<第二十八話・賢者の真実>
ファウストにとって、人生の唯一の幸福は――家族に恵まれたことであっただろう。
下層階級では珍しく、物心つく時までファウストには両親が生きていた。否、ファウストは元々は最下層ではなく、一つ上の労働者階級であったのだ。両親は傷だらけの手をしていたし、いつも疲れきってはいたが――それでも、借家とはいえ家があったし、毎日それなりに食事をすることもできていた。二人は必死になって長時間働き、我が子に精一杯の愛情を注ぎ、育ててくれたのである。
『いいかい、ファウ。この世界に理不尽なものはたくさんある。誰だって生まれる場所を選ぶことはできない。それでもな。レンガの狭い隙間だって、花は咲ける。幸せになることができるんだ。父さんと母さんが出会って、お前を得ることができたようにな』
頭を撫でながら、優しい声で言ってくれた父。その言葉が、どれほどファウストにとっては宝物であったことか。玩具の一つもなく、本の一つも買ってもらえなかった幼少時代。それでも不満だと、自分は恵まれていないと思ったことは一度もなかった。早く大きくなって自分も仕事に出たい、両親を楽にさせてやりたい。願っていたのは、ただそれだけである。
そしていつか。自分も、二人がしてくれたように――温かくて、優しい家庭を築きたい。
ファウストはそんなささやな夢を抱きながら育ち、十三歳以降は両親と同じ工場で働けるようになっていた。仕事は厳しいし、工場長は本当に厳しかったが。それでも働けば、きちんとごはんを食べられるお金を稼ぐことができる。屋根の確保さえ困難な者達が溢れているこのご時世、これで足りないなどと言ったらバチが当たるというものである。
だが、ファウストが十五歳になった時――悲劇は、起きた。
ファウスト達が住む宿屋は、スラム街のすぐ近くにある。ある日、買い物から帰ろうとしたファウストの耳は少女の悲鳴を聞きつけた。慌ててそちらを見に行けば、足をくじいたらしい少女が半べそを書きながらレンガの道でうずくまっているではないか。
ファウストと同じ、黒髪黒目の少女だった。幼い乳房まで見えそうなほど破れた布切れを纏っているだけの、とてもみすぼらしい汚れた少女。下層階級の娘であることは明白で、その少女に対して馬車に乗った特権階級の男が怒鳴り続けているのである。
『貴様あ!クズの分際で、私の道を塞ぐとは何事か!道を開けるどころか邪魔をして、あわやお前の汚い血で私の馬車が汚れるところだったではないか!』
つばを飛ばして怒鳴る男は、少女とは真逆の容姿と雰囲気。ピカピカの黒スーツは、男の贅肉ではちきれんばかりになっている。毎日美味しいものを贅沢に食べて、自分の足で走り回る必要も汗水垂らして働く必要もない貴族の象徴のような男だった。
しかも、彼が怒っているのは少女を殺しそうになったことではない。殺したせいで、己の馬車が血肉で汚れることの方を危惧しているというのだから――全く救えない話ではないか。
『ほら、さっさと誠意を見せて謝ったらどうだ!それとも、貴様この私に歯向かうつもりか!私は男爵であるぞ、貴族であるぞ!!』
男爵なんて、貴族の中では一番下の階級じゃないか。なんてツッコミを入れられる人間は、その場にはいなかった。同時に、泣きじゃくる少女に駆け寄ることの出来る者も。
彼女はまだ五歳か六歳か、とにかくその程度の年齢であったことだろう。男の言葉を理解していたはずだが、だからといってすぐに動いて跪けというのはあまりにも酷な話だった。彼女の足は紫色に腫れ上がっている。くじいたどころか、骨折していたとしてもおかしくない。彼女はその激痛に耐えて涙を零すだけで精一杯で、謝罪を口にするだけの余裕など微塵も持ち合わせはいなかったのである。
だがそんな少女の状況を鑑みてくれるほど、目の前の男爵に慈悲があったなら――そもそも馬車の前に飛び出したというだけで、こんなにも激怒することなどないのである。
男は顔を真っ赤にしながら、鞭を取り出すと少女に向けて振り下ろそうとした。あんなもの、あんな小さな女の子が受けたらひとたまりもないではないか!
