その日
その日は春斗にとってはなんてことのない、普通の日になるはずだった。
高校に入学して三日目の放課後、春斗は上級生たちによる激しい部活の勧誘に戸惑いつつ、内科クリニックに直行した。喘息の定期受診のために。幼い頃から苦しい思いをしてきたものの、根気強く治療を続けた甲斐あって、今は日に一回の吸入薬の服用で症状を抑えられるようになっていた。
クリニックが通学路にあるのは助かるな。推薦とおってたら転院も考えなきゃいけないところだった。そんなことを思いつつ、春斗はクロスバイクのペダルを漕いだ。そして診察の前にはいつも考えてしまう。面倒な服薬、いつまで続けなきゃならないのか、と。幼い頃、小学校中学年くらいの頃か。交通事故現場で、救急隊員が怪我人を呪文で治す映像をTVで観た。その時には喘息も呪文の力ですっきり完治できるんじゃないかなんて思った。それを当時の担当だった中村医師に訊ねると
「確かに治癒呪文の効果は立証されている」困った顔で医師は言った。少しだけ悲し気に。「救急医療の現場で使われてもいる。しかし、それで治せるのは外傷と一部の感染症だけなんだ。喘息などのアレルギー疾患や他の多くの病の治療は、今でも標準医療に頼るほかにないんだよ。今も治療呪文の研究は進んでいるがね」
ま、焦らず根気よくやっていこう。中村医師はそう結んだ。
指定の駐輪場にクロスバイクを停めて、春斗はエントランスに向かった。自動ドアを抜けて午後のクリニックの待合室を見渡すと、ちらほらと診察待ちの人がいる。小さな男の子を連れたお母さんにお爺さん、おばさんに、大学生らしき眼鏡の若者。
受付を済ませ、春斗は番号札を持ってソファで待った。呼ばれるまでの間の、空白の時間を持て余す。これまでは英単語の一つも覚えようと単語帳を見ていた。受験を終えてからはそれも必要なくなった。今にして思う。なんであんなに躍起になって勉強していたんだろう。春斗にあるのは後悔ばかりだった。今のレベルの普通科を受けるなら、あそこまでやらなくてもよかったんだ。結局、自分の預かり知らないところで何もかもが決まってしまった。
スマホを見る気も起きず、春斗はソファに背を預けて目を閉じた。クラスの席の近くの面々とも、互いにぎこちなくはあれ話せるようになってきた。まあ僕はこれからもやっていけるさ。魔術士になる夢が潰えても、否応なく人生は続くんだ。父さんも母さんも、勉強したことは無駄にならないと言った。クソな兄はざまぁねえなとかほざいて笑いやがったけど。
春斗はそのまま睡魔に捕らわれ、うとうとと微睡んだ。番号がいつ呼ばれるかと気にしながら。そろそろだろう。もうそろそろかな? 眠りと覚醒の狭間で思う。もう呼ばれるから起きなきゃ。呼ばれたら起きればいいや。そういえば面接の時にいたエルフのひと、すっごい美形だったよな。イケメンなんて安っぽい言葉じゃ、とてもじゃないけど言い表せない。あのひとたちが人間に魔法を伝えてくれたのか……行きたかったな、魔法学校。
何年も抱えてきた夢は、破れたとしても早々に消え去ってはくれない。少し気を抜いただけで、魔法を学ぶ自分を、魔術士となって活躍する自分を妄想してしまう。春斗はぼんやりとした頭で、さっさと番号を呼んで僕を現実に戻してくれと願った。しかしいつまで経っても番号が呼ばれない。それどころか、他の番号が呼ばれる気配もない。受付の声も聞こえない。その違和感に、春斗の意識は急速に覚醒した。何か変だ。一体何が?
