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3-8. 我らが母祖より引き継がれしことば

 塞がりかけた穴が、再びこじ開けられている? 明らかに異常な事態に戸惑いながらも、再びこちらに寄せてきたギギムルを前に、ハルトは魔力の剣を拾い上げた。

「エリさん、あれは?」

「あの量の結晶では足りなかったみたい」呆然とエリが言った。エネルギーライフルを持つ手も垂れたまま。「こっちの世界を浸蝕しながら滋養を自己供給してる。このままじゃ、穴が完全に開いてアレがこっちに入り込む」

 上手くいったと思った途端の、奈落の絶望。慣れたように思ってはいても、腹の底に冷たいものを刺しこまれたような感覚は好きにはなれない。しかし、とハルトは思う。しかし、エリさんと自分はまだ生きている。

「撤退しましょう」言ってハルトは氷の大盾を前に出し、エリに下がるよう促した。「後の2人と一緒に。できるだけ遠くへ」

「到底逃げ切れるものではないわ」空中を這うパイプ器官を見据えたまま、エリが眉根を寄せる。「〈夜明けの風〉を逃れた低位の神とはいえ、神は神。アレについては縛る呪文も失われてる。わたしたち皆、死ぬか喰われるか、変質して奴隷になるかよ」

 何体ものギギムルが空気中を水中のように泳ぎ、幾本もの触手を伸ばしながらハルトとエリへ迫る。

「じゃあ、どうしたら」

 ハルトはギギムルの触手を斬り払いながら思う。ここで終わり? エリさんと二人で? ほんの一瞬、それも悪くない、と思った自分を叱咤する。ダメだそれは。"また"失くすつもりか? こうなったらエリさん抱えてどこまででも逃げてやる。

 氷の大盾でギギムルを弾きつつ、ハルトが理力ウムラタウィルの筋力増強呪文を唱えかけたところで

「10分、いえ、5分でいい。ハルト、わたしに何も近づけないで」エリはハルトの後ろに下がると、ボディーアーマーを外して落とした。「帳を下ろす。次元の穴を塞ぐわ」

 エリの言葉を聞いて、ハルトの頭を疑問が渦巻いた。

「どうやってですか! エリさん、魔法は……」

「わたしに今の魔法は使えない。それは本当」エリはヘルメットとエネルギーライフルも落とし、ゴーグルを下ろすと小さく笑みを浮かべた。「今からやるのは、魔力を使う技じゃない。5分間、お願いね」

 ハルトの返事も待たず、エリは半眼となって長く、深く息を吐く。

 果たしてエリは何をしようというのか。ハルトは何が何だかわからない。帳を下ろす、次元の穴を塞ぐと彼女は言った。そんなことが可能だとは思えない。できたら世界はこうなってない。

 それでも、と思う。これまで共に夜を越え、積み重ねてきた時間は疑念を打ち払う。エリさんの言うことなら信じられる。その嘘に、あるいは真実に殺されるのだとしても。

 ギギムルの数が増し、灰色のパイプ器官が曲がりくねりながらそれらを喰らう。色彩の渦も大きくなる。

 一人で襲い来るギギムルの群れを相手にするのは効率が悪い。ハルトは呪文で自律剣を呼び出して戦わせ、稼いだ時間の猶予で〈氷禍の鎧〉の呪文を唱えた。

 魔力の鎧の上層に、凍てついた冷気の鎧が顕れる。ハルトに接近し鎧の冷気に触れたギギムルは、一瞬で動きを止めて床に落ち、粉々に砕け散った。

 ハルトは魔力の剣を振るい、全身を武器にしてギギムルを防ぎ屠る。取りこぼした群れは〈焔の右手〉の呪文で焼き尽くした。エリの求めた5分間をひねり出すのに、魔力を惜しんでなどいられない。

 不意に額の紋様が激痛を発した。ガンガンと頭蓋を内から打つような痛みに耐えかね、ハルトは片膝を着く。痛みの奥から千もの声が聞こえるような気がした。あまりに膨大な言語の奔流に頭を打ち据えられながら、それでもほんの一部は聞き取れた。声は言っていた。


