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4-1. ガヴァネス

 ハルトの打ち込みを、エリィルラルは右斜め前に踏み込みながら木剣で受け流した。実戦ならばこのまま剣先を目、ないしは首に突きこむ。が、今は突きのニュアンスだけを僅かな動きで伝える。ちゃんと伝わったようで、彼は即座に下がって間合いを取った。

 若いことも手伝ってか。ずいぶんと飲み込みが早いと思う。人間マヴドは皆、こうなのかしら。エリィルラルは彼、ハルト以外の人間については、文献上の知識でしか知らなかった。

 マヴドはメルネヴェびとの寿命の半分も生きられない種族だ。長いメルネヴェの歴史の中に、彼らと類縁の種族は幾たびも現れた。マヴドの種族特徴として、旺盛な繁殖力と猛々しさ、そして学習意欲の強さと学習そのものの速さが挙げられる。

 それともハルトが特別なだけ? 彼が今、辿り着いている段階に至るまで、エリィルラル自身は1年以上かかったことを思い出す。今の彼のように、ほぼ毎日稽古の時間があったわけではなかった。けれど種族と文化の違いを考慮するなら、彼の成長は目を瞠るものがある。戯れにメルネヴェの言葉も教え始めてみた。2ヶ月ほどが経った今ではもう、日常会話ならおおよそは聞き取り話せるようになった。エルフ由来の呪文、メルネヴェ古語の知識があればそう難しいものではない。それでもたいしたもの。欲目もあるかもしれないけれど。

 ハルトの成長を実感するたび、エリィルラルの心は躍った。

 少年を教え鍛え、丈夫おとこへと導く。その行為は、その気持ちよさはエリィルラルの奥深い部分を満たした。ハルトに会うまで、自分にそんな欲望があるなんて思ってもみなかった。思い当たるのは、取り寄せて読んだこの世界の伝承。クウフリンとスカァア、アーサーとアルガンテ、ケイとアーサラ。この世界には、戦士を鍛える妖精の女、女神、というモチーフの物語が幾つも伝わっている。もしかしたら、わたしたちよりも遥か昔に、この世界を訪れたメルネヴェと近しい種族の女たちがいたのかもしれない。エリィルラルはそんなことを想像する。

 ハルトがこちらの打ち込みを防ぎ止め、逆手打ち(バックハンド)の水平斬りを胴に打ち込んでくる。エリィルラルは下がりながらこれを木剣で打ち落とし、同時に空の左手を、剣を持つハルトの右手首に当てた。これは左手に短剣がある場合、敵の手首を斬ることの表現。

 彼の顔が露骨に「しまった」となるのを見て、エリィルラルは笑みを浮かべた。今更になって、自身の剣の師、老ドォラクムの教えがよくわかる。彼女は常々言っていた。「片手剣の剣士は、剣を持たぬ手こそが恐ろしい。だから、右利きの貴女は左をよく学びなさい」と。

 同じ道を今、少年が辿っている。彼の中に、わたしの与える知識と技が入ってゆく。その心地よさは、情事の高揚と一体感にも似て。

 変われば変わるものね。とエリィルラルは思う。かつてのわたしは、この戦いの技を使う機会など生涯ないと思っていた。ましてや自分が誰かに何かを教える立場になるなんて、考えたこともなかった。剣に短剣、槍に弓、無手。攻撃呪文と銃火器のある現代に、家格だけは古い一族のしきたりで古の戦技を学んだ。それ自体には、体を通して過去の歴史を学ぶ楽しみはあった。けれどそれを実際に使うような立場でもなかった。〈帳の司書(フェイアラ)〉の役目の女は、折につけ同胞の警護がつく。危険に近づくことも、近づかれることもないはずだった。

