4-5. そんなおとぎ話
エリィルラルは当時を思い返す。それからしばらく、一人で生きた。人間たちの建物には水も食料もまだ残っていたし、生き残りのマヴドなど、どうとでもできた。自身の容姿がマヴドの男の目にどう映るかなど、世界がこうなる前からよく知っている。初見で殺されることはまずない。少しずつ釣り出して、科を作って体を与える素振りを見せれば、簡単に物資を回収できた。中には純粋な善意で寄って来た者もいたのかもしれない。けれどメルネヴェの社会しか知らない女の目には、獣欲に満ちた男たちとの差など見出せなかった。
彼に、出会うまでは。
今、眼下にいる彼は、瓦礫の合間を駆けている。装飾のない実用一点張りの、素朴な作りの魔力の鎧を身に帯びて。
現状、農場予定地に侵入した23体のカムヅミカズラの内、18体が乱戦の中で焼かれ切り倒されていた。その間に農場建設予定区画の建造物の半数以上が瓦礫と化した。錬馬市避難センター側の人的損耗は3名。内、探索者の2名が軽傷を負い、銃器の訓練を受けたばかりの生存者1名が圧死していた。
粉塵立ち込める瓦礫の上を舞うドローンが、搭載スピーカーを通してスドオ調査官の言葉を伝える。
――諸君の活躍で、農場建設予定区画の解体率が72%を超えた。これ以上、欲を出して犠牲を出すのは本末転倒だ。総員、残存カムヅミカズラを集中攻撃。群れを砦北公園へのルートへ向けて追い出してくれ――
何なのあの女? ハルトがいなけりゃ何もできない癖に。後方から指示だけ出してくる復興庁の女に苛立ちながら、エリィルラルは半ばで折れた鉄塔の上から戦況を見下ろした。
瓦礫に覆われた地表を、オフロード仕様の側車付二輪車が疾駆する。乗り込むのは渦巻角と蹄の大女、アイベともう一人。
メルネヴェびとの鋭敏な耳に、彼女たちの会話が飛び込んできた。
「おいレーカ! アタシらいつまでやり合ってりゃいいんだい?」
銃声とカムヅミカズラの暴れる騒音のなか、バイク側を駆るアイベが叫ぶように問うと
「ひゃっ」側車で頭を抱えて悲鳴を上げた女は、市庁舎前でたむろしているマヴドの超能力者の一人。「……まだ、まだだよ! やる気まんまんって感じだよ!」
彼女、レーカは精神感応でカムヅミカズラの思考を探るため、この作戦に駆り出されていた。
「女王を護れって興奮してる」レーカは灰色の瞳を彷徨わせると、瓦礫の荒野の一点を指し示す。「女王は……あそこ!」
エリィルラルはレーカの指の先を見た。瓦礫でできた丘の上で、4体のカムヅミカズラが蔦と枝で編んだ籠のようなものを囲んでいる。囲むカムヅミカズラの蔦に生えた棘は通常のものより一回り大きく、表皮は鎧のような黒い襞で覆われていた。
レーカの言葉をドローンが拾い、またスドオの放送が一帯に響く。
――4体の近衛樹が〈女王の若木〉を護っている。あれに攻撃を通せば、危険を理解してカムヅミカズラの播種群は退く可能性が高い。諸君、誘導するので向かってほしい――
黒いカムヅミカズラの元には、既に戦っている者たちがいた。宇宙服のような姿の大男が、見覚えのあるエネルギーMGを撃つ。ならばその傍で光弾をばら撒いている小柄なガスマスク姿はライカだ。彼女は蔦による攻撃を器用に飛び跳ねて躱しながら、攻撃の手をゆるめない。
浮遊するドローンに誘導され、他班の探索者たちが〈女王の若木〉を護る近衛樹、黒いカムヅミカズラに向かう。
そして、ハルトも
「エリさん!」ハルトがエリィルラルを振り仰いで呼びかける。「援護よろしく!」
ハルトに見えるように頷いて返すと、エリィルラルは鉄骨を飛び降りた。乱戦で多くの建物が倒壊したため、ここからは地上を行くしかない。駆け出しながらライフルのエネルギー残量をチェックし、ハルトに続く。
「先に行ってるよ!」
呼びかけながら、側車付二輪車のアイベがハルトの横を通り過ぎる。隣のレーカは半泣きだった。
オフロードのバイク、あったら便利ね。ハルトとタンデムとかちょっと楽しそう。エリィルラルがそんなことを考えていると、不意に、その長い耳が振動を捉えた。この音は……まずい!