 余の邪魔だてをするな、播神はしんを受けし定命者モータルよ。邪魔だてせぬならば、余が世に汝らの席も与えよう。余に仕える奴隷として存分に働くがよい。


 言っている意味は半分もわからない。ただハルト自身にも出所がわからない怒りに体が震えた。こいつら偉そうに。僕らの世界を滅茶苦茶に壊しやがって……以前の世界に愛着を感じたことなどなかったのに。

 ハルトは頭を振って立ち上がると、魔力の剣の先を色彩の渦に向けた。

「次元の狭間に還れ」

 空中を這うパイプ状の器官の周囲の空間がゆらぎ、またギギムルの一群が顕れる。色彩の渦がまた大きくなる。


 暗愚なり。小さく惰弱な定命の子よ。肉を剥がれ骨を呑まれ、脳のみとなっても同じことが言えるか試してみよう。


 太さを増したパイプ器官が泡を吐く。大きく膨らんだ泡はシャボン玉のように空中に浮かぶと、不意に加速しエリに向かう。

 奇怪な軌道を描く泡に、ハルトは危険を予期しつつもこれを剣で薙ぎ払った。エリさんに近づけるわけにはいかない。

 刃に触れて泡が割れる。泡が消えるその瞬間、魔力の剣が砕け散った。

「ぐっ!」

 反射的にハルトは右手を引っ込めるも、衝撃に痺れた指がまともに動かない。

 パイプ器官が同じ泡を空中へと吐き出す。

 ハルトは咄嗟に呪文を唱えた。放たれた魔力弾は泡を砕き散らすも、パイプ器官はまた泡を吐き出した。また魔力弾を撃ち、泡を砕く。しかし泡は次から次へと吐き出される。

 空中に浮かび、いたぶるようにこちらを伺う泡の群れを見上げてハルトは思う。このままでは先に魔力が尽きる。残り時間をどう凌ぐ?

 泡の群れはハルトを嘲笑うかのように一瞬、震えて膨らむと、エリに向かって一斉に加速した。

 ハルトは続けざまに魔力弾を放ち、泡を砕く。しかし全てを砕くには時間も魔力も足りない。

 ここまでか。ならばせめて、とハルトはエリの前に立ち、氷の大盾を前面に押し立てた。その時


 光弾の嵐が空間を吹き荒れ、浮かぶ泡とギギムルの群れを粉砕した。


「お待たせ!」

 聞き覚えのある女の声が響く。振り向いたハルトが見たのは、エネルギーMG(マシンガン)を構えたアツロウと、その背負子に乗って二丁のエネルギーSMG(サブマシンガン)を空中に向けたライカだった。

 無事に回復したのか。訊きたいことはあれこれあれど、今はそんな余裕はない。ハルトは空中のパイプ器官に目を戻し、叫んだ。

「とにかく、あれを破壊してください!」向かってくる泡に向かって、ハルトは氷の大盾を投げつける。「エリさんに近づくものは何でも! エリさんが次元の穴を塞ぎます!」

 足元に転がったエネルギーライフルを拾い上げ、ハルトは銃口をパイプ器官に向けた。まだ痺れの残った指をトリガーにかける。

「そういうことなら任せ……っぷ」威勢よく返事をしつつも、ライカは気分の悪さに顔を顰めた。彼女の両手の二丁SMGが光弾を放つ。「センセー、あっち! あっちに行って!」

「あっちとはどっちだね?」危急の事態にも緊張感のない間延びした調子で答えながら、えっほらさっさとアツロウが走る。「フゥム。あれが次元の亀裂と、上位存在か。神とは言うものの、ある程度の物理法則には従うようだが」

 暢気なことを言いつつも、頭足類頭の大男はエネルギーMGを撃ちまくる。

 3人がエネルギー火器を撃ち、状況は優勢にはなった。ハルトは撃ちながらライフルのエネルギー残量を確認する。

誰でも即座に視認できるよう作られた表示上、既に20%を下回っている。ライカに充電を頼んでいる暇はない。

 間に合うか。額から流れ落ちる血と汗を振り払い、ハルトはトリガーを引き続ける。


 その時、急に音が止んだ。光弾がギギムルと泡を焼き砕く音も、ライカが叫びアツロウが駆ける音も。


 いや違う。音は相変わらずこの空間をかき乱して響いている。別の音が……聞こえるかすかな声のみが、ハルトの意識の中心を占め、他の音が遥か遠くに引き下がっていた。

 エリさん? 振り返っている余裕はない。しかしハルトにはわかる。頭の中を占める、小さく、それでいて確かな声はエリのものだ。声は歌のように、詩の朗読のように聞こえるも、何を言っているのかわからない。ニホン語ではない。エリが発しているからか、その響きは呪文の言葉、エルフの魔法言語に似ていた。けれど語の音の並びは全く違う。聞いていると頭の奥が熱くなってくる。すると、ところどころ抜けがあるものの、声の織り成す意味が少しだけ聞き取れたような気がした。


