四度目の春に、ようやく抽斗を開けた令嬢の話でございます
わたくしは3年前の春の夜、初めて自分の花冠を解きました。
ヴァロワ侯爵家の、門の内側、敷石3歩目で、家令のグスタフ様に花冠を差し上げ、お手紙を頂戴して、馬車で帰って来た夜のことでございます。
『本年は当家が弔事中につき、春の献呈はご辞退申し上げます。シリル・ヴァロワ』
その手紙を受け取って、温室の脇の、古い木の椅子に座って、膝の上の花冠を、一房ずつ、解きました。
編むときは、庭師の老ロランが、手順を一つずつ教えて下さいます。解くときは、誰も、教えて下さいません。解き方の手順は、この国のどこにも、ございません。
わたくしは、自分で考えました。
いちばん外側の、野菊の、茎の結びから、解きました。
野菊は、ヴァロワ家の敷石の隙間で摘んだ花でございましたから、解きながら、敷石の感触を、指先に、思い出しました。
次に、矢車菊。
矢車菊は、ロランが育てた花でございましたから、解きながら、ロランの手の節の、麻紐の匂いを、思い出しました。
いちばん内側の、白い小菊。
白い小菊は、わたくしの、母方の祖母が、若い頃に、この庭に植えた花でございましたから、解きながら、祖母の、60年前の春を、思い出しました。
解き終わるのに、2時間かかりました。
解き終わった花は、温室の奥の、小さな土の山に、戻しました。土の山は、ロランが毎朝、庭の枯れ葉を掃き集める場所でございます。
解き終わった麻紐は、丸めて、温室の硝子の、曇ったあたりの下に、置きました。
温室の硝子は、夜のあいだ、外気と内気の温度差で、いつも、下の方だけ、薄く曇っております。
その曇ったあたりに、わたくしは、額を、一度、つけました。
額の温度で、硝子の曇りは、息の形に、少しだけ、暖かくなりました。
それが、わたくしの、3年前の春の、弔い方でございました。
2年前の春、同じことを、致しました。
去年の春、同じことを、致しました。
3度とも、同じ場所の硝子に、同じ形の、息の曇りが、付きました。
温室の硝子の、下の方の、腰の高さのあたり。
ロランは、その曇りを、朝に拭くのを、いつからか、やめてくれるようになりました。
わたくしがその位置の硝子を拭くのは、朝ではなく、花冠の夜の、翌朝のことでございましたから。
4度目の春の朝、わたくしは、温室の硝子の、いつもの位置を、拭きました。
昨夜、解いていない花冠の、付くはずだった、息の曇りを、今年は、拭くものがございませんでした。
拭くものがない硝子は、いつもより、よく見えました。
その、よく見える硝子の向こうに、抽斗の中の、3通のお手紙のことが、久しぶりに、思い当たりました。
わたくしは、居間に戻り、机の抽斗を、開けました。
◇ ◇ ◇
抽斗の奥に、3通のお手紙をしまってございました。
いずれもヴァロワ侯爵家のご当主、シリル・ヴァロワ様から。
3年前の春、2年前の春、昨年の春。
文面は、見事なほど、似ておりました。似ておりましたから、これまでわたくしは、3通を、一度も、並べたことが、ございませんでした。
今朝、初めて、3通を、机の上に、並べました。
1通目の字は、指の関節の強い男の、きちんとした字でございました。
2通目の字は、同じ男の、きちんとした字のかたちを保ったまま、ほんの少し、震えておりました。
3通目の字は、震えが、整っておりました。
整った震えというのは、訓練を積んだ方が、震える手を、震えないように、無理に動かした、その跡のことでございます。
わたくしは、3通を、抽斗の奥に、戻しました。
戻して、抽斗を、閉めました。
閉めて、今年は、花冠を編まないことに、致しました。
◇ ◇ ◇
母のお小言には、3段落の決まった構成がございます。天気、家令の寝坊、そして第3段落はわたくしの花冠。
「アリーシア、今年の花は」
「お編みいたしませんの、お母様」
