31.愛しい人が、泣いている。
「――リア」
遠くで声が聞こえる。
「アストリア」
何故か泣きそうな声だ。
「アストリア。お願いだから目を覚ましておくれ」
頭に靄がかかって、言葉の意味が理解できない。思考が働かない。
「魔力を――」
唇に、何かが触れた。それは柔らかくて、温かくて、かすかに震えている。
そして、力強い魔力が口から流れ込み、体を巡った。
何かが離れ唇が冷たくなったかと思うと、また声が聞こえてくる。
「怪我はない。息もしてる。心臓もちゃんと動いてる。なのに、どうして……」
さっきよりも、ずっとずっと泣きそうな声だった。喉の奥が震えているように聞こえた。
「アストリア……僕を独りにしないで……」
頬に、温かな雫が当たった。それは一滴ではとどまらず、ポタポタと大粒の雫が次々に降ってくる。
愛しい人が、泣いている。
ようやく動くようになった頭でそう理解した時、アストリアは目を覚ました。
「ルカ様……」
目を開くと、ルカの顔が近くにあった。どうやら彼に抱き起こされているようだ。
ルカの目からは大粒の涙が次々に溢れている。彼が泣いているところは初めて見た。
彼は眉根をきつく寄せ、苦しそうに顔を歪めている。
そんな彼の涙を、そっと拭った。
「わたくしはルカ様をお独りになどいたしません。だから、もう泣かないでください」
そう言って微笑みかけると、ルカは堪えきれなくなったようにまたボロボロと涙を流した。
「アストリア……よかった……!」
そして彼は力強くアストリアを抱きしめる。
「浄化が終わった途端、そのまま倒れちゃって……もう目覚めないかと思った……」
か細い声が耳元で響いた。その声音だけで、ルカがどれだけ不安と恐怖に襲われていたのか理解できる。
震える彼を、アストリアは優しく抱きしめ返した。
「ご心配をおかけして申し訳ありませんでした。でも大丈夫です。ちゃんと生きていますから」
「よかった……よかった……」
子供のように泣きじゃくるルカの背を撫でながら、アストリアはしばらくの間、彼をなだめていた。
浄化を終えたときの記憶が曖昧だったが、周囲の気配から大瘴気が完全に消失している事がよくわかった。空気が澄み渡っていて息苦しさがない。
そして、辺りは既に真っ暗だった。しかし今は浄化を始めた日の夜ではないのだろう。やはり一日以上かかってしまったらしい。
ルカが照明の魔法を使っているおかげで、夜ではあるが周囲の様子を確認することができた。アストリアの周りには、おびただしい数の魔物が倒れている。どれも単独討伐は困難と言われる強敵ばかりだ。
それをたった一人で片付けるとは、やはり彼の力は群を抜いている。大魔法使いの名は伊達ではない。
彼がいなければ、大瘴気を払うことはできなかったと断言できる。魔物の対処をしつつ浄化できるほど、大瘴気は甘くなかった。
だからこそ、ベルンシュタイン家の代々の当主は、光の巫女姫を娶り、その護衛を務めていたのだろう。
「ごめん、情けないところ見せて」
泣き止んだルカは、少しバツが悪そうに言った。初めて見る彼の少し幼い表情に、アストリアは思わず顔を綻ばせる。
いつもは堂々としていて頼もしいのに、今はシュンとしていて、何とも庇護欲をくすぐられる。とても可愛らしい人だと思った。
「いいえ、そんなことはございません。どんなルカ様も愛おしく思います」
アストリアの言葉にルカは再び目をうるませ、ぎゅっと抱きしめた。
「うう〜。僕も大好きだよ、アストリア〜」
「ふふっ。嬉しゅうございます」
アストリアは、まるで幼子をあやすように彼の白銀の髪を撫でた。すると彼は、またぎゅうぎゅうと抱きしめてきて、全く離す気配がない。
