<第十三話・ジョシュアの過去>
宿まで連れてきてから、そういえば回復魔法をかける方が先だったとアシュリーは気がついた。まあ、どっちみち回復魔法では、汚れと服の破れに関して対応することができない。シャワーを浴びる必要ならあっただろうし、あのビリビリに破れた服のままでいつまでもほっとくことは出来なかっただろう。
アシュリーは彼に回復魔法をかけると(幸い、腕の骨折以外は大した怪我ではなかった)、そのままシャワーに放り込んでいた。これが恋人同士なら、それなりに意味深なビックイベントであったのかな、とも思わなくもない。ましてや、相手はちょっと見ないくらいの美少年だ。――生憎アシュリーは、そうやって浮かれることができるほど状況を楽天的に見れてはいなかったけれど。
『勇者の認定証を見せれば良かったでしょう、どうしてそうしなかったんですか!』
帰り道でアシュリーが問い詰めれば、ジョシュアはあっさりと告げた。
『お前と俺が同じ行動をしても、信憑性はまるで異なるということだ』
『何ですかそれは』
『いかにも貴族のご息女っぽいお前が認定証を出せば信じて貰えるが、黒髪黒目の下層階級くさい俺がそれを出してもまず相手は信じない。偽物だと疑われる。勿論魔法学校に通報してきちんとナンバーと魔力を照合すれば本物だと分かるだろうが、身分証を提示した時点ではそんなこと不可能だろ。どうせ偽物に決まってる、と鼻で笑われたら全く意味がない。魔法学校が勇者を送り出した情報はニュースで発表されてるだろうが、あのガキどもがそのニュースを見ていない可能性は大いにあるし、そもそも勇者の名前や外見は公表されないからな。実際、今まで勇者が黒髪黒目の子供だったり、下層階級出身だったりする例なんかないだろう?』
言われてみれば、その通りなのかもしれないが。だからって、無抵抗に暴力を受けなければならない理由などなかったではないか。
アシュリーが言えば、ジョシュアはあっさりと言い放って来たのである。
『大騒ぎにしたら、さっき助けたばっかりのガキどもが飛んできちまうかもしれないだろ。それに。……ああいうのは、多少痛くても気持ち悪くても、暫く大人しく我慢していればいずれ終わって開放されるじゃないか。うまくご機嫌を取れば、服も盗られずに済むのもわかってるし』
わかってる、と彼は言った。
つまり。――彼にとって、ああいう目に遭うのは何も初めてではないということだ。
今の彼ならば、魔法で相手を撃退することなら訳無く出来たはずである。しかし、狭い路地。相手は人間。ジョシュアの魔法は威力の高すぎるものが多い。下手を打てば相手を殺してしまうかもしれないし、周囲の建物に被害が及ぶかもしれないという状況である。ジョシュアがそれを躊躇ってしまうのも、全く分からない理由ではなかった。勇者がどんな理由であれ一般人を殺したともなれば、大問題になることは目に見えているのである。
同時に。彼は、たまたま助けた赤の他人の子供を巻き込まないために、当たり前のごとく我慢するという選択をしたのだ。――人を思いやれない人物ではない。誰かのために、苦痛を耐えようと思えるような人間。それが彼なのだ、ということがはっきりと分かった瞬間だった。
――ふざけてる。
ジョシュアをシャワーに投げ込んだ時、着替えを手伝った。一応異性である以上、全部脱ぐところまで見るわけにはいかなかったが。それでも彼の上半身が傷だらけであったことは知ってしまっている。慌てて回復魔法をかけなおしたが、傷は消えなかった。――そういう類の傷もこの世にはあるのだ、と以前マチルダが言っていたのを思い出す。
多くの傷は、魔法を使えば綺麗に消すことができる。勿論本人に体力がなさすぎて回復しきれないということはあるし、魔法をかける術者が未熟であったらどうしようもないことではあるだろうが。
ジョシュアはそのどちらでもない。それなのに消えない傷は――本人の心の問題が大きい場合が多いのだ、と彼女はそう言っていた。
人の心に刻まれた傷に、回復魔法は効かない。
同時に。そのトラウマに起因するような傷であればあるほど、肌に古傷として残ってしまいがちなのだ、ということも。
ジョシュアの背中や腰、手足には、明らかに鞭で打たれたりナイフで抉られたと思しき傷が多数残っていた。中には銃で撃たれたようなものや、煙草の火の火傷のようなものまで。本人は平然としていたが、治らないということはつまり――本人も気づかないうちに、傷として深く刻まれてしまっているということではないのだろうか。
少なくとも。普通の人間は――性的暴行を黙って受け入れる、なんて選択肢はそうそう取れない。相手が圧倒的強者であるならともかく、今回は“殺してしまうかもしれない”リスクさえ忘れれば、簡単に撃退できるはずの相手だったのだから尚更だ。
――そんなの、ふざけてる。……あっていいことじゃない。ジョシュアは何も悪いことなんかしてないのに……!
