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5-4. 確かにそこに

 ハルトが配給所で3日分の栄養バーを受け取ると、これまでなかった緑のペーストが入ったパックが追加されていた。

「カムヅミカズラのジャムだよ」配給所で働く臨時職員のおばさんが、親切にも教えてくれた。「味は可もなく不可もなく。でもまあ、甘いのは進歩だね。農場の収穫はまだまだ先だから、当分はこれで不足がしがちなビタミンを補給してくれとさ」

「ありがとう」

 配給の食料をデイパックに詰めて担ぐと、ハルトは礼を述べて歩き出す。市庁舎周辺で受ける好奇の視線も、そろそろ落ち着いてきたようだった。少し前までは「女にフラれて魔術士サマは廃人になっちまった」だのと言う口さがない連中もいた。けれど話題の鮮度が落ちた今はもう、チラ見してくる者もいない。ただ一人の例外を除いて。

 ハルトはそっと振り返る。するとレーカがさっとバラックの陰に隠れた。前方に目を戻すと、またあの少女、命名サエリが茫と佇んでいた。サエリはさっと身を翻して駆け出すと、立ち止まってこちらを振り返った。しきりにこちらを気にしているように見える。姿も消さない。

「ついてこい、とか?」

 ハルトが問うと、サエリは小さく頷いた、ように見えた。

「わかった。付き合うよ」

 特にやることがあるでなし。このままこの幻覚に付き合って、怪談よろしくビルや橋から落ちるなりしてもいい気分になっていた。

 小走りに駆けるサエリの後を、ハルトは栄養バーを齧りながらついて行った。商店街を抜け、錬馬市の北西部へ向けて。道中、ゾンビの類は見かけない。この辺りはハルト自身が時間をかけて掃討を済ませた一帯だった。

 サエリは何処へ向かっているのか。クルクル変わる模様を追いかけていると、懐かしい一画に出た。

 自宅があった通りだ。

 〈審判の日〉の直後、緋雁ヶひかりがおかモールを出てからしばらくして、単独での廃墟探索に慣れた頃、ハルトは自宅を訪れたことがあった。

 今、目の前にある自宅も当時とほとんどかわらない。人の気配はなく。ドアの鍵は開いている。自宅に戻れたのは〈審判の日〉から3ヶ月は経った頃のことだ。父と母、そして兄と暮らした家。〈審判の日〉に人々が大勢死に、立ち上がった時、時間帯的に家には母がいただろう。けれど家の中には誰もおらず、争いがあった形跡もなかった。ただ時間が停まったかのように、室内はあの日の朝の光景そのままだった。綺麗に拭かれたキッチンのテーブル。居間にはコードを伸ばしかけた掃除機があった。

 普通に考えて、家族は死ぬかゾンビ化したかだ。これまでそれと知らずに破壊したかもしれない。

 きっと、今の世界の何処にでも転がっている話だ。家族を思って涙を流す。ということもハルトにはなかった。実感がないのだ。死体を見たわけでもない。死んだかどうかも、確かめようがない。

 ハルトが顔を上げると、先からサエリがこちらを覗っていた。気づかないうちに物思いに耽っていたらしい。

「ごめん、待たせたかな」

 再びサエリを追って歩き出す。チラと後ろを振り返ると、下手な尾行でレーカがついてきているのが見えた。

 これ、どういう状況? 幻覚の少女を追いかけて、精神感応者テレパスの女に後をけられてる。

 車道に沿って歩いていると、珍しくゾンビが一体寄ってきた。ハルトは呪文を唱えて魔力の剣を出し、ゾンビを寸断してその頭を潰した。

 昔は咬まれることを恐れながら、へっぴり腰で錘を付けた鉄パイプを振り回したものだった。

 当時に比べれば強くはなったのだろうと思う。あのエルフの戦士には敵わなかったけれど。もしあの時、あのエルフの戦士を圧倒できたら、少しは状況も変わっていたろうか。エリさんも……いやよそう。考えても仕方ない。ハルトは己の頭を軽く叩いて、考えを打ち消した。

