3-7. ゆらぐ世界
分厚い強化ガラスの向こうには、人間の男性"だった"らしいモノが横たわっていた。ベッドの上の人間だった部分は、骨と僅かに残った肉と皮だけ。それとシーツに染みた赤茶けた跡。その半身を覆う金属の甲殻は奇妙に有機的な光沢を保ったまま、腐りもせずにそこにあった。
消毒液臭の漂う通路に沿って、そんな部屋が並んでいる。いずれも人間と、時には人間以外の動物と、有機的な機械装置の融合体だったモノが収められていた。
そして通路を挟んで反対側には、こちらもガラス越しに内部を見られる部屋があった。中央には手術台と思しきベッドがあり、その脇で複数のアームを備えたロボットが機能を停止している。
「長距離転移ゲートの試験中に突如として出現した、次元外機械生命体の残骸。それからリバースエンジニアリングした次元外技術による生体融合機械の開発……」
呟きながら、アツロウがハッキング端末のキーを叩く。この通路の最奥にあるシャッター、その先にあるものについて情報を収集するために。端末のケーブルは、ここ実験管理室のサーバらしきコンピュータにつながっていた。
突入前に下調べをしたい。そう提案したのはアツロウだった。
ハルトとしては〈夢幻の鎚〉を使ってでも、すぐに突入したい気持ちもあった。しかしまた予備知識もなく、〈人釣り〉や、先のゾンビ化した実験サイボーグのような未知の存在に出くわしてはたまらない。突入前にできるだけ情報を集めることについて、ハルトも異存はなかった。
電光ゾンビを倒した後、すぐにアツロウは起き上がった。「いやはや面目ない」と自身の焦げた衣服を剥ぎ取りながら。全身を覆う粘液のお蔭で、さして痛みもダメージもなかったらしい。
「KBC社の人工臓器、義肢は、この技術のほんの一部だったわけだね」アツロウが語る。発見した事実に探求心が満たされているのか、心もち愉し気だ。「こんなに"生きている"研究施設は初めてだ。いやはや、すごいね。あのゾンビ化した実験サイボーグに使われた技術は。歪次元発電機関《DDジェネレーター》は理論上、半永久的に……」
ハルトはアツロウの語りを聞き流しながら、棚に収められた真空パッケージのラベルを読んだ。生体用蓄電池乙種一型、生体用蓄電池甲種二型、修復ナノマシンパッケージ、無線機器誘導、記憶域拡張、反応強化神経、赤外線感知装置、望遠眼球、皮下装甲辰式、前腕格納式生体刃、エタノール発電装置、自動照準装置、遠隔火器管制……名前から機能が想像できるものから、まったくわからないものまである。明らかに一般には流通していない人体拡張装置。これがエリの言っていた、転移の「恩恵」なのか。
「あなたたち人間が機械を使い、時に機械を自らに取り込むように、有機生命体を取り込んで自身の機能を拡張する機械知性種族のいる次元がある」言いながら、エリは床に散らばった書類の一枚を拾い上げる。「わたしたちエルフはその次元を訪れたことはないけれど、そこからの来訪者と接触したことがある。わたしの生まれる前、ずっとずっと昔のことよ」
「KBC社は、その次元からやってきたモノを研究してたんでしょうか?」
「そうかもしれないし、似たような別次元のモノかもしれない」ハルトに答えながら、エリは書類を一瞥して放った。「判別はできないわ」
由来はどうあれ、機械と生体の融合技術の恩恵は小さくない。人工臓器、義肢で助かった人は大勢いる。改めてハルトは強化ガラスの向こうの死骸を見た。じゃあこれは何なんだ? 〈審判の日〉前のこの国は一応、人権の保障された法治国家だったはず。〈審判の日〉で大勢の人が死に、怪物として蘇る前から、世界はとっくに狂っていたのか。僕らが知らなかっただけで。
「エルフのひとたちは知っていたんですか? 人間がやっていることを」
ハルトにエリを責めるつもりはなかった。けれど今は、エリしか訊ける相手がいなかった。
「少なくともアルカ評議会は把握していたでしょうね。もしかすると、進んで手を貸したかもしれない。そうやって得た異次元の知識で、今のエルフの魔法―8つある領域の内の7つ、理力、招嵐、氷焔、呼地、森羅、肉変、そして造技は成立していった」エリはうすら冷たい笑みを浮かべた。「結果がどんな惨事になろうと、先住種族もろとも、いずれ捨てて去る世界だから。自らは手を汚さず傷めず、火中の栗を拾わせたいのよ」
