<第十九話・シナリオの綻び>
魔王ファウストには、恋人がいた。――別におかしくもなんともない事実であるはずなのに、それが奇妙なほどの実感となってアシュリーの胸にのしかかってくる。
彼は二十八歳だとは知っていた。恋人がいても何も不思議ではない年齢のはずなのに、それをまるで想像していなかった己に気付かされたのだ。魔王は、魔王。世界を壊す、世界の敵。ジョシュアに接するようになった今はもう少し違った視点もあるが、一般的に言えば認識はそのようなものだろう。憎しみをぶつける者もいる。罵倒する者もいる。愛するものを奪われた者も、家を失った者も。魔王という存在は、どんな理由であれ当たり前にそこにあったはずの人々の未来を奪う存在だと、誰もがそう考えているはずである。
実際、アシュリーもそうだった。
ただ盲目的に勇者を志していた時は、魔王の生まれた意味など考えもしなかったのである。ましてやその魔王にも、家族がいるかもしれないなんてことなどけして。バックグラウンドも動機も考えようとはしなかった――それ以前の問題で、彼は“世界を脅かす敵”でしかないと、そう思ってきたから。
「恋人が、病死……ですか。病院にかかることができなかったということですか?」
アシュリーがつい口にしてしまった言葉に、ジョシュアは露骨な嫌悪の色を見せた。気付いてすぐ、すみません、と謝罪を告げる。
何を馬鹿なことを言っているのか、自分は。
下層階級の人間は保険になど入れない。そして金もない。そんな状況で一体どこの病院が病人を見てくれるというのだろう。保険が適用されなれば、中流階級の人間でさえ眉を潜める額が医療費として取られることも珍しくはないというのに。
「さっきも言ったが、俺はまだマシな環境で生きてこれた方だ。売春婦を馬鹿にする奴は多いが、夜鷹のレベルでもなければ大抵の売春婦は他の奴等よりまともな暮らしが出来てるんだよ。病気を貰うことがあるのが難点だけどな。実のところ、ファウストも見目は悪くなかったから、それなりにそちらの方面で稼いだりもしていたらしい。が、大人である分需要は少なくなるし、そもそも刑務所から戻ったファウストは監視されていて盗みを働くこともできなかった。当然普通の仕事で雇って貰うことも殆ど不可能に近い」
「それで……どうやって生活していたんですか」
「ファウストの少ない稼ぎと、妻の稼いだ金でどうにかやりくりしていたらしいな。ファウストの恋人は、劣悪な環境の工場で働かされていたらしい。労働者階級の下の方や、あるいは下層階級でも雇って貰える場所ってのは全く無いわけじゃないんだ。ただし、賃金は最低賃金の半分以下、何十時間も立ちっぱなしなんてのも珍しいことじゃない。……ファウストの恋人も、結局倒れた。原因は仕事中の事故で、左手の指を何本か無くしたこと。その怪我を治療できなかったせいで化膿させ、酷い病に倒れたことだったんだそうだ。……死に際は酷いものだったらしい。全身が腐るみたいになって死んでいった、という証言があったからな」
「そ、そんな……」
確かに、そういう病があることは知っている。特にアクダイト鉱石を扱う工場で問題になっていたはずだ。小さな傷から鉱石の微細な欠片が入ることで発症するのである。アクダイトは自分達の生活を支える燃料となる大切な資源だが、素手での扱いには細心の注意を払う必要があるのだ。
ただ触るだけなら問題がないが、免疫が低下した人間などの体内に入ることで一気にその悪性を発揮する。人間の傷から、一気に肉を腐敗させる菌を増殖させて全身を覆い尽くしてしまうのだ。幸い、治療法は見つかっている。薬を打って数日安静にすれば、末期患者でない限り助かる可能性は十二分にあるはずだった。
ただしそれは。そもそもその病の知識があって、かつ薬が手に入った場合に限定される。指を切断されるほどの大怪我をしても治療を受けられないほどとなると――助かるはずの病気は、一気に悪魔に変わるだろう。
“イビル・コール症候群”。かつて、まだ治療法が見つからなかった時は、悪魔の呪いと謡われた病気。その名残が、病名にはしっかりと残っていると言っていい。
「……奥さんが治療を受けられなかったことで、この世界をより憎むようになったということなんでしょうか」
ファウストは町をいくつも滅ぼした。何故襲ったのが王都ではなく辺境の町であったのかは定かでないが、嵐に見舞われ竜に襲われた町々の被害は甚大である。何十万人もの人が既に犠牲になっている、と新聞では報じられていた。
アカネシティを壊滅させた時には、国王が自ら国王軍を派遣して魔王討伐に乗り出している。だが、魔王ファウストはその圧倒的な力によって軍を退けると、破壊を続けながら逃亡し――ナスカの森の古城へと逃げ込んだということらしい。ただ。
「何か……妙ではありますよね。ファウストは確か、王都ミネールシティの出身ではありませんでしたか?何故最初から王都を破壊しようとしなったのでしょう。一番憎しみをぶつけそうな対象は、こんな階級制度を作り、自分や奥さんの人生を滅茶苦茶にした国王の政府になると思うのですけど。被害が大きかったのは、王都から随分離れた町でしたよね?」
