6-3. 魔術師の娘
日中、降り始めた雪に止む気配はなく、夜になると地面にうっすらと積もり始めた。
もうすっかり冬だ。吐く息が白い。長いようで、短かったな。ハルトはここまでの道程を思い返した。アツロウの診療所で埋め込み手術を受けて。最初は発電機関の誤操作で何度か死にかけた。それでも繰り返すうち、各人体拡張装置の扱いにも慣れた。そこから資料に残っていた光学呪文を、奥多魔のエルフたちの助言でなんとか形にして、鍛えて。発電機関、歪次元発電機の誤操作で起きた現象を意図的に起こして制御できるようになったのは、嬉しい誤算ではあった。
僕は強くなったのだろうか? あのエルフの魔術師たちに抗しえるほどに。不安はいまだ拭えない。だから勝算を―誰かに勝つことが目的ではないにせよ、上げるべく、これまで以上に最低なことをやろうとしている。
ハルトは背後の掩体壕を、中に乗り入れた軍用装甲車を見た。今、車のなかのベッドシートでエルフの父娘が眠っている。これから為そうとしていることを二人に告げると、二人は黙って、少し悲し気に頷いただけだった。
目を夜空に戻す。底知れない暗黒から、白い雪が舞い降り死者も生者も等しく覆ってゆく。エリさん、とハルトは心のなかで呼びかけた。今、あなたは何をして、何を思ってるんですか? 亜邑にエルフたちがまだいる以上、あなたはまだ生きているんでしょう。あなたがいなくなって、僕の中のあなたのカタチが、ずいぶんと大きなものだったのだと気づきました。死者が立ち上がる狂った世界でも、あなたがいるならそこはまるで……
背後の物音に、ハルトは瞬時に反応した。振り向きながらベルトの鞘のナイフを抜き、左腕電磁ユニットの磁力をコイル状に変形させ、これを通して射出した。
「ひっ!」小さな悲鳴に続いたのは、フィムクゥエルの文句だった。「何すんのよ突然!」
「咬まれるとまる一日は痛いですよ。その蜘蛛。まだ幼体ですけど」
フィムクゥエルがハルトに促されて足元を見る。するとそこには、子猫サイズの蜘蛛がナイフで地面に縫い留められていた。
ハルトは左手のひらを前に出す。蜘蛛に刺さったナイフがグラグラと揺れ、抜けると蜘蛛と一緒にハルトの左手へと猛スピードで飛んで行った。
「でも火を通して食べると意外と美味しいです。カニみたいで。食べ過ぎるとお腹壊しますが」ハルトは蜘蛛を掴むと、ナイフを抜いて積もった雪の中に放った。「割と冬場も活動してるんで、タンパク源としてけっこう重宝しますよ」
「え、遠慮しておくわ。今は」フィムクゥエルは緊張をほぐすように息をついて、言った。少し躊躇いがちに。「ちょっと、近くに行ってもいい?」
「いいですけど。どうかしました?」
急に何だろう。眠れなくて話し相手がほしいとか? ハルトがそんなことを考えている間に、フィムクゥエルはすぐ傍に来て
「その右腕、見せて」
端的に言いながら、返事も待たずにハルトの上着の袖をまくり上げ始めた。
「ちょ、ちょっと何を!」
「いいから!」
強引なフィムクゥエルの態度は、言ってどうにかなりそうにもない。観念したハルトはボディアーマーを外して上着を脱いだ。なんかいつもと立場が逆だな、とそんなことを思う。
袖をまくるまでもなく、肌着の右上腕部分が腕の肉もろとも裂けていた。
「やっぱり……」フィムクゥエルは眉根を寄せると、非難の目でハルトを見た。「あの時に怪我したんでしょうに。どうして放っておくの?」
「ええと、忘れてた」
この程度なら、手当せずとも朝には血が止まり治癒が始まる。経験的にそのことを知っていたハルトは、上着の上からダクトテープを巻いて処置を済ませていた。痛覚を呪文で鈍化させるので、怪我の予後はついつい忘れがちになる。今までそれで特に支障はなかった。
「あなたねぇ」フィムクゥエルはハルトに向かって何か言おうとしかけるも、大きく溜息をついた。「ちょっとナイフ貸して。さっきのじゃない、きれいなやつね」
放っておいてもいずれ治るんだからいいじゃないか。そんなことを思いつつ、ハルトはナイフを抜くと柄をフィムクゥエルに向けて渡した。何をする気かわからないけど、気が済むまでやってもらおう。あのコンテナケースを見つけてくれた恩もあるし。
