第二話 すべての祈りは星となる
ぴたりと。
ゾッドを踏むつけることをやめたアトロシアが。
こちらを向く。
氷の眼差しが、いまは揺れ動いていた。
彼女はほんのしばらく逡巡し、静かに顎を引く。
「許せなかったのです、この国が、この民が」
「私が育てたものだ」
「はい、そしてあなたの足枷となったものです」
「……自由な楽園を作ることだけを夢見た」
「そのために、あなたは自由を失いました。世界を旅することも、友人と語り合うことも」
「君がいたではないか」
「はい、わたくしすら、あなたを縛る、鎖だったのです」
だからと、彼女は告白する。
あの日、ゾッドが王座を奪った日、私の心臓を短剣で突き刺した、その真意を語る。
「王という立場も、老人の身体も、壮健な顔立ちも、民も、国も、わたくしさえも。あなたにとっては、重石でした。あなたは重荷とは思わなかったでしょうが、この地を長く離れることさえ出来なかった。縛り付けていた」
それは、だが。
「だからわたくしは、あなたよりいただいた魔法の宝で、願いを叶えたのです。未来ある幼子に、同じ王を目指す必要の無い女児に、異なる地で、あなたが生まれ変わることを」
それが、あの日の真相。
私が幼女に転生した理由。
ああ、こんなにも彼女は私を想ってくれていて。
「けれどね、アトロシア。それでも私は、王なのだ」
「いけません。どうかすぐにこの場を去って下さい。お気になさらず、遠からず滅ぶはずでした」
確かに、私が死んだと周辺諸国が知れば、争いが起きただろう。
その戦乱の中で、この小国は滅びただろう。
でなくともいま、結界を着実に割り砕き、すべてを滅ぼす破壊鎚が、天高くから振り下ろされようとしている。
雷光は幾千も島へと落ち、ほころびた結界の隙間から、国を削り取り、壊し続け。
それでも。
「そうはならないよ、我が伴侶」
なぜならば。
「耳を傾けるといい。国中から響く、その願いに」
「……っ」
アトロシアが、唇を噛む。
きっと、聞こえていたのだ、いままでも。
路地裏で老爺が泣いている、「助けて」と。
井戸に寄りかかり、婦人が落涙している、「死にたくない」と。
家の中で、ぐったりと横たわりながら、幼子達が呟く、「生きたい」と。
「おうさま」
なによりも。
目の前で、ゾッドが私を拝んでいる。
「…………」
彼らは言う、助けてと願う。
それは、いまこの瞬間に紡がれる、明日を願う祈りだ。
いつだって、人々は今日よりも明日がよくなると信じて生きてきた。
そんな国を、私は作りたかった。
だが、私は奪ってしまった。
願いを叶えたつもりで、民が自らの手で未来を生み出すという体験を。
己が手で作り出すからこそ、人は皆、それをかけがえのない大事なものとして扱う。
かつての私には、そんなことも解らなかったのだ。
萎びてしわがれたゾッドの姿は、私が産みだしたもの。
ソドゴラを建国したものとして、治政を布いたものとして、向き合うべき悪性。
私が産みだした、悪。
そして……その中で芽生えた祈り。
「だからこそ、いま責務を果たそう」
緩やかに、バルコニーから上空へと向かって、私は飛翔をはじめる。
「お待ちください! あの呪詛には、いかにあなたでも打ち克つことは……!」
そうだろう。
弱り切った肉体。
万全ではない魔力。
壊れた回路。
だが、関係ない。
「魔法は、なべてひとのために」
「え?」
「この魔法に、私の魔力は必要ない。明日を望み、いまを精一杯生きる人々の、願いを束ねるための魔法だから」
ぐんぐんと空へ向かって登っていく私の身体を。
青い光が包み始める。
私は両手を組み、祈るような所作から、それを遙か頭上へと突き上げて。
両手を開き、高らかに打ち鳴らす。
弾けるは青い魔力。
いま、双眸の星が、煌めいて。
「――――」
同じくして、地上でも輝きが満ちる。
呪詛の炎とは違う、あたたかな光が、夜のソドゴラのあちこちに灯る。
それは、人々の祈り。
未来を想う願い。
倒れ伏し、譫言を口にするしかない彼らの中から、それでも現れる純粋な、欲望よりももっともっと深い場所より立ちのぼる、清廉な、根源的な生きるという渇望。
ひとつひとつはか弱くとも、それでも真っ直ぐに、それは空へと舞い上がる。
これもまた、これまでと同じ、場当たりな対応だろうか?
いや、信じるとも。
私は、私が守るべきものこそを信じる。
ゆえに唱える。
この光を、最も強くする詠唱を。
なによりも輝かせる祝詞を!
「『人の心に宿りし逆駆けのホシよ、いま希望となりて災厄を伐て――極々々大――皆願流星雨!』」
刹那、それは地より天へとさかのぼる流星となった。
地上から、何千という星が空へと舞い上がる。
絶望の夜を切り裂く光となって!
呪詛破壊鎚が結界を粉砕。
雷を纏いて奔る鉄槌に。
私が、星となった私たちが。
いま、ぶつかって――
「ああ、あなたはどこまでも、王であり続けるのですね」
最後に。
私は。
愛する妻の、声を耳にした気がした。
「今度こそ、あなたの人生が、安らかでありますように」
そんな。
かけがえのない祝福と願いを。




