<第二十話・ナイトメア・オブ・ナイトメア>
暗闇の中、ジョシュアは必死で逃げていた。
ああこれは、子供の頃の記憶だ。景色を見つめながら、頭の隅で思う。夢だとわかっていても、逃げ続ける足は止まらない。息が上がっていく。汗が滴り落ちる。思い出していた。ずっと忘れていた――恐怖という名の、感情を。
――ああ、どうしてこんなことに。
母が死んだのは、ジョシュアが五歳か六歳の時であったと思う。彼女が果たしてジョシュアを愛していたかどうかはわからない。そもそも、腹を痛めて産んだはずだというのに、本当に息子というものを理解していたのかどうかさえ怪しい。彼女には知恵がなく、認識がなく、知識がなく、そして良識も無かった。誰にも教わって来なかった上に、正しく育たなかったものを一体どうやって責めることができるだろう。子供はジョシュアだけだったが、性的な知識が欠落している状態で売春を繰り返していた以上、恐らく他にも子供ができたことはあったに違いない。多分全て、死産だったか流産だったかのどちらかであったのだろうけれど。
拙い知識なりに食べ物を分け与えてくれていたのは覚えている。でも、彼女は自分に名前をつけるということもしなかった。名前が必要だ、ということもわかっていなかった可能性がある。というより、母にも名前があったのかどうかが怪しい。誰かが彼女を、名前で呼んでいる場面を一度も見たことがないような気がする。残念ながら、彼女が骨と皮だけで死んだのはそんな幼い頃のことだ。記憶も随分曖昧になっているから、どこまで正しいのかどうかといったところだが。
一つ確かなことは。それでもジョシュアが――この日のことだけは、妙に鮮明に覚えているということだろうか。
忘れられるはずなどない。この時確かに、ジョシュアの運命と認識はひっくり返って――そのまま戻らなくなってしまったのだから。
『いたぞ、ガキだ!』
ジョシュアを探し回っていたのは、あきらかにカタギではなさそうな男達だった。あれがスラムを実質統治していた“ヤクザ”と呼ばれる人種であったことを知ったのは、だいぶ後になってからのことである。
彼らは子供を集めて、売り飛ばすというビジネスをやっていたようだった。売られた子供がどうなるかは、恐らく子供の見た目次第であったのだろうと思われる。たった六歳そこらのジョシュアに逃げ切れた筈もなく、結局は殴られて捕まることとなった。馬車に詰め込まれていたのは、同じような境遇なのであろうスラムの子供達である。みんな、自分達の運命がどうなるのかと不安がり、幼い者の中には涙を流している子供もいた。――彼らが一体どうなったのか、ジョシュアが知っているのはほんの一部だけである。
子供達は連れて行かれた屋敷で一人ずつ検分され、仕分けられた。それなりの見目の良い子供と、そうではない子供。特にスラムでは、一度怪我や病気をすると非常に治りにくい。病院にかかれる者など稀であるから当然と言えば当然だ。結果顔に酷い痘痕がある者もいたし、火傷の後が腕を覆っている者もいた。そうでなくても、顔立ちが醜いと判断された子供達はみなそちら側に仕分けられる。――そしてジョシュア達“顔がマシだと判断された”子供達は、そんな“醜い側とされた”子供達がどうなるのかを間近で見せつけられたのだ。
ある者達は、大人の賭け事の道具に使われた。武器を与えられ、子供同士で殺しあえと命じられ、生きながら血まみれになりながら死んでいった。
ある者達は、大人のサディスティックな欲求を満たすために使われた。手足を縛りつけられ、抵抗を封じられた状態で、生きたまま拷問されて死んでいく子供達。足の先からじわじわと焼き殺された者もいる。生きたまま腹を裂かれ、腸をキリキリと巻き上げられた者もいる。
