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6-4. 彷徨う都

 男をんなの心を知つている誰にはつきりいひ切ることが出来る

 愛の月は満月となつて東に現れるか、それとも鎌の刃の如く西に現れるかと


 フィオナ・マクラウド「女王スカァアの笑ひ」(松村みね子 訳)




 〈生命の塔〉最上階に達したエレベーターから出ると、リーヴェロンは獅子を象った真鍮のノッカーに手をかけた。続けて3度叩くと、黒いチーク材の大扉が内に開いてゆく。体毛の全くない灰色の、大きな赤い眼を持つ奇妙な人型の生きものの手によって。

 灰色の生きものは、アルクトゥスが造り出した魔術的人工生命だった。肉変ゾタクムの領域に最も通じた魔術師であるアルクトゥスは、メルネヴェの民を種として高め強くするために様々な実験を行った。この世界のマヴドの科学も取り入れながら。この灰色の生きものはその過程で生まれた。アルクトゥス自身が求めた結果ではなかったが、頑健で創造者の言うことをよく聞き従うため、彼はこの生きものに身の回りの些事を任せていた。

 リーヴェロンは大扉を抜けて中央廊下を進み、最奥の部屋の白い扉の前に立った。音もなく扉が開き、彼は室内へと足を踏み入れた。すると列を成して並ぶガラス保管槽に、その中の防腐液に浮かぶ様々な生物の標本に出迎えられる。

 保管槽にはこの世界の産物から、メルネヴェの民がこの次元に至るまでに訪れた様々な世界の動植物が収まっていた。全身に蔓と蔦の生えた緑の獣の黒い眼、美しい翅を持つ手のひらほどの人の瞳なき蒼い目、腹を切り開かれ臓物を剥き出しにした尖り耳の赤子の赤い瞳、鷲の頭と山猫の四肢を持つ獣の黄色い眼……生命なき生きものたちの目が、歩むリーヴェロンを見つめる。

 そして標本の列の更に奥は、丈高い書棚に囲まれていた。そこにぎっしり詰まった蔵書もまた、大半がこの世界由来のものではなかった。一部の書籍の由来は、一万年前の原初の大転移前にまで遡れた。

 そして書棚の中、何冊もの本が積み重なる大きな書机に魔術師アルクトゥスはいた。外見は300歳ほどの、メルネヴェびととしては壮年の男。長い銀灰色の髪を、顔にかからぬよう金の頭環サークレットでまとめている。頭環に施された精緻な意匠は、かつての大転移船団の旗印だった〈翼蛇喰らう獅子〉。身に纏っているのは、黒地の袖と襟に金糸の刺繍を施した白の長衣だ。

 メルネヴェびとを遥かに上回る歳月を生きる魔術師、アルクトゥス。その得体の知れなさを嫌悪しつつも、リーヴェロンはその一切を表情筋に出さずにいることができた。我らは否応なく、この御方に頼るほかにないのだから。いちいち感情を動かしていては民の存続は覚束ない。

 アルクトゥスは手にした厚く古い本を畳んで置いた。その濃い赤褐色の眼がリーヴェロンを射る。

 そのモノを値踏みするような視線を受け留めながら、リーヴェロンは言った。

「師よ、民の集合度合いについて報告に上がりました」

「フム。申せ」

「では」リーヴェロンは手元のタブレット画面を見ながら述べた。「現状、この亜邑に集う民は私たちを含めて3821人。この10日間、関東各地に派遣した捜索隊からはもう、芳しい報告は得られておりません」

「そうか……」アルクトゥスは眉根を寄せ、その顔を苦渋に歪めた。「500と余年前、この次元を訪れた時には2万人を超えていたのだがな。更にその前は……いやよそう。今更だ」

 この世界のマヴドが〈審判の日〉と呼ぶ日の前日、播神がこの世界にまき散らされる直前、この亜邑人工島にはおおよそ6000人余りのメルネヴェの民が暮らしていた。そのうち3割程度が即死し、あるいは狂暴化して処分された。死んだ家族や伴侶の後を追った者も少なくはなかった。変異、〈播神の相〉を示した者は亜邑を離れた。二ホン帝国内に、この世界の各地に散った同胞たちの安否は不明。危機に自力で亜邑まで辿り着いた者、派遣した捜索隊に保護された同胞は合わせても100人に満たない。

