魔女からの伝言
高層ビルのエレベーターに乗っているような浮遊感と共に、意識が現実へと引き戻される。
『感覚変換』によるヴァーチャル・リアリティ空間『思考空間』へのアクセスを終えたジェット・バレル──真壁陸朗は、ゆっくりと眼鏡の奥にある両目を開いた。
「……何時だ?」
時間の感覚が狂っている。直前までやっていたことを、よく思い出せなかった。
『思考空間』の最深部──現実よりも時間が速く流れる仮想空間にダイブしていると、こういうことがよく起こる。
あちらの感覚で半日以上潜っていたから、現実では一時間ちょっとは経っているはずだ。
左手に装着した極薄の『掌装着型端末』に意識を送り、思考内デスクトップの時計をホロ・モニタ上に呼び出す。四時四十二分だった。
「ちょうど一時間、だな」
陸朗がいるのは、自分が通っている学校──竜胆館学院高校の図書館だ。
人気のあまりない、この奥まった個人用読書ブースから『思考空間』へアクセスするのが、入学以来二年間続けてきた、陸朗の日課だった。
家よりも回線が太く、快適な環境でグローバルネットを利用できる、というのがその理由だ。
普通の生徒の中には、学校側にログを取られるのがイヤだからという理由で、学校からの『思考空間』へのアクセスを控える者が少なくない。繋ぐのは陸朗のように開き直っている人間がほとんどだ。
もっとも陸朗にしてみれば願ったり叶ったりだ。どこだろうが、回線は太くて軽いほうがいいに決まってる。
だから学校でもやるというよりは、学校こそが彼にとって『ペルソナクライン』をプレイするために適した環境だった。
「さて、どうすっかな……」
『日課』を終えたはいいが、中途半端に時間が空いてしまった。
家に帰るにはまだ早い。かといってもう一回『ペルソナクライン』にログインしたら、おそらく戻ってくる頃には運動部の帰宅と鉢合わせになるだろう。
ああいう連中と、わざわざ同じバスに乗るのもバカバカしい話だ。
それに──今日はもう、ログインしたい気分ではなかった。
こつこつと机を叩きながら、窓の外へと目を向ける。赤い夕日を受けてまぶしそうに目を細めた、少し神経質そうな面差しをした少年がそこには映っていた。毎日見飽きた顔──どこにでもいる、どこにでもある顔だ。
しかしいつもならば『思考空間』から戻って来たあと、どこか鬱屈としたものを溜め込んでいたはずの顔が、今日はやけにすっきりとしているように見える。
理由ははっきりしていた。今日唯一の黒星のせいだ。
「……なんだありゃ、バケモノか」
ゴウト・ホーン、いやストレーガのことを思い出すと、苦笑しか出ない。
『剣の魔女』──『ペルソナクライン』をプレイする者にとって、その名前は絶対のビッグネームだ。伝説の存在とさえ言っていい。
理由は単純明快、その強さこそが伝説の根源だった。
『ペルソナクライン』黎明期より数万戦におよぶ対戦経験がありながら、一対一の戦いにおいては、ただのひとつの敗戦もなし。そんな信じがたい記録を持つ。
間違いなく世界最強のペルソナアバターのひとりに数えられる存在だ。
さっきの対戦でも、その片鱗はいかんなく発揮されていた。
実際のところ、彼女が本気を見せたのはほんの一瞬。
だが、それだけで十分すぎるほどに圧倒的だった。これが最高位ランカーの実力かと、格の差が身に染みた。
しかし、それゆえに疑念がある。
(……あいつ、俺を試していた。でも、なんで?)
