親切
あきらかにその筋の人とわかる恰好の男が乗り込んできた。
その時、電車はかなり混んでいて空席はなく、入り口近くに立っていた一人のお婆さんがその男に身体をぶつけられてよろめいた。
「コラ!どこに目をつけてる、気をつけろ」
男の甲高い声に車内はシーンとなった。しかし男はお婆さんに気づくとすぐに調子を変え、ご機嫌な声で続けた。
「おや、婆さんじゃあないか。こりゃ済まなかったな」
男はまた大きな声を上げた。
「てめえら、ここに今にも死にそうな婆さんがいるっていうのに、誰も席を譲ろうって奴はいねえのか」
男のその声に反応して、直ぐそばに座っていた若い男があわてて立ち上がった。続いてその隣の中年の男性も席を立ち、その場を離れた。他の乗客たちも次々と席を空け、別の車両に移って行った。
その列車はいわゆる通勤快速、車両の両側の窓に沿って座席が一続きになっているタイプだったが、男のそばの席は全部、空いてしまった。
「婆さん、座れよ」
男はガランとしたシートにどっかりと脚を開いて座り、お婆さんを手招きした。
「どうだい、俺も見かけによらず親切なもんだろう」
お婆さんは男を恐れる風もなく、うなずいてすぐ隣に座った。
「そうじゃのう、お前さんも、生まれて初めて良いことをしたな。これには報いてやらずばなるまい」
「面白い事をいうババアだな。生まれて初めて良いことをした、とは確かにその通りかもしれんな。で、何で報いてくれるって言うんだ」
「こう見えてもワシは死神なんじゃ。この電車はもうじき大惨事に見舞われることになっている」
お婆さんはニヤッと笑った。
何をふざけたことを言う、と怒鳴ろうとしたヤクザの目に突然、老婆の本当の姿が映った。黒ずくめの衣装のフードから髑髏が顔を覗かして大鎌をかついだその姿はまさしく死神そのものだった。
しかし、車両の端にまだ何人か残っている乗客が知らんふりをしているところを見ると、死神の姿が見えているのはそのヤクザだけのようだった。
「それじゃあ、俺だけを助けてくれるって言うのか、有り難いこった。婆さんを座らせてやった親切のおかげでね」
「違う、違う。お前が皆を立たせてくれたからだよ。お陰で死ぬ人間が少なくてすんだ。ワシも無益な殺生はしたくないからな」
「死神のクセに死人が減って喜ぶとは可笑しいぜ。で、何人死ぬんだ?」
「たった一人だけになったんだよ。だからお礼に、苦しまずに死なせてやろう」
その瞬間、男の座っている席に、踏み切りを無視した居眠り運転のトラックが突っ込んで来た。