬間を待った。

 しかし赤い眼の従僕は現れない。そしてアルクトゥスは妙な違和感に襲われた。ここは書斎だ。なのに書棚とそこに収められて並ぶ蔵書の背表紙が見えない。

「ああ、あの子?」女はたった今思い出したように、その両手を叩くと小首を傾げた。「ちっとも話が通じないから、うちの子が殺してしまったわ。あの子は悪くないのに。ごめんなさいね」

 女は言いつつも、まったく悪びれた様子がない。そこでアルクトゥスは違和感の正体を見た。視界が低く狭くなったせいですぐに気づけなかった。

 女の背後で書棚を覆って、巨大な生きものが立っていた。魔法による合成生物なのか。その全身は白い羽毛で覆われ、クマに似た巨体にフクロウの頭が載っている。

 生きものはアルクトゥスを覗き込むように体を前に傾げた。大きなフクロウの顔が、アルクトゥスを捉えてクルクルと回る。その足元には、頭があらぬ方向にねじれたブラヴィーラが転がっていた。

 アルクトゥスは思い出した。統京北部に送り出した捜索隊が、ほぼ全滅の憂き目にあったことを。その中でたった一人、生き延びて報告した兵が言っていた。「白い魔法生物を従えた魔女と遭遇した」と。そしてこうも言っていた。「仲間は皆、灰色の彫像になってしまった」。

「マヴドの魔女か」アルクトゥスは言いながら、石化呪文に注意を払った。あれはどんな系統であろうと、それなりの詠唱が要るはず。「何用だ?」

「そうねえ」女はのんびりと、緊張感の欠片もない声で言った。「最初は見逃すつもりだったのよ。あなたたちみたいな来訪者、別に初めてでもないし。世界はそうして攪拌されて、再構築されてゆくものだから……でもね」

 女の声のトーンが変わる。冷たく、静かに。そして

「こうなってしまうともう、手の施しようがないの。あなたはあの子たちを追い詰め過ぎた」女が両目を覆う帯に指をかけ、下ろしてゆく。その瞳が顕わになる。「まあ、理由は他にもいろいろ。こんなことをまた別次元で繰り返されても困るし。目をかけてた子を虐められたってのもあるわ」

 しかしアルクトゥスはその言葉を聞いていなかった。聞ける状態になかった。女の瞳の中に、想像を絶する脅威と恐怖、定命者が決して見てはならぬモノを見て悲鳴を上げた。それは言語を超えて醜く悍ましく、8000年余の間続いたアルクトゥスの意識を容易く砕き散らした。それは永劫の彼方から無数の触腕をゆらし、皺と鱗に覆われつつも暗澹として定まった形はなく……




 塔の最上階を目指し、アルシェンナは階段を駆け上がった。幾度も訪れる揺れに足を取られながら。激しい揺れに両手を着くと、そのまま四つん這いで階段を這い上がる。

 そして息を切らして辿り着く。〈生命の塔〉の最上階、アルクトゥスの棲み処の大扉は既に開いていた。階段を上がった勢いのままに、アルシェンナは中へと駆け込んだ。ここにいるはず。シルエレィドを味方に引き入れられたのは僥倖だった。お蔭で所在がつかめた。

 廊下を走り、片っ端から扉を開け放って中を見る。ここではない。ここでもない。どこ? どこにいるの?

 そうして最奥の部屋に踏み込んだ。そこはアルクトゥスの書斎にして、標本の閲覧室のはず。煮えたぎる憤怒に、アルシェンナはこの場所のすべて破壊したい衝動にかられるも、それ以上の渇望が破壊の衝動を抑えた。まだ、まだよ。ここにいるはずなの。だから……

 アルシェンナは並ぶ保管槽の標本を片端から見ていった。これじゃない。これでもない。そしてそこでやっと気づいた。

 見知らぬ女が一人、保管槽の前に立っている。腕にタオルにくるんだ何かを抱えて。その足元には割れた保管槽の欠片と保存溶液が散っていた。

「誰?」

 アルシェンナが問いかけると、女は振り向いた。その両目は奇妙な帯に覆われている。アルクトゥスの手の者? アルシェンナは訝しむも、不思議と敵意は感じない。むしろ好意めいたものさえ感じた。

