18.妹の襲来
アストリアがベルンシュタイン邸へ来てから、数週間が経った頃。
この日、アストリアは執務室で領地経営に関する仕事をこなしていた。今日は珍しくルカがおらず、とても集中して仕事ができている。
元々はルカの脳内にある帳簿を書き起こす予定だったのだが、昼過ぎに緊急事態が発生した。ルカとアストリアに花束をくれた、あの可愛らしい男の子ローレンスとその友達数名が、迷いの森で迷子になってしまったのだ。
これはまずいと、ルカは急いで迷いの森に向かって行った、というわけである。
粛々と仕事をこなしていると、テレサが息を切らしながら部屋にやってきた。
「アストリア様! 失礼いたします!」
「どうしたのテレサ。そんなに慌てて」
彼女の表情は困惑一色だ。
(まさか、ルカ様やローレンスくんたちに何かあったのでは……)
そんな考えが頭をよぎり、背筋がヒヤリとする。
しかし、テレサからの回答は予想外のものだった。
「あのですね、シェリル・ウォーラムと名乗る方が、護衛数名と共に訪ねてきておりまして。旦那様とアストリア様にお会いしたいと……」
「シェリルが……!?」
「はい。アストリア様の妹君……ですよね? 本来であれば、領外の人間が迷いの森を抜けられるはずがないのですが、よりにもよって旦那様がいない時に……」
迷いの森は、ベルンシュタイン家当主が出入りしても良いと思う人間のみが、その往来を許される。
事実だけを見れば、ルカがシェリルを招き入れたということになるが、それは少し考えにくかった。彼がアストリアを攫いにランドル王城に姿を現した時、彼はシェリルを毛嫌いしている様子だったからだ。
(迷いの森は、魔法で作られた要塞だったはず。何か不具合が発生しているのかもしれないわ)
このことはルカが帰ったら報告することにして、今はシェリルをどうするかだ。
「どうなさいますか? 不在ということにして、追い返しましょうか」
シェリルの性格上、不在と伝えれば「帰ってくるまで待つわ」と言って屋敷に居座るだろう。変に追い返して屋敷の前で騒がれても、ルカや使用人に迷惑がかかる。
「大丈夫。わたくしが対応します」
そうしてアストリアは、シェリルを応接室に通し、テレサとともに彼女を出迎えた。シェリルが連れてきた護衛たちは、外で待機してもらっている。
「お久しぶりね、お姉様。ルカ様がいらっしゃらないのはとても残念だわ」
シェリルは薄桃色の華美なドレスを身にまとっている。こちらを下に見ていると一発でわかる嘲笑は相変わらずだ。
「久しぶり、シェリル。今日はどうしたの?」
早速本題に入らせようとすると、シェリルは顎でテレサを指し示した。
「その前に、侍女の方は外してくれるかしら? 二人きりで話したいの。家族同士、積もる話もあるでしょう?」
アストリアは既にウォーラム家と縁が切れている。そのため正確にはもう家族同士ではないのだが、細かいところは指摘しないでおいた。
「いいわ。テレサ、下がってちょうだい」
「……かしこまりました、奥様」
テレサは不安そうな顔をしていたが、特に食い下がることなく部屋を出ていった。
テレサを見送ったあと、アストリアはすぐに口を開く。
「それで、シェリル。あなたの用件は――」
「お姉様、随分といいドレスを着てるじゃない。ルカ様に色目でも使っておねだりしたの? いやらしいわね」
相手の話を遮るだけでも失礼なのに、発言内容が聞くに耐えないほど酷かった。
彼女は仮にも王太子の婚約者だ。自分の言動が国の品位に関わることが理解できていないのだろうか。それに、王太子の婚約者としてやるべき仕事は多いのに、こんなところで油を売っていて良いのだろうか。
「……そんなことを言いに、わざわざこんな遠くまで来たの?」
「まさか。ねえお姉様、ルカ様を譲ってよ。ルカ様にお姉様のような無能は相応しくないわ」
「嫌よ」
アストリアの即答に、シェリルは驚いた様子を見せた。
母国にいた頃はシェリルと揉めるのが面倒で、あまり口論をしてこなかった。そのため、「あのお姉様が口答えをしてくるなんて」とでも思っているのだろう。
シェリルはすぐに顔を顰めて苛立ちを見せたが、アストリアはそれに構わず続けた。
「ルカ様はわたくしを必要としてくれた。だからわたくしもそれに応えたい。彼の隣は絶対に譲らないわ。何があっても絶対に」