注意を促すため大声を上げるべく、エリィルラルが息を吸い込んだ瞬間
先行するアイベとレーカの側車付二輪車が、直下の瓦礫から突き出した根に吹き飛ばされた。
「ぐぅっ!」「ぎゃん!」
アイベとレーカがシートから放り出され、瓦礫の上を転がる。
瓦礫の下から1体のカムヅミカズラが這い出す。怒れる樹木は伏して呻く2人に向かって蔦を振り上げた。
エリィルラルはエネルギーライフルの銃口を蔦に向けるも、2人とカムヅミカズラの距離が近すぎた。蔦だけに当てるには偶然の助けが要る……
エリィルラルの躊躇の間隙を、2つの輝きがすり抜けた。ハルトが呼び出した二振りの自律剣は回転しながら蔦に襲いかかり、これを切り裂く。
カムヅミカズラの相手を自律剣に任せ、ハルトは倒れた二人に駆け寄った。彼は右腕にアイベ、左腕にレーカを抱えて跳び下がり、カムヅミカズラから距離を取る。
射線が通った。エリィルラルはカムヅミカズラの蔦を、本体の幹と獲物を取り込む口を狙ってトリガーを引いた。既に建物の破壊は済んでいる。殺し枯らしても問題ない。これ以上利用できなくなったとしても、復興庁の都合など知ったことじゃない。
撃たれて蔦の勢いの弱ったカムヅミカズラに向かって、魔力の剣を手にしたハルトが斬り込んだ。彼は躍る蔦を斬り払いながら、幹まで接近し〈焔の右手〉の呪文を唱えた。円錐状に炎が拡がり、カムヅミカズラが燃え上がる。
力なくもがき、燃え落ちる怪物の樹を背景に、輝く剣を手にしたハルトはアイベとレーカの元に向かった。
「大丈夫ですか?」
「あ……ああ、大丈夫」上体を起こしたアイベは答えるも、その顔を顰めた。「と言いたいところだけど、右足をやっちまってるね。歩けないとなると作戦続行は無理だ。ハギオが治しに来るまでここで休ませてもらうよ」
「そうしてください」言いながら、ハルトは〈女王の若木〉のある方角を見遣る。「あとは僕らでやります」
そんなハルトの横顔を見上げて、アイベはひとつ溜息をついた。エリィルラルはほんの一瞬、彼女の目と目が合った気がした。特徴的な四角い瞳孔の目に浮かんで消えたのは、羨望、それとも嫉妬? エリィルラルはマスクの下で口角が上がるのを自覚した。
「ちょっと見ない間にまったく……」アイベは苦笑を浮かべると、隣のレーカを見た。「おいレーカ、なにぼうっとしてんだ?」
大きな怪我はなかったようで、レーカはぺたん座りでハルトを見ていた。ぽかーんと、何かに魅入られたかのように。アイベに肩をゆらされても反応がない。
「ハルト、あなたね……」
エリィルラルは言いかけて、止めた。ハルトと黒いカムヅミカズラに向かって走りながら。見返してくる彼の目に、自分のしていることの自覚がまるでない。
魔力の鎧を着て、輝く剣を携えたハルトの姿は、その行動と相俟って彼女たちに強烈な印象を与えたに違いない。颯爽と現れ危難から救ってくれる魔法の戦士。女の子がそんなおとぎ話を好むのは、メルネヴェもマヴドも変わらない。
そう、わたしも似たようなもの。自嘲しながらエリィルラルは思い出す。避難キャンプを出て放浪を始めて、ひと月も経った夜のこと。地下鉄駅から現れた二人組の男のうち、一人の喉を背後からキッチンナイフで裂き、もう一人の脇腹に突き入れた。彼らの服の端でキッチンナイフを拭いながら装備を物色していると、アレは現れた。音もなく。ただ漂ってきた硫黄とも腐臭ともつかない悪臭だけが、その存在の接近を報せた。
ミ=ゴ。ユゴスよりのもの。菌類と甲殻類の混ざったような奇怪な姿のそれは、副腕に銀色の装置を携えていた。
振り向いて確認などせず、即座に走り出せばよかった。そう後悔する間もなく。装置が光って見えた瞬間、エリィルラルの意識は途切れた。
目を覚ますと、黒く硬い樹脂のようなものでできた部屋の中にいた。格子状の壁の一面から射し込むぼんやりとした光の下で、エリィルラルは自分が一人でこの部屋にいること、そして全裸であることを知った。格子壁の向こうから、叫びと嗚咽、狂ったように繰り返される文句が聞こえてくる。
他にも自分と同じような境遇の存在がいるらしい。これからどうなってしまうのか。伝え聞くミ=ゴは星の彼方から飛来し、知識を得るために知的種族を脳だけにして主星へ持ち帰るという。そのことを想像して、背を走った悪寒にエリィルラルは身を縮こめた。わたしの頭の中には〈百万の帳の書〉がある。ミ=ゴはそれを奪うつもりなの?