 いや一人、たった一人だけ、わたしがこうなることを見越していたかのようなひとがいた。

 老ドォラクム。メルネヴェ上古の戦技を伝える彼女は、一族付きの武官にして先の大転移の生き証人だった。



「姫様、常に備えを怠ってはなりませぬ」やしきで行われる定例稽古の度に、老ドォラクムは言った。「多元宇宙は私たちの想像を超える出来事が容易く起きますゆえに」

「評議会の予見は7000年以上外れてないのに?」エリィルラルは言い返したものだった。「偶然と変化の源たる〈混沌の大いなるもの〉たちは〈夜明けの風〉に放逐された。予見が外れる要素は見当たらないわ。よしんば外れて災厄に遭っても、皆がわたしを守るでしょう?」

 かつての自分は、少女のわたしはなんと幼く愚かだったのか。エリィルラルは思い出す。既に〈帳の司書(フェイアラ)〉として本を継いだわたしは、役目の受ける特権と敬意を自身のものと錯覚していた。

「この婆はしっかと覚えておりまする。先の大転移の折、ヴァルケルズ半島に攻め寄せる〈貪婪たる風の大帝〉エヴァリグの軍勢を食い止めるため、数多の戦士が斃れ申した。かの軍勢の飛蝗戦士たちは先の〈導きの司書(ル・フェイアラ)〉リエネェラが御業を行う塔まで迫り……」

「もう聞き飽きたわ。それ」

「姫様!」

「姫様はよして」エリィルラルは身の内から湧き上がる嫌悪に顔を顰めた。「裏切りの王の血なんて、誇れるものではないわ」

「……彼の王の振る舞いは、メルネヴェの民の行く先を思うてのこと。との言い伝えもございます」

「そんなのは嘘、ただの駄法螺よ」これ以上話すことはない。その意思を示すように、エリィルラルは木剣を稽古場の壁の留め具に戻した。「お稽古はもう終わりね。わたしは行くわよ。これからリーヴィルトと会うの。支度に時間がかかるから。シャワーも浴びたいし」

 物心ついた頃から、ずっと傍にいたリーヴィルト。彼が婚約者だと知った時、エリィルラルは喜んだ。親の決めた結婚ではあっても。真面目で実直な彼のことを好ましく思ってきたし、新興領域の魔術、造技テクノロスを修め、戦士としても優れた技量を持つ彼は頼もしく、共に人生を歩む伴侶として申し分なかった。

 だから婚礼の宴の時は幸福の絶頂だった。評議会の予見、航界チャート上、次に〈帳の司書〉の力が必要になるまで500年以上ある。自分が生きているうちに帳を上げ、下ろす機会は訪れない。この次元では現住種族の人間マヴドたちとの関係も良好だ。好きな仕事、亜邑あむら大書庫の古書とマヴドの書物の研究を続けながら、リーヴィルトの子を産み育て、平穏のうちに生涯を終える。次元を渡り続ける種族の女として、この上ない幸運に恵まれたと言ってよかった。


 だからなのか。婚礼の宴で、花々と同胞たちの笑顔に囲まれ祝福を受けるなか。たった一人、師たる老ドォラクムだけが目を伏せ、浮かぬ顔をしていたことが、強くエリィルラルの心に残り続けた。


 それから二十余年の月日が流れ、老ドォラクムは寝台から起き上がれなくなった。優れた戦士だった彼女は、先の大転移以降、439年に渡って一族に仕えてくれた。夫も持たず子も成さず。それゆえ、一族の者たちは篤く彼女の世話をした。エリィルラルは中でも率先して介護に当たった。長じてようやく、歯に衣着せない彼女のもの言いが、その指導が、語る歴史がいかに貴いものであったか理解できたから。

「なりませぬ」病床に伏しながらも、変わらぬ声で老ドォラクムは言った。「姫様ともあろうお方が、そのような……」

「構わないわ。誰しもいつかは老いるのだから」

 らしくない殊勝な態度に苦笑しつつ、エリィルラルは老いた師の体を拭い、下着を替えた。学んでいた頃はあれほど強く、大きく感じられた体が、今は小さくか細く見える。姫様呼びも今は気にならない。医師に診せても、メルネヴェびととしてほぼ最高齢故に、処置はないとのこと。先は長くない。わたしが姫君に見えるというのなら、好きに呼んでほしかった。

