7-1. 赤き落日の剣
琴手コンラは、一つの事を知つたために凡ての事を知りつくしている
もうこの上に彼の知るべき事はない、彼は我々よりも先の世界に踏み入つている
彼を砂の上に寝かして、顔を星に向け、その素肌の胸に赤い火の燃えさしを載せよ
胸が破れて死ぬやうに
フィオナ・マクラウド「かなしき女王」(松村みね子 訳)
その日の未明から、準備が始まった。
亜邑人工島の西岸と本土を結ぶ橋に向かって、魔王の城塞から兵員を乗せた改造車両が発車した。その後を武器弾薬、糧食と各種機材を積載したトラック、ダンプカー、そしてクレーン等の重機車両が続く。
橋の手前、エルフの兵が岩壁を築いた防御陣地を視野に入れつつ、魔王の兵たちはエルフ側の銃撃や呪文の射程外に展開した。その背後で、工兵たちが運びこんだ機材で攻城兵器を組み上げていく。鉄骨を撃ちだす強力な大型弩砲を32門。14機ある投石機は、石の代わりに廃車を飛ばす。
全てが組み立て終わる頃、日は西の廃墟群にかすかな赤みを残して消えた。
人工島と本土の間を流れる運河から、身を切るような夜の寒風が吹きつけてくる。ハルトは竜脊大橋に続く都道の中央に立つと、エルフの護る橋際の陣地を見た。暗視呪文で拓けた視界に、小さいいくつかの人影がこちらを覗っているのがわかる。
こちらの動きはとっくに気づかれているはず。なのに変化がない。決してゲートは破れないという絶対の自信があるのか。
来た。やっと。ハルトはここに至るまでを振り返った。あの地下でエリさんの言葉を最後まで聞いてから、おおよそ4ヶ月。長いようでいて、短かくも思える。酷いことをやってきた自覚がある。何の大義名分もなく。混沌の世界に平和を求めるわけでなく、正義や秩序を打ち立てたいわけでもないのに。
エリさんに逢いたい。そんな身勝手な欲望だけで。
でも迷いはなかった。これからやることが、賢く美しい、人間など及びもつかない歴史を歩んだ種族を滅びに導くものだとしても。
ハルトは傍らにいたシルエレィドとフィムを見た。シルエレィドは険しい顔で、フィムは心配げな顔でこちらを見ている。
「下がっててください」
そんな二人にに微笑むと、ハルトは前に向き直った。
更に離れた場所から、〈魔王軍〉の兵士たちに注視されているのがわかる。その声も耳に入ってくる。
「本当にやれんのかよあんなチビ」
「失敗したら笑ってやろうぜ」
「そうなりゃ、あのエルフ娘もたっぷり可愛がれる。魔王サマも文句は言わんさ」
こりゃ責任重大だ。そう思いながら、ハルトは呪文を唱えた。氷焔の〈氷禍の胸甲〉を最下層に、次に〈氷禍の鎧〉を、その上層に造技の〈魔力の鎧〉を展開。全身を働きの異なる魔力の装甲で覆い尽くしながら、次に理力の〈鷲の目〉と〈遠矢〉を詠唱。視力を強化し呪文の射程を伸ばす。防御陣地のエルフたちが、その顔つきまでよく見える。そして更にその先、橋を渡った向こうのゲートを視野に入れる。
思考トリガーで、胸に埋め込んだ歪次元発電機関を起動。ほぼ同時に〈神経賦活〉で思考速度を加速する。ここから先は、意識と呪文の精密なコントロールが必要だ。あの秘匿研究所にあった資料の断片、そこにあった時空操作の覚え書きから起こした呪文で、ハルトは胸の中にある次元の歪みを前へと押し出した。
歪次元発電機関は転移の応用で次元を僅かに歪め、その歪みを戻そうとする次元の修復作用を利用して電力を生み出す。膨らんだ風船の端をつまんで、放すと風船全体が震える。その力を応用するようなものだとアツロウさんは言っていた。
ハルトがその力を破壊の方向に振り向けられると知ったのは、ただの偶然からだった。歪次元発電機関を体に埋め込んで間もない頃、操作を誤り、胸の中にあるはずの歪次元が"体からはみ出た"。座標をずれた歪次元は、修復の赤い光を発すると同時に、周囲のベッドや棚、床を巻き込こんで消失した。
