<第九話・アンダークラス>
アシュリーの話を、マチルダは黙って聴き続けてくれた。いつも彼女はそうだ。どれだけ脈絡のない相談を持ちかけても、それが突飛な内容であったとしても、けして馬鹿にしたりしないで真剣に耳を傾けてくれるのである。
そういえば、マチルダに対してはあのジョシュアも少しだけ態度が柔らかかったような気がする。信頼、に近いものも見え隠れしていたかもしれない。一体彼とマチルダは、どういう関係なのだろう。せっかくだから、これについても尋ねてみようか。
「……一緒に戦ってみて、思ったんです。ジョシュアがあんな風に、自分を切り刻むような……まるで己で己を苦しめるような戦い方をするのって、どうしてなんだろうって」
確かに、闇魔法の属性を生まれつき持っていたのかもしれない。そして彼はその環境と生まれついた体質あって、人より身体が丈夫ではなかったかもしれない。筋肉がつかないから当然腕力もなく、近接戦闘で補うという選択肢も無かったのかもしれなかった。学ぼうと思えば誰だって自分の属性以外の魔法を学ぶ事が可能だが、それでも己の属性と比較すれば大きく威力が落ちてしまうのも間違いのないことである。
しかし、彼はあれだけの治癒魔法が使えるのだ。攻撃魔法などで芽が出なくても、治療師として道を見出すことも出来たのではなかろうか。確かに、基本独りきりしか選ばれない勇者を目指すのならば、治癒魔法しか使えないというのではかなり厳しいものがあるだろう。だが、少なくともジョシュアの場合は――勇者になりたくて、この学園に入ったようにも見えないのである。むしろ、勇者に選ばれた時彼は嫌がってさえいたように思える。なら、回復魔法のエキスパートとして道を選択することだって出来た筈ではなかろうか。
何故、闇魔法での戦いに拘るのだろう。
毎回あんな痛い想いをしてまで――己で己を傷つけ、死にかけるほどの傷を負ってまで。
「私なりに考えてみたけど、どうしてもわかりませんでした。誰だって、痛いのは嫌なはずです。死にたくもないはずです。それなら……」
『アシュリー』
アシュリーが言いかけたことを珍しく遮るように、マチルダは告げた。
『貴女は、変わろうとしている。己の思い込みに囚われず……人の気持ちを理解し、寄り添うことを覚えようとしている。それは大変素晴らしい事だと思います。しかし、あと一歩まだ足りていませんね。……痛いのは嫌。死ぬのも嫌。……そうではない人がいるかもしれない、という想定は全くできないものでしょうか?』
「え……?」
『世の中には己の痛みを悦ぶ者もいれば、物理的な痛みで心の痛みを誤魔化して生きている者もいます。そして……今生きているからといって、これからも生きていたい者ばかりではありません』
その言葉で、再びアシュリーの脳裏に蘇るのジョシュアの言葉。
自分が死んでも問題などない、と彼は言った。誰も悲しむ者などいない、と。
「……ジョシュアは、死にたいのですか?どうして?生きていれば、楽しいことなんかたくさんあるのに。生きていなかったら、幸せになることなんてできないのに」
悲しむ者がいない、それがジョシュアは悲しいのだろうか。
彼は孤独を厭わしく思っているのか、それとも好んでいるのか。長らくアシュリーは前者と思って、好意を押し付けすぎていたのは間違いない。そして、それをつっぱねるジョシュアの態度にも全く問題が無かったとまでは思わない。しかし。
そのどちらが真実であるか判断できるほど。まだアシュリーは、ジョシュアのことを知らなすぎるのもまた、事実なのである。
――ああ、そうか。それも……思い込み、なのかな。
生きていれば楽しいことがたくさんある。幸せになることなんてできない――そう思うのは。
アシュリーが今日まで幸せであったからで。ジョシュアは、そうではなかったのだとしたら。
『厳しいことを承知で言いますが、アシュリー。……それが、私が貴女ひとりを勇者にするべきではないと考えた最大の理由なのです』
そんなアシュリーに、マチルダはさらに続ける。