 其は我らが母祖より引き継がれしことば

 彼方なる■■■■■の元より持ち帰りし力の歌

 始源と窮極の果てより生まれしはたの種子

 境界さかいを越ゆる理外を正さんがため

 帳を破りたる狼藉を罰しむるため

 百万の(とばり)(ことわり)をもって今、我は帳を下ろす

 ■よ、破れし帳を繕え

 ■よ、帳を上げ留める縛りを解け

 ……


 ハミングめいたやわらかな声音は、ややもすれば聞き入ってしまいそうになる。声はこの場、この空間そのものへと語りかけるように響き、やがて


 小癪な帳の妖婦めが!


 ハルトの頭を別の声が貫いた。強大なるその声の主が驚愕に満ちていることがわかる。そして同時に感じ取る。威厳と尊大に隠そうとする、畏れを。

 すると水面みなものようにゆらいでいた空間が、徐々に元の輪郭を取り戻し始めた。結晶の上に浮かぶ、色彩の渦もまた小さくなってゆく。

 パイプ器官が喘ぐようにもがき、泡を吐くも、その数と勢いは明らかに落ちている。ギギムルは半透明の身を赤く染め、床に落ちて萎びていった。

 ハルトは泡を撃ち、エネルギー残量がゼロとなったライフルを放った。あとは魔力と体力の続く限り戦うしかない。

 細くなったパイプ器官が、矢のごとき速さでエリに迫る。

 ハルトはその前に立ち塞がると、真正面から受け止めた。

 未知なる破裂の力と、鎧の氷結の力がぶつかり合う。相殺されるように氷結の鎧と魔力の鎧が砕け、ハルトはパイプ器官に巻きつかれ宙に浮かされた。

 あ、これは本当にまずいかも。走馬灯、なのか。引き延ばされた時間の中で、ハルトはエリの姿を見た。両手を差し伸べ、歌うように言葉を紡ぐ彼女の姿に強烈な既視感を覚える。白い首を巡る黒い蔦のような模様にも。

 それは、いつかの夢の中で。

「ぐぶっ!」

 締められ勢いよく振り回され、ハルトは上下左右もわからないまま胃液を吐く。魔力はもうほとんど残っていない。でも巻きつかれている今なら。

 ハルトはベルトポーチに手を伸ばすと、2本目の〈夢幻の鎚〉を引き出し、自らを締め上げるパイプ器官に叩きつけた。


 ―――!


 ぱん!とパイプ器官が砕けると同時に、辺りに脳を切り開かんばかりの悲鳴が響いた。ハルトは勢いのまま壁に叩きつけられ、そのまま壁に沿ってずり落ちる。

 耳鳴りと背の痛みに喘ぎ、白く霞んでゆく視界を取り戻そうと足掻きながら、ハルトは見た。

 周囲の空間に押し戻されるように、色彩の渦が消える。こちら側に残ったパイプ器官が切断され、床に落ちた。

 エリの声が余韻を引いて空間を過ぎる。残る汚泥を洗い流すように。その最後の音が去った後、エリは脱力し床にくずおれた。

「エリさん!」

 立ち上がった途端、ハルトは背から腰の痛みによろめいた。支えの足が動かない。転ぶ、と思ったところを

「無事かね? ハルト君」アツロウが抱えて支えた。「ずいぶん無茶をやったものだ。まあ、我々全員がそうか」

「エリさんは?」

「ライカ君が診ている。彼女、あれでも看護学校にいたんでね。君のほうこそどうなんだね? あの状況では骨折もありえる」

「大丈夫、だと思います」

 痛みは少しずつ引いている。ハルトの経験上、このくらいなら少し安静にしていれば歩けそうだった。

 エリはライカの手で仰向けに横たえられていた。見るからに弱っているものの、女同士で何やら小声で話している。

 近づいていくと、エリは顔をハルトに向けた。

「よくやってくれたわ、ハルト」

 浮かんだ笑みはどこまでもやさしく、そのまま消え入りそうで。ハルトは気が気ではなくなる。縋り付いて無事を確かめたい衝動にかられるも、押し留めた。アツロウとライカの前では羞恥心が勝った。なので膝をついて手を取ると、握り返される。その力強さに安心する。

