100年先から来た天使
純情な若くて幼い恋を描いた作品です。
秋も深まり、寒さもまた一段と高まるこの頃。
ブナの木の葉の小さな落ち葉が風に吹かれて、コンクリートの地面を転がると、なんとも賑やかで、
街並みは、空が白く、淡く、なってゆくたびに、彩られます。
山や林に、街角の木々が頬を染めるように色づき始め、恋の季節、と言ってもいい筈なのに、人々は、皆
この秋を別れの季節といいたがります。
私にも、別れがやってきました。
私のかつての恋人は、なかなか来ない秋を夏の間ずっと痺れを切らして待っているので、私は不思議に思っていました。
秋の訪れと共に、彼女は妙に他所よそしくなり、遂に今日、私は、別れの挨拶を告げられた。
「お別れします。さよなら。」
ずっと決めていたことなんでしょうか。
いつも行くカフェのひとつ上のフロアのレストランの
景色の良い窓際の席に彼女は迷いなく座ると、水を一口飲むなり、彼女は言った。
なんの躊躇いもなく、私を拒むような声色ひとつなく、真っ直ぐな目で私を見て、ただ誠実に別れてやろうといった様子で、私は当然動揺し、尋ねた。
「それは、一体どうして。」
彼女はもう一度私の目をしっかりと見つめ直して言った。
「初めから決まっていたことなの。
ごめんなさい。」
はっきりしない答えに私はまた尋ねる。
「理由は、言えないってこと?」
「うん。」
情け無い程狼狽える私を見て、彼女は誠実を諦めたように俯くと、窓の外の賑やかな秋の街を見下ろしていた。
やがて、彼女が注文したコーヒー二杯が運ばれてくる。
中々手をつけない私に、彼女が、
「冷めるわよ。」
と進める。
「冷めるのを待ってるんだ。」
よくわからない言い訳をしておきながら、私は渋々口をつける。
酸味の強いコーヒーだった。
弱った私の心身には刺激が強く、吐き気がした。
渋い顔をする私を見て彼女は、
「苦いの?熱いの?」
と聞いた。
私は声を落として言った。
「酸っぱい。」
そう、と彼女は揶揄うように言った。
私が彼女に、
「君は?これが好き?」
と尋ねると、
「分かんない。でもこれから好きになる。」
と言った。
不思議な答えに
「そりゃ、一体」
私が言いかけると、
「好きになるわ。きっと。」
彼女は、私の杯を見て言った。
私は、そのコーヒーに目を落とし、真っ黒なコーヒーの水面を見ていた。
「そう。じゃあきっと、俺もいつか好きになる。」
コーヒーの水面に映った景色がぐにゃりと歪んでいた。
「そう、きっと。」
彼女は心ここに在らずといった様子で頷いた。
彼女のカップを持つ癖で小指が立っているその影にある筈のない小さな石の煌めきが見えた気がしてゾッとした。
何故だか性質の悪い人間に絡まれやすい私の性質に配慮して、彼女は、日が暮れる前に私を振ってくれた。
別れ際、日が暮れ始め、振り返ると、彼女が私を心配そうに見つめていた。
何故、男の側が心配されなければならいのか、ジェンダーバイアスなどと言う言葉では覆らないとても個人的な感情で傷ついた。
それ程私の後ろ姿が小さく、情けなかったのだろうか。
ちっぽけになった男は家路を急ぐ。
人目を憚らず悲しみに浸るために。
その翌朝、目が覚めると、もう真昼であった。
「ああ、、」
私は、学生の身分を忘れていた。
友人から、何件か連絡が来ていた。
私がため息をついていると、丁度電話がかかってきた。
『もしもし、トシ。お前今日来るんじゃなかった?』
「あー、今日は、、休みに決めた。」
陽気な友人の声は、寝起きの頭に響いた。
『はあ、具合でも悪いのかよ。』
「うーん、いや、全然元気。」
