クワガタと衛星
おれはとても広い公園へやってきた。ここで少年時代ぶりの虫取りをするのだ。ひと気はなく、鈴虫やコオロギたちの鳴き声が、あちこちから聞こえてくるだけだった。もともと散歩をしていたのだが、なんという運命のいたずらか、でかい公園を見つけた。おれは、この公園の不思議な魅力に惹きつけられてしまったのだ。そして今のおれはというと、さながら獲物を探す捕食者のごとく、夜目を利かせて虫を探していた。まだ見ぬ大モノを待ちわびているのだ。
そして、横にいるこの女は、でっかい惣菜パンをばかみたいに食っていた。
コイツと何処で知り合ったのかは覚えていないが、よくおれの近くで、ぼーっとしながら突っ立っている。今日は晩ご飯を一緒に食べてきた後で、そのままついて来た。なかなか有意義だった。大きな花壇のレンガ造りになっている部分でじっと座っていたため、おれはヤツにかまうことなく、虫取りに没頭できている。別に捕まえることが好きなだけで、飼うことはしないという主義だ。バッタやカミキリムシなど、捕まえては穴が開くほど観察して、そのままリリースした。色んな虫を女に見せては、良いとは言えないリアクションを返される、そういうループだった。
薄暗い夜空の星を、公園の街頭が照らしている。
楽しく捕獲を続けていると、女は喉が渇いたと言い出した。残念ながら1番近い自販機はここから歩いて3分はかかる。俺は、勝手に自販機まで行ってこいかと鬱陶しそうに返事をした。しかし、女は2回目の「喉が渇いた」を言った。そう、この女は頑固なのである。飯を食いに行く時であっても、必ずコイツの意見が採用され、コンビニに立ち寄る時であっても、ローソン以外のコンビニに訪れることは全く無かった。この女は非常に頑固で、わがままなのである。
仕方なくおれは自販機へ向かうことにした。けれども、結局女もついて来た。なんでだよ。てこてこ歩いていた。さっきまで惣菜パンが入っていた袋を邪魔そうに持っている。おれは普段何をしているのかと聞いた。いつも休みの日とかに遊ぶので、この女のふつうをおれは知らない。そもそも、コイツはコイツ自身のことをあまり教えてくれないのだ。女は「わかんない」とだけ答えた。生来無口なヒトトナリなのである。難しい女だ。しばらく歩いていると、女は背負っていた大きめのリュックから、おもむろにイカソーメンを取り出した。業務用みたいな大きさだ。からかってやろうと思い、おれが「そんなに食べると太るぞ」と言うと、イカソーメンの1本は細いので、カロリーがゼロ的なことを言ってきた。そして、そのうちの1本を、「"吉"だから」と言って渡してきたのだ。おれはありがたく0calの吉を頂戴した。1本だけかよと文句を言う。イカソーメンはしっかり味がした。
そうこうしているうちに自販機へ着いたのだが、ここで問題が生じる。この自販機はチェリオの自販機だったのだ。「日本のサイダー」が好物の女は何本も買おうとするだろう。そして、その代金をおれが払うのだ。──この予感は半分的中した。女は「日本のサイダー」をせびってきたのだ。だが、おれが一本買ってやると、それ以上ねだることはなかった。お前に心配されるほど金欠じゃないのに。すると、女は「太るからやめとく」と言った。気にしてんのかよ。でも1本は飲むんだな。おれは自分にライフガードを買った。近くのちょうどいいベンチで、2人座って乾杯した。女が勢いよくキャップを開けると、「日本のサイダー」が激しく吹きこぼれ、その手がベトベトになっていた。見ていたおれ自身も思わず吹き出してしまった。不服そうにおれを見つめる女は、音のでかいタイプのでこぴんしてきた。痛かったけど、おもしろかった。女は終始プスプスしていた。なんなんだよ。おれたちは、近くのゴミ箱に惣菜パンの袋のゴミを捨てた後、さっきまでの虫取りポイントに帰ることにした。その途中、射手座の話をした。日本人が1番初めに想像する、あの射手座。「射手」という言葉は射手座を言う時でしか使わないという話だ。女は俯いた後、今までよりも早口で、声を荒げながら、このことについて話した。こういうクソ話に胸をときめかせる女なのだ。少し歩いて、ひじきの話で盛り上がっていたが、惜しくも例のポイントへ到着してしまった。そして、おれは突然ひらめいたのだ。カブトムシやクワガタを探そうと。ここでそういった昆虫を捕獲したという情報もあった気がする。そんでこの女を驚かせてやろう。そんなことを企んでいた時、女は口を開けながら宇宙を見上げていた。
父は宇宙飛行士だった。当時十歳の私はテレビに映る父の活躍に釘付けで、それはもう凄まじいほどだった。しかし、宇宙飛行士である父の活躍は、同時に、家族の一員である父の存在が遠ざかっていくことを意味していた。時が経つにつれ、私と父との間にある壁が分厚いものになっていく感じがしたのだ。また、「最後に直接話したのはいつだったっけ」と、子どもながらにして疑問に思う時もあった。だが、このような状況においても、私の父は家族を愛していたし、逆にその分、私たちも父を愛した。