「ごめんなさいね」女はアルシェンナの前に歩んでくると、唐突に謝罪した。「あまり時間がなかったものだから。ちゃんとした設備で、もっと丁寧にしてあげたかったんだけど……」

 そしてタオルにくるんだものを、アルシェンナへと差し出した。タオルのなかに呼びかけながら。

「よくがんばったわね。さあ、お母さんよ」

 アルシェンナは魔力の鎧を除装すると、差し出されたそれを震える手で受け取った。そしてタオルのなかを、顔が触れるまで近づけて見る。そこにあるのは、片時も忘れなかった我が子の顔。そして育てたあの子の面影。小さな小さなその体には、無数の縫合の跡がある。それでアルシェンナは理解した。集めて縫い合わせてくれたのね。この人が。

「あ、あぁ……」

 礼を言いたくとも言葉が出ない。膝の力が抜けて床にへたり込む。アルシェンナはただただ我が子の亡骸を抱き締めた。冷えた我が子の体を温めようとするかのように、涙が溢れて我が子の小さな体を濡らす。414年の間、言えなかったことばがあふれ出す。恐かったわよね。痛かったわよね。ごめんなさい。ごめんなさい。私はあなたを、あなたたちを護れなかった。ゆるしてとは言わない。すぐにあなたたちのところへ行きたい。でもごめんなさい。私にはまだ少しだけ、この世界でやることがあるの。だからもう少しだけ待っていて、カァヤ、クロウ……




 再会を果たした母子からそっと退き、トアは書棚の空間まで戻ると窓から外を見た。

 東の帳の向こうから、狂える神々がこちらに手を伸ばしている。この次元の覇権をめぐって、互いに争い食み合いながら。

 じきにここは、この世界は、神々とその眷属が殺し合う混沌の戦場になる。その災禍を前に、ただの定命者モータルたる人間とメルネヴェびとに何ができよう。トアは嘆いた。この20万年の間、こうならないように穴を塞いで回っていたのに。

「思ってもみなかったわね。年の差カップル引き裂いたら世界が終わるなんて」

 ひとりごちると、トアは深々と溜息をついた。

 その傍らで、シロはホーと鳴きつつ、くすんだ灰色の像を嘴でつついた。つつかれるままに、幼い少年の姿を象った裸像が揺れる。その像の端整な顔貌は、恐怖と驚愕に目を剥き、口を絶叫の形に開けていた。








 AUXILIARY HEART-LUNG MACHINE IN OPERATION

                       ■■■


 ハミングが聞こえてきた。その声は少し喉枯れしていて、途切れがちではあった。けれどハルトにはとても心地よく感じられた。このままずっと聞いていたい。その声は、ずっと聞きたかったひとの声だったから。

 ぼんやり焦点の合わない視界の隅に、人体拡張装置サイバーモジュールの出すメッセージが出ていた。

 AUXILIARY HEART-LUNG MACHINE IN OPERATION(補助心肺稼働中)。

 その下には、少しずつ減っていく、これまで見たことのないゲージがあった。

 そこでハルトはようやく理解した。僕はまだ生きている。発電機関に標準搭載されている補助心肺によって。事故等で心肺に大きな損傷を負った時、自動的に補助心肺に切り替わり、脳と神経系、生殖器等の代替困難な器官を維持する。そして補助心肺が稼働している間に、医療的な処置を受けられる場所まで移動する。本来はそういう運用になっているのだと、アツロウさんは言っていた。

 しかし今、医療的な処置を受けられる当てはない。この減りゆくゲージは、補助心肺の稼働可能時間か残エネルギー量を示しているのだろう。そう考えると、ゲージの減り具合から見て、残り時間は2分くらいか。

