<第十四話・祈るように、その手を>
ジョシュアの言葉を理解するまで、しばし時間を要した。ジョシュアの母親が娼婦であり、誰の子供かもわからぬ息子を産み落としたという話は既に聞き及んでいる。マチルダからその話を聞いた時、己が何を思ったのか――アシュリーは生々しく思い出していた。
身体を売り物にして食い扶持を稼ぐだなんて、一番恥ずかしくて愚かしい行為であるはずだ。人が、人の尊厳を投げ捨てる行為と呼んでも過言ではないことなのだから。だからあの時、アシュリーは確かに――ジョシュアの母親を、心底軽蔑し、嫌悪したのである。両親から受けてきた徹底した上級社会の教育が、より一層アシュリーにそういった考えを与えたのもまず間違いないことだろう。
『ジョシュアは下層階級の子供です。……貴女も図書館でいろいろ調べていたのなら、もう予想がついているでしょう。黒髪黒目の子供は、ルナシルド信教では悪魔の子として忌み嫌われています。私達の生まれついた階級は、国王陛下と政府がそれぞれ基準に則って決めるもの。そしてこの国の国教はルナシルド信教です。……黒髪黒目であるという、それだけで下層階級に落とされた罪なき人々がどれほどいたか、想像に難くはありません』
『そうですね。……彼は、娼婦の子供なのです』
『客との間に出来た子供だったそうです。ゆえに、父親が誰かもわからなかった、と。それなのに彼女はジョシュアを産んだ。これは推測しかできませんが……恐らくは、避妊の方法も中絶の方法も彼女は知らなかったのでしょう。ジョシュアは言っていました。自分は愛されて生まれてきた存在ではなかった、と』
『有り得ないと思いましたか?気持ち悪いと思いましたか?……それが現実なのです。下層階級の人々は、そんな当たり前の倫理を学ぶ教育さえも受けられない。だから、過ちを繰り返す。文字さえも読めない女性に、出来る仕事などあまりにも限られたものだったのもまた事実ではあったのでしょう。……アシュリー。その産まれは、ジョシュアのせいでは断じてありません。それで貴女がジョシュアのことを気持ち悪いと思ったらそれはお門違いだ、ということはわかりますね?』
あの時、気分が悪いと思い、そしてそんな自分を戒めた。子供は親を選ぶことなどできない。親が娼婦であることが、彼の罪であるはずがないからだ。だから、マチルダの言う通りそんなことで彼を蔑むのは間違いだと自分でもわかっていたし、そんな己に自己嫌悪を抱いたのである。
そう。
マチルダに話を聞いた時は、あくまで彼の親の話であって――彼の話では、なかったから。
彼自身が選んで、どうということではなかったから。
「気持ち悪いと思ったんだろう。それが正解だし、それこそ“普通”の感覚だ」
完全に凍りついたアシュリーに、この時初めて――ジョシュアは笑いかけてきた。けれどそれは、心が温まるような優しいものでは断じて無かった。己を蔑みつつ、諦めに満ちた――何よりも胸が、締め付けられるようなもので。
「アシュリー。お前が貴族として産まれ、金や住む場所、食べるものに困らず生きてきたのは。そして俺達のような存在の実態を知らずにいたのは……何も、罪ではない。知らないことを誰にも罪に問うことなどできないからだ。そして、お前が俺達の苦労を知らないように、きっとお前にはお前しか分からない苦労があったことだろう。貴族の教育というのもなかなか厳しいと聞いている。存外貴族の子供に自殺者が多いというのも知っている。けれど、俺が知っているのはそんな程度の事実だ。お前にだって、“自分の辛さなどわかるはずがない”と主張したいことはたくさんあるはずだ」
そんなことはない、とアシュリーは激しく首を振った。確かに、侯爵という階級は貴族の中でも上から二番目である。それだけに、親の期待も大きく、教育が厳しかったのは事実だ。侯爵家の令嬢として、いつか名のある家の婿を取るか。それとも名のある学校を出て政治家になるか、それとも勇者を目指すか。勇者を志したのはアシュリーの意思だが、そうでなくても将来を選ぶ余地があったかといえばさほどその余地がなかったのも紛れもない事実である。