 サエリを追って歩いていると、周囲に緑が増えてきたことに気づく。伐採する業者などいないから当然だ。そして、そのせいで様変わりしていて、ここが何処なのかの理解が遅れてやってきた。

 緋雁ヶ丘地区。かつてハルトが通った内科クリニックがあり、〈審判の日〉に逃げ込んだショッピングモールのある場所だった。

 サエリが急に足を速めた。ハルトは慌てて、その小さくなる背中を追いかける。街路樹の通りを抜けイチョウの並木道を越え、サエリは緋雁ヶ丘駅に隣接して建つ大きなビルに入っていった。

 ハルトはそのビルを見上げた。壁面に派手に装飾された『緋雁ヶ丘IMA』のロゴが今なおかかっている。この建物はこの街で最も大きいショッピングモールであり、ハルトが最初に身を寄せた生存者集団がいた場所だった。

 ハルトはここにも一度だけ、戻ったことがあった。ちょうど今、歩いてる道を辿って。

 乱雑に、何かに突き崩された什器と棚のバリケードを跨いで通る。照明の切れた施設内は薄暗い。数m歩くごとに、ボロボロの端切れがこびりついた、ミイラとも白骨ともつかない死体が見つかる。目ぼしい装備は探索者に剥ぎ取られ、肉はネズミと虫に供されたのだろう。前に戻った時はまだ原型を留めていて、猛烈な腐臭の中、蠅がたかって蛆が湧いていた。ゾンビ化していなかったのは、内部分裂、あるいは他の生存者集団との戦闘になったためか。人間同士の殺し合いの場合、死体はゾンビ化しにくい。

 ハルトは停まって久しいエスカレーターを見た。そして思い出す。あの日、電撃呪文を無効化できる〈魔力の鎧〉を唱えて自律剣を従えて、勇んで階上へ駆け上がった。徹底して学んだ戦闘呪文を武器に、ここの集団の上層連中を殺して復讐を成し遂げるために。

 だというのに、目の前にあったのは腐りかけの死体。そして呻きながら覚束ない足取りで彷徨う、どこか見覚えのある顔のゾンビたちだけだった。

 ハルトはゾンビを破壊した。叫びながら笑いながら。ふざけるなと思った。勝手に死にやがって。滑稽だった。あれほど神経質に物資をコントロールしていたくせに、あっさりゾンビになりやがって。そして何より、それも知らずに毎日毎日、拠点にこもって怒りに震えながら呪文を学んでいた自分が可笑しくてたまらない。

 復讐は空振りに終わり、何も目的がなくなった。食欲も失せ、何もする気が起きなくなった。それでも結局、時間が経てば腹は減って栄養を求め、腹が膨れれば眠くなり、性欲だって湧いてくる。生きている限り。あさましくも。

 ちょうど今に似ているかもしれない。ハルトがそんなことを考えていると、目の端で動くサエリが見えた。彼女の細く小さな背中が、下階に続く螺旋階段を降りてゆく。

「今度はそっち?」

 ハルトもサエリを追って螺旋階段を降りていった。下階は吹き抜けになっていて、小さなステージの置かれたちょっとしたイベントスペースになっている。

 下階に降り立って見上げると、日の光がステージに降り注いでいた。陽射しのヴェールに包まれたそこは異世界、否、そこだけが喪われた前の世界のように見える。

 サエリはいなかった。見回しても、目の端に映る模様もない。どうやらここが終点らしい。

 ハルトは思い出す。この場所の記憶は、この施設の中で最もマシなものだった。〈審判の日〉、クリニックの待合室でゾンビに襲われて、追われて駆けて命からがら逃げ込んだのがここだった。上階からゾンビたちに丸見えで。もうダメかと思っていると、ゾンビたちは階段を使わず手摺を越えてこっちに来ようとした。

