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四度目の春に、ようやく抽斗を開けた令嬢の話でございます

作者: 夢見叶
掲載日:2026/04/21

 わたくしは3年前の春の夜、初めて自分の花冠を解きました。


 ヴァロワ侯爵家の、門の内側、敷石3歩目で、家令のグスタフ様に花冠を差し上げ、お手紙を頂戴して、馬車で帰って来た夜のことでございます。


『本年は当家が弔事中につき、春の献呈はご辞退申し上げます。シリル・ヴァロワ』


 その手紙を受け取って、温室の脇の、古い木の椅子に座って、膝の上の花冠を、一房ずつ、解きました。


 編むときは、庭師の老ロランが、手順を一つずつ教えて下さいます。解くときは、誰も、教えて下さいません。解き方の手順は、この国のどこにも、ございません。


 わたくしは、自分で考えました。


 いちばん外側の、野菊の、茎の結びから、解きました。


 野菊は、ヴァロワ家の敷石の隙間で摘んだ花でございましたから、解きながら、敷石の感触を、指先に、思い出しました。


 次に、矢車菊。


 矢車菊は、ロランが育てた花でございましたから、解きながら、ロランの手の節の、麻紐の匂いを、思い出しました。


 いちばん内側の、白い小菊。


 白い小菊は、わたくしの、母方の祖母が、若い頃に、この庭に植えた花でございましたから、解きながら、祖母の、60年前の春を、思い出しました。


 解き終わるのに、2時間かかりました。


 解き終わった花は、温室の奥の、小さな土の山に、戻しました。土の山は、ロランが毎朝、庭の枯れ葉を掃き集める場所でございます。


 解き終わった麻紐は、丸めて、温室の硝子の、曇ったあたりの下に、置きました。


 温室の硝子は、夜のあいだ、外気と内気の温度差で、いつも、下の方だけ、薄く曇っております。


 その曇ったあたりに、わたくしは、額を、一度、つけました。


 額の温度で、硝子の曇りは、息の形に、少しだけ、暖かくなりました。


 それが、わたくしの、3年前の春の、弔い方でございました。


 2年前の春、同じことを、致しました。


 去年の春、同じことを、致しました。


 3度とも、同じ場所の硝子に、同じ形の、息の曇りが、付きました。


 温室の硝子の、下の方の、腰の高さのあたり。


 ロランは、その曇りを、朝に拭くのを、いつからか、やめてくれるようになりました。


 わたくしがその位置の硝子を拭くのは、朝ではなく、花冠の夜の、翌朝のことでございましたから。


 4度目の春の朝、わたくしは、温室の硝子の、いつもの位置を、拭きました。


 昨夜、解いていない花冠の、付くはずだった、息の曇りを、今年は、拭くものがございませんでした。


 拭くものがない硝子は、いつもより、よく見えました。


 その、よく見える硝子の向こうに、抽斗の中の、3通のお手紙のことが、久しぶりに、思い当たりました。


 わたくしは、居間に戻り、机の抽斗を、開けました。


 ◇ ◇ ◇


 抽斗の奥に、3通のお手紙をしまってございました。


 いずれもヴァロワ侯爵家のご当主、シリル・ヴァロワ様から。


 3年前の春、2年前の春、昨年の春。


