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3-3. 双子船の館

 廃墟の西の端に残った橙色の光を背景に、観覧車が巨大な車輪の影絵を描く。その手前で捻じれて巡るジェットコースターのレールは、黒く異様な巨大生物の死骸のように見えた。

 メンテナンスをする者が消え去って1年余。かつて人々を楽しませた機械仕掛けの巨大遊具は、いまだその形を保っていた。あちこちに草木を生やし、蔓植物に絡みつかれながら。

「ほっ、と」

 掛け声を出しつつ、ハルトはハンドアクスを振るう。その一撃で、アスファルトの地面を割って伸びる細い若木は倒れた。ほんの3ヶ月前には生えていなかったものだ。遊園地跡を囲む一帯は、体感的に他の地域よりも植物の繁茂が速いように思う。

「ここに、その人が住んでるの?」ハルトの後に続くエリが、物珍し気に当たりを見回す。「あの、ミ=ゴの檻を壊したハンマーを造ってくれたっていう」

「ええ」作業グローブを付けた手で目の前の蔓の束を引き下ろすと、ようやく目の前の視界が開けた。「トアさんは以前、僕がこの辺りに迷い込んだ時、偶然知り合ったんです」

 出会ったあの日の衝撃を、ハルトは今でも鮮明に思い出せた。巨大なフクロウクマを従えた、両眼帯の女主人。トアさんは捻挫した僕を遊具船の乗船用建物に運ばせると、手当して食事を振舞ってくれたっけ。久しぶりに暖かな手料理を前にして、思わず泣きそうになったことを覚えている。

 以来、ハルトは恩返しも兼ねてトアの頼みごとはなるべく引き受けた。頼みごとの内容は、時により様々だ。ある時は郵便局の配達物保管庫の指定の棚に封書を置いてきてほしいであったり、またある時は指定の廃屋の書棚にある古雑誌を取ってきてほしいであったり。いずれも何とも奇妙なものばかりだった。

 園の遊具エリアに入ってしまえば、さすがに繁茂する草木も減る。しかし遊園地外縁部の樹木の浸蝕はハルトの想像以上に速く、この辺りが緑の海に呑まれるのも時間の問題に思えた。

 ハルトとエリは、蔦と苔に覆われたコーヒーカップと、群れ飛ぶ小型飛行機―今は動かない―の遊具の間を通り抜ける。と、落ち込む寸前の夕陽を背景に、鉄柱にぶら下がる二艘の巨大な鋼の船が黒く浮かび上がった。そしてその手前に、幾つもの人影が見えてくる。

「ハルト!」

 警告の声を発した時には既に、エリは背に吊っていた弓を手に矢をつがえていた。

「ああ、大丈夫ですよエリさん」安心させようとハルトは言った。努めて穏やかに。今のエリの姿に、かつての自分を思い出しながら。「あれはゾンビでも盗賊でもないです」

 怪訝な目で自分と先の人影を交互に見るエリをそのままに、ハルトは鋼の船を目指して進む。近づくにつれて、人影の細かな部分が見えてくる。遊園地のロゴマークが付いた制服を着た警備員、小さなナップザックを背負った幼児とその母親、カップルと思しき若い男女……みな手を前に突き出して、硬直したように動かない。一様に、今にも動き出しそうな躍動感に満ちたまま。

「これって……?」

 エリが固まった警備員の顔を訝しげに見ている。

 それもそのはず。動かない人々はほぼ皆同じ表情を、ゾンビと同じ、目に怒りを滾らせた表情を浮かべて固まっていた。そしてその顔や首、露出した肌はくすんだ灰色に変化し、革のような石のような質感を帯びていた。

呼地クトーニアの石化呪文じゃなさそうね」エリは動かない人の手の肌を、銃剣の柄頭で押してみた。「少し弾力があるもの」

「そうなんですか? トアさんの魔法で固められたゾンビなんですけど」ハルトは立ち止まると、エリに付き合って同じ人影、硬直したゾンビを眺めた。「不思議ですよね。今にも動き出しそうで」

