第2話:旅立ち(2)
ヴァナディス神殿国はシフィア王国から西へ真っ直ぐ五日程歩いて辿り着く場所にある。魔王たちはその間にあるルーニス王国を訪れていた。
シフィアの国境を出てから既に三日経つが、ヴァナディスまでまだ程遠い。人目を避けるために敢えて迂回しているとはいえ、まだ中間地点のルーニスにいるのはあまりにも遅過ぎる。
その原因はクリスティーナにあった。城生活の長いクリスティーナは如何に戦闘能力が飛び抜けていても、旅をするのはそこらの商人の方がマシなくらい足手纏いだった。長期の徒歩に慣れてないせいで歩くペースが遅く、野宿も否定的で毎夜どこかの宿屋を探さなければならない。お陰で資金は底を尽き掛けていた。
「魔王様。頼まれたものを買ってまいりました」
「ご苦労」
魔王はクリスティーナに悟られないよう気配を消したセシリーを部屋に招き入れる。魔族とバレないように魔王が渡したコートを脱ぎながら部屋に入ってくる。セシリーから頼んでおいたものを受け取り、満足気に頷く。
「悪くないな。これなら今よりはマシになるだろう」
セシリーが渡したのは女性ものの服と靴。クリスティーナのために態々町で買って来てもらったものだ。クリスティーナの格好は普段コートで隠していても、誰かに見られればそれだけで危険を伴う。シフィアの王とまで判らなくとも、高貴の出であることは子供でも気づけるのだ。
目立つことを避けたかった魔王は、クリスティーナがシャワーを浴びている内に服や靴などを金に替えていた。そのままではすぐに怪しまれるため、なるべく装飾は外してバラバラに売った。時間が経てば足が付くだろうが、今日一日くらいなら大丈夫だ。そして、十分な資金を確保できた魔王は、そのお金で旅用の服と靴をセシリーに買ってきてもらうように頼んだのだ。
「サイズの方も問題ありません。これで動きやすくなるでしょう」
「助かる。女の服や靴など私には分からないからな」
「こんなことでしたらいつもで仰って下さい」
セシリーが言うと、シャワー室から音がする。
「クルス? 誰かいるの?」
セシリーが慌てて魔王の影に入る。
その直後、バスルームから濡れたままのクリスティーナが顔だけ覗かせる。危ないところだった、と魔王は内心ひやひやしながら答える。
「別に誰もいないが?」
「おっかしいなー。気のせいか・・・・・・」
クリスティーナは頭に巻いたタオルで髪を拭きながら部屋に入ってくる。たったそれだけの行動で魔王は激しく狼狽する。
「ななな、なな・・・・・・」
「ななな?」
「何故服を着てこない!?」
クリスティーナは服を着ていなかった。裸ではないが、体をバスタオル一枚だけ巻いている姿は魔王が戸惑うのに十分だ。シャワーを浴びている内に魔王自身がこっそり服を売買していたのだから当然のことだが、まさかタオル一枚だけで部屋に戻ってくるとは思わなかった。
「熱いし」
「熱かろうが服は着ろ。お前には羞恥というものがないのか!」
「部屋にいるのわたしたちだけだし」
「私が困ると言っている!」
魔王の様子にクリスティーナは首を傾げる。そして、ニヤッと口元を吊り上げる。
「もしかして照れてる?」
「そ、その格好は目のやり場に困る。それだけだ」
「胸を見れば良いと思うわよ」
「胸を・・・・・・?」
言われるがままに魔王はクリスティーナの胸を見た。意外にも豊満な胸をしている。普段コートで隠れてたせいで気づかなかったが着痩せするタイプのようだ。腰が括れているのもあってより胸がより大きく見えて―――
「ってちがう!」
「あっはは! クルスってば可愛い!」
そこまで考えて魔王は頭を抱えて絶叫する。そんな魔王を見てクリスティーナは腹を抱えて笑う。
『魔王様。落ち着いてください。バスタオル姿が何だと言うのですか』
「(よく見ろ。濡れているせいでタオルがしっかり体に張り付いてる。体つきがこんなにもはっきり解るのは最早裸を見ているも同然だろう!?)」
『全く違うと思われますが・・・・・・?』
「(何故だ!?)」
『例え全裸で在ろうとも、魔王様は堂々とすべきです。女性経験がお有りなのですからそこまで慌てなくても・・・・・・』
「(経験は・・・・・・確かにある。しかしそう慣れるものではないだろう? 小恥ずかしいというか・・・・・・)」
『今の魔王様はまるで乙女です』
セシリーの言葉に地味に傷ついて項垂れると、丁度クリスティーナも笑うのを止めた。
「クルスがこんなにも奥手だとは思わなかった」
「この局面で襲い掛かる者がいれば、そいつは節操無しだ」
「これで節操無しって・・・・・・」
「何というか、雰囲気がこう、な・・・・・・」
自分でも何を言っているか解らなくなってきた魔王は必死に言葉を探す。
そんな魔王を見たクリスティーナが悪戯を思いついた顔で近づく。そのまま、魔王をベットに押し倒した。
「なっ・・・・・・」
「これなら、雰囲気出る?」
クリスティーナが魔王に覆い被さる。