 結構な高さをゾンビたちは落ち、勝手に潰れていった。腰を抜かして呆然とその様を見ていた時だ。彼女が現れたのは。

「ようこそ生存者サバイバー」彼女はステージの中央で、ハルトを見下ろし声高らかに言った。「秩序は崩壊し死者が地上を歩み始めた。手を取り合って生き延びるか、一人孤独に突き進むかはボクら次第。キミが嫌でなければ、一緒に生きる道を模索しないかい?」

 陽射しを浴びて手を差し伸べてくる、同い年くらいの少女。彼女の姿は、異常な世界を正常化すべく天から遣わされた天使に見えた。安全靴にヘルメット、アーミーパンツとジャケットを身に付けた天使に。小さな顔には大きな丸眼鏡がある。レンズの向こうの彼女の大きな目は、自信と好奇心に満ち溢れていて。華奢な体に不釣り合いなリュックには何が詰まっているのかわからない。

 血と混乱の巷で、彼女の繊手は唯一射しこんだ光のように見えて。ハルトは我知らず立ち上がるとその手を取った。

「ボクは五十草イソグサ紗枝。キミは?」

 あの時のステージの台詞について、ハルトは後で紗枝に訊いてみた。見ず知らずの人間相手に、怖くはなかったのかと。ちょっと大仰じゃなかったかと。すると

「ずっと病院と家を行ったり来たりの生活でさ、友達なんかいなかったんだからしょうがないじゃん」そう言って彼女はそっぽを向いた。「でもまあ、やさしそうに見えたし」

 あの誘い文句についてはずいぶん勇気を振り絞ったらしい。

 それからの数日は、ハルトの中で恐ろしくも楽しい、奇妙な記憶として残っている。ショッピングモール内を探索し、ゾンビを避けて使える物資を集め、生鮮食品から先に食べた。

 気になる紗枝のリュックの中身は、大量の本だった。サバイバル本に医学書から科学研究書、歴史書から創作神話のホラー小説まで。雑多に多彩に詰め込まれていた。

「知識は力だハルトくん。電気インフラが死んだ今、紙の本は何にも増して貴重だ。できる限り集めるんだ」

 そんなことを言いながら、彼女は書店コーナーで手当たり次第本を集めた。

 その頃はまだ、モールに逃げ込んできた他の生存者とも互いに協力し合ってやっていけていた。しかし救援の兆しもなくモール内の食料が尽きてくると、生存者たちの関係は徐々に異様なものとなっていった。片手分もないドッグフードをめぐって喧嘩が起こる。時には殺し合い寸前まで。そして魔術士の男が呪文の力を暴力に変えて君臨し、他の生存者を従え始めた。逆らう者は見せしめに呪文の電撃に焼かれ、施設の外に放り出された。

「とうとう暴力による専制が始まってしまったか……」私刑の様を見て皆が震えあがる中、紗枝だけは冷静に見えた。そして小声でハルトの耳に囁いた。「外の探索中に、物資を分散させてあちこちに保管しよう。これから何が起きてもいいように」

 結局、紗枝さんの言うとおりになった。同い年とは思えないくらい、とても頭の良いひとだった。そういえばお母さんも、統京大の博士だとか言っていたっけ。ハルトは紗枝と過ごした最後の時のことを思い出そうとした。ベッドでゾンビによる咬傷に蝕まれた彼女は、最期に何を言ったのか。

 やっぱり聞こえない。思い出せない。聞こえてくるのは、あの日の喧しい雨の音だけ。彼女は強く、僕の右手首を掴んで……

「本当に聞こえない?」

 唐突に、声が聞こえた。思い出そうとしていた紗枝のものではない、市庁舎周りをウロウロしている女のものだ。ハルトは声の主に向かって振り向いた。

「レーカさん」精神感応テレパシーの力を持つ彼女が、ずっと後を尾けていたのは知っていた。「僕の心を読んだんですか?」

 別に腹も立たない。どうして尾けてきたのかは少し気になったけれど。でもどうして、泣き腫らしたように目を真っ赤にしているんだろう。

「読むも何も、あんたに近づくと否応なく聞こえちまうんだ。カムヅミカズラを探ってあれこれやった日から、力が強くなっちゃったみたいでさ。でもどうしたらいいかわかんなくて、あんたを尾け回してた」