 ハルトも初めて目にした時は大層驚いた。あの時からだいたい1年が経つ。魔法の力で灰色の像となったゾンビの数は、初めて見た時より少し増えたように思う。

 何か興味を惹かれるものを見つけたのか。エリが小走りに駆け出した。ハルトが追うとエリはすぐに立ち止まり、4体ほどが集まった人影、像を調べ始めた。

 ハルトもエリの後からその像を見た。皆、帝国軍兵士の装備に近い、グレーを基調とした都市迷彩柄のスーツに身を包んで固まっている。上腕から胸、胴までを覆うボディプロテクターには、一見して効果のわからない呪紋ルーンとシンボルが細かく緻密に刻まれている。頭にはスーツと同じ迷彩柄のヘルメットが、それぞれの手には詠唱補完ライフルがあった。詠唱補完ライフルは大戦期に開発された、魔術士兵の専用武装だ。これは要所にホグバイト鋼を使い、魔法の行使に伴う負担を軽減する呪紋を刻まれている。ハルトはそれを社会科見学で訪れた博物館で見たことがあった。しかし今、目の前にあるそれは、大戦期のものより遥かに洗練されたものに見える。

 エリが、一団の先頭に立つ男と思しき像のヘルメットを外し、ゴーグルと黒いフェイスマスクを剥がした。

 そこでハルトは、エリが興味を惹かれた理由を理解した。端正な細面の男の耳には耳朶がなく、長く先が尖っている。彼らはエルフだ。

「アルカ・ィム・ダウェアラ」ひと通り調べ終え、エリが言った。「どうして……」

「知ってるんですか? エリさん」

 ハルトが訊ねると、エリは像から数歩下がって答えた。

「彼らが評議会、エルフ社会の最高議決機関直属の兵士、ということくらいね」心なしか、エリの声が硬い。「エルフなら誰でもわかる。〈審判の日〉の混乱でとっくに壊滅したと思ってたのに」

「ここでこうなってるってことは、ゾンビになってたんでしょうか?」

 言いながら、ハルトはエルフたちの像について考える。ゾンビになったのは人間だけでない。400年前にこの国に現れた他の知的人型種族、ドワーフやゴブリンのゾンビも見かける。しかしハルトはこれまで、ゾンビ化したエルフを見たことはなかった。そしてこの像についてはちょっと違和感もある。この像と化したエルフの男の顔に固定された表情は、ゾンビの顔に見られる怒りではなかった。

 男の目は大きく見開かれ、その顔はとてつもない恐怖で歪んでいた。

「メルネヴェびと、エルフが活死者、ゾンビになることは滅多にないの。亜邑から本土に残った同胞の救助にでも来たんでしょう。防寒とまではいかなくても厚く重ね着してるから、それもずいぶん前のことみたい」ちょっとほっとした口調で言うと、エリはエルフ像の装備をしげしげと眺めた。「でも惜しいわね、この装備。持って帰れない?」

「探索稼業に染まってきましたね。エリさん」訊かれたハルトは尤もだと思った。今にも動き出しそうな像なので気が引けていたが、確かにこの装備を放置は勿体ない。「所有権はトアさんにありそうですから、あとで訊いてみましょう」

「誰かさんの実地教育の賜物ね」エリは楽し気な笑みを浮かべて身を翻すと「あの、船のある建物に行けばいいん……」

 言葉を止めて、固まった。目の前に音もなく現れた、白い羽毛に覆われた大きな生きものを見上げて。

 羽毛の生きものは大きな丸い眼でじっとエリを見つめると、嘴ある顔を彼女に近づけ、訝しむように左右に回転させた。

「っ……!」

 誰の目にも大きな異形の怪物と映るものを前に、悲鳴を飲み込み押し留められた彼女はすごいと言うべきか。

 ハルトはバックパックを下ろすと、中から蜂蜜の瓶を出して放り投げた。

 すると大きな羽毛の生きものはハルトの投げた瓶を空中でキャッチ。いそいそと蓋をこじ開けて中身を啜り始める。

「オウルベア、って言うらしいです」ハルトは言った。「名前はシロ。ネーミングセンスがアレですが。トアさんの護衛というか番犬というか、そんな感じの生きものです」

 ハルトはシロがゾンビを軽く撫でただけでミンチにするのを見たことがあった。

「昔の魔術師が、こんな生きものを合成して使役してたって話は読んだことがあったけど」エリは落ち着きを取り戻すと、オウルベアをしげしげと眺める。「その女主人、けっこうな魔法の達人みたいね」

