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第二章 その味噌は帝国のかおり、わたしたちは労働を知らない

「そもそも、味噌って、そんな簡単にできるものなのかな」


沈黙を破ったのは、わたしの、そんな素朴な疑問だった。沙耶は、きょとんとした顔でわたしを見る。


「え、なに、急に。リアリティラインの話?」

「いや、だって、考えてみてよ。イザベラは、大豆と、塩と、麹さえあれば、すぐに極上の味噌が作れる、みたいな感じで描かれてるけど。まず、その麹菌はどこから持ってきたの? 日本固有の、アスペルギルス・オリゼーを、どうやって異世界の辺境で手に入れたの? 空気中から都合よく採取できたとでも言うの? そんなの、天文学的な確率だよ。それに、仮に似たような菌がいたとして、それを純粋培養する技術は? 発酵と腐敗は紙一重なのに、そのプロセスを完全にコントロールできるっていうのは、神の視点すぎる。本来、発酵食品って、その土地の気候や風土、つまり『テロワール』と不可分なはず。その土地固有の微生物叢との、複雑な相互作用の結果でしょ。イザベラの知識は、そういうローカルな文脈をすべて無視して、普遍的で、どこでも再現可能な『科学』として君臨する。これって、土地の固有性を奪う、植民地主義の思考そのものじゃない?」


わたしの指摘に、沙耶はすこし考えてから、ふっと笑った。

「そういう、設定の穴を突く話?」

「穴、というか、根本的な問題。この物語は、『現代知識』っていう言葉で、あらゆるプロセスをすっ飛ばしすぎてる。味噌作りって、ほんとうはものすごく時間と手間がかかる、生き物相手の、不確定要素の多い労働のはずだよね。温度管理、湿度管理、雑菌の混入との戦い。何ヶ月も、何年も、待たなければいけない。でも、イザベラの味噌作りには、失敗がない。苦労がない。あるのは、知識という名の絶対的な権力と、それによってもたらされる、約束された結果だけ。そこには、自然の気まぐれも、物質の抵抗も、なにもない」


「マルクスが言った、『疎外された労働』ってやつだね」と、沙耶が応じる。「労働が、人間自身の創造的な活動ではなくて、たんに、目的を達成するための苦痛な手段になってしまうこと。でも、イザベラの労働は、疎外すらされていない。なぜなら、そこには、労働と呼べるほどの抵抗が、もはや存在しないから。彼女の知識の前では、自然も、素材も、すべてが完全に従属する。それは、労働というより、神の天地創造に近い。ゼロから、完璧な『商品』を生み出す奇跡。労働の快楽も苦痛も、ぜんぶ消去されて、結果だけが残る」


「そう。そして、その『商品』は、村の経済をあっという間に席巻する。村人たちが、昔から作っていた保存食や、地元の料理は、イザベラの作る圧倒的に美味しくて、保存もきく発酵食品によって、駆逐されていくんだろうね。物語では、村人たちはみんな、イザベラの料理を喜んで受け入れて、感謝さえしてる。でも、ほんとうにそうかな? 長年受け継いできた自分たちの文化や、生活の知恵が、外部から来たひとりの天才によって、いとも簡単に『時代遅れ』の烙印を押される。そのことに、誰も、なにも感じなかったんだろうか。自分たちの母親が作ってくれた、あの素朴な塩漬け肉の味を、懐かしむ人間は、一人もいないんだろうか」


「村人たちは、イザベラの工場で働く労働者になる。彼らは、もはや自分たちで食料を生産し、生活を組み立てる主体ではなくなる。イザベラが設計したシステムの中で、彼女が定めた賃金で働き、彼女が作った商品を消費する。完全に、彼女の経済圏に組み込まれてしまう。これが、スローライフ? 笑わせるよね。これこそ、資本主義的な支配と従属の関係、そのものでしょ。彼女は、村人たちを、貧困からは救ったかもしれないけど、その代わりに、彼らから主体性を奪った」


「たしかに、その視点だと、イザベラの行為は、きわめて暴力的に見えるね」と、沙耶も同意する。「でも、からだの視点から見ると、また別の暴力性も浮かび上がってくる。それは、『役に立つこと』への同調圧力よ」


