第四章 わたしたちの瓦礫のうえで、きみは希望をうたえるか
「可能性? 本気で言ってるの、沙耶」
わたしの声は、自分でも驚くほど、トゲトゲしく響いた。これだけ徹底的に、この物語の暴力性を、その骨の髄までしゃぶり尽くすみたいに暴いておいて、いまさら、可能性? それは、これまで積み上げてきた言葉たちへの、裏切りじゃないの。
「もちろん、本気だよ」沙耶は、少しも悪びれずに、まっすぐにわたしを見返した。「海紅が言う、あの大きな、誰かを犠牲にしないと成り立たない仕組みの話。それは、その通りだと思う。でも、その見方は、あまりにも完璧すぎて、息が詰まる。ぜんぶを巨大な悪い仕組みのせいにしちゃったら、そこにはもう、なにも生まれる隙間がなくなっちゃうんじゃない? 批判のための批判は、それ自体が、新しい檻になることもある」
「じゃあ、どこに可能性があるって言うの。あの、すべてが管理されて、きれいに整えられた、偽物の楽園のどこに?」
「『辺境』っていう、その場所そのものにだよ」と、沙耶は言った。「海紅は、そこを、ルールが届かない、いつ死んでもおかしくない場所だって言った。たしかに、そう。でも、見方を変えれば、そういう隅っこに追いやられた場所にこそ、新しい関係とか、新しい助け合いが生まれるかもしれないじゃない。中心が決めた『普通』からはみ出しちゃった者たちが、寄り集まって、生き延びるための、新しいやり方を発明する場所。きれいごとじゃなくて、ぐちゃぐちゃのまま、それでも一緒にいるってこと。そういう実験が、できるかもしれない場所よ」
デコボコなまま、一緒にいる。その言葉が、わたしの心に、ちいさな波紋を立てた。
「イザベラの村は、たしかに、海紅が言うように、彼女の知識に支配された帝国かもしれない。でも、そこは、王都っていう中心から『いらない』ってされた者たちが、寄り集まってできた場所でもある。イザベラ自身もそうだし、村人たちも、もともとは中心から見捨てられた存在だ。そして、物語が進むと、イザベラを頼って、王都で息苦しさを感じていた人たち、たとえば、女だからってまともに扱ってもらえなかった役人とか、古いしきたりが嫌になった職人とか、そういう『はみ出し者』たちが、次々と村に集まってくる」
「それは、結局、イザベラの才能に吸い寄せられた、ただの取り巻きでしょ。彼女の王国に組み込まれる、新しい家来にすぎない」
「ほんとうに、そうかな?」沙耶は、静かに首を振った。「わたしは、そこに、もっとごちゃごちゃした、お互いがお互いを必要とする関係が生まれてるかもしれないって、そう読みたい。たとえば、作中で、原因不明の病気が村で流行るエピソードがあったでしょ。イザベラの現代知識でも、特効薬が作れない。そんなとき、村のおばあさんが、迷信だって言われてた薬草を煎じて飲ませたら、病気がよくなった。あの瞬間、イザベラの万能さは崩れて、彼女は村に昔から伝わる知恵に『頼る』しかなかった。彼女の『役に立つ力』が役に立たなくなって、おばあさんの『役に立たない』とされてた知恵が、みんなを救う力に変わった。あそこに、上から下への支配じゃない、お互いの強さと弱さを補い合うような、横並びの関係が、一瞬、生まれたんじゃないかな」
「それは、甘すぎるよ。そのあと、イザベラはその薬草を『科学的』に分析して、工場でたくさん作れるようにする。結局、土地に根付いた知恵は、彼女のシステムに取り込まれて、お金儲けの道具にされるだけ。仕組みは、なにも変わらない。むしろ、もっと強くなる。悪い仕組みっていうのは、自分への批判や、自分と違うものさえも、栄養にして、どんどん大きくなっていくんだよ」
「仕組みは、すぐには変わらないかもしれない。でも、日々のやりとりは、変えられる」と、沙耶は強く言った。「大きな仕組みをひっくり返すことよりも、もっと毎日の、ちいさなレベルでのやりとり。違うからだを持った者たちが、出会って、触れ合って、ぶつかり合う中で、思いもよらないなにかが起きる。その小さな変化の積み重ねが、いつか、大きな仕組みを、内側から食い破っていくかもしれない。イザベラの村は、まだ、その可能性を秘めた、実験の場なんじゃないか、って思うんだ。完璧な楽園じゃない。むしろ、欠陥だらけの者たちが集まって、なんとかやってる、不格好な避難所なのよ」