ピアノの練習は今でも嫌いだ。同じ曲を何度弾かされ、間違えるたびにどれほど家庭教師に叱責を受けたことか。
テーブルマナーの訓練も本当は嫌でたまらなかった。なんせ教え込まれたのは三歳の時である。特に、誤ってフォークを落としてしまった時の母の鬼のような顔は、今でも夢に出るほどのトラウマと言っていい。結構、人格を否定するような言葉も言われたような気がする。ショックすぎてあまり覚えていないけれど。
他にも、学校に上がる前から剣の訓練を受けたし、語学も初等部でやる前から家で家庭教師がついていた。遊ぶ時間がない程ではなかったが、どれもこれも凡才でしかないアシュリーには本当に苦痛で、大嫌いで――それでも、アシュリーは両親を恨んだことは一度もないのである。
何故なら、そんなアシュリーがここまで来れたこれたのは、そんな両親の厳しい教育の賜物あってのことだと知っているのだから。
何より。自分の苦労など――ジョシュアに比べたら、鼻で笑われるレベルに違いないのだ。だって。
――だって私は。それでも誰かに……ちゃんと愛されて、守られていたんだから。
明日死ぬかもしれない、だなんて考えたこともない。
それどころか今日を生き抜けるかも怪しいなんて、想像したことさえない。
外が大雨でも雷でも、いつも暖かい部屋の中で外を眺めていればそれで良かった。お腹がすいたら誰かが料理を作ってくれた。御飯どころか、オヤツにさえ不自由したことなどない。勿論、明日着るドレスがなかったこともないし、当然暖かいベッドだっていつもそこにあったわけで。
両親の教育が厳しいと言ったって、折檻されたことがあったわけではない。きっと上級貴族の教育としては、十分に常識的範囲内であったはずだ――いや、他としっかり比べたわけでもないけれど、きっとそうだろう。実際彼らの教育は、今のアシュリーに十二分に役立ち、勇者として選ばれるまで成長させてくれたのも事実なのだから。
だから。そんな自分の苦労なんてもの、ジョシュアと比較できるはずがない。それなのに。
――それなのに。……貴方は、私の苦労が想像できないことを、ちゃんと理解している。自分に知らない世界があることを認めている。……私の辛さを、知ろうとしてくれている。
今、アシュリーははっきりと――理解していたのだ。
闇の魔法も、悪意も嫉妬も怒りも憎悪も――そんなもの、この世界に必要ないと思ってきた。そんなものがあるから人は争い、誰かを傷つけ、苦しめ、差別や偏見を産み続けているのだと。
確かにそれも間違いではあるまい。けれど果たして、“闇”が無い世界が本当に平和なものであるのだろうか。人の心から、そういった感情の全てが消えた時、何もかも綺麗なばかりの人が残った時。それは本当に、平和と呼べる世界であるのだろうか。
きっと、そうではない。
何故なら、人の本当の苦しみを理解できるのは――己が、傷つき、痛みを味わったことのある人間だけだからである。
苦しくて苦しくて、食べるものにも困ってパンを盗んだ子供の痛みを。果たして、何不自由なく生きてきて、人の悪意も嫉妬も闇も知らない人間が理解し、救うことができるものだろうか。きっとそういう人間は、ただパンを盗んだという事実しか見ることができないのではないか。もう二度と万引きなんかしてはいけない、と説教したところで。その子供達の根本的な問題の解決になりはしないということに、気づくことはできないのだろうか。
同時に。もし魔王ファウストが、世界から迫害された黒髪黒目の下層階級の人間で。ゆえに、世界を恨んで反乱を起こしたのだとしたならば。果たしてまっさらな、綺麗なだけの人間の手が、その深い深い傷に届くことはあるのだろうか。そんな人間の、無意識で鋭く、悪意ないまっさらなばかりの善意は。むしろ疲れ果てた人間を殺す刃にしか、ならないのではなかろうか。
――そうか。……そういうこと、だったんだ。
アシュリーは知る。何故、マチルダがジョシュアを自分に同行させたのかを。周囲の反対を押し切ってまで、もうひとりの勇者を選び――そしてそれを、ジョシュアにしたのかということを。
