19.馬鹿な女
(ルカ様は、シェリルが屋敷に来ることを知っていた……?)
彼がシェリルを街に招き入れた可能性は低いと思っていたが、今の発言からすると、どうやら自分の思い違いだったようだ。
だとすれば、一体どうしてシェリルを招き入れたのか。
ルカに抱きしめられたままのアストリアは、彼にそのことを尋ねようとしたが、その前にシェリルが甲高い声を上げた。
「ルカ様! ルカ様はお姉様に騙されていらっしゃいます! お姉様の本性は醜悪で――」
「黙れ」
耳元でルカの冷たい声が聞こえた。いつもの温かな声とは違う、地を這うような恐ろしい声だ。
ルカの一言で怯んだシェリルだったが、ここで大人しく引き下がる判断ができるほどの賢明さを、彼女は持ち合わせていない。
「わ、私はルカ様のために……!」
「頼むから黙れ。アストリアの前で人殺しはしたくない」
抱きしめられているため、ルカの表情は読めない。しかしその声音から、相当怒っていることがよくわかった。
彼はアストリアを離すと、気遣うような視線でこちらの瞳を覗き込んでくる。
「アストリア。何もされてない? きっと嫌なこと言われたよね? 一人にして本当にごめん。こんなはずじゃなかったんだ」
平気と言えば嘘になる。一度抱いてしまった不安と恐怖は、まだ消えずに胸の中に渦巻いている。
しかし彼に無用な心配をかけまいと、アストリアは気丈に振る舞った。
「わたくしは大丈夫です。ローレンスくんたちは無事でしたか?」
「うん。大丈夫。無事両親の元に届けてきたよ」
ルカの言葉に、アストリアはホッと胸をなでおろす。彼と子供たちに何事もなくて安心した。
そしてルカが隣に座ったところで、アストリアは尋ねる。
「ルカ様、教えて下さい。シェリルはルカ様が招待したのですか?」
「招待とは少し違うかな。わざと誘い込んだんだ」
いたずらっぽく笑うルカに、アストリアはきょとんとし、シェリルは困惑した表情を浮かべた。
「え……?」
「ど、どういうことなのですか!? 一体何の話をしているのです!?」
ルカは悠然と足を組み直すと、シェリルに嘲笑を浴びせた。
「僕がランドル王国の動きを見張ってないとでも思った? 君が僕の領地に入って来ようとしてるのがわかったから、わざと招き入れたんだよ。これで僕は、王国に堂々と文句を言える口実を得た。本当に馬鹿だよ、君」
ルカの言葉に、シェリルの血の気がサーッと引いていく。事の重大性にようやく気づいたようだ。
しかし、王太子の婚約者をわざと誘い込むとは、彼は王国に対して一体どんな文句を言うつもりなのだろうか。
少々恐ろしく思っていると、ルカがいつもの温かな笑顔でにこりと笑いかけてくる。
「さあ、アストリア、お茶にしよう? その後は一緒に執務かな? 今日はもうずっとアストリアのそばにいるからね」
そう言いながら、ルカはしれっとアストリアの腰に腕を回している。人前だということもあって、いつもより恥ずかしさが倍増だ。
アストリアが赤面していると、シェリルが焦ったように声を上げた。
「ル、ルカ様! どうかランドル王国に訴えるのはおやめください! わ、私がルカ様にお会いしたくて、勝手に来ただけなのです!」
一方のルカは、すでにシェリルへの興味を失っているようで、煩わしそうに手でシッシッと追い払う仕草をした。
「ああ、まだいたんだ、君。もう用済みだから、帰っていいよ」
「お待ちをっ――」
シェリルが言い終わる前に、彼女の姿が忽然と消えた。どうやらルカが転移魔法で外に追いやったようだ。
そして次に瞬きしたときには、アストリアはすでにルカの部屋にいた。展開が早すぎて戸惑うアストリアに、彼が優しく声をかけてくる。
「ランドル国王が君を取り戻そうとしている動きがあったから、牽制に使おうと思ってね。これ以上手出しをするなら、本当に国を潰すぞって」
彼はそこで一度言葉を切ると、壊れ物に触れるようにアストリアの頬にそっと触れながら、申し訳無さそうな顔をする。
「でも、こんなことになるなら、あらかじめ伝えておくべきだった。本当にごめん」
「いいえ。わたくしのために動いてくださったのに、謝らないでください」
ランドル国王は、光の巫女姫の存在を知っている。そして、ベルンシュタイン家当主が妻に迎えたアストリアこそが光の巫女姫であるということにも気づいているだろう。
国王がアストリアの力を何に使おうとしているのかは、だいたい想像ができた。恐らくは金儲けのためだ。
アストリアは自分があの国に連れ戻されることを想像し、思わず自分で自分を抱きしめた。これまでに浴びせられた罵声の数々が、脳裏に蘇ってくる。
(あの国に帰るのは……絶対に嫌……!)
すると、アストリアの不安を読み取ったのか、ルカがぎゅっと抱きしめてくれた。
「大丈夫。僕が絶対に守るから。奴らに奪われるようなヘマはしないよ」
「……ありがとうございます、ルカ様」
アストリアを包むルカの温もりが、耳元で囁かれる力強い声が、頭を撫でる優しい手が、募る不安を散らせてくれた。
アストリアが抱きしめ返すと、ルカはこう続ける。
「それと、僕がアストリアを捨てるなんてこと、絶対にあり得ないから」
「…………」
それは、光の巫女姫としての役目が終わってからも、ですか?
そう聞きたかったけれど、怖くて聞けなかった。
『お姉様みたいな無能な人間、役目が終われば捨てられるに決まっているもの!』
アストリアの胸には、シェリルの言葉が楔のように突き刺さったままだった。