7-4. 悪魔
アルクトゥスの後に続いて、エリィルラルは螺旋階段の最後の一段を踏んだ。
遮るもののない塔の頂を、海からの寒風が吹きすさぶ。しかし風は燭柱の間を抜けた途端に適温と化し、穏やかなそよ風となって頬を撫ぜた。ここ〈司書の演台〉は、〈導きの司書〉が滞りなく御業を行えるよう、今から5000年も前に造られた。以後この〈司書の演台〉は次元を越える度に移設され、今ここに至る。
ここで幾人もの〈帳の司書〉の女たちが帳を上げ、下ろしてメルネヴェの民を新たな次元へと導いた。エリィルラルは生まれて初めてここを訪れたのに、そんな気がしなかった。頭に〈百万の帳の書〉を書き込まれた際に、一緒に前任者の記憶が移りでもしたのか。まだ生きている女の頭から頭へと書を移すのだ。そんなこともありうるかもしれない。
でもわたしの頭のなかの書を受け継ぐ者はいない。それはエリィルラルを少しだけ慰めた。この次元を去った後、アルクトゥスたちは新たな候補者を見つけて同じことを繰り返す。けれどこの書は、死の間際にしか移せず複製もできない。だから少しの間は、この重荷を負ってわたしと同じ思いをする者が減る。
帳の技を使うこと自体に恐怖はなかった。意識を書の中の使いたい記述に向けるだけで、心は勝手に入神状態に移り、体はひとりでに必要な詠唱と動作を行う。あの時、ハルトと次元の穴を塞いだ時もそうだった。
怖いのは、彼の記憶が消えること。ともに喜びともに戦い、ともに笑った日々がなくなること。自分で自分がわからなくなっても、それだけは失くしたくなかった。それだけは抱えて逝きたかった。
「よい夜です。〈導きの司書〉よ」アルクトゥスは上背のある体を巡らせ、エリィルラルを見下ろした。「帳が上がり、下りたとき、皆が貴女を称えるでしょう。御業を行った後の貴女を、平安の園でお世話いたします」
よく言う。エリィルラルは眉を顰めた。〈刻〉を失い抜け殻となったわたしは、花々で飾られた園で最期の時を過ごすことになる。新たな世界に至ったメルネヴェの民の感謝と賞賛を受けながら。そんな儀式で、同族たちは女を一人犠牲にした罪悪感を拭うのだ。
でもこの怖れも苛立ちも、もうすぐ終わる。エリィルラルは僅かな波音を聞き、東に拡がる暗黒の海を見た。今から駆け出し飛び降りれば、この胸に深く刻まれた記憶を失わずに逝ける。それはひどく魅力的なアイデアに思えた。強張る体の力を抜いて、軽く膝をゆるめる。さあ! と思ったその時
海を臨む燭柱の陰に、少女がいるのが見えた。またあなたなの? エリィルラルは思う。彼女はいつも、微睡みと覚醒の狭間に顕れた。扉の陰に、テーブルの下に。視線を向けると消えてしまう。長い黒髪と幾何学模様の裾を目の端に残して。
そんな彼女が、燭柱から顔を出して見つめてきた。いつもは眉根を寄せた不機嫌そうな顔なのに、今に限って笑みを浮かべている。
少女の口が言葉を紡ぐ。声は聞こえない。けれどその口のカタチでわかった。それはニホン語で三音。
くるよ
その瞬間、風の音が突然、ごうごうという機械の唸りに変わった。そして
「エリさん!」
耳に響いたのは、何よりも聞きたかったひとの声。見上げた燭柱の向こう。夜空に機械の翼を広げた姿がある。その姿、魔力の鎧をエリィルラルは知っている。その形は武骨で素朴。機能を果たすことだけを追い求め、決して洗練されたものではない。けれどエリィルラルはその形が好きだった。彼が師もなくたった一人で、文字どおり必死の思いで努力し造り上げた形だったから。
ほかにはもう、何も見えない。聞こえない。せめて夢で逢いたいと、願って叶わなかったあなたがそこにいる。
エリィルラルは駆け出した。大理石の床に影も残さず飛ぶように。その先は底知れない夜の暗闇、暗黒の海。けれどあなたがそこにいるなら。終わる世界も楽園に変わる。
「ハルト!」
燭柱の間を抜け、塔頂の縁を踏み切って手を伸ばす。
こっちに向かってエリさんが駆けてくる。あなたに触れたい。抱きしめたい。ハルトは衝動のまま、エリに向かって降下した。こちらを見上げる顔がはっきり見える。歓喜に満ちたその顔に、僕も同じだと応えたい。手が伸びてくる。手を伸ばす。SAFUの残燃料は4.3%。ひと一人を抱えて着陸できる程度はある。
エリが塔の頂の縁を蹴って跳んだ。なんて無茶を! 胸の内でハルトは叫ぶ。エリさんは僕を無茶ばかりすると叱るけど、あなただって大概だ。