母の紅茶のカップの音が、止まりました。
「——なんですって」
「4年続けて、『また来年に』とお返事を頂戴しております。今年で止めることに致しますの」
「アリーシア、あなた、4年——」
母は『4年』という言葉を、ご自分の舌の上に置き直すように、もう一度、仰いました。
「——4年、でしたかしら」
母が『3年』のつもりでおられたこと。その朝、わたくしは、初めて知りました。
——お母様、ヴァロワ家のご当主様は、4年、お屋敷から、一歩もお出になっていらっしゃらないそうでございますのよ。社交の場にも、夜会にも、4年、お顔をお出しにならなかったそうで。
そう申し上げようとして、やめました。
母がそれをご存知でないから、わたくしの春が、『3年』に数え間違えられていたのでございます。
数え間違えは、母のお仕事でございます。母のお仕事を、取り上げるのは、娘のすることではございません。
「お母様」
「はい」
「4年、でございます」
「……ええ」
母は、そのあと、何か、言いかけられました。
唇が、『アリーシア、わたくし』の形に、動きました。
動きかけて、止まりました。
止まったまま、紅茶の、続きを、お飲みになりました。
朝の湯気が、母の言いかけた形の唇の前を、一度、横切って消えました。
消えたあとの唇の形は、母が生きてこられた60年のうち、いちばん、言葉の形に近い沈黙でございました。
◇ ◇ ◇
庭師の老ロランは、温室の脇で、麻紐の束を、いつものように整えておりました。
「今年は編みませんの、ロラン」
「はい」
「来年の紐を、1束だけ、もう取っておいて下さいますこと」
「取ってございます」
ロランは、麻紐の、いちばん奥の棚の、新しい束を、指でお示しになりました。
束は、1つ。
訊かれないのに、答えが用意されている。わたくしの庭師爺は、そういう方でございます。
ロランは、それ以上、何もお話になりません。
お話にならない代わりに、わたくしの、3年前から使っている、解いた花を戻す、温室の奥の土の山の、隅のほうに、今朝、新しい土を、少しだけ、足してあるのが、見えました。
今年は解く花がございませんから、土を足す理由は、ございません。
理由がないのに、足されている。
わたくしは、何も、申しませんでした。
ロランも、何も、仰いませんでした。
わたくしたちは、3年分の、解いた花の土の上に、4度目の春の、足された新しい土を、一緒に、見ておりました。
見ている時間の長さが、今年は、解くはずだった花冠の、時間の長さでございました。
◇ ◇ ◇
春の儀の2日前、ヴァロワ家宛てに、1通のお手紙を書きました。
『本年の献呈は、ご辞退申し上げます。来春のご予定も、ございません』
書き慣れた『来春こそ』の代わりに『来春のご予定もございません』と書くのに、わたくしは、4年の春を、費やしたことになります。
春の儀の当日。
ヴァロワ侯爵家の席次札の隣に、延期の札は、添えられませんでした。
延期を書くには、翌春の献呈の約束が要ります。わたくしが差し上げないのですから、札は書けません。
欠席の札を立てれば、王家の記録に残ります。残ったものは、翌年以降の席次の前に、前例として付いて回ります。
書くべきか、書かざるべきか、ヴァロワ家のご当主シリル様は、その日、ご自身で3度、お書きになり、3度、お破りになったそうでございます。
結局、席次札は、白紙のまま、置かれました。
白紙で置かれた席次札の隣で、ご次男のユリウス様は、ド・カネル子爵家のエルミナ嬢と並んで立たれました。
王家の作法係が「非公式披露」と記録し、朝刊が翌朝一面に書きました。
3日後、ド・カネル子爵家が婚約の申し入れを辞退なさいました。
7日後、王家よりヴァロワ家へ、翌春以降の叙位順位の下降が、ご通知されました。
これらは、わたくしが花冠を編まなかったから、起きたのではございません。