 レーカは言いながら、グスグスと鼻を鳴らす。

「僕の心の声なんて、別に……」

「違うよ! あんたじゃない!」ぴしゃりとレーカは遮った。「あんたが気のいいやつなのは知ってるよ。あの時、助けてもくれた。これでも頭が悪いなりに、客は選んでやってきたんだ。でもさ、あんたひどいよ。ずっとずっと、その子はあんたに言ってるのに」

 言ってる。誰が? そんなの決まってる。ハルトは足元が急にぐにゃりと歪んだような感覚に陥り、よろめいた。

「その子の声を、あんたは聞いてない。聞こえてないんじゃない。聞いてないんだ。それがあんまり可哀そうでさ」レーカは顔を上げると、泣き腫らした目でハルトを見据えて「だから、その覆いを外してやるよ」

 レーカの瞳が灰色に光る。ハルトは膝から過去へと沈み込んだ。


**********


 虚ろだった紗枝の右の瞳が焦点を結ぶ。彼女の右手が痛いくらいに春斗の右手首を絞めつけた。

 この後確実にやってくる現実を想像し、体の震えが止まらない。

「ボク、さ……おねが……ある……」紗枝の言葉は掠れてやさしくも、氷の刃のように春斗の胸を刺し抉る。「ボクを、ころ……て…………るまえ、に……」

「できないよ!」無我夢中で春斗は叫んだ。「行っちゃダメだ! こんな場所に、こんな世界に僕を置いていくな! 行くなら僕も……」

 幼児のように駄々をこね、少年は瀕死の少女に縋り付く。誰よりも大切なのに、何もできない。綺麗に送ることさえも。

「はる……くん、さあ」紗枝の右の口の端が、ほんの僅かにゆるむ。その右の瞳がやさしい。「ここで、迷……せ、ないで……よ」

 紗枝の両目の瞼が下りた。眠りにつくように。そして、ハルトの右手を握っていた彼女の手が緩んだ。

 終わってしまった? 呆気なく。これでおしまい。春斗は膝をついたまま呆然と竦んだ。何もわからない。考えたくない。全身の血液が氷に入れ替えられたように冷たく寒い。

 そこで唐突に春斗は仰向けに倒され、頭をしたたかに打ちつけた。反射的に起きようとするも、両の上腕に食い込む爪がそうさせない。

「ア゛ア゛ア゛ア゛ァァァァァア゛!」

 叫びが少女だったものの喉を迸る。そこでようやく、春斗は自分が紗枝だったものに圧し掛かられていることを理解した。左肩に、彼女だったものの歯が食い込む。顔を向けると、赤と黒に染まった狂気と目が合った。春斗が痛みに呻いても、歯はいっそう強く食い込んだ。爪の伸びた左手が振り上げられ、顔面に振り下ろされる。春斗の頬がひしゃげ削げ、爪に掻かれて眼が血で染まった。

 真っ赤に染まってゆく視界で、春斗はもうこれでいいやと思った。ここで終わるなら、それで……二度、三度と手が振り下ろされる。

「あ、がっ……」

 肉体の反射として声が漏れる。痛い、苦しい。でももう少し、もう少しで何もかも終わる。春斗は己に言い聞かせた。

 しかし四度目はなかった。春斗が恐る恐る打たれ脹れた瞼を上げると、紗枝が右手で自身の左手首を握り締めていた。元のブラウンに戻った右目に、涙を浮かべて。

「や……だ……」その言葉は、歪んだ喉から引き絞るように発せられた。「こ……つに、ころ……れたく……い」

 そして紗枝の右の瞳が、続きを言った。


 春斗くん、ボクを殺して。体の中に入り込んだこいつに殺されるなんてまっぴらだよ。


 その瞬間、春斗は両手を紗枝の首にかけていた。彼女の首は細く、簡単に手が回ってしまう。そして絞めた。両手で強く。抵抗はない。紗枝は右手で自身の左手を掴んで止めていた。