欠伸をしながら答える私に、心配していた友人は呆れた。
『お前、元気なら来いよ。そんな余裕こいてられねぇだろ。』
「いや、今日は休み。」
案外真面目な友人が、説教臭くなる前に私は電話を切っていた。
「はあ、」
私はため息をついた。
もう、なんのやる気も起きず、明日まで寝てしまいたい気持ちだったが、空腹に耐えられず、気づけばパンを一枚齧っていた。
一度起きてしまうと、寝巻きのままでいるのが嫌だったので、取り敢えず適当に着替えた。
「あっ。」
パンツのポケットに彼女のハンカチが小さくくしゃくしゃになって入っていた。
貸してもらったのを忘れてポケットに入れたまま洗濯し、そのまま返すのも忘れていたのだ。
彼女は、私のこういう所が、嫌いだっだのだろうか。
これからしばらく、こうして何かある度に、彼女のことを思い返して過ごすのだろうと思うと、なんだか女々しくて、虚しくて、情けなくて、やなこった、
なんて思った。
朝食にパンを齧ったのはいいが、昼食がまだだったので、カップ麺を食べようと、お湯を沸かしながら歯をみがいた。
その時、ピーンポーンとドアベルが鳴った。
一瞬、電話の友人が剣幕になって押しかけてきたのだろうか、と想像したが、そんなわけがない。
何か宅配を頼んでいた覚えもないので、何かと物騒な世の中恐る恐る玄関へ向かい、覗き穴を覗いた。
「……サチ?」
そこには、昨日私を振ったばかりの彼女が居た。
「私よ、トシ。開けてちょうだい。」
インターホンに向かって、昨日のことがなかったこのように、いや、それにしたって不自然な程明るい声で彼女は言った。
開けない理由もそれ程なかった私は、恐る恐る扉を開けた。
「何の用?昨日の今日で。」
私は純粋な疑問で言った。
「何の用って、恋人が来るのに訳なんかいるの?」
悪戯っぽく言う彼女に私は、驚く。
「昨日別れた所だろう。」
彼女、サチは突然こんなトンチンカンなことをする人ではない。
昨日以上に私は動揺した。
「え?ああ、昨日だったのね。まあいいわ。」
サチは妙なことを呟きながら部屋に入ってこようとする。
「いやいやいや。」
私は、サチの侵入を全力で拒む。
私は、このトンチンカンな状況とこの状況を作り出したサチを受け入れることができなかった。
「え?」
サチは不思議そうに私を見上げる。
「いやいやいや。」
私は左右に首を振り不思議なのはこっちだよと抗議する。
「わかった。説明するから、取り敢えず入れてくれる。理由があって人から逃げてるの。」
サチは、私の戸惑いにやっと気づき、そう言って、
侵入を拒む私の体をぎゅうぎゅう押した。
「はあ?」
余計にトンチンカンになった状況に戸惑った私は、その隙に彼女の小さな手によって玄関へ押し込まれ、彼女の侵入を許してしまった。
彼女はその手でガチャンと扉の鍵を閉めると、更に私を部屋へと押し込む。
「わ、ちょっと」
私は訳が分からず押されるがままに後ろへ下がる。
そのままじりじりと、後ろへ下がっていると、私は椅子の脚に踵をぶつける。
「いってえ。」
私が思わず悲鳴を上げる。
そして、踵をさすりながら、泣き言のように言った。
「勘弁してよ、もう。急に何だよ。」
サチは急に真面目な顔で黙り込み、少し考えてから言った。
「とりあえず、踵をさすりながら聞く話しでもないと思うから、座ってちょうだい。」
サチは、私が今さっき足をぶつけたばかりの椅子を手で指すと、座るように勧める。
(俺の家の椅子だよ……。)
と私は、内心悪態をつきながらも、素直に座る。
私が座ったのを満足げに確認すると、サチは突然私の足元にしゃがみ込んだ。