わからない。わからないまま、エリィルラルは時を過ごした。室内は暑くも寒くもなく、右の壁から太いミミズのような管が突き出し、妙に甘い匂いのする液体が垂れて床に染みていた。渇きに耐え切れず液体を手で掬って飲むと、どろりとした食感の無味の液体が喉をとおり、渇きと飢えを満たした。周囲に変化らしい変化はなく、格子の向こうから狂える者たちの叫びと悲鳴が聞こえてくるだけ。答えを期待し話しかけてみても、まともな反応が返ることはなかった。
帳の技で脱そうと試みたこともあった。けれど呪文を探り当てるための精神集中が、決まって上手くいかなかった。意識の深層に降りて目的の呪文を探そうとするも、どういう理由か見つからない。長く深層に潜っていられず、意識が強制的に浮上させられてしまう。ミ=ゴは別次元の同族と交信する技術を持つという。彼らの何かが魔法の準備に干渉していた……のかどうだったのか。
目的もわからず、ただ生かされているだけ。何日、それとも何ヶ月? 変化なき日々に、脳を取り出される恐怖すら鈍る。無為な時間を過ごしながら、それでも死を選ばなかったのは、狂わずにいられたのは、〈帳の司書〉の資質、強力な次元操作魔法の行使に耐えきるための、並外れた精神抵抗力のお蔭か。
初めは、幻覚だと思った。ぼんやりとした光がゆらぎ、時に翳る。何かがこちらの格子に近づいてくる。それが人影だと認識された瞬間、鈍化したエリィルラルの意識が活性を取り戻した。人の手足を備えた形の影、人間、マヴド!?
「あなたマヴド? 人間なの!?」
エリィルラルは格子に張り付いた。やってきた人の姿がはっきり見える。魔力の鎧を身に纏う小柄な姿に、初めは女の魔術士かと思った。その声もガスマスクでくぐもっていて、性別も判然としない。
「そこから少し離れてください!」
大きく発された声は年若い男のもの。意味ある言葉が耳に心地いい。
格子の壁は粉砕され、エリィルラルは解放された。彼に手を引かれてミ=ゴの建造物を出て、傾く陽の光の下で彼の素顔を見た。
その時ひとたび高く胸が鳴ったのは、安堵と解放感のため。だけではなかったかもしれない。
大人になり切れていない顔立ちは少年のもの。薄く明るい黄褐色の瞳は、二ホン人には見えない。まるで琥珀のよう。鼻梁はすっきりと通り、ウェーブのかかった黒髪を後ろで束ねて結わえている。少しだけ、ほんの少しだけドォラクムに似た雰囲気がある。話すとまだまだ幼いものの、言葉と行動の端々に、ここまで生き抜いた苦難の時が滲んだ。
それでもあなたは迂闊過ぎよ。エリィルラルは今にして思う。訊かれるままに、一緒に暮らす女はおらず、一人であることを明かしてしまうなんて。だからわたしのような悪い女に捕まってしまう。ミ=ゴを易々と屠る力と魔術の技量を持ち、安全な拠点を構築し、お風呂まで炊ける。組織的な背景もない。お得な人材過ぎる。
だからつないでおこうと思った。体でも何でも使って。こちらの体をチラ見しては目を逸らす仕草から、女慣れしていないことはよくわかった。経験がないのは間違いない。事は簡単。
なのに、それとなく誘っても乗ってこない。童貞が過ぎるにもほどがある。とうとうわたしを別室に追いやって、自慰に励もうとする始末。このわたしが傍にいるのに。エリィルラルは激怒した。必ずやこのマヴドの少年をわたしに溺れさせてやろうと決意した。エリィルラルには少年の心の機微などわからぬ。エリィルラルはメルネヴェの〈帳の司書〉である。民に傅かれ、何不自由なく育った。しかし女としての矜持だけはひと一倍だった。
褥で待ち受け、情欲を煽り立ててもつれこむ。誤算は、彼との交歓が思いのほか心地よく、胸の空隙を満たすものであったこと。
そして彼と生きる毎日が、謎に覆われた崩壊世界を歩む日々が、ことのほか楽しいものであったこと。