もう少し、あと少し。視界にエリの姿が大きくなる。ハルトの指が、エリの体に触れた。
しかし次の瞬間、エリの体が塔の頂へと引き戻された。長く太い、幾本もの青白い触手に絡め取られて。
エリの目が驚愕に見開かれる。ハルトはエリを追いかける。しかし思いがけない方角から触手が迫り、これを避けるために制動をかけた。何だこれは? 考える間もなく次から次へと触手が迫る。頭への一撃をギリギリで躱すも、左翼を折られた。
しまった!? と思う間もなくハルトの体は落下を始めた。
アルクトゥスの長衣の裾を割って伸びた触手は、エリィルラルを〈司書の演台〉に下ろした。彼女の胴を絡め取ったまま。
「離しなさい!」
「お戯れが過ぎますぞ。〈導きの司書〉エリィルラル」烈火のごとく憤るエリィルラルに向かって、アルクトゥスは慇懃に言った。「王の末裔ともあろう御方が、マヴドの子どもに入れあげるなど」
「私がこのまま、おまえたちの思いどおりになると思うな。邪術の僕よ」エリィルラルは射殺さんばかりの憤怒をもって、アルクトゥスを睨み据える。「帳は上げぬ。このまま亜邑を襲う戦火に呑まれ、もろともに滅ぶがいい」
エリィルラルの言葉には、彷徨の一万年を更に遡って種族を統治した者の威厳があった。そして彼女の言葉を証すように、火球と化した廃車が幾つも夜空を彩っていく。
趨勢を見守っていたリーヴェロンは一瞬、エリィルラルに気圧され半歩下がる。しかしアルクトゥスは不敵に口の端を吊り上げた。
「……斯様に振舞う〈帳の司書〉は、貴様が最初ではないわ」
アルクトゥスの喉から、引き攣れ呻くような音が発された。その瞬間、エリィルラルの喉を巡る黒い紋様が蠢く。途端にエリィルラルは仰け反って硬直し、立ったまま静止した。
「師よ、これは……」
リーヴェロンは驚愕の眼差しで、エリィルラルとアルクトゥスを見た。
「安全装置よ」言ってアルクトゥスは触手を解くと、エリィルラルに歩み寄る。「大転移の直前となって、怖気づく女はこれまで何人もいた。そんな女の意識を抑え込み、入神状態を強制する。御業の軌道に乗せるまで、こちらも意識を割かねばならなくなるが……」
エリィルラルの目は何処も見ず、何かが聞こえている素振りもない。エリィルラルは一切の表情を消して立ち尽くしていた。が
「っ!」
その繊手が鞭のようにしなり、アルクトゥスの左眼を貫いた。そしてむしり取った眼球を放ると、エリィルラルはまた立ち尽くす。
「師よ!」
「……よい」駆け寄るリーヴェロンを手で制し、アルクトゥスは笑った。左の眼窩から血を流しながら。「後で換える。しかし、王族らしくもっと淑やかな娘かと思っていたが、とんだ暴れ馬だな。まだ足掻いておるわ」
リーヴェロンはエリィルラルを見た。よく見れば確かに、かすかに、ほんのかすかにだが、エリィルラルの瞳は意志の光を宿してゆれ動いていた。まるで拘束を逃れようとでもするように。
「私はこれからコレに帳の御業を行わせる」アルクトゥスが視線を動かすと、エリィルラルはぎこちなく、ゆっくりと歩き出した。「リーヴェロン、亜邑の民に伝えよ。船出だ」
「承知しました」
リーヴェロンは一礼すると、螺旋階段に向かった。階下にいる通信術師を通じて、人工島機関部にいるカウフマルド師に伝えねばならない。文字通りの意味の、船出を。
落ちる。真っ逆さまに。魔力の鎧があったとしても、地面に激突すれば挽肉入りの魔力の鎧になるだけ。
ハルトは残りの燃料を燃やし尽くして、塔の壁へと自身を叩きつけた。その痛みに耐えながら、右腕のブレードを出して壁に突き立てる。刃は縦に。異次元生物の爪から造られたこの黒いブレードは、刃に溶解液を分泌することで何でも切り裂く。
ハルトは壁に貼り付いたまま落下するも、ブレードが制動をかけ、その速度は落ちた。しかしなかなか止まってくれない。切れ味が良すぎるのもの困りものだ。このままでは頂のエリさんからどんどん遠ざかってしまう。ハルトは刃を無理やり斜めに、そして水平へと捻じ曲げてゆく。その負荷に肘が、肩が悲鳴を上げる。
「くっ!」
やっとのことで落下が止まった。どれほど落ちたかと上を見上げる。塔の頂はマンションの4、5階分程度上だった。
エリさんはそこにいた。そして僕に向かって駆けてきた。その事実にハルトは確信する。大転移はエリさんの意志じゃない。ならば遠慮はいらない。もう一度。今度こそ。