私は思わずみを体を竦める。
「えっ、ちょっと何してるの?」
「踵、どっちの足ぶつけたの?」
サチは私の強張った足に無造作に触れ、踵から持ち上げ、覗き込んだ。
踵から伝わる彼女の冷たい指の感覚に私は思わず震えていた。
「あ、反対の足。
じゃなくて、何してんの。」
「ぶつけたんでしょ。冷やしましょう。
保冷剤どこにあるの?」
「えぇ……。」
これでは、まるで母親だ。
「あの、そんなに大したことないから。
もういいよそんな事。」
私はしゃがみ込むサチを立たせようと腕を引っ張る。
「そんな事って、痕が残るかもしれないじゃない。」
引っ張られて立ち上がったサチは眉を下げてしゅんとする。
「別にいいじゃない。女の子じゃあるまいし。」
ほら、まるで私も思春期の息子のようじゃないか。
「そう。」
彼女は、不服げにため息つきながら、近くの椅子に座った。
ようやく落ち着いて話しができそうだ。
こんなのは、珍しいことだ。
サチはいつもその歳以上に落ち着いていて、どっしりと構えている人で、そのせいでいつも柄にもなく慌てたり、騒いだりするのは私の役割だった。
それが、今日の彼女ときたら、そそっかしくて、口うるさい。
過保護の母親のようだと思ったら、次の瞬間には少女のようにむくれている。
一体、今日はどうしたのだろうか。
第一、振った恋人の所に突然押しかけてきたかと思えば、人から逃げているとか。
言いたいことを頭の中で悶々と、整理してやっと言葉がまとまった頃、
「あ、お茶でも淹れましょうか。」
と言って彼女は、突然立ち上がり私に背を向けキッチンへ向かった。
――サチは手慣れた手つきで我が家のお茶をさっさと淹れてしまうと、白い湯気のたつマグカップを二つ持って戻ってきた。
見慣れない様子の彼女に、私は段々疲れてきた。
しかし、いくら今日の慌ただしい彼女とはいえ、熱いお茶一気に飲み干して、また動き出したりしないだろう。
もう、逃しはしないぞ。
私は、尋ねた。
「君、誰から逃げてるの?」
「私自身から。」
私が思わず口を閉ざすのを見て、サチは言った。
「ねえ、お茶が冷めるまでちょっと散歩しない?」
「……。」
少しの間、黙り込んでから私は言った。
「いいよ。」
ほとぼりが冷めるのを待っているのは、きっと私の方だから。
――サチに手を引かれ、私達は走っていた。
「どこに行くの?」
「どこでも。」
サチは、私を連れて走る。
彼女は、向こうの空を指さした。
「見て、夕暮れが始まってる。」
私は、見上げる。綺麗な夕焼け。
「行かなきゃ。」
サチは、夕日の方へ走り出す。
角を曲がり、走り、赤信号を渡り、走り、車のクラクションが鳴り、走り、坂を登り、下り、ブロックの上を走り、溝にはまって転けて、犬に吠えられる。
立ち上がって、また、走り、彼女の髪が靡くのが私の視界を遮って、「邪魔だよ。」と言うと、彼女は笑った。
サチは、向こうの架道橋を走る電車を指した。
「見て、165本目が通り過ぎて行く。」
サチは突然立ち止まり、それを見ていた。
列車はあっという間に過ぎ去り、眩しい夕日が顔出して、私は、目を細めた。
彼女は、呆然と立ち尽くす。
「行こう。今日はもうきっと、165本目は二度と戻らない。」
私がそう言うと、サチは言った。
「いいえ。これから何度でも見れる。」
熱っぽい声で呟く彼女に私は言い聞かせるように呟く。
「いいや。もう二度とはない。」
今度は私が、彼女の手を引いて、先へ進むように促している。
彼女は頷いて一歩、また一歩と、歩き始める。
「ねえ、あなたは、私を気に入ってた?」
