<第三十一話・黒い羊>
ジョシュアが魔法を使えるようになった経緯は、あまり思い出したくもないものである。
この世界は魔法文明として栄えているが、だからといって誰もがすぐに魔法を使えるというわけではない。魔法は、学問と同じ。知識を学び、実技を行い、正しく先人たちから教わることによって初めて使えるようになることが多いのである。ゆえに、そういった学校で学ぶ機会がない下層階級の者達には、魔法が使える人間は極端に少ない傾向にあるのだ。当然、魔力を使って動かす機械や道具の多くも、そういった者達には使えないということになるのである。
希に、産まれてすぐ魔法を使えるような天才児もいるなんて話を聞いたことがあるが、ジョシュアは勿論そんな人間ではない。むしろ、他の子供よりもずっと魔法が使えるようになるまでが遅かったと言っても過言ではない。
そう、チェルシーが死んでから。あっさりと死んでいった彼女と、彼女を救わなかった世界と――自分自身の無力を嘆きながら、それでもただ漫然と生きていくしかできなかったジョシュアが。その“仕事”が上級階級の一部に評価されるのと引換に、一部の下層階級や労働階級から妬みや嫉妬を買って評判を悪くしていった、その矢先に起きたある出来事がきっかけである。
いつもというわけではないが、それでも他の同階級の者達と比べればお金を手に入れられる機会も多く、運がよければ高級ホテルに一泊するような気分で貴族の屋敷に泊まりご馳走を食べさせて貰えることさえあったジョシュア。恐らく、一部の売春婦の女性達よりも多く稼ぎがあったことだろう(その分痛い思いは相当してきているわけなのだが。なんといっても、自由に痛めつけることができるから、という理由でジョシュアを買う者も少なくなかったのである)。気がつけば、ジョシュアは“快楽に溺れた汚れた子供”“金のためなら何でもする野蛮人”、周囲からそういう評価を受けて見下されるようになっていったのである。
かつては親しくしていた同年代の仲間達さえ、徐々にジョシュアから離れていったほどだ。ジョシュアは一人で過ごす時間が圧倒的に増えていった。いくら金が手に入っても、時々いい布団で寝ることができても、心はどんどん冷え切っていくばかり。――事件は、そんな時に起きたのである。
『お前、金が貰えるなら何でもやるんだろ?いいや、金さえどうでもいいんだよな、本当は慰めてくれる奴が欲しいだけなんだろ、この売女野郎!』
下層階級なのか、労働者階級なのかはわからない。確かなのは彼らが数人がかりでジョシュアを襲い、乱暴したあげくその時所持していた金の全てを奪おうとしたということである。
恐らく、彼らもまたこの歪んだ社会と――生きるに生きられない掃き溜めの生活に嫌気がさしていたのだろう。しかし、王族貴族に手を出そうものならば裁判さえ受けさせてもらえずにその場で“合法的に裁かれる”のは明白である。結果、彼らの怒りは自分達よりさらに弱い存在へと向いたのだ。あの時は本気で、自分は此処で死ぬのだと思ったものである。実際彼らは、ジョシュアが壊れようが死のうがどうでもいいと思っていたに違いないのだから。
殴られ、腕を折られ、足をナイフでずたずたに切り裂かれ、犯され、蹴られ、踏みつけられ。あまりの苦痛にいっそもう殺してくれと思ったその時――思い出したのは、チェルシーの顔だったのである。
――もう生きていたくないと思った。でも。……このまま死んだら、俺は、俺達は本当に……無駄死にで終わっちまうじゃないか。
誰にも覚えて貰えず、墓さえ用意されず、ゴミに塗れて死んでいく。そんな自分達の存在さえ知らず、今日も悠々自適に暮らして美味しいものを食べ、綺麗な服を着て馬車に乗っている連中さえいるのに。
その時ジョシュアを生かしたのは――紛れもない、闇だった。
負の感情が、憎悪が、怒りが――間違いなく、諦めかけたジョシュアに唯一生きる目的を与えたのである。そして、その瞬間爆発したその力は――ジョシュアを踏みにじっていた連中を生きたまま引き裂き、破裂させ、肉塊に変えたのだった。
それが、全ての始まり。
ジョシュアが闇魔法と、生き延びるための回復魔法を覚えた最初のきっかけ。そう、ジョシュアは確かに――魔王の予備軍ではあったのだろう。それも生贄として冤罪をかぶせられた魔王達とは違う、本当にこの世界を憎み、滅ぼそうとする本物の魔王の。
――マチルダ先生に救われた時も、最初は全く信じていなかった。あの綺麗な服を着て、いい生活をしている老婦人のことだって……いつ俺を好き勝手に利用して捨てるかわかったもんじゃないと思っていたのに。
きっと。何か一つ違えば、今の自分は此処にはいなかったのだろう。
勇者になるようにと言われた時も、望んでのことではない。魔王の事件について違和感を感じて調べていくうち、魔王ファウストの境遇があまりにも自分に似通っていることを知り――勝手な同情心と共感を抱いたのは事実だが、それだけだ。もし彼がアシュリーの説得を聞いても、娘のことを顧みず死ばかりを望む腑抜けなら、助けてやる必要はないかもしれないと思っていたほどである。
そして、アシュリー。彼女は。
――大嫌いだ。俺が無いものを、お前は当たり前に持っていて……それを見せびらかしていることにも気づいていない。
自分が恵まれて生きてきたという自覚もなく、綺麗事ばかり言うあの少女がジョシュアは大嫌いだった。何が、努力は全て報われる、だ。みんなと一緒にいた方が楽しいに決まっている、だ。もっと笑っていた方が素敵なのにそうしないの、だ。