 手が、体が震える。自分がしている行為の是非など、春斗の頭から消し飛んでいた。ただ、紗枝を渡したくない一心だった。この世界を覆い尽くす死を、惨劇をもたらした存在に、紗枝のひと欠片たりとも持って行かせたくなかった。

 下からだと力が入らない。春斗は体を起こすと、紗枝を床に押しつけなお絞めた。紗枝の目から涙がこぼれ床に落ち、口がパクパクと動く。まるで言葉を発するように。

 いや、聞こえていた。今、ハルトにはそれがはっきりわかった。確かに紗枝さんは僕に告げたんだ。小さな、小さな声で。でもはっきりと。初めて会った、好奇心と自信に満ちたあの頃の瞳で。


 大好きだよ春斗くん。だから、キミをこの世界に残すボクを憎んでいい。憎んでいいから、憶えていて。


 でも僕は、忘れることを選んでしまった。自分のやってしまったことが怖くて、許せなくて。心の奥でずっと響き続ける彼女の声に耳を塞いだ。

 紗枝さんが動かなくなった直後のことは、なんとなくしか思い出せない。うまく立って歩けなくて、コンロにぶつかって玄関を出た。煙の昇るマンションを出て、雨の中を彷徨った。その時ゾンビに襲われなかったのは、同類と思われたからかもしれない。

 気づけば民家のリビングに倒れていて、高熱と悪寒に喘いだ。紗枝の爪と歯が食い込んだ箇所の血が止まらず、猛烈に痛んだ。朦朧とする意識の中で、朝には廃墟をゆく死者の仲間入りだと喜んだ。

 だというのに、朝が来た。大切な人がいなくなっても、世界はそのままに日は昇る。

 出血はいつの間にか止まっていた。


**********


 ハルトは膝を着き、胸をかきむしる。嗚咽が止まらない。堰を切ったように涙が溢れて落ちる。胸のなかに向かって話しかける。紗枝さんを憎むなんて、できるわけないじゃないか。

「なんだ、ちゃんと憶えてんじゃん」ぐずぐずと泣きながらレーカが言った。「あの日から、たくさん人が死んだよ。生き残った奴らはみんな、誰かを失くしてる。死んじまった人の全部をいちいち受け留めてたら、そりゃ潰れちまって立ち上がれないさ。でも立てるようになったら、歩けるようになったら、死んじまった連中の語る言葉も少しでいいから聞いてやろうよ。そして一緒に歩いていくんだ。死者が行くのは墓場でも、天国でも地獄でもない。生者の記憶の中、生きて積み重ねてゆく刻の中なんだ」

 鼻をすすりながら、ハルトは手で顔を拭った。大きな胸のつかえがひとつなくなり、いくらか気分がいい。そうか、大好きか。紗枝の告白に嬉しくなって、つい顔がゆるんでしまう。僕も大好きだよ、紗枝さん。

 死は、喪失はきっと、埋めるべきものでも乗り越えるなんてものでもない。ただそこにカタチあることを認めて、一緒に歩むべきものなんだろう。確かにそこに、君はいたのだから。

「意外と詩人なんですね、レーカさん」

「柄じゃないのはわかってるよ」そこでレーカは照れ臭そうな笑顔を見せた。「でも、あんたにその子の声が聞こえなかったの、あんたのせいだけじゃないかもしれない」

「えっと、どういうことですか?」

「記憶の中であんたの目を耳を覆っていたの、その子の手だった。その子にも、あたしみたいになっちまう素質があったのかもしんない」

「おかしくないですか、それ」ハルトは言った。「紗枝さんが自分で言ったのに、それを聞かせたくなかった、みたいなことになりません?」

「さあて、それはその紗枝って子にしかわからないよ」レーカは意味深な笑みを浮かべる。「でもちょっとわかるかな。だって好きなひとには、できるだけ綺麗な姿のままで、憶えててもらいたいじゃん」