彼女がポツリと言った。
「うん。まあね。」
私は、曖昧に答える。
「今もまだ、気に入ってる?」
「そうかも。」
私は、また曖昧に答える。
「私のどこが気に入ったの?」
「分からない。」
私は、今も分からない。
だから、彼女のこの言葉は間違っていた。
「そう、私待つべきだったのね。
あなたが分かるまで。」
一歩、また一歩とその速度は段々と増して、再び彼女は走り始める。
花のない、乾いた花壇の上を走り、遊具のない公園の、閉鎖された釘だらけの砂場の砂を蹴り上げ、柵を飛び越え、膝を擦りむき、走り、走り、
二人は、風に飢えた子供のように走った。
もう、私が何処へきたのか分からなくなった頃、
サチは、立ち止まって、また指さす。
「噴水。」
そこには、ポツリと、白い噴水と花壇とベンチの小さな小さな公園があった。
「うん、噴水。」
私は、不思議な気持ちで、返事していた。
「そこで待ってて。」
サチはそう言うと、私の手を離して走っていった。
あー、分かった。
彼女が何をしたいのか、そんな気がする。
人気のない道に、ポツリとある噴水。
風のない日でぴたりと止まったままの花壇の花。
永遠に止まったままのしょんべん小僧。
本当に水だけが流れている。
ずっと、流れている。
そうして水だけをじっと見ていると、人間、時がどれほど経ったのか、分からなくなってくる。
私は、いても立ってもいられず、サチを追いかける。
私は、サチらしき後ろ姿を見つけて思わず声を掛けそうになるが、服装が全く違う。
どうやら、気持ちがはやりすぎているらしい。
私は、情け無いほど小さくなって、辺りを見回す男を見て思わず声を掛ける。
「どうしたの?何か困っているのかい?」
「あ、俺、人を探してしまして。」
「奇遇だね。私もだよ。」
私は、苦笑いをしてその場を去った。
私は、噴水へ行ってみる。
彼女が戻っているかもしれない。
私が噴水へ行くと、案の定彼女が待っていた。
「あ、どこに行ってたの。待っていてって言ったのに。」
「ごめんよ。
でも、君こそ何処へ行っていたのさ。」
私は、サチに尋ねてみた。
「新聞屋にね、新聞を買いに行ってたの。」
「はあ。」
サチはまた不思議なことを言っている。
「まだ何かあるの?」
私は笑って聞いた。
「ええ、行きましょう。」
サチが私の手を取った。
懐かしい感覚に浮かれながら私も走った。
「どこへ行くの。」
私が尋ねると彼女は答えた。
「今は、マンションの屋上。でもね、これからはどこでも行けるのよ。」
私は、苦笑いして彼女を追いかける。
サチが笑って振り返る。
「走ろう。」
「え?」
「もっと走ろう。」
サチは、ぐんとスピードを上げて走り出す。
「わあ。」
男の私が引っ張られる程早く走る。
「空でも飛べそうだ。」
私は笑った。
とあるマンションを指して、彼女は言った。
「あそこ。」
私は見上げる。
ああ、やっぱりそうだ。
そのビルを見上げて私は確信した。
「走って。」
サチは私を引っ張って、見知らぬ筈の迷わずマンションへ入っていく。
「早く。」
サチは、階段を駆け上がる。
「早く。」
サチはもっともっと走り出す。
彼女の必死な様子が可愛くて、
私は思わず笑い出す。
「早く。」
サチはそんな私に剣幕で言う。
「分かった。行こう、ちゃんと。」
私も全力で走り出す。
いつの間にか彼女を追い抜いて走る。
ああ、楽しい。
サチも笑っていた。
「きっと、きっと、間に合う。」
彼女がまたおかしなことを言うので、私は苦笑いした。
ようやく屋上階へ着いた時、サチは息をゼーゼー切らしていた。
