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第一章 すべての始まりは、午後のカフェラテに浮かぶハートのかたちをしていた

ぜんぶ、ぜんぶ嘘っぱちだよね、って、沙耶は言った。その声は、店内BGMの、たぶんビリー・アイリッシュかなにかの、気怠くて重たいビートの隙間を縫って、わたしの鼓膜にまっすぐに届いた。嘘っぱち。その言葉の響きだけが、やけにリアルで、ほんとうのことみたいに聞こえた。


コメダ珈琲の、窓際の席。午後三時すぎの渋谷は、アスファルトの熱気と、香水の匂いと、排気ガスの味と、あと無数の欲望みたいなものでごった返していて、ガラス一枚を隔てただけのわたしたちのいる空間は、まるで水槽の底みたいに、静かで、穏やかで、そしてどこか息苦しい。空調が吐き出す、管理された空気。わたしの手もとにあるのは、もう氷がほとんど溶けて、水滴がびっしりとついたグラスに入った、ただの茶色い液体と化したアイスコーヒー。沙耶の目のまえには、きれいなハートが描かれたまま、ほとんど口がつけられていないカフェラテ。その完璧な、しかしすでにぬるくなったであろう白いハートのかたちが、なんだか、この世界の欺瞞をぜんぶ象徴しているみたいで、わたしは目をそらした。わたしたちの間のテーブルの上だけが、まるで時間が止まっているみたいだった。


「嘘っぱち、とは?」


わかりきったことを、あえて問い返す。それが、わたしたちのいつもの儀式だった。沙耶は、長いまつげを一度、ゆっくりと伏せてから、その完璧に手入れされた、細くて白い指で、スマートフォンの画面をタップする。わたしのスマホにも、おなじページが表示されている。国内最大級のウェブ小説投稿サイト、「小説家になろう」。その総合ランキングで、もう三ヶ月ちかく、上位に君臨し続けているモンスター作品。


『追放された悪役令嬢(元・公爵令嬢兼聖女)は、辺境の村で現代知識(発酵食品)を活かして、もふもふ達とスローライフ始めます!』


タイトルだけで、もうお腹いっぱい。情報量が多すぎるし、そのすべてが、ターゲット層の欲望に媚びへつらっているのが透けて見えて、すこし吐き気がする。でも、読んでしまう。読んで、こうして沙耶と、ああでもないこうでもないと、言葉のナイフを突きつけあうのが、わたしたちの、まあ、なんていうか、友情のかたち、みたいなものだったから。この息苦しい世界で、同じ言語で息ができる、数少ない相手。


「ぜんぶだよ、海紅。この物語を構成している、すべての要素。追放、悪役令嬢、現代知識、スローライフ。もふもふ。ぜんぶ、ぜんぶが、巨大な嘘の塊。わたしたちが生きているこの現実の、残酷な部分をぜんぶ覆い隠して、きれいで、やさしくて、だれも傷つかない世界がここにあるよって、そう囁きかけてくる。でも、そんなわけ、ないじゃない。この物語のやさしさは、消毒液の匂いがする」


沙耶の唇が、カフェラテの泡をすこしだけすくう。その仕草が、やけに扇情的で、わたしはまた、目をそらした。


物語のあらすじは、こうだ。公爵令嬢のイザベラは、完璧な淑女で、次期王妃になるはずだった。でも、ある日突然、異世界からやってきたっていう、黒髪黒目の少女、ユナが「聖女」として現れる。聖女ユナは、天真爛漫で、すこしドジで、でも誰からも愛されるキャラクター。王太子は、そんなユナに夢中になり、完璧すぎるイザベラを「心が冷たい」と断罪する。そして、ユナに対する嫉妬から、彼女に陰湿ないじめをした、という身に覚えのない罪を着せられて、婚約破棄、そして国外追放。でも、イザベラには秘密があった。彼女は、現代日本で過労死したOL、佐藤美紀(享年28歳)の記憶を持つ、転生者だったのだ。


追放された先の、なにもない辺境の村。そこでイザベラは、前世の知識、とくに発酵食品に関する膨大な知識を活かして、味噌や醤油、パンやチーズを次々と開発する。その味が評判を呼び、寂れた村は活気を取り戻し、商業の中心地になっていく。おまけに、伝説のもふもふ聖獣が彼女に懐き、その力で村はさらに豊かに。やがて、イザベラを追放した王太子と聖女ユナは、失政続きで国を傾かせ、没落。イザベラは、彼女の才能と人柄に惹かれた、超絶ハイスペックな元騎士団長と結ばれて、末永く幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし。