 エリィルラルは彼女が去り逝くその時まで、面倒を看るつもりでいた。書物の研究仕事も、生活のためではなくほぼ趣味で。どれだけ休んでも何も問題ない。リーヴィルトも理解してくれている。

 毎日健診に来る医師が去った。老ドォラクムの寝室に二人きり、エリィルラルはベッド傍の椅子にかけると、仰向けに横たわる師の顔を眺めた。かつてはまだ灰色だった髪は、今はもう真っ白に。深い皺が幾重にも刻まれた顔貌は、硬く枯れた樹を思わせる。かつて鷹のようだった鋭い目は、闊達さを失い白く濁っていた。

 半ば伏せられた老女の瞳は、白い天井を見上げていた。何を見ているのだろう、とエリィルラルは思う。近頃は意識が混濁することも多く、違う名で呼ばれることもしばしばだった。

 そこでふと、思い出した。婚礼の宴の席で、彼女だけがその目を伏せていたことを。

「ねえ、ドォラクム」エリィルラルは語りかけた。「あなたはあの時、どうして浮かない顔をしていたの? 祝福してもらえてない気がして、わたし、悲しかったのよ」

 答えなど期待していなかった。が、ドォラクムはエリィルラルに顔を向けると

「申し訳ありませぬ、姫様」淀みない口調で話し出した。白く幕のかかった瞳を、エリィルラルに向けて。「我らの来し方を、行く末を思ったのでございます。姫様の婚礼を見て、これが我らのあるべき姿であろうか、と」

「あるべき姿、って……」

 彼女が何を言っているのか、エリィルラルにはわからなかった。夫を得て平穏を歩むこと、それのどこにおかしな点があるの? 疑問を差し挟む余地なんてないはず。

 なのに、エリィルラルの心はざわついた。小さな小さな、豆粒にも満たない小石が胸に投じられたような。その波紋は小さくとも、ゆっくりと確実に広がり続ける。

「我らが王国を失い、放浪の旅を始めて一万年余。評議会の魔術師たちの決め事に従って、終わる世界を脱してまいりました。繰り返し、繰り返し。他種族と比べて長い我らの時間でも、途方もない年月を。その間に、栄華を誇ったかつての知識と技の多くが失われました。そして何より、生きる知恵を」

「でもそれは彼の王の、最後の王のせい」エリィルラルは言った。ざわつく何かに、言い返さねばと駆り立てられた。「忌まれ名も伝わらぬ彼の王は、メルネヴェの民の力の源たる神々と精霊たちとの契約を全て破却した。結果、あらゆる魔法の力を失ったわたしたちは、獰猛なる周辺諸種族に攻め込まれ、諸種族もろとも邪神に弄ばれて滅んだ。一部の者たちが〈百万の帳の書〉の力で次元を脱出できたのは奇跡よ」

「左様でございましたな」ドォラクムは微笑んだ。生徒の答えに満足するように。「でも、こうも伝えられておりまする。滅びの前、王国は爛熟を極めていたと。労働は魔法生物と使役精霊、奴隷たちに任せきり。空いた時間をメルネヴェびとは何に費やしたかといえば、淫楽に耽り、薬に闘技場観戦にと、快楽を追い求めるばかり。溜まるばかりの宝物を見せ合い財を浪費して競い合う。生まれるメルネヴェの子は年々減りゆくばかり。彼の王は、歩みを止めて放埓に耽る民を憂い、全ての魔法を放棄したのだと」