わたしは、反論の言葉を探した。でも、なにも出てこなかった。沙耶の言うことは、たしかに、物語の甘い部分に乗りすぎているかもしれない。でも、そこには、わたしの批判にはない、未来への視線があったからだ。わたしの言葉は、世界の残酷さを暴く。でも、その正しさが、時として、わたしたちから、なにかを始めるための、ちいさな一歩を踏み出す力を奪ってしまうことがある。ぜんぶが、どうしようもないくらい大きな力に飲み込まれるのだとしたら、わたしたちの、こんなちっぽけな抵抗なんて、無意味じゃないか、と。
「あのもふもふでさえ、そうだよ」と、沙耶は続けた。「海紅は、あれを感情の搾取だって言った。たしかに、そう。でも、物語のなかで、一度だけ、あの子が、イザベラの命令に逆らうシーンがあるのを覚えてる?」
「……ああ、王都から来た刺客が、村を襲ったときだっけ」
「そう。イザベラは、聖獣に、自分のそばにいて、身を守るように言う。でも、聖獣は、彼女の命令を無視して、刺客の前に立ちはだかり、村人たちを守るために戦う。あの瞬間、あの子は、たんなるイザベラのペット、癒しの道具であることをやめて、自分の意志で行動する、ひとりの主体になった。あれは、人間と動物っていう、対等じゃない関係性のなかで、ほんの一瞬だけ、ただのペットじゃない、相棒みたいな関係が生まれた、奇跡みたいな瞬間だと、わたしは読みたい」
「……」
「もちろん、そのあと、あの子はまた『かわいいもふもふ』の役割に戻ってしまう。でも、一度生まれた可能性は、ゼロにはならない。その小さなひび割れから、なにかが、変わっていくかもしれない。そういう、ささやかな希望を、物語から読み取ることまで、わたしたちは、やめるべきじゃないと思う。完璧な理論で物語を切り刻むだけじゃなくて、その瓦礫の中から、なにか光るものを拾い上げることも、批評の仕事じゃない?」
沙耶の目は、真剣だった。彼女は、このクソみたいな欺瞞に満ちた物語の、その瓦礫のなかから、なにか、きらりと光るものを見つけ出そうと、必死になっているように見えた。
それは、あの黒い大陸の学者が、その思索の果てにたどり着こうとしている、新しい世界のあり方にも、どこか通じているのかもしれない、と、わたしはふと思った。暴力によって引き裂かれた世界を、それでもなお、どうやって共に生きていくことができるのか。彼は、その答えを、他者と共に在ること、世界は誰かのものではなくて、みんなからの借り物なんだっていう考え方のなかに、見出そうとした。
イザベラの村は、彼女の所有物じゃない。もしかしたら、そこは、追放された者、はみ出した者、人間と、人間じゃない生き物が、たがいの境界線を少しずつ溶かしながら、共に生きるための場所を、手探りで作っていくための、実験場なのかもしれない。だとしたら、イザベラの「現代知識」は、支配のための道具ではなく、その実験を可能にするための、ひとつの「借り物」の力、と考えることも、できるのだろうか。
いや、だめだ。わたしは、頭を振った。それは、あまりにも、物語の暴力性を見過ごしすぎている。沙耶の議論は、魅力的だ。でも、それは、権力という、冷たい現実から、目をそらしている。
「沙耶の言うことは、わかる。でも、わたしは、やっぱり、その『ささやかな希望』とやらに、乗ることはできない」と、わたしは、はっきりと言った。「なぜなら、その村が、どれだけ理想的な場所に思えたとしても、その存在そのものが、追放っていう、国による暴力的な選別を前提としているからだ。その村の幸福は、王都にいる、たくさんの、声も顔もない人たちの犠牲のうえに成り立っている。この物語は、その構造的な罪から、決して逃れることはできない。その村の豊かさは、見えない誰かの貧しさによって支えられている。世界は、どこまでいっても、暴力と、誰かへの借金で成り立っている。その現実を、わたしたちは、まっすぐに見なくちゃいけない。その、生まれながらに背負った罪を無視した希望は、ただの自己満足だよ」
