<第二十九話・ハッピーエンドは何処に在る>
「私の望みは、最初から一つだけだ」
ファウストは静かに、己の境遇を語り終えた。
「ご覧の通り、私の命はもう長くはない。だが、娘は違う。……アンジェリカの身の安全と、人としてのまともな生活の保証。私が望むのは、もはやそれだけだ」
アシュリーは言葉も、出ない。彼は自分が経験した“地獄”に関して、多くの言葉を濁した。容易く語れるようなことではなかったのだろうし、あるいは幼い娘の手前端折らざるをえなかったというのも恐らくあるのだろう。
そこにあったのは、自分が今まで想像さえできなかった過酷な世界。
一体誰が言っていただろう――地獄に悪魔はいない、本当の悪魔は全て人の顔をして地上に居座っているものだ、なんて言葉は。どこかの映画であったのかもしれないし、本だったかもしれない。あの時はそんな筈がないと当たり前のように笑って流したその台詞の意味が、今ならば分かるような気がするのである。
「傷の治療を……」
「そんなもの、してどうする」
ジョシュアが提案する言葉を、ファウストはやんわりと断ってきた。
「怪我は直るかもしれないが、私の不調の半分は病のせいだ。少しばかり余命が延びるかもしれないが、それだけだろう。何より……仮に生き延びたところで何の意味がある?私は魔王だ。世界がそう決めたのだから仕方ない」
「パパ!」
「その子はどうなる。父親のお前が、大人になるまで守ってやるべき存在じゃないのか」
そうだ、とアシュリーも頷く。その小さな手と、素質はあるもののまだ拙い魔法で必死に父を守ろうとしているその少女は。アンジェリカはどうなるというのだ。こんなにも父親を大事に思ってくれているのに、彼女を置いて独りで逝ってしまうなんて――本当にそれでいいというのか。
「アンジェリカの未来のためだ。私が生きている限り、この子は魔王の娘以外の何者にもなれない」
男は痩せ細った手で、それでもすがり付く娘のボサボサの髪の毛を撫でる。
「だが私が死ねば……少なくとも今は、今ならばこの子はやり直せる。身分を隠せば、普通の人間として生きることのできる未来もあるかもしれない。政府も私が死ねば、魔王の討伐は成功したとして最低限の大義名分は成り立つ。何の罪も犯してない、小さな少女まで捕まえて殺すような真似をする必要はなくなるはずだ」
「いやだ!パパだって、なんもわるいことしてないじゃない!!」
父の言葉に、食い気味に叫ぶアンジェリカ。
「パパは、こまってるひとを助けただけでしょ!?たいへんだけど、それでもママとアンジェをまもってくれて、がんばっておしごとしてただけでしょ!?それなのにとおくの町にむりやりおいやられて、町の人にわるいことをしたはんにんにされて……そんなのぜったい、おかしい!パパがしななくちゃいけないりゆうなんてないよ、あるわけないよ!アンジェはいやよ、パパがいなくなったらやだよぉぉ!」
気丈に見えた少女の、年相応の悲痛な声。当たり前のことだ、とアシュリーは思う。母親が早くに亡くなったからこそ、彼女にとってたった一人の肉親がどれほど大切な存在であることか。
いや、そうでなかったとしても、だ。
両親がよほどの毒親でなければ――そこに大きな確執がないのなら。子供を親が本気で守りたいと願うように、子供が親と生きていきたいと願うことの何が罪であるだろう。父親に死んでほしくない、そう叫ぶ気持ちは貴族でも下層階級でもなんら代わりはないはずである。それなのに。
――それなのに……この世界は当たり前のように、そこに差をつけて嘲笑ってきたんだ。
愛する人を守りたい。愛する人と共に生きていきたい。
人間ならば誰しも当たり前であるはずなのに、何故彼らにはそれが許されないのだろう。この世界を保つための生け贄に差し出されて、それがお前の運命だから諦めろと押し付けられる。毎日美味しいご飯を太るまで食べて、温かい風呂に入ってベッドで眠り、嵐の夜は頑丈な家に当たり前のように守られている人達が。己の手を汚すことも、汗水垂らして働くこともしないような者達が、特権階級だというそれだけの理由に胡座を掻いて、努力して人が積み上げてきたものを壊していくのである。
