第19話:別れ
『銀』が自分目掛けて降下してくるのを魔王は眺めていた。
過失。先程受けた傷が疼き、避ける動作が一歩遅れる。
――間に、合わ――
魔王が目を見開くと、身体に強い衝撃が伝わる。その衝撃と共に身体が宙に浮く。
衝撃の正体はクリスティーナだった。クリスティーナの顔が近くに魔王の眼前に広がる。
それは、安堵の含まれた顔。それがすぐに苦悶に歪んだ。
生暖かい感触が魔王に手に伝わり、視界の端に赤いものが映る。
背中から地面に落ちる。痛みは自然と感じなかった。今の魔王にそんなことを気にする余裕はなかった。
「あ、あぁ・・・・・・」
手を見ると、血でべっとりだった。誰の血かは言うまでもない。
「クリスティーナっ!」
動かないクリスティーナを魔王は地面に横にした。驚愕で目を瞠る。
クリスティーナは呻き、口から血を零す。この短時間で服の殆んどは真っ赤に染まり、右脇腹からはその根源たる血が溢れていた。
特に驚いたのが、傷の深さだ。服の破れた部分から血だけでなく、はっきりと穴が空いているのが判る。そこにある筈の皮膚や、中の肉がごっそり無くなっていた。
クリスティーナは自分の両手で傷口を押さえているが、最早人の手だけで押さえられる大きさではなく、血の流れは当然止まらない。更に血は腹の上以外に、横たわっている底からも急激に広がっている。やはり傷口が腹から背中まで貫通しているのだと気付かされる。目の前の光景は、現実で目の当たりにしながらも、とても刺し傷で出来たとは思えない。
『魔王様っ!』
そして、セシリーの声で、その傷を作った主のことを思い出す。
慌てて視界を彷徨わせると、上空に二本の刃が浮かんでいた。魔王が視線を上げると同時に、二本あった刃がくっ付き、『銀』は元の一本に戻る。
――どうすればいい?
魔王は自分自身に問いかける。
クリスティーナを庇いながらの戦闘は不可能だ。二人でやっても傷一つ負わすことも出来ない『銀』に、魔王一人で立ち向かえるわけがない。逃げに徹するにしても、相手の方が速い。
「(セシリー。何か良い案はあるか!?)」
『どれをとっても最悪ならば、クリスティーナ姫を抱えながら近くの国に逃げるのが良いかと。このままここで止まっていては・・・・・・』
セシリーの言っていることは尤もだった。クリスティーナの容態は一刻を争う。幸いと言っていいかどうかは分からないが、ヴァナディスから走り続けたことによって、魔王はルーニスに大分近い位置にいた。
――人の集まる場所へ行けば或いは引く可能性もある。
方針が決まったところで、魔王は早速行動に移そうとすると、
「・・・・・・何だ?」
暫く静観していた『銀』が切先を真上に向け、遥か上空へと飛翔する。そして、ヴァナディスの時と同じようにどこかへ消えてしまう。攻撃に備えて身構えたが、戻ってくる様子もなく、どうすればいいのか解らなくなる。執拗に狙ってきただけに、あっさりしすぎて魔王は腑に落ちなかった。
『・・・・・・帰ったのでしょうか?』
「(わからない)」
『それでも、やることは同じです』
「(わかっている!)」
魔王はクリスティーナの傷口に柔らかい布などを押し当て、きつく締める。それでも見える速度で赤い染みが広がっていくのが解る。
――こんなことを繰り返していても意味はない。
すぐにでも移動しなければ、とクリスティーナを抱えようと手を伸ばした途端、その手を掴まれる。
「待っ、て・・・・・・」
「何だ? 辛いだろうが少し我慢してくれ。今からルーニスに向かって医者を見つければまだ何とか――」
「もう・・・・・・間に合わ、ない」
クリスティーナの顔は蒼白となっていた。掴む手も、ゾッとする程冷たい。
「何を、言っているんだ・・・・・・」
魔王は震える声で言った。
「諦めるなっ! まだ、まだこれから走れば――」