 文面は、見事なほど、似ておりました。似ておりましたから、これまでわたくしは、3通を、一度も、並べたことが、ございませんでした。


 今朝、初めて、3通を、机の上に、並べました。


 1通目の字は、指の関節の強い男の、きちんとした字でございました。


 2通目の字は、同じ男の、きちんとした字のかたちを保ったまま、ほんの少し、震えておりました。


 3通目の字は、震えが、整っておりました。


 整った震えというのは、訓練を積んだ方が、震える手を、震えないように、無理に動かした、その跡のことでございます。


 わたくしは、3通を、抽斗の奥に、戻しました。


 戻して、抽斗を、閉めました。


 閉めて、今年は、花冠を編まないことに、致しました。


 ◇ ◇ ◇


 母のお小言には、3段落の決まった構成がございます。天気、家令の寝坊、そして第3段落はわたくしの花冠。


「アリーシア、今年の花は」


「お編みいたしませんの、お母様」


 母の紅茶のカップの音が、止まりました。


「——なんですって」


「4年続けて、『また来年に』とお返事を頂戴しております。今年で止めることに致しますの」


「アリーシア、あなた、4年——」


 母は『4年』という言葉を、ご自分の舌の上に置き直すように、もう一度、仰いました。


「——4年、でしたかしら」


 母が『3年』のつもりでおられたこと。その朝、わたくしは、初めて知りました。


 ——お母様、ヴァロワ家のご当主様は、4年、お屋敷から、一歩もお出になっていらっしゃらないそうでございますのよ。社交の場にも、夜会にも、4年、お顔をお出しにならなかったそうで。


 そう申し上げようとして、やめました。


 母がそれをご存知でないから、わたくしの春が、『3年』に数え間違えられていたのでございます。


 数え間違えは、母のお仕事でございます。母のお仕事を、取り上げるのは、娘のすることではございません。


「お母様」


「はい」


「4年、でございます」


「……ええ」


 母は、そのあと、何か、言いかけられました。


 唇が、『アリーシア、わたくし』の形に、動きました。


 動きかけて、止まりました。


 止まったまま、紅茶の、続きを、お飲みになりました。


 朝の湯気が、母の言いかけた形の唇の前を、一度、横切って消えました。


 消えたあとの唇の形は、母が生きてこられた60年のうち、いちばん、言葉の形に近い沈黙でございました。


 ◇ ◇ ◇


 庭師の老ロランは、温室の脇で、麻紐の束を、いつものように整えておりました。


「今年は編みませんの、ロラン」


「はい」


「来年の紐を、1束だけ、もう取っておいて下さいますこと」


「取ってございます」


 ロランは、麻紐の、いちばん奥の棚の、新しい束を、指でお示しになりました。


 束は、1つ。


 訊かれないのに、答えが用意されている。わたくしの庭師爺は、そういう方でございます。


 ロランは、それ以上、何もお話になりません。


 お話にならない代わりに、わたくしの、3年前から使っている、解いた花を戻す、温室の奥の土の山の、隅のほうに、今朝、新しい土を、少しだけ、足してあるのが、見えました。