3度『また来年』と書いた手の持ち主が、4度目の春に、欠席の札さえ書けずに、白紙で置かせたから、起きたことでございます。
父が、朝刊をお読みになりながら、そう、独り言を仰いました。
独り言にしては、わたくしの方を、少しだけ、ご覧になっておりました。
◇ ◇ ◇
春の儀から5日目の午後、次男のユリウス様が、お一人で、わが家の門を叩かれました。
4年ぶりにお会いするご婚約者は、わたくしの記憶よりだいぶ華奢なお方でございました。
居間のソファには、お座りになりません。お立ちのまま、両手を腿の前で組み、わたくしを、まっすぐご覧になりました。
「アリーシア嬢」
「ユリウス様」
「わたしは、あなたに謝罪に参りました」
「——」
「兄の罪は、兄が、ご自分で、お運びになるべきです。わたしは、自分の罪だけを、お詫び致します」
ユリウス様は、一度、頭を、深くお下げになりました。
「4年間、婚約者でありながら、1通のお手紙も差し上げませんでした。あなたの春を、4年、預かったまま、返さずに参りました。——申し訳ございませんでした」
「ユリウス様、お顔を、お上げ下さい」
「はい」
「ただ、1つだけ、お教え頂けますか」
「はい」
「——ご当主様に、代筆を、お申し出に、なりましたこと、ございますか」
「2度、ございます」
ユリウス様は、静かに、お答えになりました。
「扉の前で、『代筆致しましょうか』と、声をおかけ致しました。兄は、お答えになりませんでした。お答えの代わりに、扉の下から、書き損じた紙が、1枚、押し出されて参りました」
「——」
「『お前は、アリーシア嬢に、指一本触れるな』」
「——」
「それが、兄の、お返事でございました」
わたくしは、居間の、窓の外の、白い紫陽花の、まだ青みがかった蕾を、見ておりました。
見ながら、ユリウス様に、一度、小さく、お笑い申し上げました。
「——笑うところでは、ないのかもしれませんが」
「いいえ」
「兄が、指一本触れるな、と、書き損じた紙を、4年分、書斎のどこかに、貯め込んでいる姿を、想像いたしますと」
「——」
「兄弟というのは、そういうものでございます」
ユリウス様は、そこで、初めて、小さく、笑われました。笑われてから、すぐに、お笑いを、おやめになりました。
「アリーシア嬢」
「はい」
「もう1つ、だけ」
「はい」
「先週、兄が、4度目の春に、お屋敷から、お出になろうとなさいました」
「——」
「1段目、2段目。3段目で、お引き返しになりました」
わたくしは、息を、一度、深く、吸いました。
2度目の吸気で、肩のいちばん奥のほうが、少しだけ、ほぐれました。
「ユリウス様」
「はい」
「お伝え下さって、ありがとうございます」
「いえ」
「兄君を、どうぞ、ご自分のお部屋の前を、お通りになれる方に、なさいますよう」
「——はい」
ユリウス様は、もう一度、頭を、お下げになり、居間をお出になりました。
◇ ◇ ◇
翌朝、わたくしは、馬車を、1台、頼みました。
馬車は、ヴァロワ侯爵家の、門前で、停まりました。
門の内側、敷石、3歩目。
4年前の春、わたくしはここで一度、膝を折ったことがございます。踏まれかけた、敷石の隙間の、黄色の野菊を、拾うためでございました。
今朝、その3歩目に、野菊は、ございませんでした。
もしや、と思って、敷石の、一つ隣の隙間、そのまた隣、と、指先で、苔の感触を、確かめました。
2つ目の隙間に、わずかに、黄色の、枯れた葉の、ごく小さな切れ端が、挟まっておりました。
根が、絶える前に、踏まれたのでございます。
わたくしは、指の腹で、枯れた葉の、乾いた筋を、一度、なぞりました。
なぞってから、立ち上がりました。
家令のグスタフ様が、急ぎ足で、玄関からお出ましになりました。
80近いお年で、白い髪が、春の風に乱れておりました。
「アリーシア様——どうぞ、中へ」