「〈悲運の王の歌〉。経界暦6000年代に地下で演じられた劇脚本の一節ね」年寄りを相手に大人げない、と思いつつもエリィルラルは言わずにおれなかった。「論拠に薄い、民衆扇動用の法螺話。惰弱な王には統治の義務が重くて、無責任に投げ出しただけ。契約の破却は、邪神に唆されただけというのが通説ね」

「かもしれませぬ」ドォラクムは笑みを絶やさない。「それでも今のメルネヴェの民の在り様は、正しいとは思えないのですよ。世界の終わりが近づく度に、次元を越えて次の世界へ。その度に〈帳の司書〉の女を犠牲にして。その在り様に異を唱え、終わる世界に留まった者もおりまする。王国を脱した直後より、メルネヴェの民の数は減り続け、今はもう、かつての三割にも届かぬ始末」

「でもそうせねば、わたしたちは一人残らず滅んでいたわ」

「本当に?」その瞬間だけ、ドォラクムの目はかつての鷹の瞳を取り戻した。「終わりゆく世界がその後どうなったのか、見届けた者は皆無にございます。今の我らはもう、無力ではありませぬ。もしも、もしも皆で踏みとどまって滅びに抗ったのなら……」

 夢物語だ、とエリィルラルは思う。〈夜明けの風〉の放つ猟獣に追われ、消えまいと狂う神々の災禍を前に、定命者モータルに何ができようか。

「この婆には、我らがこのままでいられるとは思えないのです。世界を都合よく収奪して放棄する。そんな在り様は決して長くは続かない。ですから姫様。用心を怠ってはなりませぬ。備えを欠いてはなりませぬ。その世界の民びとの扱いを見れば、評議会が同胞の民をどう扱うかは容易に推し測れまする。いざという時は、内なる魂の声に耳を傾けてくださいませ。この婆、最期の願いにございます。この婆ぁめのように間違えぬよう……」

 ドォラクムの目が濁り、瞳の焦点があらぬ方向を彷徨い始める。

 その様を見てエリィルラルは悟った。もう、師と言葉を交わすことはできない。彼女は遥か遠くに行ってしまう。

「ねえ、何処にいるの?」ドォラクムの声音が変わる。年輪を刻んだ声ではない、エリィルラルよりはるかに幼い少女の声音で、彼女は誰かに呼びかける。「置いて行きたくなどなかった。あなたの傍にいたかった」

 ドォラクムはむずかるように毛布を跳ねのける。

 エリィルラルは毛布をかけ直そうとするも、思いのほか強い力で除けられ叶わない。

「死んだあと、魂は次元を越えられる? ねえ、オルファミロ。あなたの魂は今、何処にいて?」

 急にドォラクムの瞳が焦点を結んだ。天井を、そのはるか先を見つめるように細められる。彼女はもがくのを止め、細くなった両腕をそっと天へと差し伸べた。

「嗚呼、やっと、やっと……」白く濁った瞳から、次から次へと涙が零れる。「ずっとずっと逢いたかった。触れたかった。ねえ、もう……」

 少女は見えない誰かを抱き締めるようにかいなを回し、声に出ぬ言葉を交わしながら何度も何度も頷いて。

 パタリとドォラクムの腕が落ちる。最後の息の音が静寂を連れてきた。

「師よ、前の世界に心を置いてこられたのですね」語りかけながら、エリィルラルはドォラクムの遺体を整え、今なお頬を伝う涙を拭う。「一度も話してくれなかったのは、恥ずかしかったから?」

 滲む視界で話かけ、エリィルラルはドォラクムの瞼を下ろす。

 だって照れ臭いじゃない。少女の声で言う師が、誰かに伴われて傍らをとおり過ぎていった気がした。


 エリィルラルの一族以外、縁者のいなかったドォラクム。彼女の葬儀は、慎ましく終えられた。

 3日ほどを死者と語らって過ごした後、エリィルラルは元の生活に戻った。仕事に戻り、夫や友人たちと過ごし、喪失の悲しみは時間とともにやわらいでいった。

 ただ胸に投じられたドォラクムの小石の波紋。それだけは消えも薄れもせず、時にエリィルラルを苛んだ。夫にも仕事にも不満はないはずなのに。メルネヴェの民はこのままでよいのか。アルカ評議会の決め事に従って、生き延びる。ただそれだけで……