「まっすぐ見た先に、なにがあるの?」と、沙耶が問い返す。「絶望するだけ? 批判して、終わり? それじゃあ、王様がやった『死の政治』を、批判っていう名前の別の『死の政治』でなぞってるだけじゃない? 海紅のその正しさは、ときに、なにも生み出さない」
「わからない。でも、安易な希望に飛びつくよりは、ましだ。少なくとも、わたしは、加害者になることだけは、避けたい。沙耶の言う希望は、あまりにも無垢で、そして残酷だよ」
わたしたちの視線が、空中で、激しくぶつかり合う。どちらも、譲る気はない。わたしたちは、同じテクストを読み、同じ世界に生きながら、まったくちがう結論にたどり着こうとしている。わたしの後ろには、血と暴力の歴史を背負った、厳しい思想家の眼差しがある。沙耶の後ろには、規範からこぼれ落ちた、無数の、弱くて、しかししたたかな身体たちの、しなやかな視線がある。ぜんぶ壊さなきゃダメだって言う考え方と、今あるものでなんとかしようっていう考え方。
どちらが、正しい、というわけではない。どちらもが、この世界の、半分の真実を語っている。
「……そろそろ、行かなくちゃ」
沈黙を破ったのは、沙耶だった。窓の外は、もう、夕暮れの紫色に染まり始めている。四時間が、経っていた。わたしたちの言葉だけが、熱を持って、テーブルの上の冷え切った飲み物との対比を際立たせていた。
わたしたちは、なにも言わずに、席を立った。レジで、別々に会計を済ませる。店の外に出ると、渋谷の街の、生ぬるい空気が、肌にまとわりついた。無数の人々が、無言で、わたしたちの横を通り過ぎていく。健康なからだ、疲れたからだ、着飾ったからだ、みすぼらしいからだ。「役に立つ」からだと、「そうじゃない」からだが、無秩序に、しかし、たしかに、同じ空間を共有している。この雑踏こそが、わたしたちが生きる、答えの出ない現実だ。
「じゃあね」
「うん、また」
駅に向かう雑踏のなかで、わたしたちは、簡単な挨拶を交わして、別々の方向に歩き出した。沙耶の言っていた、「デコボコなまま、一緒にいる」可能性。わたしのこだわった、暴力の仕組み。そのどちらもが、この、目の前の、現実の風景のなかに、溶け込んでいる。わたしの正しさが、ときに人を遠ざけ、孤立させるナイフになることを、わたしは知っている。沙耶のやさしさが、ときに大きな暴力を見逃してしまう共犯関係に陥る危険を、彼女は知っているだろうか。
わたしたちの戦いは、終わらない。この世界が、物語を必要とするかぎり。そして、わたしたちが、その物語の嘘を、見抜いてしまうかぎり。
角を曲がる直前、わたしは、ポケットからスマートフォンを取り出して、さっきまで読んでいた、あの小説のページを開いた。最新話が、更新されている。タイトルは、『ついに王都から和解の使者が! でも、いまさら遅いんです! 追放令嬢の出した、驚きの条件とは?』
わたしは、思わず、ふっと、笑ってしまった。結局、この物語は、自分を追い出した側への「ざまぁ」という、小さな復讐心を満たすための装置でしかないのかもしれない。でも。
わたしは、その画面を、まだ人混みの向こうに見える、沙耶の小さな後ろ姿に、見せつけるように、すこしだけ、掲げた。
沙耶が、それに気づいて、振り返る。そして、わたしの意図を正確に読み取って、心底、あきれた、というように、でも、ほんのすこしだけ、楽しそうに、笑った。その笑顔は、「ほら、やっぱり私たちの議論なんて、この物語の前では無力でしょ」と言っているようでもあり、「でも、また、この続きで、戦ろうね」と言っているようでもあった。
その笑顔を見て、わたしは、なぜか、ほんのすこしだけ、救われたような気がした。わたしたちの戦場は、こんな、薄汚れた、でも、どうしようもなく愛おしい、現実のなかにしかないのだから。そして、この終わりのない戦いを、共に戦ってくれる相手が、ここにいる。それだけが、たったひとつの、ほんとうのことだった。
(了)