「嘘、ね。まあ、フィクションなんだから、嘘でできているのは当たり前じゃない?」


わたしの、すこし意地悪な反論。沙耶は、わかってるくせに、って顔でわたしを見た。その瞳の奥が、きらりと光る。ああ、始まるな、って思った。わたしたちの、戦争が。


「そういうことじゃない。フィクションの嘘と、この物語がついてる嘘は、質がちがう。これは、ただの作り話じゃない。これは、現代社会に生きるわたしたちの不安とか、恐怖とか、そういうものを的確に、でも巧妙に搾取する、きわめて政治的な装置だよ。海紅なら、わかるでしょ? この物語は、わたしたちの欲望の鏡。でも、その鏡は、都合のいい部分しか映さない、歪んだ鏡なの」


政治的な装置。その言葉に、わたしのなかの何かが、カチリと音を立てて動き出す。そうだ、これだ。わたしがこの物語に感じていた、あの形容しがたい不快感の正体。それは、単なるご都合主義への嫌悪感じゃない。もっと根源的な、権力の匂い。


「たとえば、追放」と、わたしは口火を切った。「この物語のすべての始まりは、イザベラの追放から始まる。でも、これって、よく考えたらものすごく暴力的な行為だよね。国っていう大きな力が、たったひとりの人間を『お前はここにいちゃいけない』って決めて、仲間の中から、ルールが届かない外側に、ぽいって放り出す。それって、もう、国がその人を『死んだこと』にしてるのと同じじゃない? 生きてるのに、社会的には殺されてる。そういう政治の、いちばん汚いやり方そのものじゃない?」


「誰かを殺してもいい、って力が、王様のしるしだってことね。王太子は、まさにその力を使って、イザベラを社会的に殺す。地位も、お金も、人とのつながりもぜんぶ奪って、『辺境』っていう名前の、死んでもだれも気にしない空間に追いやる。そこは、いつ殺されたって、飢え死にしたって、だれも助けてくれない、そういう場所」


わたしの言葉に、沙耶は静かに頷いている。でも、その目は「それで?」と、先を促している。


「問題は、そのあと。イザベラは、その死の空間で、死なない。それどころか、『現代知識』っていう、外から来た圧倒的な力で、その場所をぜんぶ自分の思い通りに作り変えていく。味噌や醤油を作る。それって、ただ食べ物を作ってるだけじゃない。その土地の自然も、人々の暮らしも、味の好みも、お金の流れも、ぜんぶを自分のルールで塗り替えていく。それって、やってることは、昔の国がよその国にしてきたことと同じじゃない? 『なにもない』場所に、『すごいもの』を持ってきてあげる、っていうあの感じ。村人たちは、イザベラの『恵み』がないと生きていけない存在になる。つまり、イザベラは、追い出されたかわいそうな人、から、いつのまにか、誰を生かして、誰を(経済的に)殺すかを決める、新しい王様になっちゃうわけ」


「なるほどね」と、沙耶が言った。「死の空間が、彼女だけの王国になる、と。追放っていう暴力が、結局は、彼女に新しい力をあげるための、ただのイベントになってるわけだ。古い王様のやり方が、剥き出しの暴力だとしたら、イザベラのやり方は、もっと新しくて、巧妙な支配。死の空間を、自分のための命の工場に変えちゃうんだ」


沙耶の的確な要約に、わたしは満足感を覚える。でも、彼女は、そこでは終わらない。


「でもね、海紅。その見方は、まだ甘い」


きた。わたしは、アイスコーヒーのストローを噛んだ。


「海紅の話は、結局、国とか、支配とか、そういう大きな話でしょ。もちろん、それも大事。でも、もっと大事なことを見落としてない? なぜ、イザベラは、そんなことが『できちゃう』のか。なぜ、彼女のからだは、そんなすごいことができる『特別なからだ』なのか。そこに、この物語の、いちばん気持ち悪い嘘が隠れてるって、わたしは思う」