黒髪黒目だというだけで、階級が下だというだけで。どうして、本人の努力ではどうにもならないことを、人はそう簡単に差別して見下すことが出来てしまうのだろう。
そういう状況に自分が置かれたら、という想定が何故できないのだろう。
どうして人の心を思いやるという気持ちを、多くの人が親兄弟から幼くして教わるはずだというのに――大人になって、あっさりと忘れてしまうことができるんだろうか。
――人の心は、もっと綺麗なんだと思ってた。悪い人はいるけれど、それは世界のほんの一部の人だけだって。人を傷つけて平気な人なんて、本当に僅かしかいないはずだって……そう信じていたのに。
知りたくなかった現実が、此処にはある。ベッドに座り、アシュリーは膝の上で拳を握り締めた。
知りたくなかった。見えないふりをしていたかった。その方がきっと――自分は楽に、生きることが出来たに違いない。でも。
――知らなかったらきっと。私はジョシュアの痛みも、この世界の歪みも……何一つ、想像することができないまま。綺麗事だけで世界を見て、それで全てが救えるものだって信じてたんだろうな。
だから思う。どれほど恐ろしい現実であっても――自分はきっと、知る必要があったのだと。
だからこそマチルダは、ジョシュアという“闇”に、アシュリーと同行するようにと望んだのだろう。彼と共にいなければ、見えなかったことは間違いなくたくさん存在するのだろうから。
「おい」
やがて。ざっと身体を拭いて新しいシャツに着替えたジョシュアが、シャワールームから出てきた。彼は困惑するようにアシュリーを見る。
「どうしてまだ部屋にいるんだ。お前の部屋は向かい側だろう」
「待っていてはいけませんか」
「いけないというより、必要を感じない。俺は大丈夫だと言っただろう。あんなこと、珍しくもなんともない」
本当に、ジョシュアはそう思っているのか。その認識そのものが、明らかにおかしいということに。
「あんな目に遭って、珍しくもなんともないとか、平気だとか。そう言えてしまう事の方がおかしいって、どうしてわからないんですか」
自分と彼は、生きてきた世界があまりにも違う。これもまた、自分の常識の押し付けに過ぎないのかもしれない、とチラリとは思った。
思ったけれど、言うべきだと思ったのだ。――ジョシュアには、必要であるはずだ。自分が生きていていいのだという証明が。必要だと言ってくれる存在が。
己が、それに値する存在だと信じることのできる――そんな言葉が。
「普通は、傷つくんですよ。だって怖いし、痛いし、気持ち悪い。確かに貴方は男の子ですけど、だからこそある意味では女性以上に屈辱に感じるはずです。今でこそこの国の強姦罪の被害者は、男女共に適用されるようになりましたが……昔はそうではありませんでした。それほどまでに、泣き寝入りし、ひとり苦しむ男性が多かったということです。貴方だってそのひとりではないのですか」
「でも、今回は結局殴られて、腕を折られただけで済んだ」
「それを済んだ、と言ってしまえるのもおかしいですし、慣れているということは以前にも被害に遭ってるんでしょう?貴方は傷ついてないんじゃない。本当は傷ついているのに、自分で見て見ぬフリをしているだけです!もしそうでないのなら、どうしてその全身の傷が回復魔法をかけても消えないんですか!?」
そう言ってしまえば、ジョシュアは押し黙る。本当は彼も、気づいているのかもしれなかった。自分が一体、何を押し殺して生きてきたのかということに。
そうしなければ何故、生きてこられなかったのかということに。