「大丈夫?」
私は少し呆れて言った。
エレベーターを使えば良かったのに。
「うん。大丈夫。」
サチは息を整えながら答えた。
「ちゃんと全部話すわ。ここで。」
サチが言った。
「うん。」
私は頷く。
「私ね、100年越しにあなた似合いきたのよ。」
彼女は目に涙を溜めて、優しく微笑んだ。
「そう。」
私は頷いた。
彼女は慌てて言った。
「あのね、冗談なんかじゃないのよ。
ほら、見てこの新聞の日付。」
今から一週間先の日付だ。
「さっきは、これを取りに行ってたわけだ。未来に。」
私はその新聞をまじまじと見つめると、ある一つの記事に目が止まる。
「あ、これ。」
そこには、『少女転落事故、通行人巻き込み死亡』
と見出しがあった。
「あなた、今日死んじゃったのよ。」
彼女は震える声でそう言った。
「そう。」
私は彼女の目を見て頷いた。
「これ、あなたなの。
巻き込まれて死んだの。あなたなの。
あんまりよ。私だってまだあなたこと、愛してたのに。」
私はその時初めて驚いた。
「私、本当はね、婚約者がいたの。
でも、正式に結婚する前に、もう一度だけ恋がしたくて。あなたに嘘をついてた。」
「うん。」
私は頷く。
「でも、こんな終わり方ってあんまりよ。」
「うん。」
私は頷く。
「だからね、100年かけて、あなたに再び会える日を待ってた。」
私は口を開く。
「124歳の割に、老けてないね。」
昨日と全く変わらないサチの様子に私は言った。
「22歳のあなたに逢いに行くのに、おばあさんじゃ誰かわからないでしょ。」
サチは涙を浮かべて微笑んだ。
苦労の滲んだ微笑みに私は愛おしく微笑んだ。
サチは私を優しく抱きしめる。
彼女の腕の中、懐かしい感覚にうっとりとしながら、私は呟いた。
「……でもね、姿は戻せても、あの時に帰れても、
過去は変えてはいけないないんだ。」
サチは驚いて顔を上げる。
私は、フェンスの向こうを指差した。
サチが私の指の先を見る。
そこには、情け無いほど小さくなって、辺りを見回す男がいた。
彼女を探す男がいた。
22歳の私がいた。
サチ、こと三河早智子。
私は、少女時代最後の時間のことがずっと忘れられないでいた。
あんな終わりがあったからなのか、それとも彼のことがずっと好きだったからなのか、夫との結婚生活が年を重ね、冷えていたからなのかわからない。
ただ、いつも魚の小骨みたいにずっと喉の奥に引っかかっていて、何か悲しいことがあるとすぐに、引っかかったままの記憶がくすぐられて、どうしようもなく心が揺さぶられる。
そんな彼に逢いたくて、
私は、それから100年長生きした。
私が60歳の時、若返りが現実になった。
子供たちには、反対されたが、いつか彼に再び逢うため、私はその技術の被験者に名乗り出た。
それから、少しずつ若返った私は、一番上の子よりも長生きして、10年、遂にタイムトラベルが現実になった。
21世紀が遂に現実になった、なんて面白おかしく騒がれて、みんな本気にはしなかった。
私はいち早く乗組員に名乗り出た。
そして、私は若返りの第一被験者として少し有名だったから、世間に面白がられて注目された。
そのおかげもあってか、乗組員としての訓練を無事受けることになり、訓練により鍛えられ、本当に24歳だった頃よりもうんと運動ができるようになった。
私は、研究任務も、乗組員としての規則もギリギリまでは守った。
100年前に降り立ったその瞬間、走って逃げ出した。
彼に逢うために、ただそれだけのために来たのだ。
もう帰る必要もない。
私は、ここで死ぬ。
そう思って必死に駆け出した。