 オウルベアのシロはあっという間に瓶を空にすると、顎、もとい嘴をしゃくって鋼の船を示し、歩き出した。殊更ゆっくりと。数歩進むと足を止め、顔だけ後ろに回してハルトとエリを見る。

「案内してくれてるの?」エリがシロの知性に驚嘆の声を上げる。「もしかして、わたしたちの歩幅に合わせてる?」

「ついていきましょうか。と言っても、すぐそこなんですけどね」

 遊具の間を歩くオウルベアの巨体から、大きく長く影が伸びる。

 ものの5分も経たないうちに、鋼の巨船に乗り込むために造られた建物の前に着いた。かつては古城めいた窓のついた二階建ての鉄筋ビルだったものが、今はびっしりと蔓植物の緑の葉に覆い尽くされている。入口を縁どる捻じれた樹木を、建物の内からこぼれる橙色の光が柔らかく照らしていた。

 シロが巨体を屈めて入口をくぐる。ハルトとエリもその後に続いた。

 建物に入るとすぐに階段があり、シロがのそのそと昇ってゆく。階段左の壁面には一定の間隔でランプが据え付けられ、柔らかな灯火で館内を照らしていた。ランプは透きとおった緑の液体を燃料に、ミントに似た清涼感のある香りを発している。

 シロの後をついて昇りながら、ハルトは思い出す。これ、本来は上階にある船の遊具に乗るための階段なんだよな。タイル張りだったはずが、いつのまにか板張りになってるけど。

 すぐに二階に出る。かつて乗客の待合室だった場所は、広い洋間となっていた。壁には階段と同じランプが灯る。その明かりは、据え付けられた棚に並ぶ本と巻物、大小の瓶を、また草木の束と書簡が載った大きなテーブルを照らし出した。

 そのテーブルの手前で、両目を革帯で覆った女が片膝をついて屈んでいる。

 彼女がここの女主人、トアだ。トアは角のある小さな翼竜の後肢の傷に軟膏を塗ってやっていた。

「これでよし、と」小さく言いながら、トアは猫サイズの翼竜の喉を指で撫でる。「さ、もう行きなさい」

 きゅあーと一声、礼を述べるように鳴くと、翼竜は開いた窓から夜の空へと飛び発っていった。

 その様子を見てハルトは思う。すごいよなトアさん。あの翼竜、余所ではとんでもなく狂暴なのに。

 両目を覆い隠す帯を抜きにしても、トアは不思議な人物だった。野生動物でも変異生物でもよくわからない生物でも、彼女は怪我や病の治療を求めてやってきたものには分け隔てなく治療を施した。そしてどういうわけか、生きものたちもここではおとなしい。どうやってここを知ってやってくるのかは謎だった。

「ご無沙汰してます、トアさん」

 横の壁を軽くノックし、ハルトは挨拶した。

「あらぁハルトちゃん、いらっしゃい。おばちゃんね、ちょうどお話したいことがあって」トアは口元に笑みを浮かべて立ち上がる。と、そこで急に彼女の表情は険しくなり、その声が緊張を帯びた。「メルネヴェびとが何故ここにいる?」

 両眼帯越しの見えない視線がオウルベアのシロを射抜く。シロはオロオロ焦った素振りで顔を幾度も回転させると、巨体に似合わない素早さでハルトとエリの後ろに回り、体を丸めて震え出した。

 足早にトアが歩いてくる。ハルトもこの展開は予想していなかった。許可なく他人を連れてきたのが不味かった? 何が何だかわからない。とにかく話を聞いてもらおうと、ハルトはエリを庇うように前に出た。