「グスタフ様」
「はい」
「ご当主様に、お伝え下さい」
「はい」
「『門の内側、3歩目におります。どうぞ、お一人で、お越し下さい』、と」
「——」
「それから、玄関のお扉は、開けたままで、結構でございます」
グスタフ様は、深々と頭をお下げになり、お屋敷の中へ、お戻りになりました。
◇ ◇ ◇
わたくしは、振り返りません。
門の内側、3歩目に、ヴァロワ家のお屋敷に背を向けるかたちで、立っておりました。
耳を、よくしました。
初めに聞こえたのは、廊下の、木の床を、靴の踵が、一度、鳴らす音でございました。
その音が、止まりました。
長いあいだ、何も、聞こえません。
わたくしは、息を、浅くしました。
やがて、2度目の、廊下の音。
それも、止まりました。
3度目、ようやく、玄関の、敷石の上を、靴の底が、鳴りました。
それから、1段目。
石段の、1段目の、古い石の、高い音でございます。
1段目の音が、いつまでも、続きました。
続いたまま、2段目には、移りません。
——1段目で、お止まりでございますのね。
わたくしは、振り返らずに、心の中で、申し上げました。
先週も、お止まりになった段でございます、と。
2段目の音が、ようやく、鳴りました。
鳴ってから、止まりました。止まる時間が、1段目よりも、長うございました。
3段目。
ここから先へ、先週は、お進みになれなかったのでございます。
3段目の上で、靴が、動きませんでした。
1分、2分、3分、——もしかすると、5分。
わたくしは、時間を、数えるのを、やめました。
数えると、待っている意味が、薄まる気が、致しましたので。
風が、一度、わたくしの耳の後ろを、通り過ぎました。
風の、終わり際に、3段目の靴が、4段目へ、移りました。
4段目は、一呼吸。
5段目は、半呼吸。
6段目で、また、止まりました。
7段目の音は、わたくしの耳には、届きませんでした。
届かないまま、前庭の、石畳の、少し緩んだ石の、平らな音が、一度、鳴りました。
石畳は、玄関から門まで、12枚でございます。
1枚目。
2枚目。
3枚目で、止まりました。
春の、温い光が、わたくしの襟足の、後ろ側に、降りておりました。
光の重さは、風よりも、少しだけ、重うございました。
4枚目。
5枚目。
6枚目で、止まりました。
6枚目と7枚目の継ぎ目は、少し段差がございます。4年前の春にも、わたくしの踵が、そこで一度、つまずきました。
その継ぎ目で、シリル様は、しばらく、お止まりでございました。
7枚目へ、進まれました。
8枚目。
9枚目。
10枚目。
11枚目で、また、止まりました。
11枚目と12枚目のあいだで、止まる方は、この前庭では、シリル様だけでございます。
この石の継ぎ目には、何も、躓くものはございません。
躓くものがないのに、お止まりになる。
——その理由は、12枚目を踏めば、もう、後には、引き返せない、ということを、ご自分で、ご存知だから、でございます。
長い沈黙が、ございました。
沈黙のあいだ、わたくしは、振り返りませんでした。
振り返れば、シリル様は、12枚目を、踏まずに、お屋敷へ、お戻りになります。
わたくしが背を向けている限り、シリル様は、ご自分の意志で、最後の1枚を、お踏みにならねばなりません。
12枚目の石が、鳴りました。
澄んだ、静かな、遠慮の、ない音でございました。
それから、門の内側の、敷石の、1歩目が、鳴りました。
2歩目。
3歩目は、わたくしの、すぐ後ろで、止まりました。
わたくしは、そこで、初めて、振り返りました。
◇ ◇ ◇
シリル様は、わたくしが想像していたよりも、背の低い、お方でございました。
お頬が、こけていらっしゃいました。
右手の、指の第2関節に、インクの古い染みがございました。3年分、でございます。
膝は、お突きになりませんでした。