エリィルラルがゆるくなだらかな瓦礫の丘を駆け上がると、黒いカムヅミカズラが見えてきた。戦闘はいまだ継続しており、黒いカムヅミカズラは4体とも依然として健在だった。
ライカが軽やかな身ごなしで蔦を躱しながら、エネルギーSMGを幹に向けて撃つ。光弾は黒い表皮を削るばかりで、大きなダメージには至っていない。ライカを追って伸びてくる蔦を、アツロウが牽制し追い払った。彼は人に近い両手で車載機銃サイズのエネルギーMGを撃ち、更に左右の肩それぞれから伸びた触手で陸軍の88式小銃を自在に操り、撃つ。
「お? やっと来たなハルッちにねーさん!」トンボ返りで蔦を躱しながら、ライカがこちらを見た。「手ぇ貸してくれ!アイツら、撃ったそばから治って……ってあちゃちゃちゃ!」
着地した彼女の横を、棘付き肩パッドの男が放つ自製火炎放射機の炎が過ぎる。ここでも熱を感じるのだから、近くにいたライカはひとたまりもない。
「あちいんだよモギぃ!」
「すまねぇ」棘付き肩パッドの男、モギは赤く染めたモヒカン刈りの頭を軽く下げた。「でもあのバケモノ植物、〈消毒くん〉の火が効いてねぇ!」
黒いカムヅミカズラの表皮は火に焙られても、軽く煤で染まったかに見えるだけ。更には光弾で削られ実弾で穿たれながら、破損部位が修復されてゆく。数十秒もすると元どおりだ。
「パイロファイトか。それもとんでもない代謝を持つ」アツロウが言った。触手だけで器用にライフルの弾倉を交換しながら。「ある種の植物は火と高温に強い耐性を持つ。山火事を繁殖に利用する種もある」
これはまた厄介ね。とエリィルラルは思う。見る限り、エネルギー火器があまり効いてない。支給された軍のライフルを含め、クルマに実弾火器を積んできてはいる。が、今から取りに戻る時間もない。こんなことなら最初から88式小銃にしておけばよかった。
「色々試してみるしかなさそうですね」ハルトはまだ現出時間の残った自律剣を呼ぶと、黒いカムヅミカズラに向けて先行させる。そしてエリィルラルを一瞥して「ちょっと行ってきます」
背中は任せます、と少年の目は語って見えた。
「行ってらっしゃい」
言ってエリィルラルは武装を腰のホルスターにある9mm拳銃に切り替えた。他の探索者の攻撃手段を見ても、多少マシな効果を上げているのは、復興庁から支給された5.56mm他の実弾火器だった。
一箇所に留まっていては狙われる。エリィルラルは駆け出しながら、カムヅミカズラの黒い幹に向かって引き金を引く。9mm弾が当たると黒い襞が小さく弾け、中の緑の肉めいたものが飛び散った。しかし傷は小さく、エリィルラルが駆けている間にも治ってゆく。カムヅミカズラに撤退を決断させるにはほど遠い。
ハルトは自身の持つあらゆる手段を黒いカムヅミカズラに向けて試した。自律剣、魔力の剣、魔力弾、〈焔の右手〉、そして〈氷霧の左手〉を。
彼の手から白く細かな氷の針が円錐状に放たれ、黒いカムヅミカズラの棘の大きな蔦を襲う。
霜の付いた蔦は途端に動きを止め、力なく垂れた。枯れ折れた蔦の棘が地面の瓦礫に当たると、乾いた音を立てて折れた。
その様を見てエリィルラルは思う。低温が弱点なのね。ならなんとかなりそう。ハルトは氷焔の魔術領域でも高位の呪文を唱えられる。彼の実力はもう魔術師の位階に手が届いている。2領域以上の高位呪文の熟達が、魔術士から魔術師への到達条件の1つだ。かつては2領域に熟達すると、領域を融合させた更なる高位の位階に進むことができたとメルネヴェの記録にある。けれどその術はもう、種族の彷徨の途上で失われて久しい。
「きひひひひっ!」
甲高い怪鳥のような笑い声が響く。エリィルラルは咄嗟に笑い声に銃口を向けかけて、留まった。見れば、ひょろりと細く背の高い女がハルトの隣に立っていた。白く長い骨の槍を手にして。彼女については見覚えがあった。確か、この作戦実行前のミーティングにいた。