 そんなものか。女心というやつなのかな。僕には難しいや。ハルトはそんなことを考えながら立ち上がった。降り注ぐ陽射しに目を細める。刺された時以来、ずっと靄がかかったようだった頭がクリアだ。痛みにかまけてわからなかった、あの時のエリさんの言葉の続きも、今なら聞き取れる。


 あなたにメルネヴェのことはわからない。そういうことにしておくの。いいわね?


 メルネヴェびとに、エルフに関わってはだめ。そしてわたしのことは忘れなさい。エリさんが言いたかったのはそういうこと、だったのだろうか。小さく掠れて震えた彼女の声が、ハルトの胸の空隙をかきむしってゆく。

「ついでにもうひとつ教えたげる」ボロボロのハンカチにチーンと鼻をかんで、レーカは言った。「あんたが刺された時にあたしが聞いたのはね、あんたの叫び声じゃない。女の、あのエルフの女の悲鳴だったよ。とんでもない恐怖と痛みの叫び。普通は自分がどんな酷い目に遭ったって、あんな"声"は出せない。自分で自分の手足を切り落としたってね」

 エリさんらしい、とハルトは思う。意味深でいて、実はさほど深くもなくて。あまり言いたくないことがあると、エッチなことで誤魔化して。そう、誤魔化してきたんだ。僕らは互いに。肝心なことは口にせず、体を重ねただけで対話した気になっていた。

 ハルトはステージを振り返った。そして胸のなかで告げる。さようならは言わないよ、紗枝さん。君のカタチが僕を作ってる。だからずっと一緒だ。そしていつか、僕も誰かをカタチ作るものの一つになる。なれるかな? ちょっと自信はないけれど。

 光射す方向に目を向けて、ハルトは螺旋階段を上ってゆく。そして瞼に浮かぶ、去り行く女の背に語りかけた。話をしよう、エリさん。僕のことをたくさん話す。だから、あなたのことを聞かせてほしい。

「行くのかい?」下階のレーカが見上げてきた。「刺してきた女を追いかけるなんて、とんだモノ好きだ。他にもいい女はいっぱいいるだろうにさ」

「しょうがないんですよ、ろくにモテたことないから。ちょっと好意を向けられるとすぐ勘違いするんです」

「よく言うよ!」

 朗らかな笑顔に送られて、ハルトは地上に立った。そして歩き出しながら考える。エリさんに会おう。でも事はそう単純じゃない。それをするためには、色々足りないものがある。ただ亜邑に出向いたところで、穏やかに話ができる可能性は皆無だろう。取引できる材料もない。なら無理やりにでもに乗り込むしかない。

 戦いになる。相手はエルフの魔術師たちだ。人間の何倍もの寿命を持ち、その時間を魔法の研究に費やしている。そんな種族を相手に、同じ魔法で対等にやり合うなんて、僕の寿命の時間全てを使い尽くしても不可能だ。だったら……

 まず足が、クルマが要る。ハルトは拠点へ急ぐために足を速めた。




「せんせーさよーならー」「ならー」

 ノートと筆記具が入ったカバンを背負って、子どもたちがプレハブ校舎の扉を出ていく。その後姿はみな、常人の子どもとは程度の差こそあれ異なっていた。狼のように尖った耳を持つ子がいれば、首筋を鱗が覆っている子、背に翼が生えた子もいる。

「はいさようなら」

 手を振って子どもたちを見送ると、トンジャサワ・アツロウは窓の外を見た。拡がる畑が、その向こうにプレハブや丸太の家々が、夕暮れの陽射しに赤く照り映えている。畑道を子どもたちが駆けてゆく。〈審判の日〉の惨劇など、嘘のように穏やかな光景だ。