 そして7人いた〈帳の司書(フェイアラ)〉も。今、亜邑にいる2人を除いて行方知れずとなっていた。

「しかし〈帳の司書〉エリィルラルが見つかったのは僥倖であった」アルクトゥスは薄く笑みを浮かべた。「〈帳の司書〉マルティスルを使わずに残せる。あの娘は今、子を孕んでおる。これで〈帳の司書〉の血統は保たれよう。300年もあれば、そこから確率的にも資質のある者が生まれてくる。次元を越える手立ては失われん」

 やはりあの方に帳を上げてもらうほかないのか。リーヴェロンは感情を覗かせまいとその蒼い目を伏せた。アルクトゥスの言葉は、播神の禍で死んだであろう兄リーヴィルトの妻、義姉と慕った女の死を確定させたものだったから。

「辛いか? リーヴェロン」見透かすように、アルクトゥスは言った。「私とて、希少な王の血を失うことに思うところがないわけではない。せめて子がいればな……そなたの兄と番わせたが、結局子はできず仕舞いだった。生殖検査は双方、異常はなかったのだが。他の雄を試そうかと選考していたところに、この播神の禍よ。これまで色々と試したが、〈百万の帳の書〉を継ぐ資質のある個体は自然妊娠でしか生まれぬ。難儀よな」

 兄を、そして義姉を辱めるかのようなもの言いに、一瞬、血が滾り、リーヴェロンは衝動的に呪文〈万応の剣〉を唱えかける。が、即座に衝動を押し込めた。アルクトゥスを斬ったとて何にもならない。斬れるとも思えないが。それどころか、彼の管理がなければ〈帳の司書〉の存続は危うい。狂える神々の次元侵略が止まぬ今、〈帳の司書〉の喪失は即、メルネヴェの民の完全な消滅を意味していた。

「残る5人の〈帳の司書〉は?」リーヴェロンは一縷の望みを賭けて問うた。「フェイアラ・エリィルラルのように、難を逃れて隠れている可能性も」

「それはなかろう」アルクトゥスはリーヴェロンに最後まで言わせなかった。「あの者たち自身は知らぬであろうが、状態とおおよその居場所がわかるよう、ここの水盤に(しるし)が浮く呪文を仕掛けてある。シャロウリル、ウールヴィノウラ、ロウズライラは播神の禍に巻き込まれて死んでおる。亜邑の外におったアルガンティア、モゥルグナルは我らを置いて勝手に次元を越えおった。我らが亜邑の混乱の収拾に注力しておる間にな。エリィルラルの徴は播神の禍の後、しばらくして消えた。とうに死んだものと思っておったが、春頃からまた徴が現れた。その後は徴が消えては現れての繰り返し。推測だがあの娘は他次元や外宇宙の事物と関わりでもしておったのだろう。あれらは我らの魔術を阻害する」

 〈帳の司書〉は万一の事を想定し、常に複数人で運用されてきた。他の〈帳の司書〉全員がこの次元から失われた以上、亜邑のメルネヴェびとが次元を越える手立ては、マルティスルと義姉たるエリィルラルのみ。そして次の大転移が最後となる保証がない以上、この次元で帳を上げる役目はエリィルラルが担うしかない。リーヴェロンはしばし葛藤に苛まれた。このまま大転移に進めば、かつてほのかに思いを寄せたひとを失う。しかし……リーヴェロンは自身に言い聞かせた。私はアルカ・ィム・ダウェアラの将。アルカ評議会、ひいてはメルネヴェの民びとへの奉仕者だ。一人の生命と種族の存続、天秤にかけてよいものではない。そしてこれは一万年、種族の総意として続いてきたことだ。

「同胞の集結も、もうそろそろ限界であろう」深く溜息をつくと、アルクトゥスはリーヴェロンの目を見据えて言った。「捜索隊を撤収させよ。彼らの帰投を待って大転移を執行する。民びとに、そして〈導きの司書(ル・フェイアラ)〉にその旨を伝えよ。心の準備が必要であろうからな」