沙耶は、すっと人差し指を立てた。その指先が、まるで世界の問題点をすべて指し示しているかのように見えた。


「わたしが気になるのは、もっとからだの話。この世界って、いつもそうじゃない? 『役に立つからだ』と『そうじゃないからだ』を、無意識に、でも残酷に分けてる。そういう社会の仕組みそのものが、この物語にはべったりと張り付いてるのよ」


「この物語の世界で、価値があるとされるのは、いつも『役に立つからだ』だけ。生産的で、効率が良くて、健康で、若くて、きれいなからだ。イザベラのからだは、まさにそれ。追放されても、ぜんぜんへこたれない。心も体もタフ。ひとりで畑を耕して、工房を建てて、夜も寝ないで研究する。病気ひとつしないし、疲れた顔も見せない。彼女の『現代知識』は、彼女のからだを、ありえないくらい『役に立つ』ものにするための、魔法の薬なのよ。今の社会が求める、完璧な自己管理のできる人間、そのもの」


沙耶の言葉は、熱を帯びていく。


「考えてみて。この物語に、『役に立たない』ってされるからだは出てくる? たとえば、病気で働けない村人。年をとって、誰かの助けがなきゃ生きていけないおじいさん。障害のある子ども。そういう人たちは、物語からきれいに消されてる。もし出てきたとしても、イザベラの知識とか、あのもふもふの力ですぐに『治されて』、『役に立つ』労働力に変えられちゃう。この世界では、『役に立たない』ことは、それ自体が悪で、なくすべきものなの。この『スローライフ』は、実はものすごいスピードで動いてて、普通じゃないペースでしか生きられない人たちのための時間なんて、一秒もない」


「スローライフ、っていう言葉が、また悪質だよね」と、わたしは相槌を打った。「スローライフって、本来は、効率とか生産性とか、そういうものからちょっと離れようって話のはず。でも、この物語のスローライフは、ぜんぜんスローじゃない。むしろ、ものすごい効率で生産して、辺境の村を巨大な商業都市に変えちゃう。これって、スローライフの皮をかぶった、ただのサクセスストーリーだよ。田舎暮らしに憧れる都会の人の、甘っちょろい夢を、煮詰めただけ」


「そう!」沙耶は、テーブルを軽く叩いた。「そして、そのサクセスストーリーをきれいなものに見せるために、『役に立たない』からだは、徹底的に見えないようにされる。イザベラの作る美味しいパンや醤油。それを食べられるのは、健康で、お金があって、それを味わえる、『役に立つ』からだだけ。その裏側で、固いパンしか食べられない貧しい人や、アレルギーでパンが食べられない人、そもそも食欲がない人、そういう無数の『役に立たない』からだのことは、最初からなかったことにされてる。この物語のやさしさは、すごく偏っていて、誰かを仲間外れにすることで成り立ってる、暴力的なやさしさなの」


わたしたちは、しばらく黙り込んだ。カフェの喧騒が、遠くに聞こえる。沙耶の指摘は、的確に、この物語の核心を射抜いていた。大きな支配の仕組みと、からだレベルの小さな暴力。その二つが、この『悪役令嬢』の物語の中で、完璧に手をつないでいる。


「もふもふ聖獣も、そうだよね」と、わたしは付け加えた。「あれは、一見すると自然と仲良く、みたいな美しいテーマに見える。でも、結局、あの聖獣の価値は、『もふもふ』であること、つまり、人間を癒すっていう『能力』で決まってる。あれは、人の心をなぐさめるっていう仕事をさせられてる、都合のいい動物でしかない。もし、あの聖獣が病気になったり、毛が抜け落ちて『もふもふ』じゃなくなったりしたら、その価値は、たぶん、なくなる。ペット産業の闇を、ファンタジーでごまかしてるだけ」


「そう。すべてが、人間のため、それも『役に立つ』人間のための、都合のいい寄せ集めとして動いてる。イザベラ、現代知識、健康なからだ、言うことを聞く村人、心を癒す聖獣。これらぜんぶが組み合わさって、ひとつの巨大な『幸福製造マシーン』ができあがる。そして、そのマシーンからこぼれ落ちるものは、すべて『なかったこと』にされる。それが、この物語の、そして、これを夢中で読んでるわたしたちの社会の、ほんとうの姿なのかもしれないね」


沙耶は、そう言って、ようやくカフェラテに口をつけた。ハートのかたちは、もう崩れて、ただの白い染みになっていた。

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