「エリさんも」言いたいこと訊きたいことが胸の内を溢れそうになるも、どれも上手く言葉にできない。ただ一つ、顔を見て気になったことが口に出た。「エリさん、その、髪が……」

 言われたエリは右手で自身の髪に触れた。その手が、長く伸びた銀髪を辿ってゆく。すると少しだけ目を大きく見開いて

「ああ、巻き戻ったのね」納得するように息をついた。「開きかけを閉じただけだから、少しで済んだみたい」

「巻き戻った、って」

 どういう? と疑問を口にしかけたハルトを、エリの焦った目が遮った。

「ハルト、残ったアレを、あの神の残骸を焼いて。すぐに!」エリは視線で指し示す。床に落ちたパイプ状の器官を。「呪文の火は炎の神と同質のもの。小神の切れ端程度は抗えない」

 ハルトは痛む体を鞭打って、それでも小走りで近寄った。

 パイプ状の器官が弱々しくも動いている。炎天下の太陽に晒された、アスファルトの上の蚯蚓のように。

 ハルトが最後の魔力で〈焔の右手〉を唱えると、炎が扇形に拡がった。炎はパイプ状の器官を焼き焦がし、散らばった破片に燃え移って拡がってゆく。

「ああっ」

 突然、アツロウが嘆くように叫んだ。

「どうしたのさセンセー」

「いや、もっと観察……できればサンプルを回収したかったなと」

 ハルトは歩いてエリの傍らに戻った。彼女もだいぶ回復してきたのか、上体を起こしていた。腰まで伸びた銀髪に指を絡めながら。

「訊きたいことがたくさんある、って顔ね?」

 いつもの余裕のある笑みを見て、ハルトもようやく落ち着いて話せる気分になった。

「ええ、たくさん」痛みは引いてきたものの、まだ辛いのでエリの隣に腰を下ろす。「エリさん、魔法、使えたんですね」

 開いた次元の穴を塞ぐ。復興庁も、トアさえも赤い結晶粒なしにできないだろうことを、エリはただ一人でやってのけた。これが魔法でなくて何なのか。ハルトの知る魔法など、次元を操るエリの魔法と比べれば、魔力を使った子どもの手品でしかない。

「魔法、そうね。古い意味の魔法ではあるのかしら」エリは語り始めた。遠くを見る目で、遥かな過去を思い出すように。「わたしたちの種族、メルネヴェの民が一万年の王朝を築いた頃、一人の女が多元宇宙の中心から持ち帰った知識。魔力ではなく、神々や精霊との契約でもなく、〈(とき)〉を使って次元の壁を開け、閉じる技。実は今、初めて使ったのよ」

「初めて、ですか?」

 呆然となるハルトを見て、エリはクスクスと声を立てて笑う。

「面白い顔してるわよ」笑みを絶やさず、エリは続けた。「そうできてしまうの、わたしには。頭の中に、その知識が詰まった本〈百万の帳の書〉があるから。エルフの王国が滅んで一万年、幾たびもの大転移で民を救ってきたのはわたしたち。頭に一冊の本を詰め込まれた〈帳の司書〉。帳を上げて、民を安全な次元へと導いて帳を下ろす。ただそのためだけの女。代償に神々の御技の模倣たる今の魔法は使えなくなる。生活は保障されるけどね」

 軽い調子で語られる途方もない話に、ハルトは言葉を差し挟めない。エルフの、メルネヴェの民の歴史に、魔法の起源。〈審判の日〉の真相の一端。そして何よりエリの負った役割。今日知ったことだけで頭はパンク寸前だ。