「わたしはフェルミアさんじゃない!」
「!?」
急に叫んでクリスティーナは咳き込み、血を吐く。
「わたしは、人間。魔族じゃない。こんだけ、血を流して――長い間生きれないよ」
悲痛に顔を歪めながら、クリスティーナは言葉を漏らす。
「だから、今の内に言えることだけ、伝えようと思う」
「・・・・・・」
魔王は何も言えない。
クリスティーナの言っていたことが、事実だと悟ってしまったからだ。冷たい身体に、止まることのない血の流れ。その全てがフェルミアの時と同じ。
もう、助からない。助けることが出来ない――今回も、魔王は無力だ。
だから、その最後の言葉だけはしっかり耳に傾けた。
「ずっと、考えてた。どうやったら・・・・・・人間と魔族が、いがみ合わなくなる、のか」
クリスティーナの息が少しずつ荒くなる。
「お互いが、全く別の生き物だって、思い込んでるから・・・・・・敵対する。だったら、共存すればいい」
「共存・・・・・・」
クリスティーナの言葉を自ら口にしてみる。
共存。
確かに、人間と魔族の二つの種族をまとめて共存共栄できれば、武器を取り合わない方法でも争いを回避することが出来るかもしれない。しかし、それが出来ないからこそ、大戦は起きた。
それに、例え共存が現実となっても問題が浮上してくる。大陸中では人間の国がいくつも存在するが、決して全ての国が共存しているわけはない。ほんの一部の国を除けば建前の条約があるだけで、そこに共存の意思はない。お互いに武器の切先を向け、牽制し合うことで戦争の抑止力になっているに過ぎない。火種が一つ見つかるだけでいつでも戦いは始まる。
上辺だけの平和。それが、大陸の現状だった。
「人間同士、魔族同士でも、色んな勢力がある。なら――」
クリスティーナの瞳に力強い光るが宿る。
「大陸――いえ、『ディオ・リナ』そのものを一つの国に纏めればいい」
「何だと!?」
クリスティーナのとんでもない提案に魔王は驚きを隠せない。そんな魔王とは正反対に辛そうな顔をしながらも、クリスティーナは微笑もうとする。
「そして、その国の王は、あなたよ」
「私が・・・・・・?」
「今は、人間でも魔族でもあるクルスだからよ。大丈夫、あなたならきっと――ごぶ、ごほっ」
「クリスティーナ!」
急に咳き込むクリスティーナ。顔色も見る見るうちに悪くなっていく。
「もう・・・・・・時間みたいね」
「・・・・・・」
分かっていても、かける言葉が見つからない魔王。
代わりに、クリスティーナの方が声をかける。
「セシリー」
「はい」
突然呼ばれたセシリーが魔王の影から出てくる。クリスティーナは視線だけセシリーに向ける。
「わたしの剣、あなたにあげる。自分の武器、なくしちゃったんでしょ?」
「・・・・・・ありがとうございます、クリスティーナ姫――いえ、クリスティーナ様」
「様付けなんて、何だか照れるなぁ。ごめんね、こんなものしかあげられなくて」
「そんな・・・・・・わたくしには勿体ないくらいです」
「そういってもらえると助かるわ」
クリスティーナが魔王へと向き直る。
「さよなら、は・・・・・・辛いから言わないね」
「ああ」
「この数日間――短かったけど、楽しかった。・・・・・・クルスは?」
「私も、とても充実した日々を送れた」
「そっか――」
なら、良かった。そう最後に言った気がした。
唇だけ動き、声にならなかったためうまく聞き取れなかった。眠ったように閉じた目から一筋の涙が零れる。魔王はそれを指先で拭き取ると、ポツポツとクリスティーナの顔に涙が落ちる。
「出来ることなら、もっと一緒にいたかった」
魔王は暫く顔を上げることが出来なかった。
『神殺し』は殆んど原型を留めていない森林地帯で静かに腰を下ろした。