「トアさん、彼女は……」

 トアはもう目の前。ハルトが後ろを振り返って見ると、エリは戸惑いつつも毅然と立って両腕を垂らし、敵意はないと示すように手のひらを前に向けて

「竜たちの冠に賭けて。女主人ミストレス、この訪い(おとない)には如何なる企みもありません」

「メルネヴェ上古の誓句をご存知なんて、ますます怪しいわね」

 二人の女の視線が衝突する。どちらの言っていることもハルトには意味がわからない。とにかく喧嘩、戦いになどならないでくれと祈るように、ハルトは双方を交互に見遣る。視界の隅で体を丸める白くて大きい生きものの気持ちが、痛いほどわかった。

「そもそも認証鍵のない人間は近寄れないはずなんだけど……?」言ってトアは顔をエリに近づけると、その形のよい鼻をひくつかせて「ああ、そういう……お盛んなのね」

 エリの長い耳が先まで目に見えて赤くなる。その瞬間、トアの緊張が解けたのが目に見えてわかった。

 エリが横目で恨めしそうにハルトを睨む。え、悪いの僕ですか? ハルトはそんな思いを視線に込めて返すも、つんとそっぽを向かれてしまった。

 なにはともあれ一触即発の空気が消えて、ハルトはほっと安堵の息をついた。とりあえずは紹介を、とエリに促そうとするも、先にトアが口を開いた。

「私はトア、ここで隠居生活をしている……そうね、あなたたちの言う魔術師にはなるのかしら。メルネヴェの位階でどこに相当するかはわからないけど」両眼帯越しの視線が、ハルトに移る。「ハルトちゃんとは、たまにお仕事をお願いするくらいの間柄。この間もすまほ?の使い方を教わったりしたわ。これでも一応、目は見えてるの」

「わたしはエリ……」エリは自らの名を言いかけて、トアの目線を感じ取るなり言い直した。「エリィルラル・エィールウク・アムルイラ。先の大転移でこの次元に辿り着いた、メルネヴェの民の一人です」

 始めて聞くエリのフルネームに、ハルトは驚いた。その精妙な音に。またその異国語感に。確かに二ホン語しか話せない生粋の二ホン人では発音は難しい。エリが初めて会った時に略称で名乗ったのも納得だった。

「500年前に突然やってきて、人間、あなたたちの言うマヴドに変な知恵を付けさせて……全くもって迷惑な話よ。まだ若いあなたには関係のないことだと思うけど。愚痴ってご免なさいね」言いながら、トアはテーブル横のスツールを薦めた。「そこにかけてて。今、冷たいものでも持ってくるから。たいしたものはないのだけど」

 トアがこの広間の奥のドアを抜けてゆく。

 エリと隣り合ってスツールに腰かけながら、ハルトはトアの言葉に感じた奇妙な違和感を思い起こした。なんだっけ、そう「500年前」だ。歴史で学ぶエルフの来訪は、今からおおよそ400年前。西暦1600年代初頭、織田幕府体制の頃とされている。当時はエルフという呼び名ではなく、笹耳人だの天人だのと呼ばれたそうな。それが開国以降、西洋の言葉が入ってきてエルフと呼ばれるようになった。厠がトイレに、匙がスプーンになったように。

 トアの人となりから、言い間違いや記憶違いとも思えない。だからハルトは訊いてみた。

「エリさん、エルフの人たちがこの世界に来たのって……」

「そう、だいたい500年前。彼女の言うとおりね」エリは答えた。言い淀む素振りもなく。「この世界に着いてもエルフ、メルネヴェの民は、すぐに人間たちの前に姿を現すことはしなかった。共生可能か調べたのよ。100年近くかけて」

 ハルトは言葉を失った。その途方もなさに。人間とエルフは寿命のスパンが倍以上違うため、時間に対する感覚が違うのは理解できる。それでも、住み暮らす土地と原住民の調査に100年を費やすなんて。

 そうこうしている内に、トアが盆を携えて戻ってきた。彼女は盆に載った麦茶のボトルと氷の入ったボウル、グラスをテーブルに置くと、グラスに氷を入れて麦茶を注いだ。

「でもおばちゃん驚いたわぁ、ハルトちゃんが彼女を連れてくるなんて」トアはハルトとエリの前に丸い革のコースターを敷き、麦茶のグラスを置く。「ちょっと安心もしたの。あのままじゃハルトちゃん、私の知らない何処かで独りで死んじゃってそうだったから。誰かが傍にいるなら、そうそうそんなことにもならないでしょ?」