私が来たのは、なんと彼が事故に遭うその日だった。
私は急いで彼をつれて、転落事故の起こる建物の屋上へと連れてきた。
これで彼の運命を変えることができた。
私は嬉しくて、幸せで、彼に全てを打ち明けた。
彼はにっこり微笑んだ。
そして、どこかを指差している。
フェンスの向こう。
そこには、彼の姿があった。
「トシ!」
私が叫ぶと、彼の足がふと止まった。
彼が私を見上げた時私は馬鹿をやったと思った。
その瞬間、
バン
と、音がした。
振り返ると、指を指していた筈の彼がいなかった。
サチは、呆然と彼のいた場所を見つめていた。
やがて彼女はマンションの階段を降り始める。
ここから飛び降りてやろうかとも考えたが、踏ん切りがつかなかった。
二人で笑い合い駆け上った階段。
マンションを出ると、彼を待たせていた噴水へ向かう。
勿論、彼はいない。
風はなく、人気もなく、永遠に止まっているしょんべん小僧。ただ水だけが流れている。
飛び越えたフェンス、釘だらけの砂場しかない公園、枯れた花壇、走り抜けたブロック、犬が吠えてきた道、彼がはまってこけた溝、赤信号のまま渡った横断歩道、上り坂、下り坂、架道橋に184本目、夕陽が沈んでゆく、空は薄暗くなり始めている。
角を曲がると、彼の家が。
見上げると、そこには彼の姿があった。
窓からこちらを覗き込む彼は何も言わない。
ただ一つだけいつもと様子が違った。
彼の背中には、白い翼が生えていた。
トシは、何も言わずにサチを見つめていた。
サチは、震える声でトシに尋ねる。
「どうしたの?」
トシは答えた。
「先に帰ってたんだよ。
飛んだ方が早く帰れるし。」
トシはその白い翼に触りパタパタとはためかせてみせる。
「上がりなよ。お茶もう、ひえっ冷え。」
トシはイタズラっぽく笑うとサチへ向かって手招きした。
サチは目を離すとまたいなくなってしまいそうで、動けなかった。
「何してるの、おいでよ。私のことも全部話すから。」
トシは子供に言い聞かせるように言った。
サチはまだ動かない。
「私も、君に、100年越しに逢いにきたんだよ。」
トシは言う。
サチはまだ動かない。
「ねえ、聞きたくない。私がどうしてこんな姿なのか、君が過ごした100年私はどこにいたのか。」
「……。」
サチはトシをできるだけ見つめたまま、ゆっくりと歩き始めた。
建物に入り、彼が見えなくなった途端、彼の部屋まで階段を駆け上った。
彼の部屋まで走って走って、扉を開けると、オレンジ色の夕陽を跳ね返す、白い翼が見えた。
「トシ。」
サチが声をかけると、トシは振り返る。
「おかえり。」
イタズラっぽく笑って言った。
「あ、の……。」
サチはそう呟いたきり言葉が見つからず、黙り込んだ。
そのうち、先にトシが口を開く。
「混乱しないように先に言っておくけど、
昼間君が会ったのは22歳の死んだ私だよ。」
「え……。」
サチが顔を上げる。
「だからちょっと惜しかったね。」
サチは唇を噛んでワナワナと涙ぐむ。
「噴水の所で、君が彼から離れてくれたから、私は変装して、彼に話しかけてみたわけ。
それで、ちょうどマンションの方へ行く君を見かけったって言ったのさ。
そしたら、のこのこ行っちゃってさ、ぼんやりしすぎだよな、22歳の私。」
サチは彼の腕を掴んで言った。
「自分で自分を殺したの?あなた!」
「いいや、在るべき所に戻しただけさ。」
トシは微笑んで言った。
「死んでから気づいたらこんな姿になっててさ、そしたら隣に女の子がいて、気づいたんだ。
きっとこの子を天国へ連れて行くのが私の仕事なんだなって。」