全て、この時のためだったのだ。多くの苦しみを知り、人の闇を知る彼にしか救えないものがあると知っていたから。そしてその彼に触れることで――アシュリーもまた、変わっていけると知っていたからなのだろう。
人の心に、確かに闇は必要だったのだ。
誰かの傷を理解し、癒すことができるのは、きっと汚れた手でそれでも立ち上がった人間だけ。
闇魔法を扱う彼が、同じ手で素晴らしい回復魔法を使うのと同じように――きっと。
「知らないのは、何も悪い事じゃない。むしろ、知る機会がなかったからそれは仕方ないことなんだろう。俺だって、そんなことお前に期待していない。むしろ、知るべきでないこともあると思っている。理解していて欲しいことは一つだ。己には知らないことがあるということ。そして、己にしかない幸せがあったということ。……冷たい、カビだらけの地面で眼を覚ます朝も。髪の毛を掴まれて引きずり回されて、挙句血だらけになるまで殴られる経験も。見知らぬ男や女に無理矢理身体を暴かれも、歯を食いしばって耐える夜も……食べるものも雨風しのげる場所もまともに確保できず、疫病でバタバタ死んでいく隣人を見て、それでも何も出来ない現実も。お前は何も知らないだろう。知らないということだけ、分かっていればそれでいい」
ジョシュアの声が降るたび、アシュリーは聞き分けのない子供のように首を振るしかない。
そうやって生きてきたのか、彼は。ジョシュアの言葉を聞いて、きちんと想像しようとしたが――あまりにもそれは、限界が近すぎた。アシュリーは、汚い路地裏でさえ、今日踏み込んでちらりと見ただけなのである。スラムにちゃんと入って、現実を見たことさえない。ましてや、自分がそんな経験をしたらなんて、考えることさえ困難である。
そんな環境で、生きることを強いられた彼に。どうして“身体を売るなんてみっともない”だなんて、馬鹿げたことが言えるだろうか。本人が望んだことであるはずもないというのに。だって今彼は――“歯を食いしばって耐える夜があった”と言ったのだ。本当は、そうでもしなければ耐えられない苦痛であったはずなのに。それでも耐えることを学ばなければいけないほど、無抵抗の我慢を覚えるほど彼は――彼は。
「理解など必要ない。それでお前を責めるつもりもない。だから……おい」
そこまできて、ジョシュアは困惑したような声を上げた。アシュリーが馬鹿みたいにぼろぼろと涙を零していることに、漸く気づいたのだろう。
「……確かに、私には……私には、貴方の苦しみがわかるだなんて、そんなことは口が裂けても言えません。私達が生きてきた世界は、あまりにも違いすぎるのですから。でも……」
怖がられるかもしれない、痛いかもしれない。
一瞬そう思ったが、それでも止まれなかった。
アシュリーは思い切り――目の前のジョシュアの、痩せた身体を抱きしめていた。
「それでも、理解しようと努力することはできる。貴方が、貴方なりに私を理解しようとしてくれたように」
「お、おい」
「汚いだなんて言わないでください。貴方は汚くない。こんなに傷だらけになるまで、ひとりで頑張って生きてきた貴方を。一体誰が、貶める権利を持つというんですか。私は……私は、貴方自身にもそうであって欲しくない。貴方自身にもちゃんと、貴方の頑張りを認めて欲しい。それができないなら、出来るまで私が何度でも言います。“貴方がとてもよく頑張っている”って。“とっても頑張ってえらいね”って……!」
本当に痛いのも、苦しいのも、自分ではない。
だからこそ、この幼子のように情けない涙は――痛いことと痛いと言えなくなってしまった、彼の代わりに流すものであると信じたい。
「私は、もっと貴方を知りたい。私には、貴方が必要なんです。きっと私だけじゃなく……この世界に、貴方は必要な存在であるはずなんです」
ぎゅっと、抱きしめる腕に力を込める。
少しでも、僅かでも――この想いが、傷だらけの少年に届くようにと祈って。
「生きてください、どうか。……これからは、私が。貴方の剣にも盾にもなります。私が絶対に、貴方を守るから……!」
きっと、ここからが本当の始まりなのだ。
闇だけが排他される世界ではない。
光も闇も必要な、そんな物語を始めるための。