 今年は解く花がございませんから、土を足す理由は、ございません。


 理由がないのに、足されている。


 わたくしは、何も、申しませんでした。


 ロランも、何も、仰いませんでした。


 わたくしたちは、3年分の、解いた花の土の上に、4度目の春の、足された新しい土を、一緒に、見ておりました。


 見ている時間の長さが、今年は、解くはずだった花冠の、時間の長さでございました。


 ◇ ◇ ◇


 春の儀の2日前、ヴァロワ家宛てに、1通のお手紙を書きました。


『本年の献呈は、ご辞退申し上げます。来春のご予定も、ございません』


 書き慣れた『来春こそ』の代わりに『来春のご予定もございません』と書くのに、わたくしは、4年の春を、費やしたことになります。


 春の儀の当日。


 ヴァロワ侯爵家の席次札の隣に、延期の札は、添えられませんでした。


 延期を書くには、翌春の献呈の約束が要ります。わたくしが差し上げないのですから、札は書けません。


 欠席の札を立てれば、王家の記録に残ります。残ったものは、翌年以降の席次の前に、前例として付いて回ります。


 書くべきか、書かざるべきか、ヴァロワ家のご当主シリル様は、その日、ご自身で3度、お書きになり、3度、お破りになったそうでございます。


 結局、席次札は、白紙のまま、置かれました。


 白紙で置かれた席次札の隣で、ご次男のユリウス様は、ド・カネル子爵家のエルミナ嬢と並んで立たれました。


 王家の作法係が「非公式披露」と記録し、朝刊が翌朝一面に書きました。


 3日後、ド・カネル子爵家が婚約の申し入れを辞退なさいました。


 7日後、王家よりヴァロワ家へ、翌春以降の叙位順位の下降が、ご通知されました。


 これらは、わたくしが花冠を編まなかったから、起きたのではございません。


 3度『また来年』と書いた手の持ち主が、4度目の春に、欠席の札さえ書けずに、白紙で置かせたから、起きたことでございます。


 父が、朝刊をお読みになりながら、そう、独り言を仰いました。


 独り言にしては、わたくしの方を、少しだけ、ご覧になっておりました。


 ◇ ◇ ◇


 春の儀から5日目の午後、次男のユリウス様が、お一人で、わが家の門を叩かれました。


 4年ぶりにお会いするご婚約者は、わたくしの記憶よりだいぶ華奢なお方でございました。


 居間のソファには、お座りになりません。お立ちのまま、両手を腿の前で組み、わたくしを、まっすぐご覧になりました。


「アリーシア嬢」


「ユリウス様」


「わたしは、あなたに謝罪に参りました」


「——」


「兄の罪は、兄が、ご自分で、お運びになるべきです。わたしは、自分の罪だけを、お詫び致します」


 ユリウス様は、一度、頭を、深くお下げになりました。


「4年間、婚約者でありながら、1通のお手紙も差し上げませんでした。あなたの春を、4年、預かったまま、返さずに参りました。——申し訳ございませんでした」


「ユリウス様、お顔を、お上げ下さい」


「はい」


「ただ、1つだけ、お教え頂けますか」


「はい」


「——ご当主様に、代筆を、お申し出に、なりましたこと、ございますか」


「2度、ございます」


 ユリウス様は、静かに、お答えになりました。


「扉の前で、『代筆致しましょうか』と、声をおかけ致しました。兄は、お答えになりませんでした。お答えの代わりに、扉の下から、書き損じた紙が、1枚、押し出されて参りました」


