6-7. 方舟を降りて
謁見の間から、姿のそっくりな二人の幼児が出てくるのを待って、アルシェンナは扉を閉めた。
「あんた! ハルトをどうする気!」
今にも掴みかかりそうな勢いで、フィムクゥエルが声を上げる。その姿を見てシルエレィドは思う。友だちのために行動できるのは美徳だ。しかし少し場所を弁えてほしいな。
「陛下が二人きりの会談を望んだのよ」アルシェンナは言うと、フィムクゥエルに笑みを向けた。「そんなに彼が心配? お嬢ちゃん」
フィムクゥエルの耳先に朱が載る。え、やっぱりそういうことなのか? 父親として娘の心の成長を喜ぶ一方で、寂しさのようなものを覚える。そうか、もうそんな年頃か……
「今、危険なのはむしろ陛下なのだけどね」アルシェンナは閉めた扉を見つめた。「彼がその気になれば、殺されるのは陛下のほう。でもそうはならない。彼は軍勢を欲し、陛下は彼の力を求めている。互いに損なことはしないわ」
二人の白い幼児がフィムクゥエルを見上げる。
「ちょっと考えればわかるのにね」
「こいつ変なの混じってて少し読みにくいよ。敵? 味方? ねえ王妃さま、敵なら脳みそ焼いていい?」
アルシェンナはしゃがんで幼児に目の高さを合わせると、二人の頭を撫でながら。
「お部屋にココアと焼きたてのクッキーがあるわ。冷めないうちに行ってきなさい」
「「はーい」」
幼児二人はエレベーターに向かって走ってゆく。
「子どもの扱いが上手いね」シルエレィドは言った。「昔も今も」
アルシェンナは、メルネヴェの民がこの次元を訪れた最初期、この世界の原住民の調査を行った者の一人だった。調査は外部からの観察だけに留まらず、複数個体の捕獲と飼育にまで及んだ。その際、捕獲したマヴドの子どもを世話したのが彼女だった。
「それは皮肉?」
アルシェンナはシルエレィドに酷薄な笑みを向ける。
「いや、そんなつもりはない」シルエレィドは即座に否定した。「気を悪くしたならすまない。あの頃、貴女とは大して話もしなかった。時おり、マヴドの子どもに教えている貴女を見かけた。それくらいしか覚えてないんだ」
当時はまだ計画段階だった人工島の都市設計にかかりきりで、他のこと、この世界の原住種族のことなど頭になかった。
「……そこにかけていて」アルシェンナは、二人に応接ソファに座るよう促した。「会談はもう少しかかるでしょう。飲みものを持って来させるわ。お茶からアルコールまで、大概のものはあるけれど。発掘品だから味の保証はできないわね」
「それは嬉しいね」シルエレィドは言った。「では私はコーヒーを。ミルクと砂糖はあれば一個ずつ、なければ不要だ。インスタントでも何でも構わない」
「わたしは紅茶。ミルクティーが嬉しいけど、なければ水でも何でもいいわ」
「コーヒーとミルクティーね」
フロアを出ていくアルシェンナの後ろ姿を見送って、シルエレィドはソファに深く身を預けた。そして今更ながらに驚愕を反芻する。まさかこんな場所でアルシェンナと再会するとは! しかし今、ここ以上に彼女に相応しい場所もない。
彼女には、この次元にいる誰よりも、亜邑のメルネヴェの民に復讐すべき理由、必然がある。
「ねえ父さま」隣のソファからフィムクゥエルが話しかけてきた。「あのひと、アルシェンナって、誰?」
そう、今のメルネヴェびとは彼女のことを知らない。彼女の研究を含め、彼女の存在を示すものすべては破棄された。彼女のことを今も知っているのは、施政に携わる者の中でもごく僅か、そして評議員を務め延齢術を受けた魔術師しかいない。その魔術師たちにさえ箝口令が敷かれた。
「彼女は、そう、今から400年と少し前になるか。アルカ評議会に席を持つ魔術師だった」答えながらもシルエレィドは迷った。果たしてどこまで話していいものか。若い者、特に女には刺激、衝撃が強い話になる。「そして禁を破って追放された。別に明文化された禁忌などではなかったのだがね。当時の私たちには衝撃だった」
「禁忌?って、そんなものあるの?」
「それは……」
純真素直な娘の瞳を前に、シルエレィドが言いあぐねたその時
「私は人間の、マヴドの子を産んだのよ」当の本人が答えて、シルエレィドらの正面のソファにかけた。「それが彼ら、アルクトゥスたちの気に障った。種族の純粋性を汚すものとしてね。そして、あの子たち……私の夫と娘の処遇は評議会の票決に委ねられた。結果、夫と娘は殺処分された。娘はあらゆるテストと実験にかけられた上でね」
アルシェンナは淡々と、無表情のまま感情を交えず事実のみを羅列した。そのことが却って、彼女の内にあるものの凄まじさを伺わせた。寸毫でも感情を交えれば、そこから溶岩のごとき情念が溢れ出して止まらなくなるのが容易に想像できる。400年余を経た今もなお。
「そん、な……」
フィムクゥエルは絶句した。さもありなん。女であれば、否、男であったとて、そのような所業は聞くだけで胸が悪くなる。ましてやそれをやったのが、数ヶ月前までは同胞と思っていた者たちだ。そしてシルエレィドは心底思った。ここで快哉を叫ぶような娘でなくてよかったと。フィリウィル。君との子育ては間違ってなかったようだ。
「じゃあ、あなたが亜邑を攻めるのは、復讐のため?」