 そんな中で、まず訊きたくなったのは一つだけ。

「その技、を使ったらエリさんの髪が伸びました。それに〈刻〉を使うって……」

 刻、と聞けば連想するのは時間だ。普通の感覚として、時間を使えば経過する。ハルトはエリの時間が"進んだ"のではないかと危惧した。と、なれば

「ああ、わたしの寿命が減ったとか思ってるの?」エリはハルトの頬に手を当てた。「そんな泣きそうな顔しないで。安心なさい、寿命は減ってない。むしろその逆よ。今日のこれで、肉体は若返ったの。ほんの少し、たぶん数ヶ月程度だけどね」

「なにそれ羨ましい」ライカが言った。女として思うところがあるのだろう。美容とか。「それじゃ、帳を開け閉めしてたら若返り放題じゃん」

「それがそう単純でもないのよ」エリの笑みに苦みが走る。「時間は……生命にとって〈刻〉は、消えていくものじゃない。刻まれ積み上がっていくものなの。だから帳の技を使えば、〈刻〉は減って肉体は若返る。そしてその分、記憶も費やされ、消える」

 記憶が消える。ハルトはその言葉の衝撃に愕然となる。エリさんは、この次元の穴を塞ぐ対価に記憶を支払ったというのか。

「だからそんな顔しないの。記憶は帳の技を使う者にとって浅いもの、重要でないものから費やされる。ざっと思い返してみると、昔の知人の内で何人か、顔か名前のどちらかが消えてた。その程度よ」

 エリは軽く言うが、ハルトは一大事じゃないかと思う。顔も名前も思い出せない人がいたなら、その人が記憶のなかにいたのかどうかさえ判断できない。それは、過去の一部が永久に失われるのと同義だ。今日の出来事の規模は小さかったから、その程度で済んだという。ならば

「じゃあもっと大規模な帳の技の行使、エルフの大転移なんてやったら」

「肉体が赤子に戻る前に、記憶が消えて何もできなくなるわ」エリの表情が消えた。「時に千隻を超える船団ごと、あるいは半島ごと転移した。そんな規模で帳の技を使えば、個体の持つ種族の記憶まで根こそぎ消えて、生きた屍になる。大転移の後の数日間、息をするだけの生きものになって……」

 言葉の続きは、さして考えなくともわかった。

「その前に、頭の中の〈百万の帳の書〉を次代の〈帳の司書〉に移すの」エリは語り続けた。〈帳の司書〉の辿る運命について。それはどこか懺悔めいて聞こえた。「評議会の航界チャートどおりなら、わたしの代に大転移が必要な事態は起きないはずだった。わたしは死の間際に、次代に本を引き渡すだけの容れ物だった。でもこの世界は終わりを迎えてしまった。メルネヴェびとの予想を遥かに上回る速さで。想定外の事態に、亜邑のエルフたちは大混乱に陥ったでしょう。今はどれだけ生き残ってるのかもわからない。わたし以外にも〈帳の司書〉はいるから、その誰かを使ってこの次元から逃げたかもしれないけど。ほんとう、無様な種族」

 エリは喉の奥で笑う。ハルトにはエリが泣いているように見えた。彼女の目に涙などないのに。

 エリさんの気持ちがわかるなんて、口が裂けても言えない。ハルトは思う。想像を絶する重責だ。自分ならどこかに引きこもってガタガタ震えているだろう。

 そして安心もしていること気づいて、ハルトはそんな自分に吐き気がした。エルフたちを襲った混乱を、心の何処かで喜んでもいた。お蔭でエリさんは生きていて、ここでこうして一緒に過ごせている。そのことが嬉しい。醜いな、僕は。

 気づけば痛みはほぼ引き、体の節々に力が入る。魔力も僅かながら回復してきている。ハルトはこの施設に侵入して、もう何日も経ったような気がした。実際にはほんの数時間しか経過していないのに。

 トアの仕事は想定外の顛末を迎えたものの、やり遂げた、と言っていい。今日一日だけで色々な事が起き、そして多くを知り過ぎた。そう思うものの、知ったからとて今の生活が劇的に変わるわけでもない。ハルトは立ち上がると、エリに手を差し伸べた。

「立てますか? 無理そうなら負ぶっていきますよ」

「もう大丈夫」エリはハルトの手を取って立ち上がった。そして長くなった銀の髪をかき上げる。「若返ってるんだから。これでも」

「エルフの女性はそういうのわかりにくくて」ハルトは感じたことを素直に言った。生まれてそろそろ17年。気の利いた台詞を吐けるような人生は送ってこなかった。「エリさんはいつも綺麗ですし」