「——」


「『お前は、アリーシア嬢に、指一本触れるな』」


「——」


「それが、兄の、お返事でございました」


 わたくしは、居間の、窓の外の、白い紫陽花の、まだ青みがかった蕾を、見ておりました。


 見ながら、ユリウス様に、一度、小さく、お笑い申し上げました。


「——笑うところでは、ないのかもしれませんが」


「いいえ」


「兄が、指一本触れるな、と、書き損じた紙を、4年分、書斎のどこかに、貯め込んでいる姿を、想像いたしますと」


「——」


「兄弟というのは、そういうものでございます」


 ユリウス様は、そこで、初めて、小さく、笑われました。笑われてから、すぐに、お笑いを、おやめになりました。


「アリーシア嬢」


「はい」


「もう1つ、だけ」


「はい」


「先週、兄が、4度目の春に、お屋敷から、お出になろうとなさいました」


「——」


「1段目、2段目。3段目で、お引き返しになりました」


 わたくしは、息を、一度、深く、吸いました。


 2度目の吸気で、肩のいちばん奥のほうが、少しだけ、ほぐれました。


「ユリウス様」


「はい」


「お伝え下さって、ありがとうございます」


「いえ」


「兄君を、どうぞ、ご自分のお部屋の前を、お通りになれる方に、なさいますよう」


「——はい」


 ユリウス様は、もう一度、頭を、お下げになり、居間をお出になりました。


 ◇ ◇ ◇


 翌朝、わたくしは、馬車を、1台、頼みました。


 馬車は、ヴァロワ侯爵家の、門前で、停まりました。


 門の内側、敷石、3歩目。


 4年前の春、わたくしはここで一度、膝を折ったことがございます。踏まれかけた、敷石の隙間の、黄色の野菊を、拾うためでございました。


 今朝、その3歩目に、野菊は、ございませんでした。


 もしや、と思って、敷石の、一つ隣の隙間、そのまた隣、と、指先で、苔の感触を、確かめました。


 2つ目の隙間に、わずかに、黄色の、枯れた葉の、ごく小さな切れ端が、挟まっておりました。


 根が、絶える前に、踏まれたのでございます。


 わたくしは、指の腹で、枯れた葉の、乾いた筋を、一度、なぞりました。


 なぞってから、立ち上がりました。


 家令のグスタフ様が、急ぎ足で、玄関からお出ましになりました。


 80近いお年で、白い髪が、春の風に乱れておりました。


「アリーシア様——どうぞ、中へ」


「グスタフ様」


「はい」


「ご当主様に、お伝え下さい」


「はい」


「『門の内側、3歩目におります。どうぞ、お一人で、お越し下さい』、と」


「——」


「それから、玄関のお扉は、開けたままで、結構でございます」


 グスタフ様は、深々と頭をお下げになり、お屋敷の中へ、お戻りになりました。


 ◇ ◇ ◇


 わたくしは、振り返りません。


 門の内側、3歩目に、ヴァロワ家のお屋敷に背を向けるかたちで、立っておりました。


 耳を、よくしました。


 初めに聞こえたのは、廊下の、木の床を、靴の踵が、一度、鳴らす音でございました。


 その音が、止まりました。


 長いあいだ、何も、聞こえません。


 わたくしは、息を、浅くしました。


 やがて、2度目の、廊下の音。


 それも、止まりました。


 3度目、ようやく、玄関の、敷石の上を、靴の底が、鳴りました。


 それから、1段目。


 石段の、1段目の、古い石の、高い音でございます。


 1段目の音が、いつまでも、続きました。


 続いたまま、2段目には、移りません。


 ——1段目で、お止まりでございますのね。


 わたくしは、振り返らずに、心の中で、申し上げました。


 先週も、お止まりになった段でございます、と。


 2段目の音が、ようやく、鳴りました。


 鳴ってから、止まりました。止まる時間が、1段目よりも、長うございました。


 3段目。


 ここから先へ、先週は、お進みになれなかったのでございます。


 3段目の上で、靴が、動きませんでした。


 1分、2分、3分、——もしかすると、5分。


 わたくしは、時間を、数えるのを、やめました。


 数えると、待っている意味が、薄まる気が、致しましたので。


 風が、一度、わたくしの耳の後ろを、通り過ぎました。


 風の、終わり際に、3段目の靴が、4段目へ、移りました。