「どういうこと?」


「イザベラの作る食品は、美味しいだけじゃない。栄養価が高くて、健康にもいい、と描かれている。つまり、彼女の食品を食べることは、自分自身のからだを、より健康で、より生産的な、つまり『役に立つ』からだへと作り変えていく行為として、積極的に勧められる。逆に言えば、それを食べないこと、あるいは、昔ながらの『栄養価の低い』食事を続けることは、怠惰で、非生産的で、自己管理のできていない『役に立たない』からだを選ぶことだと、暗に非難されることになる。健康であることが、共同体の善になる。村全体が、巨大な健康管理社会になるのよ」


沙耶の言葉に、わたしははっとした。現代の健康ブームや、オーガニック信仰にも通じる、あの独特の息苦しさ。


「わかる。まるで、会社の健康診断みたいだ。健康であることが、市民の義務みたいになってる、あの感じ。この村では、イザベラの味噌汁を飲むことが、共同体に属するためのパスポートになる。朝、味噌汁を飲んでいない者は、村八分にされるかもしれない。『え、まだあんな塩漬けの肉なんか食べてるの? イザベラ様の作ったお醤油で煮込んだお肉のほうが、百倍美味しいし、身体にもいいのに』って。善意の押し売り、健康ファシズムそのものだ」


「そう。そして、その同調圧力は、からだの内部にまで及ぶ。障害や病気が、たんに個人のからだの問題なのではなくて、社会との関係の中で『作られる』ものだっていう考え方があるけど、まさにそれ。この村では、イザベラの食品に適応できないからだ、たとえば、大豆アレルギーを持つ者や、発酵食品を受け付けない体質の者は、文字通り『障害者』として生み出されてしまう。彼らは、共同体の『健康』の輪から排除され、『役に立たない』存在として、見えない場所に追いやられていく。イザベラの善意は、結果として、新たな差別と排除の仕組みを生み出しているのよ」


わたしたちは、またしても、それぞれの見方から、同じ結論にたどり着いていた。イザベラの「現代知識チート」は、大きな支配の仕組みと、健常なからだを良しとする暴力とを、同時に、そしてきわめて効率的に、実現してしまう、恐るべき装置なのだ。


「恐ろしいのは、この物語の読者が、その暴力性にまったく気づかないどころか、それを『救済』として受け取っていることだよね」と、わたしは言った。「なぜ、わたしたちは、こんなにも露骨な支配の物語を、心地よいと感じてしまうんだろう。イザベラの前世が『過労死したOL』っていう設定も、巧妙だよね。過酷な労働から解放されたい、という切実な願いが、結果的に、他人を支配し、搾取する側へと転化する。このねじれこそが、現代の病理そのものじゃないか」


「それは、わたしたち自身が、そういうシステムの中に生きているからだよ」と、沙耶は即答した。「わたしたちは、常に評価され、選別され、生産的であることを求められる。いつ『追放』されるかわからない、という恐怖を抱えて生きている。だから、追放された主人公が、圧倒的な力で逆転し、自分を追放した世界を見返して、自分だけの安全な王国を築き上げる物語に、カタルシスを感じてしまう。支配される側から、支配する側へ。その転倒に、快感を覚えてしまう」


「いつ殺されるかわからない日常からの、一時的な逃避、か。自分が『殺される』側ではなく、『生かす』側に回る快感。自分が、いつ価値のない『役に立たない』からだだと見なされるか、という不安。だから、絶対に病気にもならず、老いもせず、無限の『能力』を発揮しつづける主人公に、自分を重ねて安心したい。この物語は、わたしたちの祈りなんだ。もっと有能で、もっと健康で、もっと価値のある人間になりたい、という、悲痛な祈り」


「そういうこと。この物語は、現代社会が抱える病理の、もっともわかりやすい症状なのよ。わたしたちは、イザベラを批判しながら、同時に、イザベラになりたいと、心のどこかで願ってしまっている。その自己矛盾から、目をそらしちゃいけない」


沙耶の言葉が、ぐさりと突き刺さる。そうだ。わたしだって、この息苦しい社会から逃げ出して、だれにも評価されず、ただ自分の好きなことだけをして生きていける「辺境の村」を、夢想したことがない、と言えば嘘になる。その欲望のありかこそが、問われなければならない。


カフェの窓の外を、救急車がサイレンを鳴らしながら走り去っていく。あの箱の中にいるのは、きっと、誰かの「役に立たない」とされたからだだ。でも、街の人々は、一瞬だけ顔をしかめるだけで、すぐに自分のスマホの画面に視線を戻す。わたしたちの世界は、無数の、そして見えないことにされている「弱さ」と「死」のうえに、成り立っている。


『悪役令嬢』の物語は、その残酷な真実から目をそらすための、甘くて、強力な麻薬なのだ。

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