上層区画
かかった時間は、ほんの一瞬だった。
深海の底を抜けるように、ある一点で引力から解放される。
『感覚変換』によってアクセスするデータの海の最深層──情報圧縮による超高速処理空間へと到達したのだ。
そこは世界を裏返したような空間だった。球状の情報境界面の内側に、ヴァーチャル・リアリティで再現された『世界』が張り付いている。上を見上げれば、青い空の代わりに反対側の大地が見えた。
このような球状世界は『思考空間』内にいくつも存在するが、現実におけるメガシティ単位でそれぞれが個々の空間として独立している。
竜胆館学院からアクセスできるのは、東京二十三区をモデルにした『トーキョー・スフィア』。陸朗たちが今いるのは、イケブクロ・エリアと呼ばれる区画だった。
彼にしてみれば、慣れ親しんだ場所であり、世界の文字通り裏側にある『もう一つの現実』だ。
「くっ……!?」
軽いめまいに、顔をしかめる。
気づいたときには、もう自分も生徒会長もペルソナアバターをその身にまとっていた。
思考内デスクトップには、周囲にペルソナクラインのバトルフィールドが展開されたことを示すシグナルが表示されている。
さっき、自分を一蹴したあのペルソナアバター、『剣の魔女』。彼女が、自分のすぐ近くにいる。
当たり前だ。掌を重ねて行うバディ・リアクトで、彼女によってスフィアへと半強制的に連れてこられたのだから。
半ば混乱したまま繋がれていた手を振り払い、彼女から距離を取った。
「……つれないなぁ。女の子に、この仕打ちはないんじゃない?」
そう言って彼女はふふん、と鼻を鳴らす。
「まったく……ここは「怪我はないかい、マイハニー」とか気を遣ってくれるところだろ?」
「そういうの、似合わないでしょう? だいたい呼ばれたいんですか、マイハニーって?」
「……いやごめん、僕が悪かった」
呼ばれたところを想像したのだろう。秋月雪乃ことストレーガは、げんなりとした様子でこめかみのあたりを抑えてかぶりを振った。
彼女のアバターは今、オペラピンクの刃状装甲ドレスの上から、ダークグレーのフード付きマントを羽織っている。妙に地味な色のマントであるあたり、どうやら正体を隠しているつもりらしい。
「その格好は?」
「さっきの今だからね。キミに壊されたダミー・アバター、修復してないんだよ。もう要らないけどね、キミがいるから」
「はぁ」
「……覇気がないねぇ。しっかりしてよ、男の子だろ?」
「セクシャルなハラスメントですよそれ」
「おまけにパワハラもつけてあげようか?」
「あんたが言うとシャレになってません」
その気になれば、陸朗本人はおろか、彼の親を路頭に迷わせるくらいは簡単にやってのけるだろう。
秋月の息女というのは、それくらいのビッグネームなのだ。学生である陸朗ですら知っているレベルの。
「ガチ反応されるとわりと傷つくなぁ。まぁいいや、じゃあ出かけよう。僕についてきてくれ」
くるりと踵を返して、歩き始めるストレーガ。
その背中を追いかけながら、陸朗は周囲に視線を走らせる。
見慣れたはずのイケブクロ・エリアの光景。だというのに、いつも一人で歩いていたこの場所が、少し違って見える。
どこに連れて行かれるのか、陸朗は聞けなかった。尋ねるタイミングは、すでに逸していた。必要ならば、向こうから説明をしているだろうとは思うが……しないということは、黙ってついてきて欲しいということなのかもしれない。
(……どこまで本気だ?)
僕のものになれ。さっき、彼女は確かにそう言った。
だが、その言葉の真意は見えてこない。目的と意図がさっぱりと分からなかった。
どんな理由で、何のために、彼女は自分が必要なのか。理解できないことばかりで、胸の内がもやもやする。しかしそれでも負けは負け、彼女の言うことは聞かねばならない。
もちろん正直に言えば、逃げてしまいたかったが。
「……どうしたもんかな」
「何か言ったかい?」
「いえ、別に」
フードを被った頭が、もぞっと動いた。後ろを振り向いたようだが、フードに邪魔をされてこちらが見えず、諦めて前を向き直したらしい。
「心配しなくてもいい。もうすぐ着くよ」
背中でそう語ってから、ストレーガは足を止める。
彼女は二十メートルほど先にある、大きな建物を指差した。長さが不揃いな円柱を無数に束ねたような、天にそびえる巨塔。
それが何であるか、陸朗にも覚えがあった。
「『統合転送機構』です……よね?」
「さすがに知ってるか」
「そりゃ知ってます。もっとも、あまり近付きませんけど。こういう上層区画への入り口って、俺には縁がないですし」
「縁がない、か。だろうね」
二人が今歩いてきたのは、現実でいうところの都道四四一号線、俗に『立教通り』とか『要町通り』と呼ばれている道だった。
その道を要町方面から歩いて十数分ほどで着いたこの場所が、池袋駅西口──仮想空間における移動システム、『統合転送機構』だ。
「って、まさか上層区画に行くんですか?」
「そだよ。あ、切符買ってね切符。クレジットある? ないなら貸すけど」
「いえ、それは大丈夫ですが……そもそも俺、ランカーじゃないから上層区画入れませんよ?」
『上層区画』とは、『ペルソナクライン』内から見て、仮想現実ネットワークの中枢管理領域にもっと近い、情報的に安定した状態にあるエリアを指す。
内部のアバターから見ると、球状世界として構築されたスフィアの中心に浮かんでいる、多層構造物として存在していた。
そんな上層区画へ入るためには、一つだけ条件がある。
対戦勝利によって獲得できるアバターポイントが一定値以上ある『ランカー』以外は、入場ゲートで弾かれてしまうのだ。これは建前上、初心者を保護するための制約だが、誰もその建前を信じてはいない。
実質的に上層区画でのゲームプレイは、一定以上の実力を持つ存在への特典である──そういう認識がまかり通っていた。
ジェット・バレルがホームとしている、最下層フィールドでは、このアバターポイントがほとんど溜まらない。
ゆえに実力はさておき、公のランキングにおいてジェット・バレルというアバターは、上層区画へ侵入する資格を持っていないというわけだ。
「その辺は大丈夫。さっき、歩きながら僕とパートナー登録しておいたからね。手ぬかりはないさ」
「俺の都合は無視ですか。それに上って、そんな急に言われても困るんですけど……」
「そういう反応を予想していたからね、説得と説明が面倒だし黙ってた。ま、これも賭けの負け金の内だと思ってさ、ついてきてよ」
「わ、わかりましたよ」
賭けの結果、今のジェット・バレルはその身分を『魔女』の所有物に甘んじている。無論、望んではいないし納得もしていないが、賭けの結果を反故にするほど、陸朗の性根は腐っていない。
おまけに互いに『現実バレ』しているのだ、逃げ場はない。
ならば負けは負け、よほど無体なことでなければ従うのが得策だろうと、彼はこの状況に折り合いをつけていた。
改めて見直すと、結構誤字脱字多いですね……。