 4段目は、一呼吸。


 5段目は、半呼吸。


 6段目で、また、止まりました。


 7段目の音は、わたくしの耳には、届きませんでした。


 届かないまま、前庭の、石畳の、少し緩んだ石の、平らな音が、一度、鳴りました。


 石畳は、玄関から門まで、12枚でございます。


 1枚目。


 2枚目。


 3枚目で、止まりました。


 春の、温い光が、わたくしの襟足の、後ろ側に、降りておりました。


 光の重さは、風よりも、少しだけ、重うございました。


 4枚目。


 5枚目。


 6枚目で、止まりました。


 6枚目と7枚目の継ぎ目は、少し段差がございます。4年前の春にも、わたくしの踵が、そこで一度、つまずきました。


 その継ぎ目で、シリル様は、しばらく、お止まりでございました。


 7枚目へ、進まれました。


 8枚目。


 9枚目。


 10枚目。


 11枚目で、また、止まりました。


 11枚目と12枚目のあいだで、止まる方は、この前庭では、シリル様だけでございます。


 この石の継ぎ目には、何も、躓くものはございません。


 躓くものがないのに、お止まりになる。


 ——その理由は、12枚目を踏めば、もう、後には、引き返せない、ということを、ご自分で、ご存知だから、でございます。


 長い沈黙が、ございました。


 沈黙のあいだ、わたくしは、振り返りませんでした。


 振り返れば、シリル様は、12枚目を、踏まずに、お屋敷へ、お戻りになります。


 わたくしが背を向けている限り、シリル様は、ご自分の意志で、最後の1枚を、お踏みにならねばなりません。


 12枚目の石が、鳴りました。


 澄んだ、静かな、遠慮の、ない音でございました。


 それから、門の内側の、敷石の、1歩目が、鳴りました。


 2歩目。


 3歩目は、わたくしの、すぐ後ろで、止まりました。


 わたくしは、そこで、初めて、振り返りました。


 ◇ ◇ ◇


 シリル様は、わたくしが想像していたよりも、背の低い、お方でございました。


 お頬が、こけていらっしゃいました。


 右手の、指の第2関節に、インクの古い染みがございました。3年分、でございます。


 膝は、お突きになりませんでした。


 立ったままで、わたくしを、ご覧になりました。


「アリーシア嬢」


「はい」


「今朝、3歩目まで、参りました」


「はい」


「3歩目より、先は、——あなたのお許しが、ないと、参れません」


 わたくしは、シリル様を、見上げたまま、一呼吸、置きました。


 一呼吸のあいだに、先週石段の3段目で引き返された方が、今朝は7段と12枚と3歩を進まれたことを、きちんと、受け取りました。


 受け取ってから、申しました。


「——ご当主様」


「はい」


「3度、『また来年』と、お書きになりました」


「はい」


「なぜ、『お断り下さい』と、ご自分の字で、お書きにならなかったのでしょう」


「——書けば、済んだことでございました」


「はい」


「弟が、エルミナ嬢を、愛しておりました。わたしが婚約解消を弟の名で申し出れば、弟は、解消の当事者として、あなたのご実家に、非を問われます」


「はい」


「ですから、——あなたのほうから、お断りを頂戴するまで、待ちました」


「はい」


「3年、お断りを、頂戴できませんでした」


「——」


「わたしの、卑怯の、3年でございました」


 シリル様は、頭を、軽く、お下げになりました。


 深くは、お下げになりません。深く下げれば、許しを乞うことになるからでございます。


 乞わないことが、この方の、一つの誠実でございました。


 わたくしは、その誠実を、受け取りました。


 受け取ってから、申しました。


「——シリル様」


 わたくしは、『ご当主様』と呼ぶのを、やめました。


「はい」


「花冠は、——あなたが、降りて下さる、ためのものでございましたのよ」


「……」


「弟君に、お受け取り頂くためでは、ございません。毎年、毎年、あなたが、書斎から、庭へ、降りて下さる、口実に、なるためのものでございました」


「——」


「4年、降りられなかったお方に、わたくし、3年分の花冠を、お預けしていたことになります」


「——申し訳、ございません」


「申し訳ございません、では、足りません」