「……承知しました。アルクトゥス師」とうとうこの時が来たか。リーヴェロンは義姉の命についてはほぼ諦めた。しかし僅かな、ほんの僅かな未練が言葉を続けさせた。「そういえば予見者の幾人かが近頃、妙に騒いでおります。『此度の大転移を止めよ。さもなくば鉄と死の赤い星が顕れる』と」

 アルカ・ィム・ダウェアラの本部〈守護者の庭〉には、連日のように未来を幻視したと(うそぶ)く予見者、あるいはただの一般民が陳情に訪れていた。大転移を中止、あるいは延期するようにと。皆一様に、暗黒を流れる赤い星を視たと主張した。赤い星はメルネヴェびとにとって凶兆とされてきた。かつて最後の王が神々と精霊との契約全てを破却した夜、空を赤い星が流れたと伝わるが故に。

「あの者どもか」アルクトゥスは鼻を鳴らして嘲った。「かつては当てにもできたが、次元を越えるたびにあやつらの予見の精度は落ちておる。此度の播神の禍も見落とす始末。好きにさえずらせておくがいい」

 メルネヴェびとの主導者はにべもなく。

 リーヴェロンは一礼すると、身を翻して大扉へと向かった。その耳に、一人呟くアルクトゥスの声が聞こえた。

「こうなってくると、今後はマヴドとの交雑も視野に入れねばならんな。忌々しいが。となるとアルシェンナの放逐は早計であった。おお、そうだ。アレの研究資料が禁書庫に……」




 亜邑の街並みは、なんともバランスを欠いたものだった。

 西部は近代的なビルと集合住宅、鉄筋家屋が所せましと並び、東部は王国を築いた頃の古い様式の塔と邸宅が余裕をもって建ち並ぶ。それぞれは統一感があるのに、並んだ瞬間、不均衡が目に見える。それはそのままメルネヴェびとの間の格差をも示した。富、権力、魔術の力……生きる上で自ずと生まれる序列に従い、貧しき者は西部に、富める者は東部に住んだ。

 その格差も、この混乱で一掃された。富める者も貧しき者も等しく死んだ。ならばこれから階層は改まり次の秩序が打ち立てられるのだろう。わたしが次元の帳を下ろした後に。エリィルラルは窓の向こうの夜の街を、その窓に灯る明かりを見て思う。これまでそんなことが幾度繰り返されたのか。そしていつまで繰り返されるのか。

 〈導きの塔〉の上階から見下ろす街は、うっすらと雪に覆われつつあった。不均衡な街並みも、雪は等しく白く埋め尽くしてゆく。かつての王朝時代を否定しながらも忘れられない、郷愁への囚われの象徴とも言うべきこの塔群も。

 そこでようやく、エリィルラルは私室の扉をノックする音に気づいた。思えばずっと、硬質の音が鳴り続けていた気がする。でもよくわからない。ここで過ごす刻に意味はなく、記憶に留まることもなかった。誰かが入室を待っているのだろう。放っておこうかと考えたものの、このまま音が鳴り続けるのも鬱陶しい。

 諦めの溜息をついて立ち上がると、エリィルラルは来訪者に告げた。

「入っていいわよ」

 すると躊躇いがちに扉が開き、メルネヴェびとの少年が入ってきた。シチューにパン、ワインと水差しが載った盆を手に。

「お食事でございます。〈導きの司書(ル・フェイアラ)〉」

「そこに置いておいて」

 小卓を視線で示し、それだけ言って、エリィルラルは窓辺の椅子に戻った。そしてまた夜の街の観察に戻る。ここに来て、やることなど他になかった。やる気もなかった。

 しかし少年は居残っていた。チラチラとこちらの様子を伺いながら。

「どうしたの? 下がっていいわよ」

 言ってやりつつ、エリィルラルは顔を顰めた。またなのね。忌々しい。

「あの……」黒い髪に琥珀色の瞳を持った少年は言った。哀れを誘うか細い声で。「よろしければ、お慰めを……」

「その無駄に長い耳は飾り?」瞬時にエリィルラルの怒りは頂点に達した。「この私が下がれと言っている。繰り言を言わせるな!」

「しっ、失礼いたしました!」

 泣き叫ぶように言うと、少年は平伏した後、飛ぶように扉を抜けて出て行った。

 気持ちを落ち着けようと何度も深く息を吐き、エリィルラルは窓辺に突っ伏した。すぐに後悔が押し寄せてくる。あの子は命令でここに来ただけ。何も悪くない。なのにわたしは……これまでも、こうして少年が送られてくることはあった。追い払うのも慣れていた。なのにここまで激昂したのは初めてだった。そしてどうしてなのかと自問して、気づく。