許されるはずが、ない。
そして自分が本当に知るべき真実がこれだったのだと今ならば分かる。アシュリーの手はジョシュアとは違う。汚れたこどなければ、傷ひとつない手だ。マチルダの危惧は当然だろう。――人の闇を知らぬ者が、どうして誰かの闇に手を伸ばすことができるだろうか。
――確かに私は、まだ自分自身できちんと苦しんだことはない。でも。
ちらり、とジョシュアを見る。自分の手は綺麗なままかもしれない。彼らの苦しみを正しく理解できたなどとは思えない。でも。
彼と出会う前の自分には見えなかったこと。想像さえ出来なかったことが――きっと今ならば分かる筈なのである。
愛が見えない真実はきっと今――此処に、ある。
「きっと、歴代の魔王の全てがそうだった。そういうことなのですね」
拳を握りしめ、アシュリーは口を開く。
「魔王の正体。それは、この世界が平和を保つために用意された生贄。治世と、特権階級への不満をよそに向けさせるため……王族貴族、庶民の共通の敵として用意されたのが魔王だった。選ばれるのは、労働者階級以下の……政府にとって不都合な思想を持つ人間か、聖書において悪魔の子とされる黒髪黒目の人間」
「そうだ。魔王が犯したとされる犯罪は全て、国王軍が仕組んだものだ。姿を隠して魔法で町を壊滅させたか、あるいは爆弾でも仕掛けたか。……王都でなかったのはそのためだな。しかも辺境の町の中でも、レジスタンスが潜む可能性の高い町や、住人が政治に対して反抗的である町がターゲットになっていた。魔王に罪を着せて、さらに不都合な奴等を町ごと消してたってわけだな」
「ええ。……そして、これらの真実は。魔王と直接対峙することになる勇者には、高い確率で知れることでもあります」
ずっとアシュリーがわからずにいた、選ばれし勇者が課された本当の仕事と、その意味。
何故毎回、強大な力を持つはずの魔王に勇者はひとりきりで勝利できるのか?簡単だ。新聞で連日報道されるような、凶悪な魔王なんて何処にもいないからだ。いるのは国王軍に追い詰められて、手傷を負っているであろう普通の人間。勇者として選ばれるような――魔法学校のエリート卒業生が、遅れを取るはずがないのである。
そして何故勇者は一人で、しかも能力以外に選抜理由があったのか。それは。
「勇者は厳選されて一人きり、そう定められてきた。それは真実を知った勇者が……魔王の側に立つことを防ぐため。……そうなのですね?」
正義感の強い人間が集まる傾向にある魔法学校だ。魔王の言葉に道を貸さずに切り捨てる者もいるだろうが、多くの勇者達は魔王の話す真実に同調し、この世界の悪しき風習を知って愕然とすることだろう。罪なき魔王を救いたいと思う者がいても、なんらおかしくはあるまい。
でも。それは政府にとって、あまりにも不都合なこと。自分達に代わって罪人を裁いてくれるはずの勇者に寝返られてはたまったものではあるまい。だから。
勇者は、一人だけ。同調しにくいであろう、裕福な家庭の人間であり――政府がいざという時、人質に取ることができる“家族や恋人”を持つ人間ばかりが選抜されてきたのである。
だから、勇者が二人になることも、そこに下層階級のジョシュアが含まれることも反対されたのだ。魔王に同調しやすい上、ジョシュアには人質として取れる人間がいない。何より、この国に少なからず不満あるであろう黒髪黒目の下層階級の子供だ。それこそ何かが違えば、魔王に仕立てあげられる側であったはずである。
アシュリーこそが、勇者という名の――ハリボテの救世主として相応しい存在だった。貴族の娘、綺麗事ばかりを信じる娘、家族がみんな存命であり、かつ皆の人望も厚い娘。魔王が倒された後にもそういう人間には仕事がある。勇者として、いつまでも悪の魔王を倒した正義の味方として愛され、祭り上げられるという仕事が。誰もが思い描く、理想のヒーローとしての振る舞いが。
――そう……それに耐えられなかった勇者は、戦うことなく任務から逃げ。あるいは自殺した……!