 くすぐったく感じるものの、こんな時代、気にかけてくれるのは素直に嬉しい。と思うも、ハルトは言われた言葉の一部をうまく呑み込めなかった。トアさんは今、何て言った? えーと、彼女? エリさんのことそんな風に呼んじゃっていいの? 確かに体の関係はあるけれど。お互い選択肢がない中で生まれたそれをもって、彼氏彼女の関係性と自認してよいものか。

「いや、あのトアさん、僕はせいぜい」

 同居人で家電がいいところじゃないかなあ、と続く言葉をエリが遮った。

「彼が、ハルトがいないと生きていられないのは、わたしのほうです」

「あらあら、お熱いのね」

 手でパタパタと団扇で仰ぐような仕草をしながら、トアは向かいの椅子に座ると、自身のグラスに麦茶を注いで飲んだ。

 ハルトはなんだかエリとトアの二人に同時にからかわれている気分になる。それでも彼女発言がエリ当人に否定されなかったことは、少なからず嬉しかった。

「それで、今日のご用事はなあに?」

「ええと、探索に役立つ道具をまた分けてもらえないかなと」トアの言葉にこの訪問の目的を思い出し、ハルトは答えた。「この間の〈夢幻の鎚〉でしたっけ。あれがあると非常時の安心感が違うので」

 一度きりしか使えないものの、ぶつけた物をほぼ何でも粉砕できるあのハンマーは、強力な敵の打倒にも脱出路を切り拓く際にも役に立つ。

「ならちょうどよかったわ。ハルトちゃんたちに頼みたいことがあるの」トアが椅子から立ち、背後の棚に手を入れた。「えーとこれと……あとこれね」

 そしてトアがテーブルに並べたのは、ヘッドの片方が中空の奇妙なハンマーが4本と、赤い粉の入ったガラスの小瓶が1つ。奇妙なハンマーは、今日ハルトたちがやってきた目的そのものだ。

「〈夢幻の鎚〉を4本渡します。その代わり、お仕事をお願いしたいの」

 トアは大版に刷られた錬馬市内の地図をテーブルに広げた。そしてその上に右手をかざすと、細いチェーンに吊られた黒い結晶の振り子(ペンデュラム)を垂らす。

 ハルトらの目の前で、結晶の振り子は大きく巡る。結晶が黒く見えたのは、中で黒い煙状のものが蠢くからだ。振り子の回転は徐々に小さくなり、やがて錬馬市西部の一点を指し示した。

「ここの建物の上階、たぶん最上階か屋上に、次元の穴が開きかけてる。行って閉じてきてくれない?」トアは事も無げに言った。ちょっとスーパーでキャベツと卵買ってきて、くらいのノリで。「〈夢幻の鎚〉はこのお仕事でも全部必要にはならないから、余った分は好きにして。首尾よく成功すれば、追加の報酬も出します。失敗した時のことは何も考えなくていいわ。遠からず錬馬市一帯が消えるだけ」

「ちょ、ちょっと待ってくださいトアさん」ハルトは慌てた。話の規模がとんでもない。「そんな重大事案、復興庁に頼んだほうが」

「この状況について、彼らに対処する能力はないの。あったら世界はこんな風になってない」トアは溜息をついた。「私が行ければいんだけど、もっとまずい場所があって手が空かないの。こっちはまだ、大きな障害もなく事を成せる。この瓶を中身ごと、次元の不安定な場所に放り込めばいいだけだから」

 ハルトはテーブルの小瓶を手に取ると、しげしげと眺めた。中身の赤い粉が、ランプの明かりを受けてキラキラと虹色に煌めいている。よく見ると、粉の1粒1粒がごくごく小さな赤い結晶だった。

「これで、次元の穴を塞げるんですか?」

 エリに視線で催促されて、ハルトは小瓶をエリの手に載せた。

「これは……超刻結晶オーバーライト?」エリが小瓶の粒を観察して驚きの声を上げた。「〈七角の民〉だけが採取と加工の術を知る物質。亜邑(あむら)のメルネヴェびとも僅かな標本しか持っていなかった」