「ああ、しんどい」

 ずっと立ち続けがしんどいのは、変異のせいか単に年齢のせいか。アツロウは椅子に腰かけると、ポリタンクから伸びるホースを触手の奥の口に運んで水を飲んだ。

 先生稼業もすっかり板についてしまったな。とアツロウは思い返す。当初は教員免許など持っていないことを理由に断ったものの、結局押し切られてしまった。自分以外、高等教育を受けた者がここにはろくにいなかった。そして何よりこの変異者共同体の長、〈狼王〉ことシバの頼みとあっては断れない。〈審判の日〉直後の禍中を地下研究所で過ごし、地上の状況のわからなかったライカと二人、廃墟を彷徨ううちに偶然ここを見つけた。その時に受け入れてもらえねば、今も生きてはいないだろう。そもそも他の皆と同じように畑仕事などしたら、あっという間に干からびてしまう。変異後、妙に頭が良くなったせいで、今は医者の真似事まで任されていた。

 ふと気づくと、窓の外はすっかり暗くなっていた。ついこの間まで、この時刻でもまだまだ明るかったというのに。

 夏が終わり、秋がやってくる。人類が総人口の推定9割を失い、歩く死者に、あるいは人と似つかぬ姿となっても季節は巡る。

 この星の歴史のなかで、生物は常に危機に晒されてきた。ある種は滅び、ある種は生き延び、またある種は別のカタチへと姿を変えて生き続けた。我々人類はどの道を歩むのか。まだ答えは出ていない。純粋なる知的興味として、アツロウはその答えを知りたいと思った。その前に寿命が尽きるのが先ではあるのだろうけど。

「よっこらせ、と」

 自身に声掛けして、勢いをつけて椅子から立ち上がる。子どもたちに言わせれば「おっさんの証拠」だそうな。別にいいではないかと思う。私はもうすぐ30歳。立派なおっさんだ。

 室内はもう真っ暗だった。そろそろ診療所に戻らねば。アツロウがプレハブ校舎を出ようとしたところで

「こんばんは」

 聞き覚えのある声がかかった。変異し夜でもほぼ昼間と変わらず見える眼で、アツロウは声の主を見る。人間、特に変異の外見兆候の見られない少年。彼はその卓越した魔術の力を振るって、幾度となく共に戦った。

「ハルト君か!」アツロウは驚いた。先日、錬馬市庁舎を訪れた際に、彼はパートナーの女性に刺されて生死の境を彷徨っていると聞いていたから。「無事だったのかね?」

「お蔭さまで、なんとか」苦笑交じりの声で、彼は言う。「アツロウさんも、元気そうでよかった」

 ハルト少年には見たところ、変調はなかった。ただその背に木材で組んだ背負子を負い、ブルーシートで包んだ大きな何かを縛り付けている。

「その、なんだね」訊いてよいものか数瞬悩んだものの、結局アツロウは訊いてみることにした。その事に触れないのは却って変だろうと思った。仲睦まじかった二人を知っているから。「エリ女史については……」

「そのことを含めて、相談があるんです」

 ハルトはそう言うと、背負子を下ろしてブルーシートを解いた。

「!?」アツロウはそれを見て息を呑んだ。「それは……」

「はい、あの研究所にあったものです」

 プレハブの床に、あの時、共に破壊した実験サイボーグゾンビの骸があった。頭部は顎から上が砕け、腰から下がない。しかし信じがたいことに、まだピクピクと時おり小さく動いていた。

「あそこにあった書類とデータも、目につくものはひと通り回収してきました。足りないようならまた行きます。これまで稼いできた全財産も渡します。だから」ハルトはアツロウを見つめた。狂気すら感じる透徹した瞳で。そして言った。「これを使えるようにしたいんです。僕の体で」

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