そこは先程まで戦闘が行われたとは思えない程静寂としている。しかし、数分前まであった筈の木々や草などが、文字通り原型なく消失していた。『神殺し』と神による戦闘の凄まじさが物語っている。
『神殺し』の傍に一体の天使が降りてくる。
「こんなところにいましたの」
「リンナか」
見知った天使の登場に表情一つ変えず、『神殺し』はただ顔を上げる。
「リンナか、ではありません。突然いなくなったら心配します」
「一人になりたかったからな」
「ふてくされるのは戻ってからにしてください」
「そういうわけではない」
『神殺し』は下ろしたばかりの腰を上げる。土を払い、堕天使の集まる場所へ足を向けようと動き出す。
「あら、戻るんですか?」
「リンナが戻れと言ったんじゃないか」
「素直過ぎるとちょっと面白くないなーと思いまして」
リンナはそういって苦笑する。
彼女らしい行動に『神殺し』はいつものように反応できない。今はそんな余裕はない。
「・・・・・・逃がしてしまいましたね」
「ああ」
『神殺し』の反応を見ても仕方ないと思ったのか、リンナは話題を急に変えてくる。『神殺し』も変に慰められるよりは、こちらの方が平常でいられた。
フレイアースには逃げられた。どういった手段を取られたのか不明だが、大きい一撃をお見舞いした一歩手前のところで間に合わなかった。天使の死骸を残してフレイアースは今頃ヴァナディスに戻っているところだろう。折角のチャンスを逃したことに、『神殺し』は顔には出さないまま苛立ちが募った。
「今回も、仇は取れなかったな」
「そう、ですね・・・・・・」
今日こそは、と思っていざ出てみれば、傷一つ負わすことなく逃げられてしまった。
――いつになれば、仇が取れるんだ。
『神殺し』は自問する。敗北の度に思う、この疑問は数百年前から変わることはない。本当にいつまでこんなことが続くのだろうか。
そんな落ち込む様子を読み取ったのか、リンナが口を開く。
「“彼女”の情報は確かでしたね」
「そうだな」
『神殺し』たちが拠点とするローレンツェルの大聖堂に突如現れた“彼女”のことを思い出す。
突然現れ、名前とこちらの欲する情報だけ一方的に伝えて消えた魔族の少女。その真意を確認している内に、転移門を使わなければならない事態になった。もっと早く信じていれば、と思わなくもないが、それを言っていてはきりがない。
「彼女の目的はおそらく、フレイアースに追われていた二人組みの救出だろうな」
「でしょうね。だから、フレイアースに敵意のある我々に情報を流し、利用した・・・・・・」
「そう考えるのが妥当だな。・・・・・・なら、こちらも利用させてもらう。フレイアースが直々に現れてまで狙う人間となると、余程のことがあるに違いない」
嘗て利用された身として、『神殺し』に不安がよぎる。
フレイアースによって引き起こされる事態の大きさに、それに巻き込まれて逃れられない運命に翻弄されることに――よく知らぬ人物だとしても、自分と同じ目に合わせたくはなかった。
「あの二人組みに心当たりはあるか?」
「女性の方でしたら。先日から行方不明のシフィア王国のクリスティーナ王かと。男性の方は一緒に国を出てきた護衛かもしれません」
リンナはあっさりと答えてくれた。
クリスティーナ、という名には『神殺し』にも心当たりがあった。
「大戦で魔王を倒した女王だったか」
「そうですね」
「・・・・・・それが理由か」
魔王を倒すほどの力を持っているのであれば、いくらでも利用の仕方がある。
しかし――
「それ程強いとは思えなかったが」
「捏造・・・・・・ではないと思います。現に元シフィア王城地下にシフィアの魔術式で魔王が封印されていますから」
「まあいい。本人に聞いてみればいいだけの話だ。今からでも追跡は出来るか?」