前に、前に、次元の歪みをつなげて押し出す。胸が熱くなる。歪次元発電機関の発熱で。心肺を護る防護シートがもつうちはそのままで。ハルトは更に、更に次元の歪みを押し出してゆく。
ぎぃと周囲の空間そのものが音を立て、ハルトのこの力を知らない兵士たちがどよめいた。ぎぃ、ぎぎいと不快な音が止まらない。耳よりも脳に直接打ち込まれるかのような音は、手で耳を塞いでも消えなかった。
歪んだ次元は橋際の陣地に達した。エルフたちが奇怪な音に戸惑っているのが見える。ハルトは更に歪次元を押し出した。橋の上を、更にその先へと。発熱が防護シートの限界に近づいたので、ハルトは〈氷禍の胸甲〉の氷撃ベクトルを反転、その力を胸の冷却に回した。
発電機関の発熱と氷撃が相殺される。ハルトの周囲の冬の空気に、白い水蒸気が立ち込める。
構わずハルトは、歪次元を連ねて押し出す。大きく重い弓を意志の力で引き絞っているような感覚だった。少しでも気をゆるめれば元に戻ろうとする次元を、呪文と歪次元発電機関の力で押し留める。
〈魔王軍〉の兵士たちが騒ぎ始めた。その声に嘲笑や蔑みはもうない。足を支える硬い地面が、呼吸できる空気が、自身を取り巻く世界の全てが、今にも崩れ去りそうな感覚が、この場の全員を襲っていた。異形屈強な兵士たち、中でも感覚に優れた者が涙を流して嘆願する。恐い、怖い、もうやめてくれ。このままじゃ何処でもない場所へ落ちちまう……
引っ張られ捩じられた時空の苦悶の声は、竜脊大橋を越えエルフの都の第2ゲートに達した。
恐らく亜邑のエルフ、メルネヴェびとたちも異変に騒ぎ出した頃だろう。口に達した鼻血を味わいながら、ハルトは呪文を唱え続ける。冷却が間に合わなくなってきたのか、燃えるように胸が熱い。そろそろ限界かと思う。しかしなおも歪次元を押す。ゲートを越えて見えないその先へ。エルフたちの戦力は少しでも削いでおきたい。
ハルトの周囲に相殺しきれない熱が散る。冬の寒さを押しのけて、辺りはもはやサウナのようになっていた。
「無茶よ!」
フィムがハルトを止めようと駆け出す。その肩を、シルエレィドが掴んで止めた。
「父さま放して! ハルトが死んじゃう!」
泣き叫びもがく娘を、父は抱き締め抑え込む。そして言った。
「生きること。時にそれは生き延びることを意味しない。特にマヴド、人間にとってはね」言葉のなかには少し、ほんの少しの羨望があった。「信じるんだ彼を。フィムは見たんだろう? メルネヴェの運命が変わるのを」
心臓が燃え、熱は体内で目鼻から火を吹き出さんばかりに荒れ狂う。口は呪文を紡ぎながら、ハルトの思考にはたった一つのことしかなかった。そうだ。僕は逢いたいんだ。あのひとに。エリさんに。
焦がれる想いで、この胸が焼き尽くされても。
ハルトは詠唱を止めた。
その瞬間、慄く〈魔王軍〉の兵士たちは、異音に戸惑うエルフの兵士たちは見た。橋を翔け抜けゲートを貫き、亜邑を奔る赤い光を。それはさながら地を閃く流星のように。
同時にハルトは全身を覆う〈氷禍の鎧〉のベクトルを反転。魔力の鎧の内に冷気を留めて自身の体を冷却した。体にかかった負担と〈神経賦活〉の副作用で、脚に力が入らない。〈氷禍の鎧〉が効果を失ったので、魔力の鎧を除装し空冷に切り替える。〈落日の剣〉、そう奥多魔の魔術師シアフィリルさんが名付け、変更を許さなかったこの技は、果たして目標を破壊しえたのか。確かめたくとも体が言うことを聞いてくれない。周囲は静まり返っている。膝が地面につく衝撃に、あ、倒れると思うも手も足も出ない。アスファルトが目の前に迫る。
と、そこでハルトは暖かな腕に抱き留められた。この匂いはエリさ……じゃなくてフィム?
