<第二十五話・耳の奥の泣き声>
その時、マチルダはナスカの森の古城を包囲するメンバーの一人として、その場所にいた。
アシュリーとジョシュアは、外壁を伝って塔の上から侵入するという手段を取ったらしい。確かに、罠が仕掛けられているのが事前にわかっている以上、正面突破という選択肢はないのだろう。瞬発力や俊敏性、魔力の高さではジョシュアが上だが。スタミナ、腕力、頑丈性ではアシュリーが上回っている。これがアシュリーだけだったなら、彼女は真正面から突撃することを厭わなかったかもしれないが――彼女は万が一のことがあってはならないと、パートナーのことも考えて遠回りを選んだのだろう。
優しい子ではあったのだ、元々。
ただ少々盲目であることと――厳しい教育がやや裏目に出てか、まるで反発するようにショートカットを取りたがる悪癖が出ることがあっただけで。己の世界と、他の誰かの世界の違いを、長らく理解することが出来なかっただけで。
――それはけして。アシュリーだけが、悪いのではないのですけどね。
子供にとって親は絶対だ。その親が、傍目から見ても信用ならないような反面教師であったならともかくとして――そうでなければ、親が言う言葉を絶対のものとして信じてしまうのは、なんらおかしなことではないのである。
アシュリーの親は、ルナシルド信教の信者ではなかった。しかし、それでも上級貴族として、国の方針に無意識に従い、それが安全だと信じてきたという経験はある。国のやり方や国の考えに下手な反発をすれば、自分達が長年守ってきた家が名誉を奪われてしまうこともある。それは、己だけの問題ではない。先祖に申し訳ないと考えるのもなんらおかしなことではあるまい。
ゆえに。最も楽なことは、国の方針に反発する考えさえも排除すること。それが絶対に正しいと盲信すれば、それ以上に楽なことなどないのである。そうやって彼らは家を守り、家族を守ってきた。勇者になり、世界に仇なす敵を倒すのは最高の栄誉である――そうアシュリーが教え込まれ、本人もそう信じてしまったことを、一体誰が咎められるというのだろうか。
貴族は貴族。国に選ばれた特権階級は、それに相応しい所作と品性を求められる。その期待を裏切れば失望され、家そのものの信頼を失うこともある。その現実を知っていれば、両親がアシュリーを他の階級の者達に近づかないようにとそれとなく配慮をしたのも、彼らは不潔だから、関わるべきではないから――と遠ざけたこともそうそう責められることではない。それがアシュリーの将来のためと真剣に信じていたのだろうから尚更だ。
ゆえに。それでもなお彼女がジョシュアときちんと接して、己を省みることができたのだとしたら。それは、彼女自身の心が清らかであったからに他ならないのである。
人は、光だけでは生きてはいけない。
闇があるからこそ、誰かの苦しみを理解して寄り添い、共に歩いていく道を探すことも出来るのである。
この戦いがどのような結末を迎えたとしても――必ず、アシュリーにとって意味あるものとなるはずだ。勿論、ジョシュアにとっても同様に。
『どうして俺を助けるんだ……?』
今でも思い出す。
あの雨の日。ずぶ濡れになって、それでも差すべき傘も持っていなかったジョシュアが、虚ろな眼で自分を見上げてきた時のことを。
『汚いだろ、俺』
もう二度と言わせてなるものか。あの時、マチルダは誓ったのである。
もう絶対に言わせない――そう思わせたくない。己が汚れているなんて、生きている価値もないなんて――彼に、絶対。
だからマチルダは、アシュリーとジョシュアを選んだのだ。
きっとアシュリーならジョシュアを救ってくれると、そう信じて。
「マチルダ先生」
がさり、と隣の繁みが動いた。同じく潜伏していた教師、モニカだ。
「先に言っておきますね。私、マチルダ先生のことは尊敬していますわ。今回の援護部隊に私を選んでくださったのは本当に光栄だと思ってますし、昔から本当に世話になってますし」
「あら、ありがとうモニカ先生」
「そう、マチルダ先生に憧れて私も教員になったんですから。……でも。今回の件に関しては、本当でこれでよかったのかしらって。そう思わずにはいられないんですよ」
焦げ茶の髪を苛立たしげになぶりながら言う彼女。マチルダとは親子ほども年が離れている彼女は、魔法学校の昔の教え子でもある。子供の頃はあまり器用ではなくて、特に回復魔法があまりにも苦手で失敗しては泣いていたくらいの気弱な娘であった。そんな彼女がマチルダに恩義を感じて、魔法学校の先生を志して合格してくれたことは――マチルダにとっても喜ばしいことである。
彼女は勇者にはならなかったが、それでも教員として、劣等生であった己を思い出すように生徒達に寄り添う、心優しい先生になってくれた。その彼女が何をこんなにも怒っているのか。わからないマチルダではないのである。
「私は平気ですよ、モニカ」
だから、マチルダはできる限り穏やかな声で言うのだ。何も心配することなどないのだ、と。
「何が平気なんですか、何が!」
そんなマチルダを、キッと睨み付けてくるモニカである。