「ふぅん。必要、ねえ……ルカ様も結婚適齢期だし、きっと世継ぎが欲しかったんでしょう」
その発言に、アストリアは何とも言えない気持ちになった。
シェリルは彼が二百歳を越えていると知ったら、どう思うのだろうか。
一方、何も知らないシェリルは鼻で笑いながら言った。
「お姉様がどうやってルカ様に取り入ったのか知らないけれど、どうせあれでしょ? 国中からいじめられてますって悲劇のヒロインぶって、ルカ様の優しさに付け込んだんでしょ? 簡単に騙されちゃって、かの有名な大魔法使い様も、女の涙には弱いのね」
確かに彼には自分の境遇を話した。しかし、彼の優しさに付け入るような真似は決してしていない。
いつだって攫いに行くと言ってくれた彼の優しさを、アストリアは必死に忘れようとした。それでも彼は、アストリアに手を差し伸べてくれたのだ。
決して結婚を無理強いすることなく、アストリアの意思を最大限尊重してくれた彼の優しさを、シェリルは知らない。
「それは違うわ、シェリル。ルカ様をそんな風に言わないで」
アストリアがシェリルを見据えて力強い口調でそう言うと、彼女は気圧されたように怯んだ。
「な、なによ……」
「あなたはもう少し慎重に行動したほうが良いわ。あんなに大々的にジェフリー様との婚約を宣言したというのに、こんなところにいていいの?」
アストリアが咎めると、シェリルの苛立ちが限界を超えたようで、彼女は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「お姉様が言えた口!? ジェフリー様にフラれたからって早々に他の男に乗り換えるだなんて、なんて尻軽な女なのかしら!」
そしてシェリルは、その勢いのままさらに喚き散らす。
「ルカ様も今はお姉様に騙されているかもしれないけれど、いずれ目が覚めるときがきっと来るわ! お姉様みたいな無能な人間、役目が終われば捨てられるに決まっているもの! 世継ぎを生んだら捨てられて終わりよ!!」
「……っ」
反論したかったのに、とっさに言葉が出てこなかった。
『役目が終われば捨てられる』
その言葉が、アストリアの心の奥底に深く突き刺さる。
ルカがアストリアを求めたのは、自分の時間を取り戻すため。そして、アストリアに与えられた役目は、大瘴気を浄化することと、世継ぎを生むこと。
全ての役目が終わった時、彼は自分を必要としてくれるのだろうか。もし用済みで捨てられたら、自分は立ち直ることが出来るだろうか。
そう思った途端、胸の中が不安と恐怖に支配されていった。
そもそもルカがアストリアを求めるのは、ベルンシュタイン家の血による本能的なものだ。
大切にすると言ってくれるのも、全力で甘やかしてくれるのも、愛おしげに触れてくるのも、全ては血がそうさせているだけに違いない。血が「光の巫女姫」という存在を魅力的に見せているだけに過ぎないのだ。
絶対に愛されていると勘違いしてはいけない。自分は「光の巫女姫」であるが故に大切に扱われているだけなのだから。
それを再認識し、アストリアはなんだか泣きそうになってしまった。
(わたくしの立場は、案外脆いものなのかもしれない……)
すると、押し黙るアストリアを見たシェリルが、勝ち誇ったように嘲笑う。
「あら、そんな顔をするってことは自覚があるのね? ルカ様に捨てられる前に、さっさと自分から去りなさいな! この身の程知らず!」
「誰が、誰に捨てられるって?」
背筋が凍るような冷たく低い声が、背後から聞こえた。
ハッとして振り返ると、射殺すような視線をシェリルに向けるルカがいた。
「ルカ様……」
アストリアがポツリとつぶやいた途端、その口が彼によって塞がれる。ソファの背もたれ越しにキスをされたのだ。
あまりに突然のことに驚き、アストリアはすぐに彼から離れようとした。しかし、頭の後ろに手が添えられていて逃れられない。
焦ったアストリアはルカの腕や体をポカポカと叩いたが、それでも彼は離してくれなかった。
そしてようやく唇が離れたところで、アストリアは彼を諌めた。
「ルカ様! 人前ですよ!?」
アストリアの苦言も聞かず、彼はそのままぎゅっと抱きしめてくる。
「ごめんよ、アストリア。こいつを君に会わせるつもりはなかったのに、なんて間が悪い」