「……でも、僕は本当に夫失格だ。君に無茶をさせすぎた。こんなことになるなら、無理矢理にでも途中で止めるべきだった」
落ち込む彼の頭を撫で続けながら、アストリアは優しく言葉をかける。
「瘴気は一気に片付けてしまったほうが楽なのです。ルカ様が気に病む必要はございません」
「でも、流石に丸二日ぶっ通しは不安になるよ」
「丸二日!?」
せいぜい一日半くらいかと思っていたアストリアは目を丸くした。それは倒れて当然だ。
「それは申し訳ございません。一度浄化作業に入ると集中が深くなりすぎてしまって……」
「あんなに長時間集中力が途切れないなんて、流石は巫女姫だね。でもやっぱり力を使いすぎるのは危険だよ」
「そうですね。今後再び大瘴気が発生して、ルカ様が危ないと判断されたその時は、構わず止めてください」
「わかった。そうするよ」
その時、不意にあくびが漏れた。強い睡魔と疲労感がアストリアを襲う。
アストリアのあくびに釣られたのか、ルカも「ふわあ」と大きく口を開けていた。
「流石に二日も寝ていないと、眠気がすごいですね」
「うん。僕も眠たい。さっさと帰って寝よう」
「そうしましょう」
そうしてアストリアは、ルカの転移魔法によってベルンシュタイン邸に帰ってきた。
場所は、夫婦用の寝室の寝台の上だ。
皇都の大瘴気を浄化した日と同様、ルカが魔法を使って一瞬で身綺麗にしてくれた。しかし彼は、アストリアを抱きしめたまま離そうとしない。
「ねえ、アストリア。今日は一緒に寝よう?」
彼の表情には不安が滲んでいる。アストリアが目覚めて安堵したものの、まだ離れるのが怖いのかもしれない。
そう思い、アストリアはためらわず快諾した。
「わかりました」
前回、同じ寝台で眠った時は、彼は頭を撫でてきただけだった。だから今回もそうだろうと思っていたのだが、その考えは実に甘かったのだと思い知らされることになる。
「ルカ様。これでは寝るに寝られないのですが……」
寝台に入った途端、アストリアは後ろからぎゅっと抱きしめられてしまったのだ。
彼の吐息が首筋にかかり、くすぐったくて仕方がない。背中に彼の温もりを感じて、安堵と緊張が入り混じる。
「嫌だ。今日は絶対に離さない」
彼は離すどころか、抱きしめる力を強める始末だ。アストリアが倒れた後、なかなか目覚めなかったのが余程堪えたらしい。
その時、ルカが不意にアストリアのうなじにキスをした。
「ちょっ、ルカ様!?」
ちゅっ、ちゅっ、と、ルカは何度も口づけを落とす。
アストリアは逃げようと体を捩るも、彼の腕力に勝てるはずもなく。
「ル、ルカ様……! これでは本当に眠れません……!」
たまらず抗議の声を上げると、ルカは楽しそうに声を漏らした。
「ふふっ。それもそうだね。この続きは、明日の朝に……」
彼の声が途切れた途端、すぐに後ろから「スゥスゥ」という気持ちよさそうな寝息が聞こえてきた。どうやら彼も限界だったようだ。
丸二日も強力な魔物たちと戦い続けた挙げ句、倒れたアストリアの介抱をしていたのなら、疲れ果てていて当然だろう。
母国を救いたいというワガママに付き合ってくれた彼に感謝しつつも、アストリアは今のこの状況に参っていた。彼の寝息が首筋にかかり、やはりくすぐったくて仕方がない。
(ドキドキしてしまって、眠れそうにないわ……)
ルカから一旦離れたいが、モゾモゾと動いて彼を起こしてしまうのも忍びない。そのためアストリアは、諦めて彼の腕の中で緊張が収まるのをしばらく待った。
このままでは眠れないと思っていたが、彼の心音を聞いていると緊張よりも安堵が勝り、アストリアはいつの間にか睡魔に飲まれていった。