『お待ちください!』
もし、ファウストが少しでも後先を考える人間であったなら。あるいはもっと、自分自身の人生を生きるだけで手一杯の人間であったなら――何かは変わっていたのだろうか。
気がついた時には、身体が動いていた。ファウストは飛び出すと、少女を庇っていたのである。
『大変申し訳ありません、貴族様!この子には、私からよく行って聞かせますので!私が代わりにお詫び申し上げます、本当に……本当にすみませんでした!罰なら私が代わりにお受けしますので、どうか!』
がっしりした体つきでもなかったし、体力にさほど自信があるわけでもなかったが。それでも、ガリガリにやせ細った少女よりは、十五歳の男である自分の方が遥かに頑丈なのは間違いないことだろう。ファウストは少女の頭を地面にこすりつけるように下げ、許しを請うた。はっきりと明言したわけではないが、それでもこの子の兄か何かだと勘違いしてもらえることを期待して。
すると男爵は、不快げに鼻を鳴らして言ったのである。
『ダメだ!そのクソガキは、私という貴族の神聖な道を邪魔し、あまつさえその汚れた悪魔の血で私の馬車を汚そうとしたのだ!これを教育してやることこそ我々貴族の務めであると聖書にも書いてあるぞ!鞭打ち百回だ、そこに二人して直れ!!』
『貴族様!私はともかく、この子はそのような仕打ちを受けたら死んでしまいます!!』
『黙れ黙れ黙れい!そのような無産階級、しかも悪魔の子など!死んで何の問題があろう?いずれ魔王になるかもしれぬ者だぞ、死ねば世界のためになるだけ、ゴミが一つ片付くだけ!何の問題があるといのだ、ああ!?』
その言葉に。元々気が長い方ではなかったファウストの――堪忍袋の緒が、切れたのだった。
『……死んで何が問題がある、だと?』
どうして、と。この時初めて思ったのである。そしてそれまで、正しく思って来なかった己を心から恥じたのだ。
だから。あの時の己は浅慮だったと反省しながらも、ファウストは――今でもなお、あの時自分が言った言葉を後悔したことはないのである。むしろけして、後悔してはならない言葉だと思っていた。
自分何も、間違った事など言っていないはずなのだから。
『人の命は皆平等だ!この子に悪魔の子というレッテルを貼り、魔王の予備軍だと決め付ける権利が一体誰にあるというんだ!国王も、貴族も、庶民も、スラムの子供達もみな命の重さは平等だ。そこに差をつける権利など、神にだってあるはずがない……撤回しろ!!』
ゴミだなんて。そう呼ばれて、道端の石ころを蹴飛ばすように壊される命などあっていいとは思えなかった。
そんな世界など、それが正しいなど――許されていいはずがないと、ファウストは心からそう思ったのである。
――その後のことは、あんまりよく覚えていない……。
激怒した男にさらに鞭打たれて、両親が飛んできて、通報されたせいで警官も飛んできて――そのあたりの記憶が飛んでいる。頭を打ったせいだろう。少女が無事に逃げられただろうか、とか。両親に対しては申し訳ないことをしてしまった、という気持ちはあったけれど。覚えているのはただ、それだけのことである。
気づいた時には留置所の中で、ファウストの世界は一気にひっくり返った後だったのである。
『お前は神聖なる神と、神の息子である国王陛下を侮辱し、神聖な使徒たる貴族に労働者階級の分際で歯向かった。もはや二度と、陽のあたる場所を歩くことなど出来ないと思うがいい』
冷徹に言い放つ警官。あれよあれよという間に、裁判など一度も開かれることもなく――ファウストの刑は決まっていたのである。
送られたのは、少年刑務所とは名ばかりの、国の調教施設だった。反抗的な少年達を、拷問めいたやり方で痛めつけて洗脳する施設である。同時に、教育するという名目で――刑務官達の歪んだ欲望を発散するための掃き溜めのような場所という現実もあった。そんなことなど全く知らず、不敬罪や反逆罪なんてとんでもないと言い募るファウストは投げ込まれ――それから五年間。今、思い出すだけでも震えが止まらなくなりそうである。
死にたくなければ、何でも言うことを聞けと言われた。
呼び出されたら三分以内に部屋まで来い、来なければもっと酷い罰を与えると脅された。
罰――一番最初に抵抗した新人が、見せしめのように殺されたからよく知っている。磔にされ、全身が紫色に腫れ上がるまで殴られた後、指を一本ずつ切り落とされていくのである。囚人は、ずっと泣き叫んでいた。いっそ早く殺してくれと泣いても、誰もその希望を聞いてくれる者はいなかった。両手両足の指を切られても死ぬことができなかった少年は、最後は刑務官達にかわるがわる暴行を繰り返され、苦しみのたうちながら死んでいったのである。
他にも、見せしめで残酷な死に方をさせられた者ならばいくらでもいた。
毒虫の海に落とされた者もいた。性器を剣山にされた者もいた。生きたまま眼を潰され、鼓膜を貫かれた者もいた。排泄物の海に投げ込まれた、なんて者もいたように思う。
そのような目に遭いたくなければ、ひたすら刑務官の機嫌を取り続けるしかない。性的な、物理的な、精神的な虐待がどれほど酷くても――耐え続けるしか、術はないのである。
たまたま顔立ちが整っていたことから、刑務官に気に入られて他の者よりはマシな扱いを受けられていたファウストでさえ、その場所は地獄以外の何物でもなかった。そして。
五年の刑期を終えてやっと出所したファウストを待っていたのは――自分を助けようとして両親が処刑され、己も降格刑になっていたという現実だった。ファウストは家族も、帰る家をも失ってしまったのである。
――もう、私には……生きていくための希望もない。意味もない。……どうして、私だけが、このような無様な有様で生きているんだろう。
死ぬようにスラムをさまよっていた時。そんなファウストを救ってくれた女性がいたのである。
マリアンヌ。彼女がいなければきっと今、ファウストは此処にいない。
『しっかりして!……貴方は何も、悪いことなどしていないんでしょう?なら、胸を張って堂々と生きることの、何がいけないっていうの!?』
彼女はファウストに希望と――そして、アンジェリカを与えてくれたのである。
愛しい妻と娘の存在が、ファウストにとっては唯一無二の生きる希望だった。彼女達さえ守れるのならば、今までの苦悩の歴史さえも耐えて、未来を生きていけるのではないかと思ったほどに。
でも。
――世界は私から彼女を奪い、そして……アンジェリカをも、奪おうとしたのだ。
己が生贄の羊に選ばれたと知った時、ファウストに出来たことはただ一つ。愛しい娘の手を引いて、全力で逃げることだけだったのである。