 そんなある日のこと。エリィルラルは寝不足のまま大書庫に向かった。ドォラクムの遺した言葉を考えすぎて、明け方まで眠れなかった。

 歩き慣れた書庫の廊下を歩きながら、エリィルラルはメモ書きの請求資料リストを確認する。請求者は評議員を務める予見者カイストラ。彼女が求める資料は、幾人かのメルネヴェの研究者が記したこの世界の天体観測記録。神々の活動は星々に顕れる。故に予見者たちは、今いる世界の先を見通すために星々の記録を求めた。

 エリィルラルは、カイストラが求める資料の運搬を頼まれることが多かった。理由は2つ。1つは仕事柄、大書庫の内部に精通していること。もう1つはその体質のため。〈帳の司書〉は精神操作呪文への抵抗性が極めて高く、機密保持の点で信頼がおけるからだった。本来は専門の運搬スタッフの仕事だったが、カイストラは大書庫の近くに居を構えているため、図書館勤務のエリィルラルの存在を知ると良いように使った。カイストラはエリィルラルの友人、学生時代の同期ネイムララの母で、そこそこ親しい間柄のせいもある。

 普段ならこの資料運搬の仕事も楽しんでやれた。届けた後は、カイストラの自宅兼事務所でお茶に誘われるのが通例だった。書庫にこもりがちな身にはいい運動と気晴らしにもなった。つまらない愚痴も吐き合える。

 しかし今日ばかりはそうでもなかった。寝不足で回らない頭では、読書も研究考察も捗らない。とにかくさっさと届けて戻って仮眠でも取りたい。エリィルラルはエレベーターで地下書庫へ向かい、該当資料の棚を求めて書架の間を早足で歩いた。

 そして、はみ出して放置された踏み台に足をかけ、よろけた。寝不足の頭で思考が回らず体勢を立て直せない。体を支えようと咄嗟に出た右手が、脇の書棚中段の空きスペースに入る。右手が本にかかるも、本は固定などされておらず、エリィルラルは盛大に転んだ。数冊の本を放り散らしながら。

「あたた……」

 痛みに顔を顰めながら、エリィルラルは手をついて起き上がった。手の下に本があることに気づいて、本を傷めてやしないかと慌てて拾い集める。装丁、ページの破れや汚れはないか。ひととおりチェックし、損傷がないことを確認して安堵の溜息をつき……一冊の本の表紙が目に留まった。


 〈百万の帳の書〉適合者の家系研究


 ぞわり、とエリィルラルの背筋を怖気が走った。

 読んではいけない。触れてもいけない。"これまでの"エリィルラルが言った。この本の表紙をめくった瞬間、世界は一変してしまう、と。しかしそんな心の声を一切顧みることなく、彼女の手は本を掴み取っていた。

 震える指で表紙をめくる。視線は勝手に文字を追う。


 資質保持者の安定供給のために


 その一文から書き出された内容を、エリィルラルは読み取っていった。スキャナのように無機的に文字列が意識を流れてゆく。何かを感じれば、きっと目を開けても立ってもいられない。だからエリィルラルは読むことだけに徹した。仕事柄、思い込みを排して読むことには慣れていた。

 記された複数の家系図にはエリィルラルの一族が、リーヴィルトの一族が、そしてエリィルラル以外にもいる〈帳の司書〉たちの血族が直系傍系余さず載っていた。過去のものから、今を越えて未来に予想される系統まで。そして〈帳の司書〉の資質を持った者の輩出率を上げるための交配計画が。