 シリル様は、それでも、頭を、深くは、下げられませんでした。


「——シリル様」


「はい」


「3年分、お持ちだった、白い木箱の、中身は、どうなさいました」


「——書斎に、ございます」


「蓋の内側に、何かをお書きになりました」


「——はい」


「何と、お書きですの」


「——『こちらは、お返しできません』と」


「はい」


「4年分の書き損じの紙も、書斎の、どこかに、貯め込んでいらっしゃる」


「——はい」


「弟君への『指一本触れるな』を、書き損じる必要が、おありだったのですか」


「——書き損じは、弟への、ではございません」


「——」


「あなたへの、お手紙の、書き損じでございます」


「——」


「『指一本触れるな』は、一度、書き切りました。一度、書き切れました。——あなたへの『お断り下さい』は、3年、書き損じ続けました」


 わたくしは、そのとき、シリル様が、なぜ、頭を、深くお下げにならないか、その本当の理由が、分かりました。


 深く下げないのは、誠実のためではなく、下げた瞬間に、ご自分の膝が、砕けるからでございます。


 この方は、今、立っていらっしゃるのが、精一杯なのでございました。


 4年分の、書斎から、3歩目までの、距離の重さを、膝で、支えていらっしゃいました。


「——シリル様」


「はい」


「お立ち下さいませ、そのまま」


「——はい」


「わたくしが、命じます。その場で、立っていらして下さい。お膝を、突かないで下さい。頭を、深くお下げにならないで下さい」


「——」


「足りない、その先を、——わたくしから、命じます」


 シリル様は、目を、伏せられませんでした。


 伏せれば、目の前が、暗くなって、膝が、砕けるからでございます。


 目を、開けたまま、わたくしを、ご覧になっておりました。


「——来年の春まで」


 わたくしは、一度、息を、整えました。


「あなたは、このヴァロワ家の、お屋敷に、お戻り下さいませ」


「——」


「ただし、書斎には、お入りにならない」


「——」


「書斎の窓からは、もう、わたくしを、お見下ろしにならない」


「——承知しました」


「書斎の、抽斗の、白い木箱は、今日、うちの馬車に、お乗せいたします。うちの温室の脇で、ロランと、わたくしが、燃やします」


「——はい」


「4年分の、書き損じの紙は、あなたが、ご自分の手で、焼いて下さいませ。わたくしの手では、焼きません」


「——はい」


「焼いた灰は、——お庭の、敷石の、野菊の絶えた隙間に、撒いて下さいませ」


「——」


「4年、降りられなかったお方が、焼いた紙の灰を、敷石に撒くのに、1日か、2日か、3日か、かかるかもしれません」


「——」


「その3日を、お済ませになって、来年の春の儀の、前の日の、夕刻に」


「——はい」


「あなたは、もう一度、ご自分のお屋敷の、石段と、石畳と、敷石を、お進みになって、わが家の門を、おくぐり下さい」


「——」


「そのときに、わたくしが、花冠を、1つ、用意してございます」


「——」


「お受け取り頂けるかどうかは、その日、お顔を合わせて、改めて、決めさせて頂きます」


「——承知しました」


 シリル様は、そこで、初めて、深く、頭を、お下げになりました。


 深く下げて、よいと、思われたのでございます。


 膝は、砕けませんでした。


 4年分を、敷石の灰に、撒くという予定が、膝を、支えて下さったようでございました。


 わたくしも、それを、お許しすることに致しました。


 わたくしは、シリル様の、3歩目に、1年分の沈黙を、置きました。


 ◇ ◇ ◇


 わたくしが馬車に戻る前に、玄関のほうから、グスタフ様が、小走りで、こちらへ、いらっしゃいました。


 ご年齢に似合わぬ速さで、両手に、古い、紙の束を、お抱えでございました。


 封のない、折り畳まれた紙の、乱雑な山でございました。


「アリーシア様」


「グスタフ様」


「——これは、わたくしが、若旦那様の書斎の、掃除のたびに、床に落ちていた紙を、拾って、貯めたものでございます」


「……」


「若旦那様は、書き損じた紙を、きちんとお捨てにはならない癖がおありでございました。床に、お落としになるか、暖炉の、火の入っていない奥に、投げられるか。どちらも、老爺の目には、捨てた、には見えませんでした」