「そうだな。……さて、そこまで疑問に思ったところで質問だ。魔王の被害はこの世界で幾度となく繰り返されているが。一体歴代で何人の魔王が、王都を襲撃したと思う?」
「え?」
アシュリーが書籍でしっかり調べてきているのがわかっている口ぶりだ。確かにそうだけども、と思いつつアシュリーは思い出す。勇者名鑑に、それくらいの情報ならば書いてあったような気がするが――。
「……あれ?」
頭の中で本をめくり続け、違和感に気づく。何かがおかしいような。
「気付いたか。……答えは、ゼロだ」
ジョシュアはすっと目を細めた。
「魔王の多くが下層階級出身。その中には、政府や王家に恨みを持っている者が少なくない。実際、魔王が世界征服に乗り出す理由の大半は怨恨ゆえとされているからな。ところが、一番憎い政府機関や王宮があるはずの王都ミネールシティが襲撃されたことは、何故だか一度もないんだ」
「つまり、必ずその前に勇者に討伐されていると?……いや、そもそも最初から王都を狙ったっていいはずですよね。何故そうしないんでしょう?出来ない理由があると、そういうことでしょうか?」
「かもな。じゃあ何故それができないのか?しかも町は襲撃されているが、何故だか要人の類いが死んだことが殆ど無いし、国王軍を出す判断もいつも鮮やかなまでに早い。国王軍がそのまま復興支援に走るから、いつも軍の印象は魔王の襲来の度にうなぎ登りになる。でもって毎回、国王軍は魔王を捕まえることができずに逃がしてしまい、最終的に魔法学校に勇者の派遣を要請する流れになるわけだ」
「……それって」
何が言いたいんですか、という言葉をアシュリーは飲み込んだ。
さすがにここまで来れば、ジョシュアが何を疑っているかなど明白である。こちらとしては、信じたくないどころの内容ではなかったが。
「疑問はまだあるな。……勇者が一人しか派遣されない理由は何故なのか?だ。今回は例外中の例外だっていうのはお前もわかってるだろう?」
紅茶を口に運びながら、ジョシュアは言う。どうやらやっとサンドイッチを食べきったらしい。どれだけゆっくり食べる気なのか、と言いかけてアシュリーはやめた。もしかしたら、少ない食料をどうにか味わうことで無理矢理空腹を満たす生活をしてきた名残なのかもしれない。少食がひどすぎた結果、胃が小さくなっていた――なんてことも言っていた。本人の言だから、それがどこまで正しいのかもわからないけれど。ジョシュアの体格の悪さを思えば十二分に有り得る話だと思ってしまう。
もうわかっていることだ。アシュリーの基準を、強引にジョシュアに押し付けてはいけない。違うことを、違うと理解する。その上でお互いの基準をゆっくりすり合わせていくべきなのだ。――できればこの任務が終わった後も、仲良くしていきたいと思うのならば、尚更に。
「確かに、結局その謎が解けてないんですよね。……過去、例は少ないけれど、勇者が魔王討伐に失敗した例はありましたよね。その時は、魔法学園から出撃したバックアップ部隊が協力して魔王を倒した、と。最初からそうした方が効率が良いはずですよね、普通。だって世界征服を目論んで、街をいくつも壊した恐るべき魔王ですよ?国王軍の手では討伐しきれなかった……少なくとも表向きではそういう話になっているはずの、魔王なんですよ?勇者が一人である方が都合の良いことって、何かありますか?」
あるのだろうから一人なんだろう、とは思っている。今回は相当無理を押し通して二人にしたのだろうということも知っている。同時に、その“一人の勇者”は身分がそれなりにしっかりしていて、人望がある人間でなければならなかった理由も。
「もしかして、ジョシュアはその理由に……既に見当がついているんですか?」
アシュリーが尋ねると、ああ、とジョシュアは頷いた。
「もしその理由が“そこ”にあるとすれば……これまでの疑問が既に氷解するんだ。勇者に相応しいのは、人望があってそれなりの身分で、天涯孤独ではない者だ。一番大事なのは最後の部分。天涯孤独ではない、ということは即ち……」
そこまで言いかけて、彼ははっとしたように顔を上げた。その眼が真剣なもの――戦闘中に見るものと同じと気づいた時、アシュリーも慌てて周囲を見回す。
何か、敵意を持っているものが近くにいる。ざわつく木陰の向こう側から、何者かの視線を感じる。複数だ。だが人間ではない。人間のような、とにかく感情が先行するような視線とはどうにも違う。
――モンスター?もしかして、魔王ファウストが何か差し向けてきたっていうこと?古城は近いし、そういう可能性もゼロではないけれど……。
ピリピリとした緊張が――破られるのは、一瞬。
がさり、と音がした。アシュリーはぎょっとして上を見上げる。
――しまった!敵は、樹上に……!
「ジョシュア!」
アシュリーが叫ぶのと、殆ど同時だった。何匹もの真っ黒なコウモリのような生き物が、ジョシュアに向かって襲いかかっていたのである。
ぶわり、と紫色のガスのようなものが広がった。
――まずい、これは……!
慌てて口を塞いだアシュリーが見たものは。ぐらり、と身体を傾がせ、倒れていくジョシュアの姿だった。