 その中に自身の名を、そしてリーヴィルトの名を見つけた時、エリィルラルは脚が震えてもう立ってはいられなかった。それでも彼女の思考は冷徹に自身の今を読み直す。計画された交配。遺伝病の有無から、家系から類推される気質の相性、先々の資質発現の期待値まで。全てを考慮し織り込んで、幼いわたしと彼は出会った。いえ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。今あるものは何もかも、メルネヴェの民の存続のため、周到に用意されたもの。

 造られた愛情、計画された婚姻、期待される出産。まるで希少動物の繁殖計画。わたしは彼を愛してる。愛してる? それは本当? 愛してるって何? 造られ仕組まれた関係、感情は本物?

 答えのない問いかけが、頭のなかでグルグル巡る。


 その世界の民びとの扱いを見れば、評議会が同胞の民をどう扱うかは容易に推し測れまする。


 ドォラクムの言葉が、エリィルラルの内にこだまし続けた。



 結局、ドォラクムの言うとおりになったわね。エリィルラルは思う。評議会の航界チャートを超えて、この世界は急速に終わりつつある。一万年の間、次元間を旅し続けたメルネヴェの民もきっとここで終わり。

 幸か不幸か役目を果たすこともなく生き延びて、わたしは人間マヴドの少年の愛人にして師となった。

 かつての同胞たちが今のわたしを見たらどう思うのだろう? エリィルラルは想像する。きっと嘆き、血相変えて詰るに違いない。貴種たるメルネヴェが下賤なマヴドに体を許すとは、何たる愚かな振る舞いか。恥を知れ、と。遊び相手として安全な、マヴドの愛人を持つメルネヴェびとなど、今も昔も珍しくもないのに。

 ただドォラクムだけは、受け入れてくれると確信できる。「姫様、血は争えませぬな。最後の王はマヴドを伴侶に国を去り、行方知れずとなったと伝えられておりますゆえ」笑ってそんなことを言いそう。

 評議会の決め事のなかで安穏と生きていた昔と、明日をも知れぬ日々を少年と切り拓く今。選ぶなら、考えるまでもなく今を選ぶ。確かに世界は終わっていくのかもしれない。それでも今、初めてわたしはわたしを取り戻した。見えない明日が愛おしい。そう思う自分も、播神はしんに浸蝕され狂っているのかもしれない。

 でも何より、誰かに他意なく求められる心地よさを知ってしまったから。

 思いがけず、ハルトの鋭い打ち込みを受け止めた。エリィルラルは自身に苦笑しながら思う。今、ドォラクムが見ていたら間違いなく叱られたわね、わたし。思考が内に向いて集中が切れていた。今の打ち込みならまだ受け流せたはず。

 接近し過ぎを感じ取ったハルトが下がる。それを追うエリィルラルはハルトの木剣を持つ右手に自身の左手を当て、くるりと返すとハルトの木剣を空中に飛ばした。

 無手となったハルトは更に飛び退き、警戒を緩めず間合いを取る。

「それでいいわ」エリィルラルは木剣の先をハルトに付けて「生きてる限り再戦の可能性はある。逃げて他の戦い方を選んでもいい。生きることを諦めないで」

 しばし残心し、木剣を下ろす。二人の間にあった張りつめた空気が消えた。

「ふう」ハルトは体の力を抜いて、芝生の上に仰向けに寝転んだ。「やっぱりまだまだ敵わないですね」

「それはそう。あなたが生まれる前から稽古してたのよ。そう簡単に追いつかれても困るわ」

 エリィルラルは、それでも数年とかかるまいと思う。マヴドの持つ成長の特性のためか、あるいは播神の影響か。傷の治りが速いだけで、後者の断定はできないけれど。

「これくらいにして、食事にしましょう」エリィルラルは木漏れ日の眩しさに目を細めた。朝のうちは涼しくとも、今は八月。陽射しはすぐに強くなる。「今日も暑くなりそうね」

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