「——」


「ですから、拾いました。3年分、貯めてございます」


「——」


「もし、——若旦那様が、ご自分でお焼きになれなかった場合に、アリーシア様にお渡しする用意を、老爺が、致しておりました」


「——」


「今、お渡し致しましょうか」


 わたくしは、グスタフ様の、両手の紙の束を、見ました。


 紙の厚みは、大人の手のひらの、幅の3倍ほど、ございました。


 3年分。


 わたくしは、一度、息を、吸いました。


 吸ってから、申しました。


「——グスタフ様」


「はい」


「お受け取り、致しません」


「——」


「ご当主様が、ご自分で、お焼きになれなかった場合の、ご用意だ、と仰いました」


「はい」


「今朝、ご当主様が、ご自分で、お焼きになる、とお約束下さいました」


「——」


「ご当主様が、ご自分で、お焼きになれる、とわたくしは、ご当主様を、信じます」


「——」


「信じる、というのは、——他人の用意を、受け取らない、ということでございますのよ、グスタフ様」


「——」


 グスタフ様は、紙の束を、胸に、抱え直されました。


 抱え直してから、深く、深く、頭を、お下げになりました。


 80近いお年の家令の、深い頭の下げ方でございました。


「——アリーシア様」


「はい」


「この老爺、4年、若旦那様のお役に、立てなかった、と、悔やんで参りました」


「——」


「今朝、——少しだけ、役に、立てたかもしれません」


「どうして」


「アリーシア様に、この紙を、お受け取りにならない、とお断り頂きましたから」


「——」


「若旦那様が、ご自分で、お焼きにならねばならぬ紙が、確かに、3年分ある、と、アリーシア様に、お認め頂きました」


「——」


「若旦那様は、焼く紙が、3年分、ある、と知って、ようやく、焼くことが、お出来になります」


「——」


 グスタフ様は、紙の束を、抱えたまま、お屋敷のほうへ、お戻りになりました。


 お戻りになる背中は、行きより、軽そうでございました。


 わたくしは、馬車に、乗りました。


 馬車の窓から、ヴァロワ家の、屋敷の2階の、奥の窓を、一度、見上げました。


 窓の曇った硝子の、内側に、人影は、ございませんでした。


 窓の下に、4年分のお人影が、いらっしゃらない窓は、春の光を、何の遠慮もなく、通しておりました。


 ◇ ◇ ◇


 帰宅して、ロランと、温室の脇で、3つの花冠を、焼きました。


 燃え尽きるまでに、1時間、かかりました。


 麻紐の焦げる匂いは、野菊の、絶えた隙間の、枯れ葉の匂いと、少し似ておりました。


 ロランが、最後の灰を、温室の奥の、土の山の、隅に、混ぜて下さいました。


 3年分、解いた花を戻してきた土の、その隅でございます。


「アリーシア様」


「はい」


「来年の春の、編む花の、土は、この、隅から、お取りになりますか」


「——そう、いたしますわ」


「さようで」


 ロランは、それ以上、何も、仰いませんでした。


 ◇ ◇ ◇


 ロランが、麻紐の新しい束を、もう1つ、足して下さいました。


 足された束は、紐の色が、少しだけ、青みがかっておりました。


「夏に、一度、雨が多うございましたから」


 それが、ロランの、時間の、お伝え方でございました。


 わたくしは、朝の温室の硝子を、毎朝、拭いておりました。


 拭きながら、庭の、白い紫陽花の、枝の、冬の固さを、指の腹で、確かめておりました。


 届いた手紙は、1通。


 差出人は、シリル・ヴァロワ侯爵。


『アリーシア嬢。

 ユリウスの部屋の前を、昨日、通りました。

 ユリウスは、わたしの部屋の前を、2度、通ったそうでございます。

 兄弟というのは、そういうものでございます。

 書き損じた紙は、敷石の、野菊の隙間に、少しずつ、撒いて、おります。

 ——では、春に。

 シリル・ヴァロワ』


 わたくしは、その手紙を、抽斗の、いちばん手前に、しまいました。


 いちばん奥の、3通のお手紙とは、違う段でございます。


 違う段ではございますけれども、抽斗は、同じ、抽斗でございます。


 ◇ ◇ ◇


 麻紐の束の、いちばん上の紐が、少し、ほぐれておりました。


 わたくしは、指先で、その1本を、元の位置に、戻しました。


 戻してから、温室の硝子に、一度、額を、つけました。


 4度目の春の朝、拭くものがないほど、よく見えた硝子は、冬のあいだに、また、下の方が、薄く、曇っておりました。


 額の温度で、硝子の曇りが、息の形に、1つ、付きました。


 3年前の春の夜の、息の形。


 2年前の春の夜の、息の形。


 去年の春の夜の、息の形。


 今年の、冬の朝の、息の形。


 形は、4つとも、少しずつ、違っておりました。


 同じ位置の硝子に、4度、同じ形が付いたなら、その硝子は、わたくしの弔いしか、通しておりません。


 4度とも違うなら、——少しずつ、ほかの、春を、通しはじめた、ということでございます。


 門のほうで、馬車の音が致しました。


 わたくしは、温室の硝子から、額を、離しました。


 馬車は、わが家の門の、手前を、通り過ぎていきました。


 ——そうでございます。


 来年の春まで、わたくしの門の前で、音を立てて停まる馬車は、ございません。


 わたくしは、もう一度、硝子に、額を、戻しました。


 戻した額の温度で、息の形の曇りが、もう一度、少しだけ、温まりました。


 温まった曇りの、輪郭が、冬の硝子の、外の、白い紫陽花の枝の、見当と、ほんの少しだけ、重なりました。


 来年の春の、花冠の、位置でございます。


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