『貴女は侯爵の娘。お金にも、容姿にも、教育にも恵まれ、そして素晴らしい家族と友に恵まれました。それは大変素敵なことであり、同時に生まれついての幸運でもあります。人は誰しも、己が生まれる場所を選べません。親を選ぶこともできません。貴女のその生まれついた環境は、貴女の努力で得たものではないことはわかっていますね』
「それは……勿論」
『同時に。下層階級に生まれ、親がいなかったり親に虐待されて育った子供も。その環境は断じて、本人の責ではない。スタート地点は誰にも選べるものではないからです。ですが。……果たして今までの人生で、何不自由なく綺麗に生きてきた人間が。闇の深さを知る人間の心に、本当に触れることができるものでしょうか。人の本当の苦しみを想像し、理解することができるでしょうか?……貴女が今言ったように。“楽しいことがあるはず”と信じることもできない生活を、貴女は想像することができないのではないですか?』
「……!」
まさに――その通りだった。アシュリーが今こんなにも混乱しているのは、ジョシュアを理解しようとしても理解しようとしても、どうしてもその背中に手が届く気がしないのは。
アシュリーが、この世界の本当に汚いところを一切見て生きてきてないからである。アシュリーの世界に、毎日ごはんが食べられない環境など何処にもなかった。毎日お風呂に入れない子供も、毎日同じ服を着るしかできない子供も、困った時に助けてくれる友達や家族が存在しない環境も――今まで何処にも無いものだったのである。
その中には、アシュリーの性格と努力で得たものもあるだろう。友達などはきっとその範疇だ。しかし、生まれつきの階級やお金は違う。全て、親の努力で得られたもの。アシュリーの努力では、ない。
『綺麗なだけの手で、誰かを救うことは本当に難しいものです。むしろ一度汚れて、傷ついて、苦しんだ者の手こそ届く痛みもきっとある。貴女が最初から勇者の候補に選ばれたのは、貴女が誰より幸せに生きてきたからこそ。そして私が、貴女だけでは足らないと……この悪夢を終わりに出来ないと思ったのも、貴女がとても幸せな人生を送ってきたからこそです』
そう言われてしまえば、アシュリーは項垂れるしかなかった。責められているわけではないのだろう。あくまで、マチルダの声は優しい。そもそも環境が誰かのせいではない以上、アシュリーの幸運や幸福もまた責められるような類のものではないはずなのだから。
けれど、それでも彼女の言うことが正論であるのは紛れもなく事実なのだろう。アシュリーが知る世界はあまりにも狭すぎる。そもそも――今まで知ろうとしてこなかったツケが、今完全に回ってきているような気がしてならないのである。
「……マチルダ先生は。その痛みに、ジョシュアなら届くと思ったのですか?それとも、ジョシュアが私に……その闇の、深い部分を教えてくれると、そう思ったのでしょうか?」
『両方です。……彼は、貴女に己の境遇を話しましたか?』
「いえ。……何も」
話さなかった、それは事実だ。だが、アシュリーもずっと知ろうとしてこなかったのも間違いのないことである。旅立ってからは聞きづらい、聞いてもいいのかという遠慮があったがそれまでは――興味さえ抱かなかったというのが正しい。
だから、彼が友人達に虐めを受けているかもしれないということにさえ気づいていなかった。彼女達の言葉も、ジョシュアの態度が悪いのだから仕方ないとさえ思ってスルーしていたのだ。
それこそが、人の偏見を無意識に浸透させ――差別を助長していくものであるというのに。
『ジョシュアは下層階級の子供です。……貴女も図書館でいろいろ調べていたのなら、もう予想がついているでしょう。黒髪黒目の子供は、ルナシルド信教では悪魔の子として忌み嫌われています。私達の生まれついた階級は、国王陛下と政府がそれぞれ基準に則って決めるもの。そしてこの国の国教はルナシルド信教です。……黒髪黒目であるという、それだけで下層階級に落とされた罪なき人々がどれほどいたか、想像に難くはありません』