「……。」
「だから、この世に留まるあの子について行く傍ら、
生きているのに、亡霊みたいに彷徨っている君のことも、心配して少しだけ見守ってたんだ。」
「そしたら、君が私の為に過去を変えるなんてとんでもないことしようとするから、止めに来たんだ。神のお使いで。」
トシは全てをあっけらかんと話してしまうと、冷めたお茶を啜り始めた。
サチは震える声で言った。
「どうして、止めたの。
あなたもし、生き延びたら、どこへでも行けたのよ。
自分を殺した女の子のお守りなんかしなくても、神様のお使いなんてしなくても、未来ある若者に戻れたのよ。」
「戻れないよ。時間は、二度とはないよ。」
トシは、優しく諭した。
「私は22歳で死んだけど、124年ずっと君のことを見ていたからわかる。
過去は変えられなよ。例え、体の時間を戻しても、世界の時間を戻しても、時間の重力は、未来へ、未来へ、落ちて行くから。戻しても、戻しても、進んで行くら。」
サチは叫んだ。
「どうせ、私の言うことなんて、綺麗事の絵空事よ!」
トシは怒鳴る。
「綺麗なことだよ!時が進んでいくことは、
真っ直ぐに落ちて行くんだよ。永遠に、永遠に、私たちは、落ちて行く。底なしの時空。誰も、時間の中では死なない。地面に叩きつけられて死ぬこともない、横から銃が飛び出て撃たれることもない、置いていかれることもない、殴り合うこともできない。
時間は一切の澱みなく、悲しみなく、喜びなく、ただずっと落ちて行くだけなんだ。」
サチはわっと泣き出した。
「じゃあ、どうして、私は昔のことばかり思い出すの。どうして、あなたが恋しいの。
どうして、あなたを忘れるの。
どうして、あなたの物がなくなっていくの。
どうして。」
「それは、ただ、会えないってことじゃないか。」
トシがサチを諭す。
「じゃあ、これからもずっと会いたかったらどうすればいいの。時を戻し続けるしかないじゃない。」
「サチ、何にでも、終わりはあるんだよ。
そして、君の思い出す私は、全部あったことだから思い出すんだよ。」
「時の重力は下へ下へ、未来へ未来へ、だけど、
過去は過ぎ去って行くけど、なかったことにはならないから。だから、恐ろしいことはしないで、私が死んだことを無かったことにしないで。そしたら、誰かの大切な思い出も無かったことになってしまうかもしれない。」
泣き崩れるサチの肩にそっと触れるトシ。
「私は、村井俊朗。22歳で死んでから、柄にもなく羽なんか生やして、子守りしてる神様の下っ端のお使い。
君は、三河早智子、旧姓村田早智子。24歳で、怪しい恋を楽しんだ後は、良き妻、良き母として、家族に尽くし、60歳を超えてからは、人生を謳歌しようと、人類初の若返りの被験者になり、更に人類初のタイムトラベラーになると、脱走事件を起こし、世間をお騒がせ。
ね、無かったことにするなんて勿体ない。」
サチは顔を上げてトシの目を見て言った。
「わかった。ちゃんと、家に帰る。」
「うん。」
サチは立ち上がり、涙でぐしゃぐしゃの顔を整えると、
決心して、扉を開けた。
背を向けたままのサチは言った。
「さようなら。」
「さようなら。」
トシはサチの遠ざかる後ろ姿をしばらく見つめていた後、自分の袖を引く少女に気づく。
俊朗は屈んで彼女に目線を合わせると言った。
「ねえ、君もそろそろお父さん、お母さんの所に帰ったら。」
少女はポツリと呟く。
「いや。」
「嫌かー。」
俊朗は、少女を抱きかかえると、窓から空へ飛び立った。
22歳のトシと天使のトシはどこで入れ替わったのでしょうか?