「やあやあいい丈夫ぶりだねぇ」女は言った。ハーフマスクに覆われていない彼女の目は、その瞳孔は蛇かトカゲのように縦に細長い。「こりゃ姐さんがWSSしちまうのもわかるよう」
「ハギオさん!」
ハルトは女を知っているのか。彼が言った名を、エリィルラルは記憶から掘り起こす。ついさっきアイベが口走った名前ね。ならば彼女はアイベの徒党の者か。
「姐さん助けてくれてありがとねぇ」ハルトに向かって笑みで目を細めると、ハギオは魔力回復剤を飲んで空の小瓶を放った。そして黒いカムヅミカズラに向き直る。「こっちを試してみるよう。危ないから少し下がってねぇ」
ハルトの自律剣が飛び回る蔦の渦中を、ハギオは槍を振るって突き進む。密林の豹のようなしなやかな身ごなしで。そして幹に接近すると、彼女は大きく息を吸い込み、口から白い飛沫の霧を吹き出した。
飛沫はカムヅミカズラの黒い蔦に、幹に付着すると煙を上げ始める。じゅうじゅうと焼ける音が聞こえてくる。蔦がもだえ苦しむように跳ねて引っ込んだ。
〈酸の息吹〉。〈骨の槍〉と合わせて肉変領域の呪文ね。彼女は元々魔術士だったのか、ハルトのように〈審判の日〉後に学んだのか。エリィルラルは後者と判断した。折り目正しさなど欠片もない、野生の獣めいた戦い方と呪文の使い方は、正規の魔法教育を受けた者の階層のそれではない。
かつて魔法を学べるマヴドは、社会の高層、富裕層に限られていた。それは魔法の力で社会を混乱させたくないマヴドたちの都合以上に、この世界での地位を確固たるものとしたいメルネヴェびとの都合による。太古のそれとは比べるべくもない稚拙な技でも、植民世界の権力層のみの特典とすれば、メルネヴェの種族の権威と権益は保たれる。
社会の崩壊によって垣根がなくなった今、ハルトや彼女のような在野の者が、生き抜くために誰憚ることなく魔法の力を振るっている。その力は今のような時代においてこそ、有効に活用されているように思える。魔法の学習に垣根がなければ、今の世界は魔法の力でもう少し秩序を保てたのかもしれない。それとも更に混乱した?
歴史にもしもを考えてもキリがない。ハルトとハギオの呪文の力で、ようやく形勢が有利に動き出した。エリィルラルは射線を確保するためと移動しようとして
前にのめって転んだ。
すぐさま体を転がし、少しでも位置を動かして状況を確かめる。足元に積もった瓦礫から緑の細い蔦が伸び、右のふくらはぎに巻きついていた。エリィルラルは拳銃をマチェーテに持ち換え、これを切断する。激しい戦闘の音に、地下からの接近を聞き逃した。
そしてエリィルラルは立ち上がろうとして、できなかった。右脚に、下半身に力が入らない。立っていられず崩れ落ちる。転んだ時の衝撃で気づかなかった。軍用パンツの右裾が裂けている。
やられた。麻痺毒が効き始めて両脚が動かない。エリィルラルは腕で這って少しでも距離を取ろうと足掻くも、瓦礫に空いた穴から伸びてきた2本目、3本目の蔦に体を絡め取られる。ハルトたちとの戦いで消耗したカロリーの補給でもするつもり? 腿に、肩に、軽い衝撃が走り麻痺が始まる。痛みがないのが不気味で仕方ない。棘がガスマスクのベルトを裂き、蔦がガスマスクをもぎ剥がした。
これで花粉を吸って窒息すれば、リーヴィルトと同じ死にざまね。呆気ない。とエリィルラルは思う。この混乱で、どれほどのマヴドとメルネヴェびとが、こうして命を落としたのか。理不尽に、不条理に。けれどわたしのこれは必然かもしれない。因果応報。この世界のマヴドの信仰に基づくなら、悪行はそれに相応しい報いがあるのだから。
かすむ視界がうっすらと黄色みを帯びる。これで終わり。でも不思議とあまり恐くなかった。思えばこの数ヶ月がおかしかったのよ。わたしはあの時リーヴィルトと死んでいるか、あるいはメルネヴェの民を次の次元に運んで死んでいるべきだった。だから本来の在り様に戻るだけ。