フィムクゥエルは呪文を唱えながら、ナイフの刃を自身の左手の親指の腹に押しつけた。
森羅系の呪文? 彼女は星霊領域以外に森羅も扱えるのか。詠唱の響きからハルトがそう判断していると、フィムクゥエルは親指からしたたる血をハルトの腕の怪我に垂らした。
一瞬、痛みの伴わない刺激が腕に走り、ハルトはびくりと痙攣した。すると見る間に滲む血が止まり、傷が塞がってゆく。治癒呪文の効果だ。
怪我や病の治癒は、肉変の魔術領域が得意とする。森羅にも治癒の呪文があることは知っていた。けれどかなり希少な呪文のようで、ハルトも実際に目にしたのはこれが初めてだった。
「ほら、右のほっぺも」
ハルトが何か言おうとする間もなく、フィムクゥエルはハルトの右頬にも親指の血を押しつけた。
「ありがとう。助かります」ハルトは素直に礼を述べた。痛覚鈍化呪文の効能を切ってもよさそうだ。そして問いかける。「でもどうして?」
ハルトは思う。彼女曰く、僕は復讐相手ではなかったか。
「借りを作りっぱなしも嫌だから、かな」フィムクゥエルはジャケットの内ポケットから携帯救急ケースを出すと、ガーゼとテーピングで自身の親指を止血した。「助けられたのはわたしだもの」
「それを言うなら、僕があなたたちをここまで引っ張り込んだようなもんですよ」
「それを言うなら、あなたがわたしと父さまをあのイカれた連中の下から助け出してくれた。打算があったとしてもね」
シルエレィドとフィムクゥエルの親子についてハルトが知ることができたのは、復興庁が略奪者集団にいるエルフの魔法使いをドローンで観測したのがきっかけだった。復興庁はその映像情報を奥多魔のエルフ勢力〈ともし火の掲げ手〉に照会。親子を知る奥多魔のエルフが復興庁に救助を要請した。
「わかってるの。あなたが来なかったら、いずれ父さまはなぶり殺されて、わたしは奴らのオモチャにされてた」そうなった時のことを想像したのか。単純にここの寒さのせいか。フィムクゥエルは身震いした。「父さまの言うとおり。わたしたち親子は命を同胞の未来で贖ったの。だから……」
フィムクゥエルは顔を上げてハルトを見つめると、続けた。
「あなたがやろうとしていることが罪なら、その罪はわたしたち親子のものでもある。あなただけが負うべきじゃない」
「それは違う。フィムクゥエル、さん」ハルトは即座に否定した。「あなたたちはどちらかと言えば被害者の側だ。獣以下に成り果てた人間の、身勝手な欲望に巻き込まれた。そして僕も巻き込んだ側だ」
言ってハルトは呪文を唱え〈暖気の衣〉でフィムクゥエルを覆った。これで寒さは凌げるはず。
「ありがと」小さく礼を言うと、フィムクゥエルは表情を少しゆるめた。「この議論は平行線ね。そもそもの話になるなら、わたしたちメルネヴェの民がこの次元を訪れたことが問題の根本になってしまう。わたしたちの種族は、互いに出会うべきじゃなかったのかも」
そうなのだろう。とハルトは思う。エルフ、メルネヴェの民がこの次元にやってこなければ、この世界は魔法も知らず、狂える神々の脅威を知らず、もう少し長く平穏でいられた。〈審判の日〉の災厄も起きなかった。紗枝さんも死なずに済んだ。
でも、エリさんに会うこともなかった。
「ねえ、ハルト」唐突に、けれどごく自然に、フィムクゥエルは少年の名を呼んだ。「あなたの知ってる〈帳の司書〉って、どんなひと?」
「どんなひと、か……」
ハルトは悩んだ。言葉で言い表そうとすると、なんとも難しく感じる。綺麗なひとではある。けれど割と強引。博学で武術に秀でた頼れる師匠ではある。けれど割とズボラ。大人ではあるけど、時に子どものように甘えてくる。言いたくないことがあると、エッチなことで誤魔化す。けれど行為を通してなにがしかを伝えてくる。何なんだろうあのひとは本当に。
「よくわからないひとですね」ハルトは感じたまま言った。「でもまあ、一緒にいて飽きないひとでもあります」
「……そう」ハルトの言葉を聞いて、フィムクゥエルは目を少しだけ伏せる。「今のあなたの力なら、評議員の魔術師に比肩しうる。戦闘が不得手の魔術師だって少なくない。そんな連中は相手にもならない。ル・フェイアラ、〈導きの司書〉の元まで辿り着けると思う。でもあなたは〈帳の司書〉に会ってどうするの? 大転移を止めるつもり?」