しばらくして、宇宙局が新たなプロジェクトを発表した。人類が、とある衛星に着陸するというものだ。父も参加していた。その日、父と件のプロジェクトについて、電話で話した。好奇心に満ち満ちていた父は、まるで子どものようだった。曰く、「宇宙は僕たちを待っている」らしい。この言葉が好きじゃなかった。
夏休みが終わると父は死んだ。ロケットは勢いよく離陸したものの、敢えなく塵と化した。ケイローンが当たるはずの毒矢が、誤ってこのロケットに当たったのだろう。宇宙センターで見守っていた私の感情は滅茶苦茶になった。言葉では表現できない感情だった。当然、学校には行けなくなった。
本来、私は宇宙飛行士になりたいと思っていた。しかし、その後の私はどうだろう。引きこもってネットに入り浸ったり、一日中知らない場所をほっつき回ったり、中身のないことにひたすら打ち込んでしまっていた。いや、そうしていたかっただけなのかもしれない。やはり、父の死は受け入れ難いものだったが、とっくにそれを忘れたふりをして生活を続けている。こんなだった私の生活が、ほんの少しだけ改善したのは、読書のおかげだった。
確実な意志を持って、ありきたりな異端に照準を合わせて、奇を衒った表現をする「物書き」のことを、心の底から大嫌いだと思っている。父が死んでから、私は初めて小説に、真正面から向き合った。太宰の本を読んだ。それは奇天烈な装飾のない文章で、話しかけられているような感じがした。「無為自然」という言葉がある。諸子百家の老子の言葉だ。小説は、人間のありのままをシンプルに描くべきだと私は考えている。何事に関しても、決してそこに作為はない。「それ」が起こった以上、逆らうことはできないのだ。そう決まっている。そんなポリシーの私にとって、作者の自己満足に付き合わされる作品を読むことには、許し難いものがあった。結局のところ、生きやすくなったのか、生きづらくなったのか、よく分からない。今も自堕落な生活を送っていると思う。しかし、あの頃よりも、苦しくはないような気はするのだ。いつからかは忘れたが、この男とよく遊ぶようにもなった。彼は一見馬鹿な奴に見えるが、どこか私に似ている気もした。そういうところで、もしかすると、息が合ったのかもしれない。私は、今の生活に、そこそこ満足している。
樹木のゴツゴツとした樹皮に、クワガタの艶のある漆黒がよく映える。苦闘の末、おれはようやく昆虫界のボス・オブ・ボス、クワガタを手に入れたのだ。とは言うものの、実際に捕獲したクワガタは小さなコクワガタだった。おれはすぐさま女の元へ駆け寄り、こいつを見せびらかした。今世紀最大のドヤ顔をするおれに、女は微笑んでいた。意味なんてない、おれの計画はそこそこよかったのかもしれない。「持って帰れば」と勧めてもらったが、未来ある小さな戦士を、おれの狭っ苦しい部屋に閉じ込めるのは気が引けた。本当は、大人になったら虫取りをしないと決めていたが、いつまでも過去のことを引きずっていても仕方がないと思った。だから、こうして今を楽しんでいる。
おれは、時々本を読む。広く世界を眺めるためだ。読書は知識を与える。しかし、それ以上に、人に意志を与えるものだと思うのだ。人間が生活していく上で、最も陥ってはいけないことは、過去に固執することな気がする。そうならないため、未来を見据えるため、本を読む。でも、おれは本を頻繁には読まないようにしている。長い期間、人との繋がりを絶やさないためだ。長時間の孤独は、人を後ろ向きにさせる。つまり、過去に縋るようにさせる。実際おれにもそういう経験があるのだ。たくさんのポジティブと少しの孤独、これこそがおれだ。だから、おれは長々と昔話はしない。
時間は本当にあっという間に過ぎてしまうものだ。コクワガタを捕まえ、満足になったおれは、家路に着くことにした。帰り道も女と一緒だった。コイツはどこまでもついてきてくれる。実は、なんだかんだおれは、この女に感謝している。まず第一に、1人の飯はあまり美味くないからだ。だから、こうしてちょくちょく顔を合わせて、一緒に外食し、適当にぶらついてくれるのがありがたいと思っている。そして、単純にコイツがおもしろいヤツだからだ。おれとは違う観念を持っている。それはいいものもあるし、悪いものもあると思う。そんな彼女だから、俺の心も休まっているはずだ。公園を出て、振り返ると、ゆっくりと風が吹いた。ざわめく木々は、まるでおれたちに別れの挨拶を告げているみたいだった。暗い夜道はしんとしていて、どこか不気味だった。すると、歩くのが疲れたと、女は駄々をこねて、立ち止まってしまった。帰り道なのに。おれは女の手を引いて、大きく、一歩踏み出した。この女はとてもわがままで意地の悪いヤツだ。けれど、これからまだまだコイツとの付き合いは長くなりそうな気がした。
満天の星が2人の帰路を照らしていた。