「捨てて去るって、そんな」エリの言葉の衝撃に、ハルトは語気が強くなるのを止められない。「欲しいものだけ手に入れて、人間を、世界を使い捨てにするなんてひどくないですか!」
「ひどいわ、本当に。それでも、どんな世界もいつか終わりが来る」ハルトとは反対に、エリは静かに淡々と言った。「エルフ、メルネヴェびとは今からおおよそ一万年前、故国があった世界を失った。最後の王が邪神、異次元の未知なる神と接触し欺かれたためと言われてる。生き残りのエルフたちは大転移の御業で別次元に逃げ延びた。けれど転移した先の世界も、数百年、長くて千年程度で終わってしまったの。エルフたちはその度に転移して……あなたたちの生きるこの次元に辿り着いた。この世界も、アルカ評議会の予見者たちによれば、あと500年程度はもつはずだったの。でも結局この有様。予期せぬ変事に同胞たちの多くが死んだでしょう。生き残りも散り散り。この世界の人間たちに賢者よ知恵者よ、なんて言われてもこんなものよ、エルフなんて。逃げた先の世界を収奪してまた逃げる。生き汚くて見苦しい盗人、驕り高ぶっただけの哀れな種族」
エリは口の端を吊り上げ、自身と同族たちを嘲った。その目は開いているけれど、目の前ではなく内なる何かを睨んでいるように見えた。彼女の目は、ただ一人だけで何かに耐える、泣くことさえ許してもらえない子どものようで。
ハルトは自身の憤りが鎮まってゆくのを感じた。エリさんのせいじゃない。それは確かで、きっと重要なことだ。
「エルフたちにそんな歴史があったとはね」飄々とアツロウが口を挟んだ。「参考に伺いたいのだが、エルフたちが幾度も迎えた世界の終わりは、どのようなものだったのだろう? 今の我々のように、生ける死者と怪物たちが地上に溢れたのかね?」
「色々よ、記録を読んだだけだけど。ある時、この多元宇宙で神々、〈いと高きもの〉〈旧き統治者〉と呼ばれるものたちに大きな異変が起こった。それ以来、あらゆる次元で世界の終わりが加速した。ある世界は『神々の争いの余波で大地が裂け海が煮え、森が枯れ果てた』。また別の世界は『忘れられた神々が眷属とともに顕れて先住種族を滅ぼし、生き残りを奴隷化した』。今のわたしたちが経験している"終わり"に近いものもある。『神々に由来する未知の物質が次元の亀裂から入り込み、毒となってその世界の先住種族を絶滅させた』」
「神々、神さまなんて本当にいるんですか?」
科学と技術の世に生まれ育ったハルトには、神という存在がいま一つ理解できなかった。エルフ由来の魔法とて、魔力という、世界と現象に分化する前のエネルギーを活用する技術に過ぎない。そう思ってきた。
「いるわ。今のこの世界の信仰にあるような、正義や善を代表するものでは到底ないけれど」エリの口ぶりがいつもの、ハルトに講釈する際の調子になる。「彼らは多元宇宙に遍在し、わたしたちの知覚しえない〈方向〉から世界に干渉できる。わたしたちが画材で絵を描き粘土で造形するように、世界の事象を造り、書き換えられる。今の魔法、8領域の魔術はその技を極めて限定的に模したもの。かつてのエルフは彼らと交渉し契約し、より強大な力を地上で振るうことができた」
昨日トアの館を訪れた時も、そんなことを言っていたっけ。ハルトは思い出す。しかしやはりピンとこない。この世界を好きに変えられるなんて。なので湧きあがった素朴な疑問を口にした。
「そんな強大な存在が、どうして世界を終わらせるんですか? 別に終わらせなくたって、何とでもなりそうなものじゃないですか」
「その神にとって、そのほうが都合がいいから、かしら。あるいは神とて全能というわけでもないのかも。本当のところは、神ならぬ身にはわからない。ただ言えるのは、彼らにとってはエルフも人間も、取るに足りない矮小な存在でしかない。終わるのはわたしたち定命者の生きる世界だけ。彼らにとっては世界なんて、ゲーム盤の一つでしかないのかもしれない」エリは薄く微笑んだ。「異変が起きて、神々は支配する次元を巡って相争うようになったと言われてる。そのせいで幾つもの次元が、星も生命もなき不毛の世界と化した。あるいは特定の神のみが支配する異常な世界となった。この世界も、恐らくそんな滅びの途上にある。神々はあらゆる次元に食指を伸ばしてる」