「そういうと思ってフレイアースに逃げられた直後に追わせました」
無理を承知で頼んで意外な言葉が返ってくる。準備の良さに『神殺し』はリンナの優秀さを改めて知る。
「それで?」
「・・・・・・全滅です。全員胸に綺麗過ぎる大きな刺し傷がありました」
「この件に『銀』まで動いているのか。どうなってる・・・・・・」
神に、古き生きる伝説まで絡む事態に『神殺し』は唸る。
ただでさえフレイアースとの戦いの後で遅れているのに、今更追ってを出しても目標に追いつくことは不可能に近い。
「彼女なら、何か知っているのだろうな」
「そうですね。こういった事態を想定して私たちをここに来るように仕向けたんですから――」
リンナが嘆息する。
「一体どこにいるのでしょうね、フェルミアさんは」
フレイアースは、もう息をしていないクリスティーナを見下ろしていた。
剣やリュックなどの荷物はなく、遺体にはコートが一枚上に掛けられているだけだった。
掛けられたコートを剥がし、全身を隅々まで見る。顔だけ見れば、寝ているだけの穏やかな姿。だが、首より下は右脇腹が痛々しく穿かれ、そこから溢れた血によって服の殆んどが真っ赤な染みになっている。
分かっていても、実際に見るとまた違ったショックがそこにあった。
「・・・・・・間に合いませんでしたか」
「いやいやいやギリギリでしたよこれがっ!」
フレイアースの零した言葉に、過剰に反応を示す者がいた。クリスティーナの横に大きな闇が広がり、そこから人ではない生き物が這い上がってくる。
サソリだ。しかし、普通のサソリの何倍も大きく、ハサミは人の胴体でも容易く切り落とすことが出来るくらい巨大だ。尾には見える程の針があり、刺されれば毒に拘らず死ぬに違いない。そして、その巨大な尾にはサソリには似つかない光の塊が抱えられていた。
ただでさえ気味が悪いものが大きくなって現れたことに、フレイアースは不快な顔を隠すことなく向き合う。
「門を潜る直前でオレッチのハサミでキャッチ! もうもうもうあれはヤバかったねっ!」
「ワタクシは生きた彼女がほしかったのです」
「問題ない! ほらほらほら、これ頼まれたもの!」
サソリは尾に巻いた光の塊をフレイアースへと渡す。頼んだものを受け取るだけで、どうしてこんなに疲れないといけないのかフレイアースには不思議でならなかった。
「それじゃオレッチは帰るね!」
「ご苦労様でした」
やっと開放される、と思いきや、サソリが再び開いた闇へと戻ろうとしたところで足を止める。
「どうかしましたか?」
「そうそうそう! 主からの伝言忘れてた! フレイアース様の条件で取引は成立だってさ!」
「そうですか・・・・・・門番によろしく言っておいてください」
「了解さっ!」
サソリが消えたのを確認してからフレイアースは重い溜息をつく。このまま帰ってすぐにでも寝てしまい衝動に駆られるが、フレイアースは作業を優先した。
光の塊を持たない方の手を、フレイアースはクリスティーナの前に翳す。ヴァナディスの魔法陣がクリスティーナの下に浮かび上がり、身体を黄色い光が包み込む。
「リスクの高い買い物をしてしまいました」
フレイアースは一人愚痴のように言葉を漏らす。
今回のことに、フレイアースは死者を司る門の番人と取引を交わした。先程来たサソリはその門番の眷属だ。『ウィルフレド・イマ』の神といえど、冥界『ハルロード・ヘルネ』に関しては口出し出来ない。全ての決定権は門番によって定められている。そのため、死者の魂を再び取り戻すには、門番を通じてそれ相応のリスクを支払わなければならなかった。
「それでも、これは成し遂げねばならないのです」
強い意志を込め、フレイアースはクリスティーナに光の塊を落とす。
光は増し、フレイアースは思わず目を閉じる。その時、クリスティーナの指先がピクリと動いた。