「言うようになったわね……」エリは半眼でハルトを睨む。「ハルト、あなた市庁舎周りの女にも似たようなこと言ってない?」

「ない、んじゃないかなたぶん」

 いつものやり取りに今度こそ安堵しつつ、ハルトはアツロウとライカに向き直った。エリと二人、歩ける程度には回復した。後は拠点に戻ってトアに報告するだけだ。

 ただ、その前に

「アツロウさん、ライカさん、ご協力感謝します」ハルトはポーチから3本目の〈夢幻の鎚〉を取り出す。「お礼というかそんな感じの、つまらな……くもないハンマーです。これで叩けば、一度だけの使い切りですが何でも壊せます。受け取ってください」

「見てたけど、すごいよなコレ」ライカは奇妙なハンマーを手に取ると、しげしげと眺めた。「遠慮なくもらっちまうよ。でも研究所のお宝は山分けでいいよな? エネルギーライフルとか人体拡張装置サイバーモジュールとか。センセーもそれでいいかい? って、センセー?」

 ライカが訊ねるもアツロウは上の空で、縦長の瞳孔をさまよわせながら何やら独り言を呟いていた。

「相対性理論において、時間と空間は不可分だ。つまり、時間を量的に捉えるとするならば……」

「聞けよセンセー!」

「あいたっ」跳び上がったライカに蹴られ、アツロウはたった今目覚めたように辺りを見回した。「おお! ハルト君にエリ女史、もう立てるくらいに回復したんだね」

「今頃気づいたのかよ!」

 異形の姿に変異しながらもタフに生き抜く二人のやり取りに、ハルトはエリと顔を見合わせ、一緒に声を上げて笑い出した。




 開け放したクルマの窓から、朝の涼やかな風が入ってくる。

「面白い人たちでしたね」

 ハルトは拠点に向けてアクセルを踏んだ。ショッピングモールの建物から収穫物を運び出して、アツロウたちと別れたのが午前0時過ぎ。隠して停めたクルマのシートで軽食を摂って、エリと交代で朝まで仮眠をとってから出発した。

「あの姿では苦労も多いでしょうに、ね」助手席のエリは、分け前に預かったエネルギーライフルのバッテリーパックを弄びながら「変異者同士、他の生存者から離れて暮らすのは正解ね。人はストレスに晒されると、不満をぶつけやすい異物を真っ先に探すから」

 別れ際に、ハルトらはアツロウたちと互いに拠点の位置を教え合った。彼らは錬馬市の北部、隣の板羽いたば市との境にある森林公園で、他の変異者たちと集落のようなものを築いていると言っていた。

「アイベさんくらい強烈で強力だと、また違うんでしょうけど」

 有角有蹄の変異者の女、アイベが率いる一党は錬馬市最強の探索者チームとして君臨していた。彼女のハンマーの一撃は、ゾンビもミ=ゴも一瞬で肉塊に変える。

 〈審判の日〉後に現れた変異者たち。その多くは動物、時として植物の形質を備える。彼ら彼女らが、元は普通の人間だったことは明らかだった。しかし何故、どのようにして変異するのかは今をもって謎だ。

 クルマが目代めしろ大通りに入る。拠点の豪邸までもう間もないものの、先にトアのいる遊園地跡に寄って、報告を済ませてしまおうかとも思う。距離に大した差はない。

 ただ、ハルトは報告にあたって一つ、迷っていることがあった。

「トアさんへの報告、どうしましょう」ハルトは隣のエリをチラと見た。「エリさんの力について、言ってしまうのは……」

 次元に転移のための穴を開け、また閉じる帳の技。そんなものがあると知られれば、生存者の間でどんな騒動が起こるかは想像したくない。だからハルトもアツロウとライカに口外しないよう頼み、快く承諾してもらった。