立ったままで、わたくしを、ご覧になりました。
「アリーシア嬢」
「はい」
「今朝、3歩目まで、参りました」
「はい」
「3歩目より、先は、——あなたのお許しが、ないと、参れません」
わたくしは、シリル様を、見上げたまま、一呼吸、置きました。
一呼吸のあいだに、先週石段の3段目で引き返された方が、今朝は7段と12枚と3歩を進まれたことを、きちんと、受け取りました。
受け取ってから、申しました。
「——ご当主様」
「はい」
「3度、『また来年』と、お書きになりました」
「はい」
「なぜ、『お断り下さい』と、ご自分の字で、お書きにならなかったのでしょう」
「——書けば、済んだことでございました」
「はい」
「弟が、エルミナ嬢を、愛しておりました。わたしが婚約解消を弟の名で申し出れば、弟は、解消の当事者として、あなたのご実家に、非を問われます」
「はい」
「ですから、——あなたのほうから、お断りを頂戴するまで、待ちました」
「はい」
「3年、お断りを、頂戴できませんでした」
「——」
「わたしの、卑怯の、3年でございました」
シリル様は、頭を、軽く、お下げになりました。
深くは、お下げになりません。深く下げれば、許しを乞うことになるからでございます。
乞わないことが、この方の、一つの誠実でございました。
わたくしは、その誠実を、受け取りました。
受け取ってから、申しました。
「——シリル様」
わたくしは、『ご当主様』と呼ぶのを、やめました。
「はい」
「花冠は、——あなたが、降りて下さる、ためのものでございましたのよ」
「……」
「弟君に、お受け取り頂くためでは、ございません。毎年、毎年、あなたが、書斎から、庭へ、降りて下さる、口実に、なるためのものでございました」
「——」
「4年、降りられなかったお方に、わたくし、3年分の花冠を、お預けしていたことになります」
「——申し訳、ございません」
「申し訳ございません、では、足りません」
シリル様は、それでも、頭を、深くは、下げられませんでした。
「——シリル様」
「はい」
「3年分、お持ちだった、白い木箱の、中身は、どうなさいました」
「——書斎に、ございます」
「蓋の内側に、何かをお書きになりました」
「——はい」
「何と、お書きですの」
「——『こちらは、お返しできません』と」
「はい」
「4年分の書き損じの紙も、書斎の、どこかに、貯め込んでいらっしゃる」
「——はい」
「弟君への『指一本触れるな』を、書き損じる必要が、おありだったのですか」
「——書き損じは、弟への、ではございません」
「——」
「あなたへの、お手紙の、書き損じでございます」
「——」
「『指一本触れるな』は、一度、書き切りました。一度、書き切れました。——あなたへの『お断り下さい』は、3年、書き損じ続けました」
わたくしは、そのとき、シリル様が、なぜ、頭を、深くお下げにならないか、その本当の理由が、分かりました。
深く下げないのは、誠実のためではなく、下げた瞬間に、ご自分の膝が、砕けるからでございます。
この方は、今、立っていらっしゃるのが、精一杯なのでございました。
4年分の、書斎から、3歩目までの、距離の重さを、膝で、支えていらっしゃいました。
「——シリル様」
「はい」
「お立ち下さいませ、そのまま」
「——はい」
「わたくしが、命じます。その場で、立っていらして下さい。お膝を、突かないで下さい。頭を、深くお下げにならないで下さい」
「——」
「足りない、その先を、——わたくしから、命じます」
シリル様は、目を、伏せられませんでした。
伏せれば、目の前が、暗くなって、膝が、砕けるからでございます。
目を、開けたまま、わたくしを、ご覧になっておりました。
「——来年の春まで」
わたくしは、一度、息を、整えました。
「あなたは、このヴァロワ家の、お屋敷に、お戻り下さいませ」