エリは通路の先を、最奥のシャッターの向こうを見遣った。
「フム。この通路の先にある試作転移ゲートは、近くで研究を続けるスタッフの心理に特殊な影響を与えた、との記述がある」補足するように、端末を見るアツロウが言った。「この研究所で働くスタッフのうち32%ほどが『呼ばれた』『見られてる』感覚が頭から離れず、研究続行に支障をきたしたらしい」
「転移は危険なの。うっかり他次元の物質や生きものを呼び込むだけじゃない。人間にもエルフにも危険な存在が〈次元の狭間〉に充溢しながら侵入できる機会を窺っている。神とも呼べる上位存在から、知能さえ持たない低位のモノまで。同次元内の空間跳躍でも〈次元の狭間〉を抜ける以上、彼らに捕捉される可能性がある。そして実際、捕捉されたのね」エリは言うと、僅かに目を細めた。ここではない、ずっと遠くを眺めるように。「きっとこんな場所はここだけじゃない。この世界の終わりが加速したのも、納得よ」
エリたちエルフが辿ってきた道のり、世界の終わりと神々の存在、転移の危険については、ハルトも理解はできた。俄かには信じがたいことではあっても、エリが今、嘘を言う理由もない。
そして今のこの世界の有様についても想像がつく。地上を闊歩する怪物たちの多くは、人間が転移を弄んだ果てに呼び込んだのだろう。ならば
「〈審判の日〉で、大勢の人が死んだのは、死んだ後に生ける死者となって蘇ったのは……」
「確かなことはわからない。でも類例がある。さっき言ったでしょ」淡々とした言葉と裏腹に、エリは痛みに耐えるような目でハルトを見た。「おおよそ8000年前の記録にあるの。細かい部分は省くけど『神に由来する未知の物質が、次元の亀裂から入り込み、毒となってその世界の先住種族を絶滅させた』そして『死者は魂なき怪物となって蘇った』。その時はわたしたちエルフも大打撃を受けた。たぶんそれに近いことが起きたのよ。人間と、エルフの所業で」
神々によってもたらされる世界の終わりを、人間が転移を通じて自ら呼び込んだ結果が、今のこの世界。
不可抗力などではない。人災だったという事実に、ハルトはまず怒り、その怒りをぶつけるべき相手が足元に転がっている現実を前に、怒りを呑み込んだ。今更だ。骸を損壊しても気は晴れない。もうその権利があるとも思えない。生きるために死体を漁り、人殺しに手を染めてきた。
「みんなして難しい話してたけどさ」そこでずっと黙っていたライカが口を開いた。ガチャガチャとKBC警備員の装備していたエネルギーライフルをいじりながら。「あそこにヤバいもんが来る穴ができかけてるってことだろ? ならさっさと塞いじまわないとな。もう終わっちまってる世界だけど。これ以上生きづらくされるのは御免だね」
そう言って、ライカは外したバッテリーパックをエネルギーライフルに叩き込むと、その銃口を通路最奥のシャッターに向けた。
彼女の言葉はシンプルで、それでいて真理をついている。ハルトにはそう思えた。今は、手に余る過去の出来事を振り返っている状況じゃない。人間もエルフも変異者も、ただ、今を生きるためにやるべきことがある。
遠くない未来、確実な終わりを迎えるのだとしても。
「塞ぐ手段は預かってます」ハルトは内ポケットに小瓶の収まった胸を押さえた。「アツロウさん、他に何かわかったことはありますか?」
「ここに研究所を作ったのは、KBCの顧問魔術師、芦那何某、これはエルフのニホン名だね。この人物の提言が元らしい」アツロウはホースから水をひと飲みする。「あとは呪文で荷電粒子へ干渉する実験の記録、か。セキュリティが固くて、今はここまでが限界だ。時間の余裕があればまた別なんだが。有用な情報を拾えなくてすまない」
「いえ、ありがとうございます」ハルトは礼を述べると、エリに向き直った。彼女の言うとおり、ここの研究にはエルフが絡んでいた。「エリさん、知ってますか?」