「言っていいわよ、彼女には」至極あっさり、エリは言った。「彼女は始めから、わたしの力を知っていたと思う。それに、そもそも高位の魔術師に嘘は通じないものよ」

 そんなものか。思いながらハルトはクルマのスピードを落とした。この辺りのゾンビは掃討済みなものの、放置車両が多い。

 さてどっちに行こうか。ハルトがそんなことを考えていると

「あのね、ハルト」不意にエリが口を開いた。「あなたとわたしで、帳を上げて別の次元に行くのもいいかもしれない。そう思うことがあるの。二人で次元の壁を抜けるだけなら〈刻〉の消費も少なく済む。わたしのこれまで過ごしてきた時間なんて、大して惜しいものでもないし。悪くないと思わない?」

 唐突な提案に、ハルトは言葉を失った。提案そのものはひどく魅力的、というか魅惑的で。この次元を捨てて安全な次元にゆく。ゾンビも怪物もいない世界がそこにある。きっと今、この世界を生きる誰しもが望むに違いない。それより何より、僕を誘ってくれたことが嬉しい。けれど

「やめてほしいです。それは」その言葉はするすると何の抵抗もなく出た。ハルト自身、驚くほどに。「それでエリさんの時間が一部でも消えてしまうのは、嫌です」

「どうして?」エリは食い下がる。「帳の技では行使者にとって浅い刻、重要じゃない記憶から費やされる。ハルトのことは憶えていられる」

「あまりうまく説明できないんですけど」ハルトは告げた。思うようにカタチにならない言葉を、ひとつひとつ自分でも確かめるように。「今のエリさんを形作った時間が消えることを考えると、僕の……この世界の一部が欠けてしまう気がして。それがひどく、こう、苦しいというか嫌というか」

 想像するだけで、体のなかの見えない部分が痛んだ。自分ものでさえない誰かの記憶に、時間について、そんな風に感じるなんて。ハルト自身、何故なのか理解できてはいなかった。それでも

「だからもう、帳の技を使うのはやめてください」

 繰り返し頼んだ。こんな気持ちで頼みごとをするのは、紗枝のための薬を求めたとき以来だ。すると

「クルマを停めて」

 静かな声音でエリが言った。

「どうしたんです?」

 ハルトが問いかけるも、それきり返事はない。妙な圧を隣席から受け、怒らせてしまったかと悔やむ。あんな提案、なんて答えれば正解だってのさ。いつだって後悔は役立たない。

 飛び降りでもされたら怖いので、やむなくハルトはクルマを停めた。ここは放置車両の点在する大通りのど真ん中だ。まさかここで別れて何処かに行くとか言い出すんじゃ、と思うと気が気ではない。

 ハルトがオロオロと情けなく混乱していると、彼の腹の前を何かが通り過ぎた。エリさんの手?と思った瞬間、視界が急に上向く。リクライニングレバーをいじられた。と気づいた時にはもう遅く。ハルトはエリに覆いかぶさられ、真正面から見下ろされていた。

「抱いて、ハルト」いつかの、激しい欲情の滲む瞳でエリはハルトを見つめた。「いえ、わたしが抱くわ」

 するすると慣れた手つきで、エリの手がハルトのベルトのバックルを外す。

「ちょ、ちょっと待ってくださいよエリさん!」

 割と脈絡なく誘われるのはハルトも慣れていた。が、こんな大通りのど真ん中は想定していない。ゾンビの危険はほぼないだろうと思うものの、こんな時勢だ、しかも屋外では何が起こるかわからない。

 エリは右手でハルトの胸を押さえつけながら、左手で自身のシャツのボタンを外してゆく。

「もうすぐ拠点ですから! そう、暑い中で戦ったんで汗いっぱいかいてますから! 帰ってお風呂に入りましょう、ね!」

「別にいいじゃない。わたし、ハルトの匂い好きよ」エリはハルトの頬に口づけ、耳たぶを噛んだ。「とにかくすぐにハルトとつながりたいの。邪魔しないで」

 塞がれた口に入ってきた舌は、思いのほか甘くやわらかく。ハルトを内から溶かすように熱く絡みつく。

 エリに昂らされながら、ハルトは思う。もう何ヶ月も一緒に過ごしているのに、エリさんのことはよくわからない。それでも、いや、だからこそなのかもしれない。一緒にいたい、あなたに触れたいと思うのは。

 欲望、と呼ぶにはいたいけな情動にかられて、ハルトはエリの腰に手を回す。

 エリは心地よさげに小さく震えながら、ハルトにその身を圧しつけた。強く。

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