「——」
「ただし、書斎には、お入りにならない」
「——」
「書斎の窓からは、もう、わたくしを、お見下ろしにならない」
「——承知しました」
「書斎の、抽斗の、白い木箱は、今日、うちの馬車に、お乗せいたします。うちの温室の脇で、ロランと、わたくしが、燃やします」
「——はい」
「4年分の、書き損じの紙は、あなたが、ご自分の手で、焼いて下さいませ。わたくしの手では、焼きません」
「——はい」
「焼いた灰は、——お庭の、敷石の、野菊の絶えた隙間に、撒いて下さいませ」
「——」
「4年、降りられなかったお方が、焼いた紙の灰を、敷石に撒くのに、1日か、2日か、3日か、かかるかもしれません」
「——」
「その3日を、お済ませになって、来年の春の儀の、前の日の、夕刻に」
「——はい」
「あなたは、もう一度、ご自分のお屋敷の、石段と、石畳と、敷石を、お進みになって、わが家の門を、おくぐり下さい」
「——」
「そのときに、わたくしが、花冠を、1つ、用意してございます」
「——」
「お受け取り頂けるかどうかは、その日、お顔を合わせて、改めて、決めさせて頂きます」
「——承知しました」
シリル様は、そこで、初めて、深く、頭を、お下げになりました。
深く下げて、よいと、思われたのでございます。
膝は、砕けませんでした。
4年分を、敷石の灰に、撒くという予定が、膝を、支えて下さったようでございました。
わたくしも、それを、お許しすることに致しました。
わたくしは、シリル様の、3歩目に、1年分の沈黙を、置きました。
◇ ◇ ◇
わたくしが馬車に戻る前に、玄関のほうから、グスタフ様が、小走りで、こちらへ、いらっしゃいました。
ご年齢に似合わぬ速さで、両手に、古い、紙の束を、お抱えでございました。
封のない、折り畳まれた紙の、乱雑な山でございました。
「アリーシア様」
「グスタフ様」
「——これは、わたくしが、若旦那様の書斎の、掃除のたびに、床に落ちていた紙を、拾って、貯めたものでございます」
「……」
「若旦那様は、書き損じた紙を、きちんとお捨てにはならない癖がおありでございました。床に、お落としになるか、暖炉の、火の入っていない奥に、投げられるか。どちらも、老爺の目には、捨てた、には見えませんでした」
「——」
「ですから、拾いました。3年分、貯めてございます」
「——」
「もし、——若旦那様が、ご自分でお焼きになれなかった場合に、アリーシア様にお渡しする用意を、老爺が、致しておりました」
「——」
「今、お渡し致しましょうか」
わたくしは、グスタフ様の、両手の紙の束を、見ました。
紙の厚みは、大人の手のひらの、幅の3倍ほど、ございました。
3年分。
わたくしは、一度、息を、吸いました。
吸ってから、申しました。
「——グスタフ様」
「はい」
「お受け取り、致しません」
「——」
「ご当主様が、ご自分で、お焼きになれなかった場合の、ご用意だ、と仰いました」
「はい」
「今朝、ご当主様が、ご自分で、お焼きになる、とお約束下さいました」
「——」
「ご当主様が、ご自分で、お焼きになれる、とわたくしは、ご当主様を、信じます」
「——」
「信じる、というのは、——他人の用意を、受け取らない、ということでございますのよ、グスタフ様」
「——」
グスタフ様は、紙の束を、胸に、抱え直されました。
抱え直してから、深く、深く、頭を、お下げになりました。
80近いお年の家令の、深い頭の下げ方でございました。
「——アリーシア様」
「はい」
「この老爺、4年、若旦那様のお役に、立てなかった、と、悔やんで参りました」
「——」
「今朝、——少しだけ、役に、立てたかもしれません」
「どうして」
「アリーシア様に、この紙を、お受け取りにならない、とお断り頂きましたから」
「——」
