第七話 生理現象と幸福のための魔法
ベッドがある宿屋を、第三王子殿は手配してくれた。
幼い頃、各地を放浪し魔法を学んでいたときのことを思えば、或いは野宿と比較すれば、じつに恵まれた宿だと言える。
地面というのはただそのまま寝そべると、体温を根こそぎ奪っていくものだ。
時にはそれだけで死に至るほどの危険を孕む。
過酷で怖ろしい、大自然の一側面。
そんな危険性がない今は、だから存分に惰眠を貪ることが出来た。
こんなに寝たのは20年ぶりぐらいじゃないか?
そもそも横になって寝ること自体、久しくなかったか。
けれども、そんな安寧も、やがて終わりを告げる。
責っ付かれるものを感じて、私は目を覚ました。
はじめ、それがなにかわからなかったが、焦燥感に類似した感情が緊迫し、肉体が本能へと訴えかけることで理解するに至る。
これは――尿意だ。
これまでは魔法で栄養をまかない、排出物は軒並み魔力へ変換してきたのでなんともなかったが、いまの私は万全ではない。
代謝向上魔法の一端がほつれ、それが排出の抑制機能をおかしくしてしまったらしい。
つまり、なにが言いたいのかといえば。
……おしっこがしたい。
慌ててベッドから起き上がり、宿の外へ出て、共用の厠へと飛び込む。
用を足そうとして、愕然とした。
そうだ、私は今、幼女だったのだ。
「なんてことだっ」
これまでの常識は通じない。
立ってすればいいだろうなどとは口が裂けても言えない。
尊厳の問題だ。
しかし迷っている間にも、差し迫った感覚が股間から脳を刺激する。
どうする?
どうしたらいい?
……ええい、背に腹は代えられぬ!
「やった……」
やってしまった。
放尿した。
子どもが大人になるほどの時間、遠ざけていたもの。
完全に忘れていた、排出という快楽が這い上がり、私はとろけてしまう。
いやいやいや。
いかんいかんいかん。
ぶるぶると頭を振って悦楽を振り払い、股間を清潔にし、パンツとズボンを穿く。
不覚にもすっきりし、立ち上がって厠から出て。
そして、私は見た。
ゆっくりと昇る太陽。
夜明けの光。
それに照らし出される――悲惨な町並みを。
夜の闇の中では、あんなにも活気に満ちているように見えたこの町は。
しかし、実際は酷く、疲弊していることが覗えた。
夜が明けたばかりで、人取りが少ないことも関係はしているだろう。
けれどそれ以上に、夜陰のベールを剥ぎ取られた建物達は、どこもかしこも老朽化していた。
ゴートリーが歴史ある国なのは知っているが、これは朽ちるに任せているというのだ。
補修工事がされた形跡はなく、窓は割れたまま、扉は壊れたまま。
昨日の時点で気が付いてはいたが、異臭も凄い。
おそらく下水道が整備されていないか、どこかでつまってしまっているのだ。
家屋の前にはどこも、壊れた家具や木材、ゴミがたまっている。
誰かが悪戯したのか、落書きも多く。
家の中に入ることなく、地面にゴザを引き寝そべっている蓬髪髭面の男達の姿も見える。
野宿。
そう、命に関わると言ったばかりの野宿だ。
汚れているという表現は、きっと失礼極まる。
それでも、あまりにこの街は、掃き溜めのような有様だった。
「……わかっている。傲慢だ」
わざわざ口に出して、己を諫める。
私は他国の人間。
この地の為政者ではない。
そして万能であっても全能ではない。
この手の届く距離には限りがある。
だから、自分が建国した地からすら追放されたのだ。
そんな私が、なにをしようというのか?
「わかっている」
もう一度繰り返して。
そのときにはもう、決意が固まってしまっていた。
「これは、昨晩私を休ませてくれたことへの報酬だ。安穏をくれたことへの対価だ。それ以外の、なにものでもない」
呟きながら、ゆっくりと両手を組む。
祈るような所作から、それを前へと突き出して。
両手を開き、打ち鳴らす。
我が双眸が、煌めいて。
「『魔法は、なべて幸福のために――〝楽土の時間〟』」
清浄なる青い光が、掌の間で、瞬いた。