 僕はどうなったのだろう。ハルトは直前の記憶を掘り起こした。確か若く小さくなったエリさんに向かって歩いてて、言いたいことを言葉にしようとした瞬間、意識が途切れた。

 今はハミングを聞いている。あたたかくやわらかなものに包まれて。鼻腔を、慣れ親しんだ匂いがくすぐる。甘やかながら、心が躍るこの匂いは

「エリ、さん?」

 ハルトがそう言葉にできた途端、ハミングが止み、ぎゅっと頬に頬が押しつけられた。あたたかい雫が流れて、ハルトの乾いて割れた唇を湿した。舌に触れると少ししょっぱい。

「泣いてるん、ですか?」

 訊いても返事はない。その代わりに、うーなーと唸りながらぐりぐりと強く頬ずりしてくる。少し痛いくらいに。そこでハルトは思い知る。やはり間に合いはしなかったのだ。言語や発話にまつわる記憶が、帳の技に費やされてしまった。

 それでもかろうじて、僕のことは憶えててくれたみたいだ。ハルトは嬉しさと情けなさで泣きたくなった。

 それにしても、今はどうなっているのか。ハルトがそう思っていると、ぼんやりとしていた視界が、徐々に輪郭を固めていく。耳が外界を向いた。

 夜の闇を無数の眼が覆い、この世界を見下ろしているのがわかる。時おり稲光いなびかりに似た閃きが視界を過り、その瞬間は周囲の様子が見て取れた。巨大な無数の触手が荒れ狂い、同じく巨大な六本指の右手と争っている。ハルトの主観的に、ついさっきまでこの塔とともに並んでいたはずの他の塔は、一切見当たらない。ハルト自身が歪次元を扱う時に似た軋みが、そこら中から聞こえて絶えない。ひとではない何かが叫び、咆える。暗黒の空には、無数の乳房をぶら下げた七つの眼を持つ巨大な女がゆっくりと浮遊していた。その近くの虚空を、老人のような姿を持つモノが歩いている。捻じれた樹木のような杖をついて。老人の髪は渦巻く雷雲で、目は輝く結晶の多面体だった。

 かつて遭遇した、次元の穴から顕れたもの。あれと同等かそれ以上の存在たちが、帳の向こうから手を、触手を、またそれに近いものをこちらの世界に伸ばしていた。

 どうしてこんなことになってるのか。ハルトにはわからない。わかるのは、とんでもないことが起きているということ。そして、ここから自分たちが助かる見込みはもうないこと。動けるならエリさんを抱えて逃げたいのに、首から下にはほぼ感覚がない。意識しても手足が動かない。そんな状態で二人きり、記憶を奪われたエリさんといる。台風の目のように、どうしてか無事なままな、この塔の頂に。

 ハルトはゲージに目を向けた。残り時間はあと僅か。どしん、と塔の頂が揺れる。この場は無事でも塔それ自体はそうではないようだ。

 せめてエリさんだけでもと思うも、もうどうにもならない。絶望の淵に落とされながら、ハルトは思い出す。僕は何のためのここに来たのか。そう、それくらいは

「泣かない、で」エリさんに、言葉を伝えるために。「僕がちょっとだけ、先に、行ってますから」

 いっそう強く抱きしめられる。嬉しいですけど、ちょっと苦しいですエリさん。思いながら言葉を紡ぐ。

「愛してます、エリさん」ああ、やっと言えた。「僕がそう言えるのは、この宇宙であなただけ、で……」

 音が、色が遠くなる。エリに触れている感覚しかない。もっと話したいのに舌がまともに動かない。視界が、意識が白く掠れていく。その中で、ハルトは確かに聞いた。それは言葉の体をなしておらず、喃語に似た唸り声のようでもあったけれど。


 わたしもあいしてる


 ああ、うれしいな

 轟音が響き、何かが砕ける音と共に視界が回る。ハルトはエリと幸福に満たされながら、暗黒の海に落ちていった。

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