15.アストリアの困り事
ルカと婚姻を結んでからというもの、アストリアは領地経営を手伝ったり、屋敷の図書室で大瘴気やベルンシュタイン領のことを勉強したり、依頼があれば瘴気の浄化をしたりと、忙しくも充実した日々を過ごしていた。
勉強する中で、新しく知ったことがいくつかあった。
まず大瘴気についてだが、その発生は何も一箇所に留まらないそうだ。先代の光の巫女姫は、先代ベルンシュタイン家当主と共に、新婚旅行を兼ねて各国を巡りながら大瘴気を浄化して回ったらしい。
そして、ベルンシュタインの領民は、大瘴気や巫女姫のこと、ベルンシュタイン家当主の体質について、諸々の事情を知っているそうだ。
念の為、領民にはこれらの事実を領外の人間に他言しないよう魔法がかけられているらしいが、そもそもここの領民は外部に出ていくことがほとんどないので、情報が広まる心配はいらないらしい。
こうした生活の中で、アストリアは疲弊した体と心を癒やしていった。
しかし、困ったことがひとつ。
「あの、ルカ様。執務をする時にこの体勢である必要性が、わたくしにはやはりまだわからないのですが……」
アストリアは今、ルカが記憶している領地経営の情報を、紙に書き起こしているところだった。執務机に向かって、彼の膝の上に座りながら。
「必要だよ。アストリアは僕の声を聞き取りやすい。僕はアストリアに教えやすい。お互いにとってメリットしかないでしょ?」
ルカはさも当然のようにそう言うが、何度聞いても彼の理屈はわからない。
ルカから領地経営の情報を聞いて書類にまとめる際、彼は決まって自分の膝の上にアストリアを乗せるのだ。
アストリアが領地経営を手伝うことが決まった時、ルカに「その間はずっとアストリアのそばにいられるね」とは言われたが、まさかこういうことだとは思いもしなかった。
アストリアも頑張って断ってはいるのだが、毎回ルカに言いくるめられ、結局この体勢で仕事をする羽目になるのだ。耳元で彼の声が聞こえるたび、集中できなくなって困っている。
すると、ルカが徐ろにアストリアの腰に腕を回し、ぎゅっと抱きしめてきた。
「ひゃっ!」
元婚約者のジェフリーとは、キスどころか手を繋ぐことすらしたことがなかった。そのため、男性との触れ合いには不慣れなのだ。
アストリアは恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら、ルカの腕をペシペシと叩く。
「ルカ様! これでは仕事になりません!」
「あのアホ王子とも、こういうこと、した?」
「してません!!」
「そっか。ならよかった」
ルカは満足そうに笑うと、アストリアのうなじにキスをした。
「ル、ルカ様! これ以上邪魔なさるなら、流石に怒りますよ!?」
アストリアは恥ずかしさのあまり、もはや涙目だ。心臓が口から飛び出そうである。
片やルカは、楽しそうに笑っていた。
「フフッ。アストリアに怒られるのも悪くないね」
「もう……本当に困ったお方なんですから」
ルカの膝の上で仕事をする時は、彼がよくこうして邪魔をしてくる。
おかげでなかなか聞き取りが進まないのだが、「ルカの記憶の書類起こし」は順調すぎるほどに進んでいた。彼が暇な時に自分で記録の作成を進めているからだ。
実際のところ、ルカによる妨害がなかったとしても、アストリアが聞き取りをして書き起こすより、ルカが自分で書き起こしたほうがずっと早い。そのため、以前ルカに「帳簿や税収記録の作成はルカ様にお任せして、他の仕事の割合を増やしたいのですが」とお願いしたことがあったが、あえなく却下された。
だからアストリアは、結局彼は自分をからかうためだけにこの時間を設けているのではないか、と勘ぐっているのだ。
婚姻を結んでからというもの、彼はよくスキンシップをしてくるようになった。純粋な愛情表現なのか、こちらの反応を見て楽しんでいるだけなのか、彼の真意はよくわからない。
そもそも好きだとは言われていないので、彼が自分の事をどう思っているのかもわからなかった。
元々、彼が必要としていたのは「光の巫女姫」であって、「アストリア」ではない。彼がアストリアに惚れて結婚を申し込んだわけではないのだ。
対するアストリアは、すでにルカに心を奪われていた。恐らくは、最初に森で出会った、あの時から。
「でもわかった。今日はもう、いたずらしない。君に嫌われたくはないからね」
彼はそう言うと、腰に回していた腕を解いてくれた。まあ、膝の上に乗せられているのは変わらないのだが。
アストリアは諸々を諦め、大人しく彼の膝の上で仕事を続けることにした。彼の頭の中にある記録を聞き取り、それをひたすら紙に起こしていく。
そして、きりの良いところで彼にとあるお願いをしてみた。
「ルカ様。今度、領地を見て回りたいのですが、よろしいでしょうか」
ベルンシュタイン領に来てしばらく経ったが、バタバタした日が続き、まだ街の方へは行けていない。領主の妻として、領地の様子は一度見ておいた方が良いだろう。
「もちろんいいよ。早速、今日の午後にでも行こうか。僕も皆に紹介したいと思っていたんだ」
そうしてアストリアは、快諾したルカに連れられ、街へと赴くのだった。
* * *
昼食後、アストリアはルカとともに、街の入口から中央広場に向かって歩いていた。転移魔法で目的地まで飛ばなかったのは、道中色々と見て回りたかったからだ。
ベルンシュタイン領は、昔ながらの手法で建築された建物が多く、なんとも趣深い街並みが広がっていた。しかし、決して古びれていたり寂れているというわけではなく、街は活気に溢れている。
「あ! ルカ様だ!」
「本当だ! ルカ様、一緒に遊ぼう〜!」
「隣の女の人、だあれ〜?」
道行く子供たちが、ルカに話しかけてくる。
ここに来るまでの間にも、彼は大勢の領民から声をかけられていた。領主として、とても愛されているのだろう。
そして声をかけられるたびに、彼はアストリアのことを「僕の自慢の妻」だと紹介していた。それが何とも嬉しくて、でも恥ずかしくて。胸の奥がきゅうっとなるのだ。
「この人はアストリア。僕の自慢の奥さんだよ。今日は彼女のエスコートで忙しいんだ。また今度ね」
ルカが目を眇めてそう言うと、子供たちは、
「ルカ様、とうとう結婚したの!? おめでとう!」
「それは奥さんを最優先しなきゃね!」
「また遊ぼうね!」
と言って、笑顔で去っていった。
その後、中央広場に到着すると、そこには大勢の領民たちが集まっていた。どうやらここは、街の人達の憩いの場らしい。
そしてルカは演壇のような場所にアストリアを連れて上がると、領民たちに向かって大声を張り上げた。
「皆、聞いてくれ!」
その一言で、領民たちは「なんだなんだ」と揃って演壇の方に集まってくる。そして彼は、続けて大声で言った。
「彼女が僕の自慢の妻、アストリアだ!」
(皆に紹介するって、こういうこと!?)