お互いの顔の間が三十センチ程しかない。そのせいか石鹸と女性特有の香りが魔王の鼻を刺激し、緊張を誘う。
クリスティーナも緊張しているのか顔が強張り、頬がバスルームから出た時よりも赤い。クリスティーナはその姿勢のままジッとこちらを見つめている。この先どうすればいいのか迷っているわけではなく、魔王の反応を窺っているのだ。
「(・・・・・・セシリー。ここはどう対処すべきだ?)」
どうすればいいか冷静に判断できない魔王は、自分の優秀な使い魔に助けを求める。
『抱きましょう』
「(セシリー!?)」
『魔王様。ここで手を出さなければ男が廃ります』
突き放されたような言葉だが、この状況ではそれが最善だと魔王でも思えた。ここで何もしなければ勇気を出したクリスティーナを傷つけることになる。今後一緒に旅をするのに当たって大きな影響が出る。しかし、魔王はクリスティーナの恋人の身体を使っているだけで、決して“クルス”ではない。何をするべきか解っていても理性がそれを許さない。
直視できなくなった魔王は視線を逸らす。左右どちらかに逸らせばいいものを魔王は視線を真下に向けた。そこで魔王は自分の失敗に気づく。目の先には大きな胸の谷間があった。そして、まるで狙ったかのようなタイミングでタオルが開ける。
「ぶっ」
「『子供か!?』」
クリスティーナの裸体を見たと同時に、鼻から血を噴いた魔王に対して女性二人が厳しい突っ込みを入れる。魔王は鼻を押さえ、クリスティーナは突然の血にベットから飛び退いた。
服の袖で鼻血を拭うと既に血が出なくなっていた。出るのも突然ならば、止まるのも突然である。ホッとしながら顔を上げると、クリスティーナと目が合った。だがすぐに視線が外れる。
気まずい空気が出来上がっていた。クリスティーナはタオルを巻き直していたが、頬が赤いままだ。
「――風邪引くといけないから服着るわね」
「ああ」
沈黙に絶えかねたクリスティーナはバスルームへ向かおうとする。その背中に魔王は声を掛ける。
「そうだ。服ならこれを着るといい」
「え?」
先程セシリーに買って来てもらった服をクリスティーナに差し出す。それをクリスティーナは驚いた表情で受け取る。
「これを、わたしに・・・・・・?」
「さっき買ってきた。サイズの方は適当だったから合っているといいのだが・・・・・・ああ、これから寝るには少し窮屈か」
「ううん。そんなことない」
そう言って、クリスティーナははにかんだ顔を隠すように渡した服を抱きしめる。
「早速着てみていい?」
「ああ」
クリスティーナがバスルームへ駆け込む。そして、すぐに出てくる。
「どう? 似合う?」
旅のために選んだ服だが、クリスティーナにはとても似合っていた。
クリスティーナが着ているのは、普通の市場で売られているワンピース状の服だ。動きやすさを重視し、尚且つ一般人に溶け込めるよう敢えて一般で売られている服を見繕った。値が安い割りに素材が良いため長旅でも持つだろう。靴の方も荒道でも対応できるブーツを選んだから、明日は今まで以上に早く目的地に近づける筈だ。
「ああ。良く似合っている」
「えへへ」
たったそれだけで機嫌を元に戻したクリスティーナに魔王は安堵する。
「そういえばさ」
クリスティーナが思い出したかのように言う。
「前着てたわたしの服知らない? さっきから見当たらないんだけど」
キョロキョロと辺りを見渡すクリスティーナに魔王は告げる。
「あれなら売ったぞ」
「売った!?」
クリスティーナの目が驚愕で見開かれる。今度は怒りで顔が真っ赤になる。
「な、何で売ったのよ?」
震える声でクリスティーナは訊ねてきた。何を怒っているのか解らず魔王は素直に答える。
「資金が付き掛けていた。だから金が必要だった」
「だからってわたしの服を売らなくてもいいじゃない!」
「安心しろ。一日で足が付くようなヘマはしていない」
「そういうことじゃなくて・・・・・・」
苛立った声でクリスティーナは言う。
「せめて売る前に一言言ってくれればいいのに」
「それはすまなかった。今買出しにいかなければ市場は閉めてしまうだろうし、何事もなく明日の朝を迎えられるとは限らないから少々焦っていた」
「それはそうだけど・・・・・・」
言いたいことは解るが納得が出来ないといった顔をする。
魔王はクリスティーナの対応に訝しんだ。今の説明は理由がしっかりとした内容なのに、納得いかないというのはどうことなのか。仕方がない、と魔王は更に説明を付け加える。
「それに今泊まっている宿も引き払う金が朝までに必要だったわけで――」
「もうわかったわよ」
魔王の説明を遮り、クリスティーナが疲れたようにベットに倒れ込む。枕に顔を押し付けた姿勢のまま言う。
「疲れたから寝る」
「・・・・・・そうか。なら私はシャワーを浴びるとしよう」
「うん。おやすみ」
「おやすみ」
クリスティーナの背中を見ても不機嫌なのがよく解る。クルスの記憶でもその原因を知ることが出来ない。
――何がいけなかったのだろうか。
魔王には最後まで解らなかった。