「今回、例外的に勇者を二人にしたのもジョシュアを選んだのも!他の先生を説得して押し通したのはマチルダ先生でしょう!?政府に一切話を通さずに決めたせいで、上がカンカンに怒ってるって私が知らないとでも思ってるんですか!?最低でも懲戒免職、下手をしたら反逆罪で実刑がつくかもしれないって聞いてます。どうしてマチルダ先生が犠牲にならないといけないんですっ!?そんなのおかしいわ!!」
「そう、私がやったことが反逆罪になることそのものがおかしいのです。私は勇者を二人にした方がいいと、その片方を下層階級の子供にするべきだと言っただけだというのにね。……それがこの世界の歪みであり、過ちであること。貴女も知っているでしょう、モニカ」
「わ、わかってます!わかってますけどっ……」
勇者が優秀な生徒でなければならないのは、当然魔王を討伐するのに十分な力量を備えていなければならないからで。
勇者が上級階級であるべきなのは、階級が高い人間ほどこの国に忠実であるからで。
天涯孤独ではない者を選ばなければならないのは、そういう人間には守るべきものがあるからで。
そして、勇者を一人しか選ばないのは――真実を知った勇者が、政府に結託して牙剥くことを防ぐためというわけで。
「私は自らが勇者となった時……そして、魔王の前に立った時。己が信じてきた世界がどれほど過ちだらけであったかを知り、絶望しました」
今でもマチルダは思い出す。
マチルダが対峙した魔王は、赤い髪の女性だった。
そして――大きなお腹を抱えて、陣痛に苦しんでいたのである。
『お願い……っ!お願いします。私は殺されてもいいの、だから……この子は、この子の命だけは、助けてえぇぇっ!!』
その時、マチルダは真実を――知った。目の前の女性を救う道がないということも、己に出来ることがどれほど限られた手段であるということも。
魔王に子供がいるかもしれないという情報は入っていたが、まさかまだ産まれていない――妊婦であるとは予想していなくて。それでも目の前の彼女を救うために出来ることが、マチルダには何もなくて。
マチルダは、目の前の女性が子供を産むまで――その時間だけを待った。援軍として来ていた者達を説得し、土下座をして頼み込んだのだ。魔王は裁かれなくてはならない運命だとしても、その子供にはなんの罪もないのだからと。
そして、マチルダの助けを得て彼女は子供を産み落とし――そのまま、マチルダが止めを刺すまでもなく、事切れたのである。マチルダは泣きながら、彼女が産んだ黒髪の子供を抱えて援軍達のところに戻ったのだ。ところが。
『黒髪か。……そいつ、目も黒いんじゃないだろうな?』
その時。魔法学校の援軍を率いていた校長は、ルナシルド信教の敬虔な信者だった。そして、呆然とするマチルダから赤子を奪い取ると、無言で言いはなったのである。
『魔王の子だというだけで災厄の種だというのに……それが悪魔の子であったなら論外だ。この子供の眼が黒かったら、その場で処刑するしかあるまい』
この世界に、本当の意味で神様なんてものはいない。
まだ十八歳の子供であったマチルダに、そして家族という名の人質がいた少女に――出来ることは、何も無かった。
『待って……ねえ待って!お願いします、やめてください!その子は……この子は彼女が、命懸けで産んだのに!その子は何も悪くないのに!!』
手を伸ばし、泣き叫び、もがくマチルダを抑え込むいくつもの手、手、手。
『やめて、おねがっ……やめてえええええええええっ!!』
その子供がどうなったかを、マチルダは知らない。
黒髪黒目であったなら殺され、そうでなくても魔王の子として下層階級に捨てられただろうことは想像に難くない。まともな人生など無かったであろうことは明白である。
どうして救えなかったのだ、とマチルダは己を責め続け、悔やみ続けたのである。何もかも知っていたのに、彼女から託されたのに――自分は何故、たったひとつの命さえ守ることが出来なかったのかと。
勇者の中には、任務の後に自殺した者もいたという。
マチルダもそうしてしまいたいと、何度そう思ったことだろうか。しかし、あと一歩のところで思い止まってきたのは。己が死んだところで、この世界には傷ひとつつかないことを知っていたからに他ならないのである。
「あの時にはもう、死にたいと思っていたこの命。……今度こそ、世界を変えるために使えるのなら……何も惜しくはありません。校長やカノン先生も同じ気持ちだったからこそ、私を支持してくださったのですよ」
歪んだ歯車を正しく戻すため。
罪無き人が、髪の色や目の色、階級なんて馬鹿らしいものに縛られて苦しめられることがないようにするため。
戦うべき時が今だと思ったから、自分は此処に居るのだ。文字通り、己の命を賭けて。
「モニカ。……貴女も、このままでいいとは思っていないからこそ。今回の作戦への参加に同意したのではありませんか?」
マチルダの言葉に、モニカが視線を泳がせて黙りこむ。
「わ……私、は……!」
その時、大きな爆発音が響き渡った。はっとしてマチルダが顔をあげれば、古城の裏手の方からもくもくと煙が上がっているではないか。
感覚を研ぎ澄ませばすぐに分かる。誰かが殺意をもってして、魔法を使ったのだ。
「……始まりましたね」
これで全てが、終わる。否、終わらせなければならないのだとマチルダは知っていた。
全ての悲しいことを――悪い夢を、今。