「芦那、たぶんアルシェンナね。彼女はアルカ評議会の議員を務めた高位魔術師。新興の魔術領域、造技の基礎を築いたのは彼女。けれど禁忌を犯して任を解かれ、当時のエルフの共同体から追放された。彼女は……」
そこで不意にエリは言葉を切ると、通路の奥に目を向けた。
釣られてハルトも通路の奥に目を向ける。すると額に刻まれた紋様に沿って、脈打つように疼きが走った。何が?と思った瞬間
目の前の世界が、通路の奥を中心にゆらいだ。暑い日の陽炎越しに見るように、視野にある空間がまるで波打つ水にでもなったような。
そして
「なんだよあれ!」
ハルトは、叫ぶライカの視線を追う。すると、ゆらぐ空間から漏れ出るように、ペットボトルサイズのナメクジめいたモノが通路の床に、壁にと這い出した。同時に半透明のクラゲめいたモノが、無数に滲み出て浮遊し始める。
「ギギムル。〈狭間の雲海の大公〉ディアンドゥンバの周りを漂う寄生生物」エリが言った。クラゲめいた浮遊生物を見据えて。「大した知能はないけれど、触れれば魔力や体力を吸われる。注意して」
「知ってるんですか?」
ハルトは訊ねた。ここに来て、エリの知識には驚くばかりだ。
「いえ、知らないわ」エリは即座に否定して、続けた。「今、本を読んだだけよ」
本?こんな生きものについて書かれた本が何処にあったのだろうか。そもそも、エリが本を読んだ素振りはなかった。疑問が頭に渦巻くも、ハルトは氷の大盾を前面に出し、身構えた。今はのんびり訊ねている暇はない。
「這ってるほうは〈人釣り〉の幼生だ」アツロウがエネルギーMGを撃ち、黄褐色のナメクジめいたモノを焼く。「巣の近くで稀に見かけるが、元々はこうして次元に侵入してくるのだな」
ライカがKBCのエネルギーライフルをエリに向かって放る。
「こっちは姉さんのほうが上手く扱えそうだ。試してみな」
「助かるわ」エリはエネルギーライフルをキャッチすると、スムーズに安全装置を外して射撃体勢に入る。そしてこの場の全員に聞こえるよう、声を張り上げた。「この先の転移ゲートがある限り、たぶん際限なく湧いてくる。とにかく撃ちまくって。薄くなったら、ハルトを先頭に突入。いいわね?」
「了解です」「任せな!」「了解した」
乱れ飛ぶ光弾が壁を這うナメクジめいたモノを焦がし、浮遊する半透明のクラゲ、ギギムルを砕き散らす。
ハルトも援護しようと、自律剣の呪文を唱えかけたが
「ハルトは魔力を温存して」言いながらも、エリは標的から視線を外さず撃つ手を止めない。「転移ゲートがどうなってるかわからない。この程度の相手なら、わたしたちだけで何とかなる」
状況は確かに優勢だった。ハルトは弾幕を抜けてきたギギムルを魔力の剣で斬り払うに留めた。
それでも寄生生物とやらが大量に湧き出すせいで、前進できてはいるもののカメの歩みのようにのろい。そんなさなか、弾幕とハルトの剣をくぐり抜けたギギムルが、ライカの裸足の足先に触れた。
「ぎにゃっ!」ライカは叫び、膝を着く。が、すぐに立ち上がると、憤怒に燃える眼で浮遊するギギムルを睨んだ。「次から次へと鬱陶しい! みんな、下がってな!」
返事を聞く間もなくライカはハルトの脇をすり抜け、前に出る。そして青い全身の毛を紫電の火花で逆立たせ、両手を広げて前に突き出して
「喰らいな!」
その言葉を引き金に、ライカの両手から眩い稲妻が迸った。先の電光ゾンビのそれによく似た電撃が、紫電を散らしながら蛇のようにくねって伸びる。二条の稲妻は進路上のギギムルを焼き、更に枝葉の電光で進路外のギギムルとナメクジもどきを巻き込みながらシャッターに直撃した。
シャッターには傷一つないものの、通路上のギギムルは数個体を除いてほとんどが焼き尽くされた。その替わり
「後は、任せた」
倒れるライカを、寸でのところでアツロウが支えた。
「彼女の力は体力を消耗するんだ」アツロウがライカの小さな体を抱え上げる。「しばらくすれば回復する。行ってくれ。すぐに追いつく」
ハルトは頷き、エリと視線を交わすと駆け出した。途上のギギムルを斬り捨て、盾で弾き、シャッターの前で立ち止まる。いよいよだ。この先にトアの言う「次元の穴」が、まだ開ききってないそれがある。あとはそこに、預かった小瓶を投げ込むだけ。ベルトのポーチから〈夢幻の鎚〉を出して、シャッターの中央に狙いを定める。ことここに至れば、アツロウのハッキングにも頼れない。
