就任
「はじめまして、翔一さん。このたびはあなたに、管理番号第F‐500800……、長いので省略しますね、の宇宙のマスターに就いていただきたく、お願いに参りました」
白くて明るい空間、しかし床や壁や天井があるのかないのか定かではない空間で、男と女が対面していた。
戸惑った様子の翔一と呼ばれた男は、おなかのたるみが気になるものの、その顔立ちは悪くはない。30代半ばのITエンジニアである。
対して落ち着き払った態度の女は、20代半ばと思わしき美人。翔一が推している歌手にそっくり、いや良く見ると、えらの張りが小さい、腰回りが細い、胸が一回り大きい。翔一の好みが反映されている。
女は両手で胸を覆い隠しながら、言葉を続ける。
「どうでしょう、引き受けてもらえないでしょうか? ご質問がありましたら承りますわ」
ガン見していた視線をあわててそらしながら、なおも翔一は反応ができない。
何もかも唐突。突拍子もない強大な権力の提示。それでいてあまりにもその他大勢の一員の感が漂うオファー。疑問と疑念が次々と浮かぶ。そもそもそれら以前に。ここはどこなんだ? この女は何者なんだ?
「ここはどこでもないところ。私は、私は何者でもありません」
ようやく翔一は口を開いたのだが、得られた答えはさっぱり要領を得ない。
「あなたが落ち着くようにとこの姿をしてみました。ほかの姿がお好みかしら?」
そう言って笑みを浮かべた女はその姿を揺るがし、そして。仙人のような白髪の老人に、生まれたての赤子に、野心溢れるギラついた表情の若者に、恰幅の良い気立ての良さそうな中年女性に、次々とその姿を変えていく。
そしてついには分身して3人の美女に。はじめの歌手の左にはこれまた翔一の好きな若手女優、しかし痩せ気味な身体付きのはずがほどよくふっくらとしている。右にはアイドル顔負けのバレー代表、翔一よりずっと高いはずの身長が目線を下げるほどの小柄になっている。この2人も本物よりも好ましい。
翔一は、相手が抗える存在ではないことを悟った。
それから少し時間を要したが、翔一はなんとか気を落ち着けた。女はその姿をはじめの歌手1人の姿に戻していたが、ビキニ姿なので不満はない。視線の向け先に多大な精神力を費やしながら、次から次へと堰を切ったように質問を重ねる。
「名前、ですか。そうですね、ローリー・フェイヴ、ローリーとお呼びください」
あからさまに取って付けていることを隠すそぶりも見せず、ローリーとなった女は答える。
「いいえ、あなたは死んではいません。地球で生活を続けています。たまたま選ばれてその存在をコピーされたのです」
安心はしたが、随分とプライドとアイデンティティを揺るがす話だ。
「ええ、その通り。あらゆることを知り、あらゆることを思うがままになすことができます」
これはチートどころではない。正に最強無敵。無尽蔵の精力をもってハーレムを堪能し、あらゆる美食を満喫することができる。それでいて体型を崩すこともない。
「あなたがいた宇宙の管理番号はF‐380080……、これも省略しますね。翔一さんにお預けする宇宙は同規模で、知的生命体たちが築いている文明は全体的に少し進みが早いです。まあそうは言っても、良くあるこれといった特徴もない平凡な宇宙です」
実はミニ宇宙でした、というオチもないようだ。ただ、もの凄いものを譲られるのに、それを貶めるのはやめてほしい。
「随分と慎重なのですね。見返りは何も求めません。制限は何もありません。その、リソース宇宙を消費しますが、あなたが気にされるようなことではありませんわ」
魂を奪われるとか、能力を行使できるのは3分だけだとか、そういった罠もない。
何やら物騒なことを口走っていたが、リソース宇宙とは生命が発生しなかった宇宙が充てられており、能力行使に使われるエネルギーの源になるものなのだそう。ちなみに管理番号はZZZで始まり、例によって読み上げるのも大変な個数が存在すると言う。
悪い話では無い。悪い話では無いがこれ以上に胡散臭い話もない。
胸元へのバレバレのチラ見を繰り返しながら、翔一の思考はループした。
真偽を見極められる話では無い。しかしローリーの力をもってすれば、翔一の同意を得るまでもなく、強制させることもできるはずではないか。
そうした翔一の葛藤を見透かすように。
「話だけでは信じられないですよね。それではこれよりあなたが気に入りそうな、ある時代のある星にご案内いたします」
……
一瞬というほどの間すらもなく。
翔一の周囲には、田畑や森や小高い山や、のどかな田園風景が広がった。農民だろうか、人らしき姿も見える。そして土のにおい、冷たい風、どこからか鳥の鳴き声も聞こえてくる。
そこに翔一の体は無いのだが、それらが確かに存在するものとして感じられた。
「このような星がいくらでもあって、あなたの思うがままにすることができるのです。今、試してみられても良いですよ?」
ローリーの姿もこの場には見えないのだが、しかしすぐそばにいるのが分かる。促されて翔一は、やってみたいと思っていた能力を行使する。
「全宇宙スキャン!」
半径は10億光年、時間もまた過去と未来に10億年、常人には想像もつかないはずの空間を確かにイメージし、翔一は思わず叫び声をあげながら、その空間に存在するあらゆるものごとを走査した!
激流という表現ではあまりに生易しい膨大な情報が、即座に把握できる。
太陽系、銀河系、銀河群にと、原子、原子核、素粒子にと、どこまでも何もかもが見える。分かる。
時間もまた。1つの大河が流れ、そのまわりを細い支流が合流しては分かれ、延々と連なっている。支流はタイムトラベルを実現した文明が生み出している。しかしそのような高度な文明も、大いなるうねりの中では蟻の営みほどの影響も与えてはいない。そして。
激しい頭痛に見舞われることもなく。全身から血を吹き出すこともなく。
しかし翔一は、大賢者タイムを迎えた。
ただの賢者ではない。
大賢者だ。
あれほどやりたいことがあったのに。
何も見たいと思わない。
何もしたいと思わない。
そして翔一は永遠に、何もしない存在になった。
完
……
パチンっ
頬をはたかれ、翔一の意識は再び白い空間に戻った。いつの間にかローリーが寄り添っている。
「いきなり激しくするのね。今のでリソース宇宙から小銀河が消滅したわ。えっと勘違いしないでね。もっと激しくしても良いのよ?」
しかしそのローリーの言葉はなかなか翔一の耳に入らない。どうして下着姿? どうして肌を赤く染めている?
「『全宇宙スキャン!』、素敵だったわ。でもあれではあの宇宙のほんの少ししか覗けていないわよ?」
かわいく両手を上げてポーズをきめるローリー。そんなからかうしぐさに「手は上げていないだろ」とムッとするが、指摘されたことは今の翔一には分かる。その空間は遥かに広く、その歴史は遥かに長い。次元も何層も折りなしていた。
しかしそんなことより問題なのは。
翔一は心を決める。
全てを知るということは、何も知る気がおこらなくなるということ。全てができるということは、何もする気がなくなるということ。全知全能の力を際限なく行使していたら、きっと翔一の在りようは翔一ではなくなってしまう。
だから一方。
さきほどから絡みとられた左腕に、ローリーの柔らかなものが押し当てられている。大変に、けしからん。
翔一の在りようが翔一である限り、このあざとい誘惑にいつまでも抗することはできない。欠片もできる気がしない。未来を視るまでもない。
満員電車でしか縁のなかった甘やかで頭が蕩けそうなローリーの香りに鼻を伸ばして。
翔一は、管理番号第F‐500800以下略宇宙のマスターに就くことを、承諾した。