水銀龍
状況を理解するのに、少しかかった。五秒か、あるいは十秒か。
こんなことが起こるだなんて、想像だにしていなかったのだから、無理もない。
あの『剣の魔女』が、仰向けになって倒れていた。輝くオペラ色の装甲は見る影もないほど傷だらけになり、激戦をくぐり抜けてきたことが容易に見て取れた。
考えてもみれば、ジェット・バレルの倒したガウェインとその手回り四人を除き、残り九十人近いアバターをたった一人で相手にしていたのだ。負けずとも傷ぐらいはつこうというもの。
むしろ中枢部には一切攻撃を通さず、すべて装甲表面まででダメージを止めているこの状態は、神がかり的な戦いぶりと言えた。
「う……」
「か、会長!?」
頭を振りながら、ゆっくりと身を起こすストレーガ。
どうやら意識を飛ばしていたようで、両目が落ち着きなく動いて周囲の様子を探っていた。
「くそっ、直撃をもらうとは……って、ジェット! どうしてここに!?」
「どうしてというか、俺のいたところにあんたが降ってきたんですか」
「ああ、そうか……こりゃ、格好悪いところ見られちゃったな」
よっこらせ、などとおどけたような声を出しながら、スラスターを軽く吹かして横着に立ち上がる。
両手に握る剣と盾の感触を確かめながら、彼女はふと気付いたように尋ねた。
「どうしてここに? あ、もしかしてガウェインを振り切ってきたのかい? よく逃げ切れたね」
「いや、その……」
倒してきたと反論しかけたものの、普通はそう思うよなと一瞬考えてしまった。
「ガウェインの相手は辛いだろうけど、もうひと頑張りしてくれないかな。悪いね、こっちはもう少しかかりそうだ。思ったより手こずってる」
よく見ると、ストレーガの手足は細かく痙攣していた。あまりにも多数の相手と戦いすぎて、アバター末端の制御にあそびが出始めているのだ。
一対一では無敵と豪語し、実際それだけの実力を持つ彼女だが、一対一を十度二十度と繰り返すような『領土戦』で無事であるというわけはない。
ましてや、一対多を強いられた状況も無数にあったはずだ。初めのうちは調子がよくても、いつか必ず傷を負う。その結果が、今のボロボロになったドレス状装甲なのだ。
思ったよりも手こずっている──というのは、かなり控え目な表現だろう。
そもそもが無茶な戦いなのだ。
『白銀騎士団』の中核部隊ほぼ全員を、たった一人で相手にするなど、彼女以外が口にしたら正気だとは思われないのは間違いない。
だがその無謀を現実に変えつつあるのが、今のストレーガだった。
剣はあちこちが刃こぼれし、盾など傷ついていないところが見当たらない。
どれだけの敵を斬り、殴ればこうなるのか。想像すらできなかった。
「どうしたんだい? 戦いはまだ続いているよ、呆けるのはよくないな」
「あ……そうじゃなくて! 俺、倒しました。倒したんです!」
「?」
「だから、倒したんです! ガウェインを!」
仮面のせいで表情の見えないペルソナアバターだが、今彼女がどんな顔をしているかなど、見なくても分かる。
さぞかし怪訝そうな表情を浮かべていることだろう。
しかし、本当のことなのだ。信じてもらえない苛立ちから、ついつい声が荒くなる。
首級の一つでも獲ってくればよかったかもしれないが、あいにく首は『ストライク・ワン』の砲撃で吹き飛ばしてしまった。
「本当だ! 本当に俺は、あいつを……」
「ッ! 下がって! 下がれッ!!」
「え?」
突然、ストレーガの悲鳴じみた怒鳴り声を聞いた瞬間、身体が浮いたのを感じた。
なにをされたのかわからなかった。ゴッ、と鈍い音がしたと思えば、ストレーガの盾が腹にめり込んでいる。耐えるという考えにすら至らないうちに殴り飛ばされていた。
片腕で抜き打ち気味に殴りつけられただけで、軽々と五、六メートルは吹っ飛ぶジェット・バレル。なにをされたのか分からず、混乱する。
「な、何でこんないきなりっ!?」
「動くなっ!!」
ストレーガが立ち上がろうとした彼を鋭く静止したそのとき、目の前を一条の閃光が突き抜けた。
「なあっ!?」
鼻の先スレスレを、エネルギーの塊が通過していく。
いや、塊というよりもこれは刃だ。触れたものを切り裂き削り取るような、まるで刃のように鋭い光の奔流。
街と亡骸を吹き飛ばし、粉みじんに粉砕する。
そのまま膨大な熱量によって物質の気化さえ起こす、悪魔のような神々しい光。
「う、うわ……い、今のは!?」
一体なにが起きたのか。攻撃を受けたのは間違いないが、これほどの破壊力を持った武装に心当たりがない。
攻城兵器である自身の重火砲『ストライク・ワン』とて、ここまでの破壊を行うことなど無理だ。
「……『詠唱兵装・斬撃魔術』だ」
地面に刻まれた、底が見えないほど深い谷を隔てた向こう側で、ストレーガが呟いた。
彼女の口にした『詠唱兵装』という単語に、思い当たるものがあった。
それはかなり昔に流行った、大規模戦闘向け攻撃スキルのことだ。
『詠唱兵装』という言葉どおり、攻撃用プログラムを吟じることで、超常現象に近い破壊を引き起こす。
まさしくそれは『魔法』以外のなにものでもなかった。
しかし反面、使用する攻撃用プログラムは非常に高度かつ複雑であり、データ容量も多い。
『詠唱兵装』を使うための特殊なロジックを積んだ専用のキャスター・フレームは、ほかの全てのステータスを犠牲にしてプログラム処理にリソースを回していたため、対戦シーンで高速打撃戦闘が主流になるにつれ、廃れていった。
それに、当時の『詠唱兵装』は、いくらなんでもここまでの破壊力は持っていなかったはずだ。
これほどの大規模破壊を行うのは、相当なカスタマイズが行われている証拠。生半可なチューニングでは、ここまでにはならない。
それこそアバター・ランキングのトップクラスに載るような、この『ペルソナクライン』にかけるひたむきな情熱が必要だろう。
そして今、このイケブクロ・エリアでそれほどの情念を抱えたアバターなど、一人しかいない。
ストレーガを見る。彼女は静かに頷いた。
「来るよ、あいつがね……!」
一直線に切り裂いた地面に向こうに、一人のアバターが立っていた。
ハイヒールのような足先をかつりかつりと鳴らしながら、ゆっくりとこちらに近付いてくる。
それはまさしく異形のペルソナアバターだった。
大きく広がっている、三角形を組み合わせた翼のようなものは装甲板だろうか?
腰の後ろから生えた長いスタビライザーをまるで尻尾のように引き摺っている。
頭部の仮面を飾っている冠は、あたかも角のように見えた。
手にする杖の先端からは、死神の鎌のごとき光刃が伸びている。
「会長、印象が……なにか全然違うんですが?」
「装甲外套が開いてるんだよ。あいつの戦闘形態だ」
戦闘形態。つまりは、今こそ“彼女”は本気を出しているということなのか。
どちらにせよ、それはジェット・バレルが知っている姿とは、ずいぶん違っていた。
「あれが『聖銀の女皇』の正体……いや、もともとの姿さ。僕とつるんでいたころのあいつの姿。人はあいつを……『水銀龍』と呼んだ」