やはり、そうなのか。アシュリーは唇を噛み締める。
信じたくなどなかった――髪の色や眼の色などという、本人にはどうしようもないことで、誰かを当たり前に差別するような行為がまかり通っているだなんて。
「確か、ジョシュアは天涯孤独だとは聞いていますが」
落ち着いた方がいい、自分。とりあえず魔導書を持ったまま、部屋に備え付けられているキッチンに立つことにする。通信魔導書を起動させたまま、新たに魔法を使うことは可能だったが――アシュリーは、どちらかというと自分の手で紅茶を入れることを好んでいた。茶葉の具合を眼で確かめて、香りで量を調整したいという拘りがあってのことである。
『そうですね。……彼は、娼婦の子供なのです』
カチャン、と。カップが大きく音を立てた。アシュリーが思わず手を滑らせそうになったからである。
娼婦。その二文字が、頭の中をぐるぐると回る。それがどういう職業を指しているか、知らないほど子供ではない。でも。
両親は忌み嫌っていた。この世で最も下賤で恥ずかしい女性だと、汚らわしいと蔑んでいたのをよく覚えている。見知らぬ男性相手に、身体を売ることで生計を立てている女性。恋人でもない相手に裸になって、女性としてもっとも恥ずべき場所を晒して性的交渉を行う存在。はっきり言って、アシュリーも――なんておぞましい、生理的にありえない、と思ったものである。
どうしてもっとマシな仕事を探せないのかと。
そんなことまでして生き恥を晒すなんて、そこまでして生きたいなんてありえない――と。
『客との間に出来た子供だったそうです。ゆえに、父親が誰かもわからなかった、と。それなのに彼女はジョシュアを産んだ。これは推測しかできませんが……恐らくは、避妊の方法も中絶の方法も彼女は知らなかったのでしょう。ジョシュアは言っていました。自分は愛されて生まれてきた存在ではなかった、と』
「そ、そん……なの……」
『有り得ないと思いましたか?気持ち悪いと思いましたか?……それが現実なのです。下層階級の人々は、そんな当たり前の倫理を学ぶ教育さえも受けられない。だから、過ちを繰り返す。文字さえも読めない女性に、出来る仕事などあまりにも限られたものだったのもまた事実ではあったのでしょう。……アシュリー。その産まれは、ジョシュアのせいでは断じてありません。それで貴女がジョシュアのことを気持ち悪いと思ったらそれはお門違いだ、ということはわかりますね?』
「……は、はい……勿論です」
アシュリーは全力で首を振った。自己嫌悪で死んでしまいそうになる。マチルダには見抜かれていたのだ。自分が一瞬でも――そうやって産まれてきたというジョシュアに対して嫌悪感を持ってしまったということに。
なんて最低なのだろう。
人を、生まれて差別するなんておかしいなんて――そんな綺麗事を言っておきながら。
『スラムで死にかけていたあの子を拾い、文字を教え、魔法のコントロールを教えたのが私です。あの子は私と出会った時にはもう、闇魔法を使えるようになっていました。……血だらけになるほど傷つけられなければ殆ど扱うことができないハズの、闇魔法を』
それがどういう意味かわかりますか、と。告げるマチルダの声が遠い。
想像すればするほどに、胸が痛くてならなかった。自分は馬鹿だ。――本当の、大馬鹿者だ。
『ここから先の話は、私の口から語ることはできません。……真実は、アシュリー。貴女自身の手で掴み取ってください』
「……はい」
悔しくて、情けなくて、苦しくて。アシュリーは滲みかけた視界を強引に、拭った。
渋くなってしまった紅茶を見つめながら、アシュリーはマチルダに、ニールを呼んで貰うように頼む。
今の自分に、友人に説教をするような権利などないけれど。それでも、少しでも近づくことができたなら――きっと何か、意味はあるはずである。
真実が遠いなら、追いかけるしかないのだ。それが出来る足が、自分にはまだ備わっているのだから。