この向こうにあるのは試作転移ゲート。ただし本来の用途から外れた運用をされ、何が起きているかわからない。辺りの様子から、ろくでもない状況なのは間違いない。シャッターの向こうで待ち構えるのは神か、はたまた未知の現象か。
「いきます!」
「いいわ。やって」
背後のエリの返答を聞き、ハルトはハンマーをシャッター中央に叩きつけた。
空気が弾けるような乾いた音とともに、シャッターが内へひしゃげて砕け散る。途端に
「あづっ!」
ハルトの額が、燃えるように熱くなった。刻まれた紋様に沿って血が溢れ、生ぬるく顔を伝い落ちるのがわかる。そしてこみ上げてくる吐き気。実際に吐くほどではないにせよ、気分が悪い。
その程度では止まれない。ハルトはシャッターの破片を踏み越えて、中の空間へと足を踏み入れた。
この施設で見た中で最も広い空間は昏く、機材も照明も何もなかった。ギギムルも、人の死骸すらない。ただ中央に、水晶めいた結晶が大小織り交ぜて林立して発光していた。結晶は自体が透明に見えるものの、その内には黒い煙状のものが満ち、絶えずゆらめき動いている。
そしてその直上には、赤に黄、緑に青に蛍光色にと、様々な色の光の奔流が絡まり幾重もの渦となってゆれ蠢いている。
何かがこちらを見ている。ハルトにはそう感じられた。エリのもの以外、目など何処にも見当たらないのに。
「見ている。窺ってる。この次元を」同じものを感じたのか。エリが言った。「探ってる。棲まうに適した世界かどうか……ハルト、やるなら今のうちに」
ハルトは頷くと剣を置き、胸の内ポケットから小瓶を出した。キラキラ煌めく赤く細かな粒が詰まっている。これをあの、色彩の蠢く場所へ投げ込めば終わりのはず。
距離を確かめ、狙いを定めるべく色彩の奔流を直視した瞬間、ハルトは理解した。あらゆる理屈と常識を超越した感覚で。色彩の重渦は、ただの現象ではない。巨大な、あまりに巨大な存在の眼が、こちらの次元に見せている一部分なのだと。人で例えても、きっとその眼球の細胞一片にも満たない。数学的な点にも等しい極々僅かな部分で、神は見ていた。
僕と、エリさんを。この世界を。
そして直観的に思う、というより知覚した。アレをこちらに入れてはいけない。アレはこの世界を根本的に造り変えてしまう。
幸い的は大きい。ハルトは小瓶を大きく振りかぶると、乱れ流れる色彩の渦に向かって投げた。
小瓶は回転しながら陽炎ゆらぐ空間を抜け、燃え立つ色彩の渦に触れる。その瞬間、小瓶は弾けて中の赤い結晶粒が四散した。
結晶粒は空中で拡がりながら色彩の渦を覆い、空間に赤光の線を描き出した。その模様は楕円の曲線を基調としながら無数の多角形と重なり、連続し、見ていると頭が痛くなりそうな複雑な入り組み方をしていた。
模様は乱れ渦巻く色彩の奔流を刻み、端から押し返すように消していった。並行して陽炎のようにゆらぐ空間も刻み、ゆらがぬ輪郭を持つ元の状態へと戻してゆく。
「超刻結晶は法と混沌の狭間に在って、混沌にカタチを刻んで安定させる働きがある」ハルトと共に復元されゆく空間を眺めながら、エリが感嘆を込めて言った。「とても希少で貴重な鉱物なの」
見る間に色彩の重渦は小さくなり、もうサッカーボール大のサイズになっている。
「これで安心ですね」ハルトがほっと安堵の息をついた。その時「!?」
エリの目が驚愕に見開かれる。ハルトも同じものを目の当たりにし、一瞬、息が止まった。
テニスボールサイズの色彩の渦、その色が混ざって暗い灰色の粘体と化す。粘体はこちらの次元に向かって、不定形の擬足を伸ばした。細く長く擬足は伸びて、パイプ状の器官を形作る。同時に再び空間がゆらぎ、ギギムルが湧き出した。
パイプ状の器官はその先端をラッパのように広げると、辺りに浮かぶギギムルを呑み込み始めた。嚥下するように、その灰色の体色の濃淡を変化させながら。
ギギムルを捕食する度にパイプ状の器官は太くなり、小さくなったはずの色彩の渦が少しずつ拡がり始めた。