そんな様子を、窓越しに見せつけられて――子供の一部は恐怖から嘔吐や失禁を始めるほどだった。そんな子供達の頭を押さえつけ、ナイフを押し付けながら。ヤクザ達はニヤニヤと笑って告げたのである。
『よーく見てろよ、お前ら。……俺達の言うことは、絶対だ。逆らったら、次にああなるのはお前らだ。わかったな?』
見目の良くない子供の、最大限の有効活用。ドロドロのグチャグチャに壊すところを見せつけることで、子供達に絶対的な服従心を植え付けたのである。幼いジョシュアも、従う以外に術が無かった。壊れたように、男の言葉に頷くしかなかったのである。
その後は、とりあえずシャワーを浴びるように言われて、少しだけ綺麗な服を着せられて。部屋で待つように言われてそれから――それから。
――逆らったら、殺されるから。とにかく逆らわないようにって、大人の人に嫌な思いをさせないようにって。それだけしか、考えられなかったんだっけな。
生まれて初めて寝た、ふかふかのベッドは――最悪な、血と生臭いにおいでいっぱいだった。
うっかり暴れた時に殴られた頬とお腹が痛くて、これからもこんな目に遭わされるのかと思ったら怖くて怖くて。ひたすら泣きながら眠ったのを、よく覚えている。そんなものは、地獄の始まりに過ぎなかったけれど。
『お前の母親な、少々汚らしかったが狙っていたんだよ。スラムには勿体無い美人だったからなあ』
ジョシュアを買ったその太った男爵は、にやにやと笑いながらそんな話をしてきた。あれは美人、と呼ばれる類のものだったのか。髪が長くて、いつも暗く俯いてばかりの女だったけれど。
『お前は生き写しだ。男だったのが少々残念だが、そこまで美しいのならまあいい。……しっかり務めるなら、毎日いいものを食わせてやるしベッドで寝かせてやるとも。嬉しいだろう?』
暫くの間は、その男に飼われる日々が続いたように思う。男はショタコンで最低の変態野郎だったが、幸いなことに過剰なサディストではなかった。機嫌を損ねると殴られて鼻血を出すくらいのことはあったが、大人しくしていればそれ以上のことは何もなかったのだ。ただ、気持ち悪い行為を、なるべく痛いと言わないように歯を食いしばって耐えれば良かった。我慢すれば終わる。抵抗しなければこの時間は長くは続かないのだ。――幼くして、ジョシュアは痛みに耐えることを死ぬほど学ばされたのである。
それから、一年ばかり過ぎた後だろうか。
同じ屋敷に他にも攫われた子供がいたことを知るに至るのだ。その子供は、あのトラックに一緒にいた子供かもしれないし、そうでないのかもしれなかった。ただジョシュアと違って、その少女は傷だらけだった。元々は可愛い顔をしていたのかもしれないが、片目は腫れ上がって殆ど潰れていたし、唇も切り裂かれたように裂けていたほど。高そうな服の下から覗く手足は紫色にうっ血した箇所ばかりで、無事なところを探すことさえも困難だった。
少女は男爵の――息子に買われて、屋敷に監禁されているらしい。男爵と違って太ってこそいなかったものの、神経質そうで眼がぎょろりとした息子が、少女の腕をぐいぐいと引きずるように引っ張っていたのが衝撃的だった。少女のボロボロの有様に絶句するジョシュアに、男爵は宥めるように告げたのである。
『息子はああいう趣味なのだ……困ったことにな。そうやってすぐ、ペットを使い潰してしまう。あのガキも一ヶ月前に来たんだが……まあ、一ヶ月ならもった方か。せっかく可愛いのを見繕ってやったのに、あんなに殴って無残な姿にしてしまうとは勿体無い。もっと丁寧に、人形のように可愛がればいいものを……なあ?』
男爵の言葉は、ジョシュアに現実を思い出させたのである。
自分達は、彼らにとってはペットでしかない。人間の、奴隷と同じ扱いさえ受けることができないのだ。今はたまたま、目の前の男爵がそういう趣向ではないから無事に生かされているだけ。ジョシュアも、いずれ、あちら側に行かされてもなんらおかしくはないのである。