「さあ」とハルトは答えた。あらかじめどうする、とは考えていなかった。「僕は彼女と会って話がしたいだけです」
「話がしたいだけ、って」フィムクゥエルは目を丸くした。まるで理解不能な異常者を見るような目でハルトを見た。「そのためだけに、あなたは、そんな……」
ハルトは頷いた。
「僕はエリさん、〈帳の司書〉に訊きたいことがある。どうしてあんなことをしたのか。本当に大転移を望んでいるのか。もしあのひとが本当に、本当に大転移を望むなら、僕は黙って見送るつもりです……でも」そこでハルトは言葉を切ると、東の空を、雪の降りしきる暗黒の彼方にある人工島を見据えた。「望まないなら、ほんの少しでもやりたくない気持ちがあるなら、やらせない。何をしても」
例え、この胸が焼き尽くされても。
「幸せね、そのひと」ポツリと言うと、フィムクゥエルは真っ直ぐにハルトの目を見つめた。「なら評議会の最長老、アルクトゥスには気をつけて。今の亜邑で、大転移を主導しているのはあの男」
その名はハルトにも聞き覚えがあった。あの日、エリさんを連れていった二人のエルフの片割れだ。あの古びた声の持ち主の呪文で、身に帯びた一切の魔法の効果を打ち消された。
フィムクゥエルは続けた。
「評議員に選ばれた魔術師は、延齢術を受けられる。その知識と技でメルネヴェの民に貢献するために。それで伸びる寿命はおおよそ倍。寿命は1000年前後になる。なのにアルクトゥスの齢は5000年とも8000年とも言われてる。噂では失われた秘術を使って不老不死の存在となったのだとも。計り知れない歳月を種族の存続に捧げた偉人にして異常者。あなたの理不尽さも大概だけどね」
もう一人、あの変幻する剣の使い手と合わせて、どうあっても油断できない相手だ。彼らは間違いなく行く手に立ち塞がる。そう考えてハルトは対策めいたものを練ってはいた。けれど5000歳を越える存在だとは思いも寄らなかった。
「忠告ありがとうございます。フィムクゥエルさん」
「フィムでいいわ」魔術師の娘は微笑んだ。「フィムクゥエルだと、マヴドのあなたは少し呼びにくいでしょうし。親しいひとは皆、そう呼ぶから」
「じゃあ、フィムさん」ハルトは呼びかけた。親しみを込めて。彼女の父ともども、話のできる亜邑の、元亜邑のエルフがいることを知って嬉しくなる。だから、言わねばならない。「ここまでありがとう。夜が明けたら、あなたを秦宿の避難センターまで送ります。ここから先は……」
あなたは見ない方がいい。ハルトはそう思った。しかし
「それは訊けないわ。ハルト」彼女の翠玉のような眼差しは、決意の煌めきに満ちて。「父さまの言うとおり、わたしたちはことの顛末を見届けなきゃならない。それが、この世界に破滅の種を播いた種族の責務なのだと思う」
「それは」
あなたが、フィムさんが責任を感じることじゃ……言おうとするハルトを、フィムは不思議な目で制した。まるで、ここにない何かを夢に見ているような。
「予感があるの。母さまが予見の力を少し持ってたせいね。あなたはきっと、メルネヴェの一万年の彷徨に大きな変化をもたらす。だからあなたが拒んでも勝手についていく。邪魔しないで」
その時のフィムは、年相応の娘ではなく。齢を重ねた賢女のようで。ハルトは星々の彼方から見つめられているような気分になった。
「……僕が危険だと感じたら、すぐに離れてもらいますからね」
大きく溜息をつきつつ、ハルトは言った。曰く言い難い抗えない圧力に結局、妥協してしまった。父親のシルエレィドさんもいるから大丈夫だろう、たぶん。
「それでいいわ。あなたが追いかける〈帳の司書〉にも会ってみたいし」フィムは満足げな笑顔を見せた。「それと"さん"は要らない。フィムでいい。よろしくね、ハルト」
帰れる目算の低い旅路に、道連れができてしまった。厄介な。と思いつつも、ハルトは少しだけ心が浮き立つのを感じた。冒険はパーティでやるものさ。胸のうちの紗枝がそんなことを言った。
フィムの尻尾は大きく左右にゆれていた。