そして恐らく、この古城を包囲しているであろう魔法学校の援軍達に課せられた仕事は。アシュリー達を助けるため等ではけしてない。
万が一の時、魔王を代わりに討伐し――あるいは勇者が不都合な行動を取る前に阻止するのが彼らの仕事なのである。そう、魔法学校は長年そうやって――勇者を育て、バックアップするという名目で、この世界の偽りの平和の片棒を担いできたのだ。
「ファウスト。……それから、アンジェリカ」
もう逃げない。アシュリーの心は、既に決まっていた。
この真実が有り得るかもしれないと気づいた時にはもう覚悟していたことだ。
綺麗事だけで、世界は救えない。そして誰かがいなくていい世界に――意味などないのだと。
「私は、貴方達が想像している通り……貴族の娘として生まれました。明日のご飯に悩むことも、雨風を凌ぐ場所を探して走り回ることも……人を殺すことも、身売りをすることもしたことはありません。魔王は真の悪で、勇者は真の正義。この国の政府がやっていること、その政治に間違いはないと信じ……この世界は平和であると思い込んでいた、貴方がたが一番嫌う人種だと思います」
ぎゅ、と父親の服にしがみつくアンジェリカ。彼女の髪を撫でる権利など、自分にはない。アシュリーはそれを誰よりもよく理解していた。
確かに自分が幸福な生まれであったことは、アシュリーが選んだわけでもなければ誰かを蹴落として得たものでもない。それそのものは罪ではないだろう。でも。
目の見えるものをそのまま信じ、苦しむ人たちの存在から目を逸らし――彼らが救われないのは努力が足らないせいだと、誰もが幸福になれる道を用意されているはずだと盲目に思い込んできたのは。傷ついている誰かの声を、理解する努力を怠ってきたのは。
それは紛れもなく――アシュリーの罪であるはずなのだ。
「いつも灯りがついた部屋で、高級な自分専用の机で本を広げて……好きな物語を好きなだけ読んでいました。魔王を退治する勇者の物語は、上級階級の間でも人気がありまして……なんどもオマージュされた話を読んだものです。結末はいつも決まっていました。正義の勇者に悪の魔王が倒されてハッピーエンドになるんです。何故魔王が世界征服を目論んだのかも語られず……魔王が死んだと、当たり前のように人々が喜んで終わるんですよ」
恐ろしいことだ。
自分は今まで――そんな物語に違和感を感じることさえなかったのだから。
「“人を殺してはいけない”。学校では当たり前のようにそう教えるのに。……どうして魔王だけは違うのでしょう。魔王だけは、殺されて当たり前なのでしょうか」
魔王だけではない。
この世界は、当たり前のように命に順位をつけている。
下だと決めつけられた者には、与えられた己の命をまともに守ることさえ許されない。殺してはいけない、なんて道徳を語りながら。差別や偏見で、どれほど罪なき人達が地獄に突き落とされてきたことだろうか。
「勇者も魔王も救われてハッピーエンドになるのでは、どうしていけないのでしょう?誰かが犠牲にならなければならない世界なら……そんなもの、私は要りません」
誰かを踏みつけ、貶めなければ手に入らない幸せに――一体何の意味がある?
「ファウストさん。……貴方の、娘さんを守りたいという覚悟はご立派です。しかし貴方がここで死んて、娘さんを本当に守れたことになりますか」
「何……?」
「どれほど偽っても、彼女が貴方の娘である事実は変わらない。彼女もそれを望んでいる。そして、本当の貴方は人々を苦しめた魔王などではない。……一時守ったところで、娘さんが次の代の魔王にされてしまってはなんの意味もありません。そして、それ以外の誰かが魔王を押し付けられても同じ。貴方が罪を背負って死んで、果たして世界は変わりますか」
「……!」
目を見開くファウストとアンジェリカに、アシュリーは微笑みかけた。
「私達が手にするべきは……勇者も魔王も要らない世界です。立ち向かっては頂けませんか。私達と、一緒に」
さあ、世界を動かしに行こうか。