「若旦那様が、ご自分で、お焼きにならねばならぬ紙が、確かに、3年分ある、と、アリーシア様に、お認め頂きました」
「——」
「若旦那様は、焼く紙が、3年分、ある、と知って、ようやく、焼くことが、お出来になります」
「——」
グスタフ様は、紙の束を、抱えたまま、お屋敷のほうへ、お戻りになりました。
お戻りになる背中は、行きより、軽そうでございました。
わたくしは、馬車に、乗りました。
馬車の窓から、ヴァロワ家の、屋敷の2階の、奥の窓を、一度、見上げました。
窓の曇った硝子の、内側に、人影は、ございませんでした。
窓の下に、4年分のお人影が、いらっしゃらない窓は、春の光を、何の遠慮もなく、通しておりました。
◇ ◇ ◇
帰宅して、ロランと、温室の脇で、3つの花冠を、焼きました。
燃え尽きるまでに、1時間、かかりました。
麻紐の焦げる匂いは、野菊の、絶えた隙間の、枯れ葉の匂いと、少し似ておりました。
ロランが、最後の灰を、温室の奥の、土の山の、隅に、混ぜて下さいました。
3年分、解いた花を戻してきた土の、その隅でございます。
「アリーシア様」
「はい」
「来年の春の、編む花の、土は、この、隅から、お取りになりますか」
「——そう、いたしますわ」
「さようで」
ロランは、それ以上、何も、仰いませんでした。
◇ ◇ ◇
ロランが、麻紐の新しい束を、もう1つ、足して下さいました。
足された束は、紐の色が、少しだけ、青みがかっておりました。
「夏に、一度、雨が多うございましたから」
それが、ロランの、時間の、お伝え方でございました。
わたくしは、朝の温室の硝子を、毎朝、拭いておりました。
拭きながら、庭の、白い紫陽花の、枝の、冬の固さを、指の腹で、確かめておりました。
届いた手紙は、1通。
差出人は、シリル・ヴァロワ侯爵。
『アリーシア嬢。
ユリウスの部屋の前を、昨日、通りました。
ユリウスは、わたしの部屋の前を、2度、通ったそうでございます。
兄弟というのは、そういうものでございます。
書き損じた紙は、敷石の、野菊の隙間に、少しずつ、撒いて、おります。
——では、春に。
シリル・ヴァロワ』
わたくしは、その手紙を、抽斗の、いちばん手前に、しまいました。
いちばん奥の、3通のお手紙とは、違う段でございます。
違う段ではございますけれども、抽斗は、同じ、抽斗でございます。
◇ ◇ ◇
麻紐の束の、いちばん上の紐が、少し、ほぐれておりました。
わたくしは、指先で、その1本を、元の位置に、戻しました。
戻してから、温室の硝子に、一度、額を、つけました。
4度目の春の朝、拭くものがないほど、よく見えた硝子は、冬のあいだに、また、下の方が、薄く、曇っておりました。
額の温度で、硝子の曇りが、息の形に、1つ、付きました。
3年前の春の夜の、息の形。
2年前の春の夜の、息の形。
去年の春の夜の、息の形。
今年の、冬の朝の、息の形。
形は、4つとも、少しずつ、違っておりました。
同じ位置の硝子に、4度、同じ形が付いたなら、その硝子は、わたくしの弔いしか、通しておりません。
4度とも違うなら、——少しずつ、ほかの、春を、通しはじめた、ということでございます。
門のほうで、馬車の音が致しました。
わたくしは、温室の硝子から、額を、離しました。
馬車は、わが家の門の、手前を、通り過ぎていきました。
——そうでございます。
来年の春まで、わたくしの門の前で、音を立てて停まる馬車は、ございません。
わたくしは、もう一度、硝子に、額を、戻しました。
戻した額の温度で、息の形の曇りが、もう一度、少しだけ、温まりました。
温まった曇りの、輪郭が、冬の硝子の、外の、白い紫陽花の枝の、見当と、ほんの少しだけ、重なりました。
来年の春の、花冠の、位置でございます。
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