試されている──あのとき、そう感じたのは気のせいではなかった。
斬り捨てられる寸前、彼女はたしかに言っていたのを覚えている。陸朗こそ、自分が探し求めていた相手だと。
しかしその言葉を丸ごと信じる気には、到底なれなかった。
理由がないのだ。
トップクラスのペルソナアバターである彼女が考えていることなど想像すらできないが、少なくとも自分のような最下層アバターにわざわざ会いに来る必要があるとは思えない。
目的がわからない。腹の底が見えないというのは、不気味だ。
「でもまぁ、二度と関わらなければ別に……」
その時だった。
ぴりっと、指先が痺れるような感覚。『掌装着型端末』に、グローバル・ネットワークからのアクセスがあったことを示す着信信号だった。
ホロ・モニタ上のメール・クライアントを開き、発信者を確認するも、名前がない。見慣れない数字が羅列されただけの、無味乾燥なメールアドレスだけが記されている。
仕方なく、アンチ・ウィルスソフトでチェックをかけながらメールを開いてみると、そこにはごく短い文章だけが記されていた。
『勝ったのは、僕だよ』
読んだ瞬間、顔が一瞬で青ざめたのが分かる。
まるでこちらの行動を読んでいるかのようで気味が悪い。そして何よりも、相手はこちらのメールアドレスすら把握している。
考えを改めなくてはならない──少なくとも、自分を探していたのは事実のようだと、認識を改めなくてはならない。
もっとも悪いことばかりではない、わかったこともある。
今メールが送られてきたアドレスは、学校のほうで管理されている、いわばクローズドなものだ。
普通に考えるなら、陸朗が『ペルソナクライン』にログインするために使っているメールアドレスのほうに送ってくるはず。プレイヤー同士、そうするのが自然だ。
しかし、そうはしなかった。
ゲーム用ではなく学校用のアドレスに送った──つまり相手は『真壁陸朗』こそが『黒い銃身』であると、知っていることになる。そして、それを誇示している。
(もしかして、同じ学校なのか?)
学校で使っているメールアドレスは基本、一般には公開されないローカルな情報だ。流出の可能性を除けば、そのアドレスを知ることができるのは学校関係者と、その家族ぐらいのものだろう。
そして今この場で、こんなにもタイミングを図ったようなメールを送ってこれるのだから、もはや生徒であるとしか考えられなかった。
「ど、どこから……ッ!?」
思わず椅子から立ち上がり、あたりを見回す。だが今いるのは図書館の奥にある個人用ブース。人気がないからこそ、この場所を好んでいるのだから、他人の姿など見つかるはずもない。
諦めきれずになおもきょろきょろと視線を動かしていると、またしても指先に振動を感じた。
『そこから出て、校舎に来てくれないかな』
またしても、同じ発信者──ストレーガからのメールだ。内容はまた一文、言葉足らずの短いもの。だが今回は、彼女が何を考えているのか少しだけわかる。
「……会おうっていうのか、俺と?」
ごくりと唾を飲み込む。今の状況下で、このメールの示す意味はそれしかない。だがそれは陸朗にしてみれば、大胆な提案としか言いようがない。
普通、ヴァーチャル・リアリティ・アプリケーションのプレイヤーは『現実バレ』を極力避ける。
トラブルを避ける知恵というやつだ。
一昔前など、ネットリテラシーが周知されていなかったせいで、ネット内でのトラブルを現実に持ち込み、果ては刃傷沙汰になった例すらある。
だから今では自分のプライバシーを隠し、セキュリティを高めて自衛するというのは、やって当然レベルの常識となっていた。
にもかかわらず、だ。ストレーガは大胆にも、陸朗を呼びつけようとしている。
悪意──さらし者にしてやろうとか、邪悪な意図はそこにないだろう。
この学校に何人『ペルソナクライン』のプレイヤーがいるのかはわからないが、もともとマニアックなゲームなのだ。ロンチしてからすでに数年経っているゲームなのだし、さほど多いとは思えない。
ましてその少ない中から、現時点で陸朗とジェット・バレルを結びつけることができる人間は、部外者では皆無のはず。
そして、そんな陸朗でもわかっていることを、あのストレーガが理解していないとは思えない。だから、このメールに悪意はないはずだった。
とはいえ──ここまでいいように彼を翻弄しているのだ。陸朗よりも頭が切れるのは確実だろう。