「やり過ぎよハルト!」
叱りつけるような声はフィムのものだ。ハルトは何か言いたくなるも、今は何より結果が知りたい。
「ゲー……は……?」
かろうじて動く喉で訊く。すると背後から力強い腕で抱え上げられ、地面に仰向けに横たえられた。
「ああ、やったよ」かすかに震える声は、シルエレィドのものだ。「君は亜邑の第2ゲートを破壊、いや、消した。その手前、橋際のエルフたちとその陣地も一緒にね」
常軌を逸した破壊、消却に、魔王の軍勢を成す兵士たちも静まり返っていた。兵士たちは一様に、横たわるハルトを見つめていた。人の技を、エルフの魔術をも超えた、半神のごとき御業に畏怖をこめて。
「見事なり!」すると魔王タケハヤの咆声が、一帯に響き渡って静寂を破った。「我らがかような姿になったのも、元はと言えばエルフどもの所業よ。我らはその分を取り立てねばならん。死んでいった者たちのためにもな。武器持て立ち上がれ、我がサムライたちよ! 今こそあやつらに借りを返すとき! 壊し!殺し!蹂躙せよ!」
鼓舞され兵士たちが雄たけびを上げる。雄たけびは波のように広がり、すぐに軍勢全体の大音声となった。
「突撃隊!前へ!グズグズするな!」次いでアルシェンナが命じた。「奴らがまた壁を築く前に、渡河しゲートを確保せよ! 急げ!」
前面に衝角を付けたランクルが、ルーフに機関銃を備えた軍用装甲車が、中型弩砲を積んだトラックが、武装改造された車両が次々に集結を始めた。そして槍にライフルにと武器を手にした屈強な兵士たちが続々にクルマに乗り込んでゆく。
ハルトはその様を眺めた。シルエレィドとフィムに道路の脇へと運ばれながら。軽い熱傷で全身が痛むも〈痛覚鈍化〉で抑え込む。そう、のんびりはしていられない。次の段階に移らなきゃ。
「シルエレィドさん、僕をトレーラーに」
ハルトは何とか上半身を起こした。しかし
「10分、いや5分でいいから休め。そうせねばアレは動かさんよ」
「そうよ、休みなさい!」
エルフ父娘にそう言われてしまうと、どうにもならない。ハルトは諦めて身を横たえた。頭を包むフワフワでやわらかな感触に驚く。なんだこれ? と思って手で触ると
「んっ!」
小さな声でフィムが喘いだ。そして真っ赤な顔で睨んでくる。
「いいから寝てなさい!」
怒られた。なんなんだよもうと思いつつ、ハルトは派手なエンジン音を鳴らして竜脊大橋に向かう車列を見送る。すると
「貴方に感謝を。ハルト」不敵な笑みを湛えたアルシェンナがやって来た。「ゲートは破壊。周りの防御壁と、ゲートの向こうに控えていた守備兵も消失。これだけでも貴方を迎え入れた甲斐があったわ」
そしてアルシェンナは呪文を唱え、魔力の鎧を全身に纏った。ハルトが展開するものなどよりも、はるかに洗練されて無駄のない、美しい形状の鎧を。
「最後のひと仕事を終えたあとは、貴方の好きになさい。わたしたちにも好きにするわ」頷くハルトを見て、アルシェンナは後方に向かって呼ばわった。「クオン、彼に癒しの技を!」
羽毛の生えた女兵士が駆けつけてきて、ハルトに肉変の治癒呪文を唱えた。
表皮が泡立ち体の力が戻る感覚に、ハルトは〈痛覚鈍化〉を切った。
「ありがとう、助かります」
ハルトが礼を述べると、アルシェンナは軽く頷き歩き出した。装甲を追加された兵員輸送車両に向かって。彼女の周りに、同じく魔力の鎧を纏った兵士たちが続く。彼ら彼女らの落ち着いた歩みと物腰から、見るからに精鋭だとわかる。
「そろそろ僕らも行きましょうか」
治癒呪文のお蔭で体が軽い。もう起きて立っても問題ない。
「トレーラーでも少し横になりたまえ。もう数分は休めるだろう」
言ってシルエレィドが手を差し伸べてくる。ハルトはその手を取り立ち上がった。
「ええ、そうさせてもらいます」
トレーラーへとむかう道すがら、あの頭の感触はなんだったんだろうと思い返してフィムを見る。
フィムはハルトと目が合うとそっぽを向いた。尻尾が左右にゆれている。