だというのに今、引き延ばされた時間の中で思い起こされるのは、〈帳の司書〉として生きた時間より、彼と過ごした日々のことばかり。あの異星生物から解放されて、初めてわたしはわたしとして生きた。死者が闊歩する、この異常な世界で。
呼吸が浅くなり、空気を吸えなくなる。胸が、肺が熱くかゆい。思考も靄がかかったようにはっきりしない。わたしはろくでもない終わり方でいい。でもできることなら、成長してゆくあなたを、もっと……エリィルラルが意識を手放そうとした瞬間
紅蓮の炎が視界を埋めた。
炎は一瞬でカムヅミカズラの花粉を焼き尽くし、光輝が閃きエリィルラルに巻きつく蔦を切り裂く。次の瞬間、エリィルラルはハルトに抱きかかえられていた。メルネヴェびとの目でも捉えきれない彼の速さは、神経賦活の呪文によるもの。ハルトの口は呪文を唱え、手指が印形を描く。あまりの速さに口と手指がブレて見える。
耳を貫く破裂音が、3度。ほぼ同時に瓦礫の丘を鳴り渡る。
エリィルラルがかろうじて動く目で音の鳴った方角を捉えると、4体の黒いカムヅミカズラが白く凍てつき動きを止めていた。蔦の棘の先に、小さくも咲き誇る花のような氷の結晶を付けて。
誰かが凍てついた黒いカムヅミカズラをライフルで撃った。タタタンと3点バーストで。銃声が響く。その音が鳴り終わったタイミングで、黒いカムヅミカズラの幹に亀裂が入った。宙に止まった蔦の1本が折れて落ち、また折れ、またまた折れて。
黒いカムヅミカズラはバラバラと砕けて、瓦礫の上に折り重なっていった。
ハルトは氷焔の高位呪文、広範囲を極低温で破壊する〈氷華の庭園〉を唱えたのか。それも高速で3度。黒いカムヅミカズラの再生力を上回るために。
「ハ……ト、あな……」
なんて無茶を。神経賦活は脳と神経にかかる負担が大きい。エリィルラルは自分を抱えるハルトを叱ろうとするも、麻痺が残って言葉が形にならない。
エリィルラルの言葉を理解したのか誤解したのか。
「けっこう練しゅうしたんですよ、神けいふ活呪もん」呪文の副作用で舌足らずな口調で言いながら、ハルトは得意げな笑みを浮かべた。「だから、もう立つことだって」
ハルトはエリィルラルを抱えて立ち上がる。プルプルと足腰から震えているので、やせ我慢は明らかだった。彼の魔力の鎧はとっくに効果時間切れで消えていた。その鼻から血が垂れ落ちる。
「まったく……」
麻痺が抜け、舌が回るようになってきた。色々耐えるハルトの顔を見ているうちに、叱る気も失せてきた。そもそも助けられて、叱れるような立場でもない。下半身にはまだ麻痺が残り歩けもしない。普段師匠ぶっているのにこのありさま。エリィルラルは動かせるようになった右手を伸ばして、ハルトの頬に触れた。
「叱ればいいのか誉めればいいのかわからない。でもありがとう。少しお休みなさい」
言われたハルトは一瞬笑顔になると、エリィルラルを抱えたまま観念したように腰を下ろした。そして気まずそうな顔をする。
「カムヅミカズラ、うっかりみんな枯らしちゃいました」
「別にいいでしょ、あんなモノ。調査官も"できれば"って言ってたんだし」言いながらエリィルラルは思う。情報不足のなかでは大戦果だ。あの女に文句は言わせない。それにしても「なんだか格好がつかないないわね、わたしたち」
騎士と貴婦人の絵物語のようにはいかない。鼻血を垂らしてフラフラな英雄未満の少年と、彼に抱えられた魔法を使えぬ魔女のなりそこない。
それでもそんな関係が、今は何より心地いい。エリィルラルはハルトに体を預けて目を閉じた。背中越しのぬくもりに安堵の息をひとつつく。
メルネヴェびとは一万年前に神に願うことも祈ることもやめた。それでも、エリィルラルは願わずにはいられなかった。
叶うならどうか、この日々を終わらせないで。