 エリは視線を小瓶からトアに移した。

「どこでこれを?」

「〈一角獣の船団〉の船長に分けてもらったの。ずっと昔にね」懐かしむように、トアは答えた。「これは次元の傷薬みたいなもの。次元が元々持っている自己修復の力を活性化させる」

 次元とその穴。この世界と異なる世界、異なる次元があることは、エルフと魔法、その他の異種族の流入によって人間たちも認識はしていた。そして〈審判の日〉以後、明らかにこの世界には存在してこなかった生物の発生が多く確認されるに至り『この次元の壁のようなものが綻び、開いた穴、隙間から異世界・異次元の生物が侵入している』ことは事実として理解されていた。


 災厄、〈審判の日〉そのものついては、よくわからないままに。


 ハルトの中で久しく動いていなかった心の一部、好奇心が頭をもたげた。〈審判の日〉は何故起きた? 人類の大量死とゾンビ化、変異、そして出現した怪物たちの関係は?

「ここへ行けば」ハルトは拡げられた地図上の一点、ショッピングモール大出水OZ(オオイズミオズ)を指さした。「次元の穴が見つかるんですね?」

「穴まだ開いてはないけどね。それでも小さな綻びから、低位の存在は入り込んでるかもしれない。油断は禁物よ」トアはハルトの受諾を見越して微笑むと、両眼帯越しの視線をエリに向けた。「その辺りは、メルネヴェの王女さまがついてるから、安心してるけど」

「王女って、エリさんが?」

 ハルトはもの問いたげな視線をエリに向ける。

「……メルネヴェの王統は絶えました。一万年前、最後の王の裏切りで」エリは忌々しげに眉根を寄せた。「わたしは、生き延びた傍系の末裔でしかない」

「あらそうなの?」トアが小首を傾げる。「異階層、異次元に呼びかけ、神々や精霊たちと交信し契約を交わす。最も古く強力な魔法は、あなたたちのものだったはず」

「流浪の一万年の内に、上古の御技はほとんど散逸しました。ただ一つだけを除いて」淡々とエリは言った。「今、メルネヴェの民が使い、マヴドの民に伝えた魔法は、その残滓でしかない」

 トアとエリの会話を、ハルトは半分も理解できなかった。魔法学校に遺された魔法研究史の本は何冊か読んだ。それでも今聞いたようなことは一切書かれていなかった。

 そんなハルトに気づいたのか。エリはハルトを見つめて言った。

「いきさつは後でゆっくり教えてあげる」エリは少し目を伏せて微笑む。「人間たちへは口外禁止だったんだけど。もうその意味もないもの」

「じゃあ、引き受けてくれるのね?」

 トアの問い、というよりは確認の言葉に

「はい」ハルトは頷いた。エリと目を合わせてから。「どのみちやらないと、安心して暮らせないですし」

「助かるわぁ、ありがとうハルトちゃん。二人とも、せっかくだからご飯食べていってね。おばちゃん、腕によりをかけちゃう」

 トアは笑顔で椅子から立つと、そのままいそいそと奥のドアに向かう。

「なんだか不思議なひとね」戸惑い、呆けたようにエリが言った。「高位の魔術師、たぶんメルネヴェとは違う系統の魔法の。年齢も見かけどおりじゃない」

「一人称『おばちゃん』ですしね」言って、ハルトは麦茶を飲んだ。エリに言われてみると、そんな気もする。「でもトアさんに『おばちゃん』呼びは禁句ですよ。以前おばちゃん呼びしたら、その日一日、口利いてくれなくなりました」

 ガサゴソと床がなる音に振り返ると、シロがその巨体を起こしたところだった。白いオウルベアは巨体に似合わず小さく震えながら、そろそろとハルトとエリのもとに寄ってくる。

「あら、あなた怖かったの?」

 エリがシロの喉をかく。オウルベアはうんうんと頷くようにフクロウの頭を前後に動かした。

 なんか絵になるよね、美女と怪物って。ハルトはエルフの女と羽毛の怪物を眺めてそんなことを思いながら、頭の中で錬馬市の外れ、大出水OZまでの遠征計画を練り始めた。

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