何より。あんな、顔を腫れ上がらせて死んだ眼をした少女を。このまま放置すれば、遠からず殺されるであろう彼女を。見捨てておくなんてことが、ジョシュアにはどうしても出来なかったのだ。
――助けないと。……だって、大人は誰も、助けてくれないんだから。
助けられるのは自分だけだと、幼くしてジョシュアは理解していたのだ。
従順なジョシュアを気に入った男爵は、この頃には屋敷中をわりと自由に歩かせていた。屋敷の構造も、見張りのローテーションも、既にきちんと把握している。ここ再起因は行為の後、自分よりも先に男が寝てしまうということも。
ジョシュアは、それまでに得た知識を全て駆使して――少女の監禁場所を見つけると、彼女を連れ出したのである。
チェルシーと名乗った少女は、ジョシュアより二つ年上だった。ガリガリに痩せて、殴られ続けて、ジョシュアよりもずっと酷い有様になっていた彼女を――ジョシュアは必死で引っ張り出し、屋敷の外へと連れ出したのである。そのあたりの事は無我夢中すぎてあまり覚えていない。幸いだったのはその屋敷が、元々ジョシュアが住んでいた王都ミネールシティの近くであったのが幸運だったというべきか。スラムまで再び逃げ込み、ジョシュアはどうにか彼女を助けようと必死になった。
屋敷から持ち出せたものは、僅かな食料と救急箱ばかり。彼女の深い傷を治療するには、あまりにも足らないものだったのである。
『……ありがとう。本当に、ありがとう。きみは、優しいのね』
それでも、彼女は。涙を流してジョシュアにお礼を言った。明日は火炙りされる予定だったの、足を焼かれるところだったのよ――と涙ながらに苦悩を吐露したのである。
『地獄から、助けてくれた。それで十分。もう、十分だから』
十分なんかじゃない。ジョシュアは首を振った。彼女を助けたのは、ただ彼女のためというだけではなかった。きっと彼女を救うことで、自分自身が救われたかったのだろう。明日どうなるかわからない運命を、そうすることで打破した気になりたかっただけなのだろう。
全部全部、自己満足。自分のためでしかなかった。だから。
『じゅうぶん、ってなに!?こんなのおかしい!おかしいだろ!俺達、なんでこんな目に遭わないといけないんだ!キゾクの奴らはみんな、あんなにご馳走を食べて……あったかいベッドで寝て、ちゃんとパパがいてママがいるのに!どうして俺達だけ?俺達だけが!?そんなのおかしいじゃん、なんもじゅうぶんなんかじゃないだろ!!』
足を焼かれることこそ免れられたものの、彼女は体力を失い、力尽きる寸前だった。潰れた目はもう戻らないとしても、殴られた傷や裂けた唇が酷くなるのを防ぐ方法はきっとあるはずである。闇市でなら、いい薬を売ってもらえる。食べ物だってある。あとは――そのためのお金さえあれば。
――お金。……お金が、あれば。
『お前は生き写しだ。男だったのが少々残念だが、そこまで美しいのならまあいい。……しっかり務めるなら、毎日いいものを食わせてやるしベッドで寝かせてやるとも。嬉しいだろう?』
あの男の言葉が、蘇る。
自分の顔は、美しいらしい。ならば――男であっても、子供であっても、母と同じやり方で稼ぐことができるだろうか。
『……待ってて。必ず、パンと薬を買って帰るから』
それが――ジョシュアが自ら、深い闇の中に足を踏み入れた、始まりだったと言っていい。
ジョシュアという名前を、つけてくれたのはチェルシーだった。死んでしまった、大好きなお父さんの名前がそれだったのだという。
その時のジョシュアには、チェルシーとその名前だけが――世界で唯一の、宝物であったのである。