その意味では、正直言って油断のならない相手ではある。
「……どうする?」
もう一度、ホロ・モニタ状に表示されているメールに意識を向ける。
この誘いを受けるか否か。
見えない岐路が、自分の前に今、横たわっている気がした。
しかし相手は待っている。結論を先送りにはできない。
「くそ……!」
そして、十数分後。陸朗はストレーガからの数回のメールによって、校舎のあちこちを歩き回らされていた。
まばらだった人影はほとんどいなくなり、しんとした静寂が廊下を満たしている。
いつまでこんなことを続けさせる気なのか──だんだん腹が立ってくる。
何度も帰ってしまおうと思ったが、そのたびに絶妙のタイミングで次の指示を送ってくるのだ。
まるで陸朗の様子を、どこかから見ているかのように。
激情のままに動くのは簡単だが、かといって、ここまで自分を把握し尽くしている相手を野放しにしておくのは、気持ちが悪い。
それにプライドもあった。ネットワーク・セキュリティを含め、陸朗は自分のプログラミング技術にかなりの自信を持っている。そのスキルを生かすために、『ペルソナ・クライン』ではイリーガル・プログラム使いの集うイケブクロ・エリアを主戦場にしていたくらいだ。
だがそんな自慢のセキュリティを、彼女は易々と抜けてきた。
どのような『裏技』を使ったのか、興味をそそられている自分もまた否定できなかった。
『お待たせ。そこがゴールだ』
最新のメッセージに書かれたその言葉に導かれて、陸朗が辿り着いた場所。
そこは他の教室のような自動ドアではなく、今時オートロックすらついていない、古めかしい両開きの扉の前だった。
ただ古い──というわけはもちろんなく、立派な彫刻の施された天井まである木製の扉は、陸朗のような人間が見ても金がかかっていることだけはわかる。磨き込まれた輝きからは、上品ささえ感じられた。
「ここは……」
来るのは初めての場所だ。しかし、ここがどういう部屋なのかは知っている。縁がないから、近寄ったことがないだけだ。
生徒会室──その部屋には、そう書かれた金属のプレートがはめ込まれていた。そう、ここは城。生徒会の、そして生徒会長の城だ。
この学校、『竜胆館学院』において、『生徒会長』という役職は特別な意味を持つ。
いや、正確に言えば今代の生徒会長を務める少女が、特別な存在だった。
彼女は実力、家柄、そして一般生徒から圧倒的な支持を背景に生徒自治を差配する絶対権力者であり、まるで漫画かアニメのような偉業を体現する、校内のカリスマだ。
曰く、『完全無欠』。
曰く、『最強の生徒会長』。
曰く、『生まれついての女王』などなど。
彼女を称える言葉は枚挙に暇がない。
陸朗自身はそうした空虚な形容をする輩を嫌っていたが、生徒会長という存在がそう言われるほどの傑物である、ということは理解していた。
そんな人間がいるかもしれないところに入っていく──さらりとそういうことができるほど、陸朗は自分に自信がない。
(……帰りたい)
気後れした陸朗が思わず半歩後ずさった瞬間、部屋の中から声が聞こえた。
「帰っちゃ駄目だよ」
「……ッ!?」
少女の声だ。凛とした、どこか爽やかさを感じさせる響きの声。
聞き覚えがある──いや、忘れるはずもない。あの時、あの対戦で聞いた声だ。ストレーガの声だ。
「そこに……っ!?」
そのことに気付くと、身体が勝手に動いていた。打ち壊さんばかりの勢いで乱暴に扉を開ける。
「来たね。ようこそ、僕の部屋へ」
「あ、あんたが……?」
そこでは、ひとりの少女が待っていた。
腰まである、さらさらの金髪。サファイア色の瞳。白磁の肌。まるでおとぎ話の中から出てきた姫君のごとく、まさしく輝くような美貌。
知っている。真壁陸朗は、彼女のことを知っている。いや違う、この学校に通う者ならば、彼女のことを知らないはずがない。それほど彼女は有名だった。有名人だった。
「現実では初めまして、だね。『黒い銃身』……いや、真壁陸朗くん」
「生徒会長……秋月雪乃……!」
「ああ、名前を知っててくれたんだ。嬉しいな」
秋月雪乃──『剣の魔女』はそう言って、嬉しそうに口元をほころばせた。
設定をちょっと大きく変更。
どうも自分で読んでて「こいつらローティーンの会話してないな」と思ったので、いっそ思い切って高校生の設定に。