春斗は目を開け、辺りを見回した。そこはいつもの待合室、ではなかった。
「え……?」
思わず声が出た。さっきまで待合室にいた人々が床に倒れていた。受付を見ると、事務のお姉さんも窓口に突っ伏している。
「大丈夫ですか? その、どうかしましたか?」
春斗は声をかけながら、床に横倒しになった眼鏡の若者に近づいた。眼鏡はズレ落ち、見開かれた目の白眼が灰色から黒へと変わっていく、瞳はあちこちに動いて定まらない。時おり思い出したようにビクンと痙攣する。生きてはいる。しかしこちらの声かけに反応した感じはない。すぐ近くのうつ伏せになったおばさんを見遣ると、こちらはピクリとも動かない。寄ってゆするも反応はない。首筋に手を当てるも、脈はない。死んで、る? 今、見ているものが信じられない。でも医者でも何でもない自分に人の生死なんかわかるわけない。そうだ、ここはクリニックなんだから先生を呼ばなきゃ。春斗がそう思った時
びちっぐちっ……濡れた何かを叩くような音が、異臭を伴って聞こえてきた。錆と潮を混ぜたような生臭さに、胃の中がムカムカしてくる。気持ちの悪い、冷たい汗が春斗の背を伝う。それでも事態を調べたいという好奇心が勝り、春斗は音と臭いの方を見た。
ソファーの並んだ床に、ブラウンのスカートの裾が見えた。上体はソファの陰で見えない。待合室に入った時に見かけた、子連れのお母さんだったろうか。春斗は確かめようと近寄っていき、見た。最初は自分でも見たものが信じられなかった。
ソファの陰で、四歳くらいの男の子が母親の腹を掘っていた。肉が削げ白く尖った骨の指先で、血肉と臓物を掻き回して。
春斗の足音に気づいたのか。男の子が顔を上げる。その白眼が黒く染まった眼球には、猛烈な憎悪が見て取れた。
「ア゛ア゛ァー」
鈍く虚ろな声を上げながら、男の子は覚束ない足取りで春斗に向かって歩き出す。黒い眼は真っ直ぐ春斗を捉えていた。
春斗は笑い出しそうになる膝を必死に抑えて、男の子から後退した。幸い、男の子の歩みは遅い。春斗の中の本能が告げた。逃げろ。この気持ち悪く悍ましいモノから。ソファに置いたバックパックのことも忘れて、逃走で頭がいっぱいになる。そこで
ガタン!と大きくドアの開く音が鳴った。そして診察室から転げるように、今の担当の倉田医師が這い出してきた。
「た、助け……」
背に患者だったものと思しきモノを張り付けて。患者だったモノの眼は黒く染まり、その手は倉田医師の肩に白衣が赤く染まるほど強く食い込んでいる。
倉田医師と春斗の目が合う。しかし春斗は無視した。助けを求める懇願の目を。
次の瞬間、患者だったモノの犬歯が、恰幅のよい倉田医師の首を咬み裂いた。
鮮血があふれ出して床に拡がる。それを見届ける前に春斗は身を翻すと、クリニックの外を目指して一目散に駆け出した。自動ドアが開くまでの間が恐ろしいほど長く感じる。後ろは怖くて振り返ることもできない。びちゃびちゃと血溜まりを踏む足音が近づいてくる。早く……早く!
自動ドアが開く。春斗は飛ぶようにドアを抜けて、クリニックの階段を下りかけて、見た。
緋雁ヶ丘の駅前通り。大勢の人々が行き交うそこは混乱の渦中にあった。襲うモノたち、襲われるひとたちがいる。人種も種族も区別なく。そしてその何倍もの人々が歩道に、道路に倒れ伏していた。
猛スピードで走って来た車が、フラフラゆれながら走るバスにぶつかって炎上する。余波で飛び散る炎が、虚ろな黒い眼で彷徨う制服の女子学生を火だるまにした。階段の途中からは、煙の上がる車が何台も見つけられた。
地面は肉を咬まれもがれる人たちの血で染まり、焼け焦げた煙が風に吹かれて灰を散らす。逃げ惑う人々の悲鳴と叫喚のなかに、同じ人のものとは到底思えない狂気と憎悪の叫びが混ざる。
もうわけがわからない。何が起きてる? どこに行けばいい? 悩む間にも、背後に足音が近づいてくる。錆びと潮の生臭さとともに。
追い詰められた春斗は階段を三段飛ばし四段飛ばしで駆け下り、混乱の渦中へ飛び込んだ。行き先も決めぬまま。