ハルトは左手をベルトポーチに伸ばし、〈夢幻の鎚〉を引き出した。トアさんからもらった最後の一本。できれば敵わない相手に使いたかったけれど。出し惜しみしている余裕なんてない。頭上の壁に〈夢幻の鎚〉を打ちつける。
轟音ともに壁が崩れ、塔の内と外に瓦礫が落ちる。ハルトは首を竦めてやり過ごすと、できた縁に手をかけて塔の内部へ飛び込んだ。殺風景な部屋の壁に衣装棚が一つ、中央には小さなテーブル、そして椅子が一脚あるだけ。
この部屋は何だろうと思う間もなく、階下と階上から硬い幾つもの足音が聞こえてくる。塔の頂まで、戦いは避けられない。ハルトは無用になったSAFUを棄て、〈氷禍の胸甲〉を唱えた。ここからは歪次元発電機関《DDジェネレーター》を常時稼働させなきゃならない。
ポーチから魔力回復剤を取り出して飲みながら、扉を抜けて走り出す。注意深く周囲の様子を伺っている時間なんてない。とにかく上を目指すだけ。円を成す廊下を駆けていると、昇り階段に出くわし駆け上がる。案の定、階上からこの塔の守備兵と思しきエルフが二人、駆け下りてきた。
「侵入者だ!」「下賤なマヴドめ!」
一人が呪文を使う手ぶりを、もう一人がSMGを向けてくる。
ハルトは〈神経加速〉を唱えた。スローに流れるモノクロームの世界の中で、右腕の黒いブレードを振るう。SMGを構えたエルフ守備兵の腕を左右まとめて切断し、呪文を唱えようとした守備兵の喉を切り裂いた。〈神経加速〉解除。
世界の速度と色が戻る。血の海に伏す二人のエルフをそのままに、ハルトは階段を駆け上がる。次の昇り階段を探して走る。恐らくあと4階層程度を昇れば頂に着くはず。
昇り階段を見つけて駆け上がる。円の廊下をほぼ一周して、また昇る。空や途中階からの侵入を想定していなかったのか、ここまで守備兵と遭遇しない。そして更に階段を昇ると、廊下を遮り壁を成すように、三人の守備兵がいた。全員、洗練された魔力の鎧に身を包んでいる。先頭の守備兵が魔力の剣を構えた。
これは強そうだ。ハルトは〈神経加速〉を詠唱した。連続使用に鼻血が垂れる。まだ距離がある。スローの空間で余裕をもって、先頭の守備兵の頭に向け〈青の閃光〉を撃つ。続けて三度。彼らにはたぶん、一瞬にしか見えない。
熱や電撃に抵抗力のある魔力の鎧も、瞬きの間に続けて撃たれればその効果は薄くなる。
「ぐぁっ!」
守備兵は魔力の剣を落とすと魔力製の兜を放り、煙を上げる顔面を両手で覆って転がった。
ハルトはそのまま残り二人の守備兵も、青い閃光を撃って片づけた。全員が倒れ伏したのを確認して〈神経加速〉解除。足が少しフラつくところを、壁によりかかってしのぐ。比喩でなしに、発電機関のある胸が燃えるように熱い。短時間での連続使用に、冷却が間に合っていなかった。
でもゆっくり休んでいる暇なんかない。走っている間に冷めることを期待して駆け出そうとして
躓いて膝を着いた。左足が動かない。ハルトが思わぬ抵抗感に振り返ると、顔面を焼かれた守備兵の一人が足首を掴んでいた。無理に引き離そうとしても、釘でも打たれたかのように動かない。〈神経加速〉の副作用で、体に力が入り難いのがもどかしい。面倒なので右腕のブレードを振りかざすと、今度はもう一人が背中から抱きついて動きを封じてきた。
焦るハルトに、複数の足音が近づいてくる。そして現れた四人の守備兵は、メルネヴェの同胞に抱きつかれて身動きのとれないハルトを見つけ、その目に戸惑いを浮かべた。
ハルトに抱きついた守備兵が、同胞の足音を聞きつけて怒鳴る。
「侵入者だ! 私ごと殺せ!」
ハルトは驚いた。まだ生きているのに、僕の動きを封じて一緒に死ぬ気か!?
「気でも狂ったのですか?」
ハルトがメルネヴェ語で言うと
「妻と息子が船出を待っている。悪く思うな、マヴドの戦士よ」
今度は足を掴む守備兵が言った。白く濁った目でハルトを見上げ、爛れた顔面をニヤリと笑みに歪めながら。
新たに来た二人の守備兵が銃口を向け、二人が呪文の準備に入る。厄介どころではない。この状態のまま銃弾と攻撃呪文を集中されれば、間違いなく死ぬ。
こんなところで死ねるものか。僕はまだエリさんに伝えてない。ハルトは〈神経賦活〉を詠唱しつつ、胸部発電機関の発熱をそのままに、歪次元を押し出した。体内の蓄電池に収まりきらない電力が、青い火花となって周囲に溢れ出す。次元が捻じれて悲鳴を上げる。
「〈地獄の大公〉め」
エルフの守備兵の一人が呪いの言葉を吐き捨てた。そして赤い光が場に満ちた。