 それはたぶん、黒い髪に琥珀色の瞳、そう、彼に似せた少年を送り込んできたから。

 睦事を弄ばれた怒りに、エリィルラルの顔に熱がこもる。あの日の物見櫓の行為を、あるいはその前から、ヤツらはコソコソ観察していたのだろう。そうでなければ説明がつかない。

 階段から、足音が近づいてくる。この塔は古い様式を踏襲し、エレベーターはついていない。今度は誰? エリィルラルは苛立ちながら、開け放たれた扉を見た。

「お気に召しませんでしたか? 〈導きの司書(ル・フェイアラ)〉エリィルラル」扉口にリーヴェロンが立っていた。濃灰色の獣皮の筒袴と胴着に、銀の胸甲を着けた姿で。胸甲に彫り込まれた"翼蛇を咥えた獅子"はアルカ・ィム・ダウェアラの長たる証だ。「ご婦人方の間でも高い性技で評判の少年だったのですが」

 貧しい層のメルネヴェの子を買い上げ、好みに育てる裕福なメルネヴェびとが一定数いた。異性同性問わず。彼ら彼女らは時に育てた子を交換して愉しむ。評議会の航界計画に基づいた生活は少なからず倦怠を伴い、暇を持て余した女たちにはそんな遊びに耽る者もいた。

 エリィルラルは思う。そんな女たちと同等に見られたのね。わたしは。完全に否定しきれないことも、彼女の怒りと羞恥に拍車をかけた。

「要らぬ気遣いよ、覗き屋」エリィルラルは吐き捨てた。「何の用? 無駄話ならさっさと出て行って」

「……大転移の日取りが決まりました」夫だった男、リーヴィルトそっくりの顔は表情に乏しく、何を考えているのかわからない。「捜索隊の帰還次第になりますが、おおよそ5日後になるかと」

「そう」

 意外と落ち着いている自分に、エリィルラルは少し驚いた。先延ばしにしていた、来るべき時が来た。それだけ。

「貴女の使命は、メルネヴェの民びとに希望を与える尊いものです」珍しく、リーヴェロンの声に痛みに似た何かが滲む。「どうかその時まで、お心やすらかに」

「その時まで、あなたの用意した少年で遊んでいろって?」可笑しさがこみ上げ、エリィルラルは声を立てて笑った。「安く見られたものね。そんなことをせずとも、あなたたちは帳の向こうに送ってあげる。未来永劫、破滅を前に逃散を続けなさいな。わたしは上層地獄からその様を嗤って見ているから」

 帳を上げ、下ろして死ぬ。それでこの終わりのない繰り返しから抜けられるなら、悪くないと思える。

「大役を前に、平静でいられないのはわかります。ですがそのように捨て鉢になられては……」

「ハッ! 態度まで求めるの? まあ確かに、やる気に満ち溢れてるってわけじゃないわ。我が子でもいれば多少はやる気も出たかもしれないけど」言葉が勝手に口から溢れ出す。エリィルラルはリーヴェロンに歩み寄ると、敵を前にした猛獣のように口の端を吊り上げ歯を剥き出し、顔をかつての義弟の鉄面皮に近づけた。「リーヴィルトとは20年連れ添ったけど、子はできなかった。わたしも努力はしたのよ? 本を取り寄せて、マヴドの性技も研究してみたり。あなたの兄の種が弱かったのかしらね? なんなら今からあなたが試してみる? マヴドの唾液と精液で塗り替えられた体で良ければね!」

 明け透けなもの言いへの羞恥か、兄を貶められた怒りか。リーヴェロンの顔に朱が走る。

「そのように御身を貶めなさいますな! 義姉上あねうえ!」

「出て行きなさい」激したかつての義弟の言葉に、却ってエリィルラルの頭は冷えた。ただの八つ当たりね、こんなの。握り締めた右手が痛む。動かぬ男を見てまた繰り返す。「出て行きなさい」