「そう、ね。それもあるかもしれない……」フィムクゥエルに問われたアルシェンナは、言葉を一つ一つ確かめるように答えた。奇妙なことに、まるでそこで初めて復讐に思い当たったように。「私はメルネヴェの民を赦さない。特にアルクトゥスの一派は皆殺しにしたい。でも今はそれ以上に、取り戻したいものがあるの。取り戻すまでは、船出など絶対にさせない」
語るアルシェンナの目を見て、シルエレィドは思う。こんな目をつい最近、見た。ああ、そうか。彼女の目は彼とよく似ている。
「でも貴方は赦してあげるわ、シルエレィド」アルシェンナはあるかなきかの微笑を浮かべる。「票決の時、私と夫と娘、揃っての追放に票を入れてくれた。感謝しているのよ」
「よしてくれ。赦さなくていい。あの時の私は血を見るのが嫌だっただけだ」
「それでもよ」
そこで、エレベーターから黒い毛並みの娘が現れた。遠く海を隔てた先の国、ブリタニア連合王国の女給服を身に着けて。彼女は盆に載ったカップとコースターを応接テーブルに置き、一礼して去った。
久しぶりに嗅ぐコーヒーの香りに、シルエレィドは心が落ち着くのを感じた。割といい豆じゃないか。
「でも意外ね」アルシェンナは緑茶の湯飲みを置いて言った。「貴方が亜邑に攻め入る私たちを手伝うなんて」
「私も不思議に思っているよ」シルエレィドは言った。コーヒーによるものだけではない、苦みを味わいながら。「自分が設計した都市を、まさか落とす側になるとはね」
シルエレィドは思い出す。当初はメルネヴェの民が安心して暮らせる、高度に効率化した理想の都市を目指した。しかしあらゆる階層、職種の人々の意見、要望に応えていく内に、東西で様相の異なるひどく歪な都市となってしまった。それでも300年以上を過ごした都市だ。思い出も愛着もあった。
しかしそこはもう、自分たち親子の暮らせる世界ではなかった。
「私たちはこちらの世界で生きるほかない。だからそのための利となるよう動く」シルエレィドは閉じたままの謁見の間の扉に目を向けた。「現状、この地域で最も大きな二つの勢力、復興庁と〈魔王軍〉。双方に顔を売り実力を示せる機会だ。逃せはしないよ」
「変われば変わるものね。シルエレィド、貴方がそれほど計算高いとは思ってなかった」
「この子に〈播神の相〉が出なければ、私は今でも亜邑にいただろう」シルエレィドは何か言いたげな娘に微笑むと、アルシェンナに向き直った。「身勝手と嘲ってくれていい。私は家族のことしか考えていないのだよ」
「嘲られるものですか」
アルシェンナは目を閉じると、深く、深く溜息をついた。
「あの、訊きたいんだけど」そこで、古い世代の語りに聞き入っていたフィムクゥエルが口を開いた。父とアルシェンナを交互に見ながら。躊躇いがちに。「メルネヴェとマヴドの間に、子どもってできるの?」
メルネヴェの社会通念上、上位種であるメルネヴェと下等動物であるマヴドの間に子などできない、そうされてきた。事実、通常の性交渉で受胎にいたることはない。しかしシルエレィドは知っていた。否、評議会のメンバーに選出される位階の魔術師であれば、誰もが魔法研究書、呪文書、高位魔術師しか触れられない禁書の記述からおぼろげに知る。調合難度がさほど高くもない秘薬の使用や、位階の低い神への祈祷程度で、大きな困難もなくメルネヴェとマヴドの間に子ができることを。
「できるわ。その証拠が、あなたの目の前にいる私」フィムクゥエルを見るアルシェンナの眼差しが、少しやわらかい。「メルネヴェとマヴドは、それほどかけ離れた種族じゃないの。この世界でも、秘薬を用いて行為すれば可能よ。奥多魔に自生している薬草から調合できる。もしあなたがお望みなら、調合して差し上げるけど?」
「え、ええっ!?」
首筋まで真っ赤にして固まる娘を見て、シルエレィドは思う。ああ、娘はこうして大人になっていくのか。なかなかに堪えるものだな。そして口に出さずに語りかける。しかし彼はよしたほうがいいぞフィム。彼の心を占めるたったひとりから彼を奪うのは、剣も魔法もなしに竜から宝を奪うようなものだ。
扉が開き少年が、ハルトが現れた。その姿を見て、シルエレィドは彼と過ごした日々を振り返る。出会ってからまだ、たったの数週間だ。その間に頑なだった少年は少しずつ変わり、今はもう大人の男と遜色ない。心なしか背丈も伸びて見える。それは成長なのか、それとも過酷な環境への適応なのか。いずれにしても、この年齢のマヴド、あるいはメルネヴェにおいても、幸福とは呼べない在り方だ。
もしこの世界が平和だったなら、才能ある学生としてフィムや私と出会うような未来もありえたのかもしれない。だからこそ惜しいと思う。彼が向かうのは、メルネヴェの最重要人物〈導きの司書〉がいる〈導きの塔〉。あそこには、特に大転移を控えた今は、魔術と戦技に長けたアルカ・ィム・ダウェアラの精鋭たちが詰めている。彼らを突破して〈導きの司書〉のもとに辿り着ける可能性は、あまりに低い。彼が、ハルトが優れた戦士であり魔術士であることは知っている。しかし彼の強みである人体拡張装置と組み合わせた新呪文も、塔内という狭所では強みが半減してしまう。
「終わりました」ハルトはシルエレィドたちに言った。心なしか満足気な笑みを湛えて。「明後日の夜に、亜邑へ向かいます」
シルエレィドは胸の内で祈った。彼に幸運を、と。メルネヴェに祈る神はもういない。それでも祈らずにはいられなかった。