「この世界は、正しく歪んでいる。貴方と出会って、現実を見て、私はそれを確信しました。こんな世界は、間違ってる。同じように産まれた筈なのに、階級と見た目という……本人にはどうしようもないことで当たり前のように差別して、それに罪悪感さえ抱かない。そんな世界は、変えなければならない……違いますか」
「理想論だな」
アシュリーの言葉を、ジョシュアはきっぱりと切り捨てた。
「お前の言う事が間違っているとは思わない。だが差別や偏見を正すのは並大抵のことじゃないだろう。実際、魔王に黒髪黒目が多いのも事実。聖書で、黒髪黒目の人間を悪魔と定めているのも事実だ。……特に、宗教上の差別というのは厄介なものだぞ。そういう人間は、俺のような外見の人間を生理的に嫌悪している。人の、そういう本能的な嫌悪感というのはなかなかぬぐいされるようなものじゃない。例えば国の機関が“イミゴキブリは清潔で気高い虫なので排除してはいけません”とか発表したとするだろう?だが、それまでは汚いだの気持ち悪いだのと当たり前に駆除してきた人間たちが、そんな誰かの宣言だけで今まで持っていた嫌悪感を簡単に拭うことが出来ると思うか?……100%無理だ、断言しよう」
同じことなんだよ、とジョシュアは言う。
自分達は、奴らにとってはゴキブリも同然なんだ、と。
「一足飛びに世界を変えていくなんて、そんなことできるはずがない。どれほど正論でも、理性的でも、人の心だけは他人が簡単にどうこうできるようなものじゃないからな。そしてそういう奴らが多数派である以上、俺達のような存在が居るのはある意味どうしようもないことなんじゃないか。人は、特定の誰かを一緒になって叩けば叩くほど、結束力を深める生き物だからな」
「つまり、生贄がいなければ仲良くできないということでしょう?そんな世界に、本当に価値があるのでしょうか」
「あるんだろうさ。……少なくともそういう世界の恩恵を受けて、お前は今日まで幸せに、何不自由なく生きてきたんじゃないのか?」
「!」
事実だった。そうだ。そんな“生贄の羊を当たり前のように並べて、みんなで虐めて和を保つ”くだらない世界であっても。その世界のおかげで幸せに生きてこられた人間が此処にいる。きっと他の貴族や、中流階級の多くの者達もそうなのだ。彼らの笑顔が、己の幸福が、偽物だったとも許されないものだったとも思えない。
どれほど歪んでいても。歪んだ社会に救われた人間が実際に存在している。それはけして、忘れてはならないことだろう。
「……悩む必要なんかない。お前に、理解出来るとも思っていないし……理解する必要があるとも思えない」
迷うアシュリーに、彼はにべもなく言い放つ。
「俺のプロフィール、マチルダ先生から聞いただろう。どこまで知っている?」
「……元孤児で、お母さんが娼婦で。それで先生に、ボロボロのところを引き取られた、とは聞いていますが」
「そうか、そこまでか。じゃあ知らないんだろう」
なんだろう、まだこれ以上先があるのだろうか。アシュリーはじわりと滲みかけた視界で思う。
そういえば、マチルダも言っていた気がする。これ以上は、自分の口では語れない、と。つまり彼女が躊躇うような事実が、まだその先に隠れているということで。
「俺もなんだよ」
ジョシュアは。その深く沈むような漆黒の眼で。ベッドに座るアシュリーとしっかり眼を合わせて――それを、口にした。
「俺も、親と同じことをして食いつないでいた。男や女に身体を売って生きてきたんだよ」
これが真実だと、そう告げるように。