何故考えない。努力だけで全てが変わるならば、何故階級なんてものがある?王族や貴族という名前で選ばれた者達は楽に飯を食い、下層階級に貶められた者達は総じて残飯さえも奪い合うような日々を過ごさなければならないのはどうしてなのか。
みんなと一緒にいた方が楽しい?――そのみんなが、ジョシュアのことを差別して嫌っているとは思わないのか。
もっと笑っていた方が素敵?――笑えないような苦悩や苦痛があるとは、何故考えようとしないのか。
そんな彼女と勇者として組まされると知った時は、正直“何の冗談だ”と思ったものである。それでも、マチルダ直々の指名とあれば断るわけにもいかない。どうせこれも仕事の一つと割り切って、仕方なく彼女との旅を了承したに過ぎなかった。この一件さえ終われば、それでバイバイになるだけの関係に過ぎないのだからと。でも。
『この世界は、正しく歪んでいる。貴方と出会って、現実を見て、私はそれを確信しました。こんな世界は、間違ってる。同じように産まれた筈なのに、階級と見た目という……本人にはどうしようもないことで当たり前のように差別して、それに罪悪感さえ抱かない。そんな世界は、変えなければならない……違いますか』
『生きてください、どうか。……これからは、私が。貴方の剣にも盾にもなります。私が絶対に、貴方を守るから……!』
『約束が信じられないというのなら、信じなくても構いません。ただ私が、他ならぬ貴方と私自身に誓うというだけです。……私は貴方を守って、自分も生きる。けして、貴方のために死んだりなんかしません。私は貴方の心まで、きっと守ってみせると誓います。ですから。……信じなくてもいいから。怖くなったらその時はいつでも、その気持ちを吐き出しては頂けませんか』
綺麗事だけの少女は、光だけが全てを救うと思い込んでいた盲目なお嬢様は――少しずつ、変わっていった。
ジョシュアとてわかっていたのだ。彼女が恵まれた家庭に産まれたからといって、それは彼女の罪ではないということを。そして、きっと彼女も彼女で、厳しい家庭ゆえの苦悩はきっとあったはずだということも。
それでも許せなかったのは、彼女が知ろうと思えばできたはずのことを、知らずにいたからで。
それを知ろうと努力し、ジョシュアに歩み寄ろうとする彼女はもう、自分が憎んできた貴族でもなければ偽善者でもなくて――だから。
――嫌いだ。……今だって、それは嘘なんかじゃない。だってお前は。……俺にはないものばっかり、持ってるんだから。
アシュリーは、集まってきていた魔法学校の者達を前に、必死で自分の考えを訴えかけ続けている。眩しいと思えば思うほど妬ましいのに、今はそれだけの感情ではない気がするのはどうしてだろう。
彼女の一生懸命さが――裏切られて欲しいだなんて、思えないのは、何故。
――本当に馬鹿だよなお前。ちゃんと後先考えてるか。国王陛下に楯突くようなことを言ったら、いくらお前の家が侯爵でもどうなるかわかったもんじゃないぞ。お前の家族だって、路頭に迷うかもしれないんだぞ。……それなのに。
本当は、もう答えは出ているのかもしれない。
だって産まれて初めてだったのだから。――ジョシュアを守って、そして――共に生きてくれると、そう約束してくれた人間は。
「神を信じさせるために……人間の手で魔王を、悪魔を作り出すだなんて!それが、神への冒涜でなくてなんだというのですか!それが貴方がたの信じる神が、本当の望む平和だと本気でお思いなのですか!?」
魔王の親子を背に、アシュリーがそう叫んだ瞬間。あたりはしん、と静まり返った。
それはきっと、ルナシルド信教を信じる者であっても――むしろ、信じる者達だからこそ感じていたはずの違和感だろう。神の息子であるはずの王族が、悪魔を作り出して人々を苦しめるなど。そのために、無辜の人々を大量に殺して回るなど――そんな事が、正しい筈はないということくらいは。
知っていても、きっと誰も声を上げることはできなかった。
王に逆らっては生きていけないことを知っていたから。同時に、王を否定することで、自らが信じてきた神の教えに背くことになるのではないかと、それが何よりも恐ろしかったから。
今問われていること。アシュリーが問いかけていること。それはこの世界は本当に、神と悪魔が両立しなければ救われないものであるのかということ。
勇者を作るために魔王を生み出す行いが、誰かを犠牲にしなければならない世界が――真の平和と呼べるものであるのかということだ。
真摯な信者達と、罪の意識をどこかで感じていたのであろう無宗教者達が沈黙する中――引きつった声を上げた者が、一人。
「だ、だ……黙れ!」
教員の一人、ドナルディオ。教員達の中でも最も狂信的なルナシルド信教の信者と呼ばれていたその男は、禿げ上がった頭の先までを紅潮させて怒鳴った。
「我が神の教えは正しい……国王陛下こそ、その神の息子の一族であるはず、ならば国王陛下にもまた間違いなどない……あるはずがない!悪魔に誑かされた背教者め、お前の言葉など誰が聴くか……聴くものかああああ!!」
激怒し、錯乱した男が杖を振り下ろし呪文を唱えると、勢いよく火球がアシュリーに向けて飛んでいった。力任せのその魔法を、アシュリーは身をかがめることによって回避する。しかし。
その火球が逸れた先には――古城の塔が。
大きな爆発音と共に、魔法は塔の上部に激突し、ボロボロの石壁を派手に叩き壊したのである。そして。
――塔が、崩れる……!
大きな瓦礫の山となった塔の断片が、落下していく先には――魔法を避けて体勢を崩していた、アシュリーの姿が。
「アシュリー!!」
その時。ジョシュアの足は――考えるよりも先に、動いていたのだった。