 感情を迸らせたことを恥じ入るかのように一礼すると、リーヴェロンは扉を抜けて出て行った。階段を踏む長靴の足音が小さくなってゆく。

 足音が消えると、エリィルラルは大きく息を吐いて窓際の椅子に崩れおちた。

「つかれた……」手足に力が入らない。僅かな時間、話しただけなのに喉が渇く。「ねえお水ちょうだい、ハ……」

 無意識に言葉に出しかけ、慌ててエリィルラルは口を噤んだ。ここで彼の名は口にできない。一挙手一投足全てが監視されている。下手に名を出せば彼の身に何が起こるかわからない。

 まだ生きているなら、だけれど。ズキンと、鼓動に合わせてまた右手のひらが痛んだ。エリィルラルは己が右手を差し上げ、眺めた。幾重にも巻いた包帯に血が滲んでいる。亜邑に戻った時から、幾度も治癒術士の施療を受けた。その時は治る。しかし間断なく覚醒を繰り返す微睡みの中で、気づけば右手の指が手のひらを破っていた。

 忘れるな、と。彼を刃で抉った罪を忘れるなと戒めるように。

 あの時はああするほかになかった。ハルトを生き延びさせるには、わたしが彼を処分、殺したと思わせるほかに……自らに幾度言い聞かせても、エリィルラルはそれが正しかったと言い切ることができずにいた。ハルトの体は幾度も触れて知り尽くしている。筋肉の位置から、類推される臓器の位置まで。臓器を抉った手応えはなかった。例え太い血管を傷つけたのだとしても、彼の並外れた治癒力ならなんとかなるはず。なってと願って銃剣を刺した。

 その結果、思惑どおりアルクトゥスとリーヴェロンはハルトを捨て置いた。なまじ生きて動いていたら捕らえられ、拷問を受けて、メルネヴェについて知り得たこと知らぬこと、全てを洗いざらいを吐かされていただろう。下等とみなすマヴドへの拷問は苛烈を極める。彼を、死を懇願しながら蠢く肉塊に変えてしまう。そんなものは死んでも見たくなかった。

 わたしは笑って消えられる。彼が、ハルトが生きているなら。エリィルラルは夢想した。自分のいない未来を生きるハルトを。きっと最初はわたしを憎むでしょう。ずっと憎み続けてくれると嬉しい。でもマヴドの刻はメルネヴェよりも速く積もる。わたしとの記憶はそのなかに埋もれて、いつかは傷も痛みも薄れてゆく。その時、あなたの隣を歩むのは誰? 女はきっとあなたを放っておかない。今だってそう。あの角の生えた大女? それとも欲望の視線を隠しもしない調査官? でも憶えていて。あなたに女を教えたのはわたし。消えない傷跡を刻んだのも、わたし……


 ほんとうに、それでいい?


 夢想の空間に、幼い少女の声が聞こえた。クルクル変わる幾何学模様の服の端が過る。細く白い足が垣間見えた。

 あなた、何を言って……反論しかけたエリィルラルの内で、煮え滾る激情が蓋を持ち上げ吹き上がった。いつかわたし以外の誰かが彼の肌に指を這わせる。いつかわたし以外の誰かが彼の口腔を貪り彼と舌を絡め合う。いつかわたし以外の誰かが彼を受け入れ悦び喘ぐ。

 許せない。赦せない。ゆるさない。彼を丈夫おとこへと育てたのはわたし。わたしのゆるしなく彼に触れることはゆるさない。ロジックも根拠も何もない。誰にもハルトの隣は歩ませない。この身が消えようと上層地獄の彼方からでも這い出して、彼に近づく女はほろぼしてやる。

 いっそあの時、死んでいてくれればいいとまで思う。そうすればハルトは誰のものにもならない。わたしを憎みながら死んだのなら、きっとわたしが逝く時に待ち構えていてくれるはず。なんて甘美な妄想。

 エリィルラルは笑った。なんて浅ましく悍ましいのだろう。少年を相手に、この期に及んで未練たらたら。悪い女なんてものじゃない。

「ほんとう、無様で哀れな女……」

 虚空に向けて呟くと、エリィルラルは窓辺に伏した。握りこんだ右手を抱き締めるように体を丸めて。室温は完全に制御されているはずなのに、ひどくさむい。

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