mind
『早く明日が来たらいいのに』
同じ日々を繰り返して、
望んだ明日は、今日も変わらない。
それでも、私は——
***
「いや、だからですね?」
静かな空間。
上司に電話で報告する同僚の声と、キーボードを弾く音だけが響いている。
外はもうすっかり暗くなっていて、
照明の光がやけに強く事務所内を照らしていた。
(目が疲れてきた)
デスクトップを見続けているのに加えて、照明の光まで気になってきてしまった。
私は引き出しから目薬を取り出して、手早く目にさした。
目の奥に染み渡る感覚に、少しだけ息をついた。
「はぁ……」
同僚の電話が終わったようだ。
同僚は深いため息をついて、イスにドサっと腰を下ろした。
「お疲れ様です」
「何て言われたんですか?」
私はキーボードを打つ手を緩めて、同僚に話しかけた。
「Aさんの件、今日中にって……」
「ほんとですか?
……もう、20時半回ってるんですけどね」
電話の内容から、何となく察しはついていたけど。
デスクトップには、既にその案件のファイルが開かれていた。
「私、半分やりますね」
「助かるよ……」
(今日も、日を跨ぎそう)
心の中で、ひとつため息をついた。
***
「はぁ」
吐いた息が白く溶けていく。
少し前までは暑いくらいだったのに、
いつの間にかコートとマフラーなしでは歩けないほどの季節に移り変わっていた。
無事に"今日中の業務"を終わらせて、帰路についていた私は、
ぼんやりといつもの道を歩いていた。
(明日も仕事か)
今日は木曜日。
まだ明日が残っている。
「……ふぅ」
土日に休めるだけマシと、自分を励ました。
指先と耳が冷えて、じんじんと痛む。
職場とはそんなに遠くないはずの家までが遠い。
——あと何年、こんな日々が続くんだろう。
毎日そんなことを考えるだけで、何も変わらない。
変える気力が残っていないと言い訳して、ずっと心の中で愚痴をこぼすだけ。
(でも、まだ何とかなってるから)
その間は大丈夫と、
今日も自分自身に言い聞かせた。
***
「えっ? これを、月曜までに……ですか?」
Webミーティング中。
上司の言葉に、私はついそう返してしまった。
画面越しの上司が一瞬黙った。
そして、小さくため息を吐いて、
『じゃないと間に合わないんだ』
『他のは後回しでいいから、優先してそれやって』
そう言い放った上司に、表情が固まるのを感じた。
(後回しでいいって……)
全然良くない。
昨日だって、Aさんの件優先して作業したから、遅れ気味なのに。
「……」
その言葉を、ぐっと飲み込んだ。
言っても何も変わらない。
言ったところで仕事が減るわけでもない。
むしろ余計に時間を消耗する。
(明日も、出ないと)
「優先して」というなら、
さっさとこの無駄な会議を終わらせてほしい。
そんな文句も表情には出さずに、
淡々と必要事項をメモ帳に打ち込んでいった。
***
「ただいま戻りました〜」
20時過ぎ。
営業周りから同僚が戻ってきた。
「お疲れ様です」
「お疲れ様ー」
事務所に残っているのは、私と所長。
同僚は「あれ、二人だけっすか?」と目を丸くした。
「はい。皆さん、帰られました」
カタカタとキーボードを弾きながら言葉を返す。
すると、ごそごそと、何やら袋の音が静かな部屋に響いた。
「所長、どぞ」
「おお……すまんな」
同僚が何かを所長に渡したようだ。
心なしか、所長の声がうれしそう。
「渡瀬さんも、はい」
いつの間にか近くに来ていた同僚。
気づいた時には、デスクの上にカサッと何かの袋が置かれていた。
「シュークリームですか?」
「そうそう!今くらいの時間、一番必要かと思ってさ」
「他の人の分も買ってきたんだけど、明日いる人で分けちゃおう」
そう言って笑った同僚に「ありがとうございます」とお礼を言って目を細めた。
(……うん。 私はまだ大丈夫)
周りに恵まれているんだから、
仕事が多いなんていうのは、きっと贅沢な悩みなんだ。
「いただきます」
袋を開けて、シュークリームを摘み上げる。
袋から少しだけ出して、ぱくり。
(おいしい)
目の前の仕事は減らない。
けど、胸の奥を燻っていた靄は少しだけ薄まった気がした。
***
「……え?」
「申し訳ない……」
土曜日の午後。
月曜日までにと言われた仕事を何とか終わらせて、溜まっている仕事を片付けていたとき。
所長から「月曜までの件、状況が変わった」と言われた。
事情を詳しく聞くと、所長が前段階の作業で取りこぼしをしてしまい、リスケしなければならなくなったのだと。
そうなってしまうと、私の作業は全部白紙になってしまうわけで——
(無駄に、仕事をしていたと……)
早く手をつけても、後々楽になる。
そんな作業であればよかった。
だけど、今回の作業は文字通り、白紙。
意味のない作業になってしまったのだ。
「……仕方ないですよ」
「こんなに抱えていたら、そういうこともありますよね」
無理矢理口元を上げて、所長を励ました。
(そう。あらかじめフォローできなかった、私も悪い)
自分には、そう言い聞かせた。
目の奥にじわりと滲む熱を誤魔化すように、
デスクトップに向き直って、再び業務へと意識を逸らした。
***
いつもより早く帰路に着いた。
それでも既に外は真っ暗で、
今日もこぼれる息が白く滲んだ。
「……」
足取りが、重い。
一歩、また一歩と進むたび、
ガチャンと錠を付けられたかのように、足裏が地面に張りついていく。
とうとう動けなくなって、その場に立ち尽くした。
「〜っ」
じわっと溢れ出した涙。
ツーッと頬を伝った水滴は、冷たい空気にさらされてヒヤリとした。
ポタリ、ポタリ。
一度こぼれてしまった涙は、止めどなく頬を濡らし続け、地面に吸い込まれていく。
(どうしてっ、どうしてこんな気持ちで……!)
「ふぅっ……うぅ……」
行き場のない怒りが悲しみになって、
やるせなくて。
——こんな職場、もう辞めたい。
そう思ったのは、何度目だろう。
だけど、行動してこなかったのは自分自身。
その事実に、また腹が立った。
「うっ……はぁっ」
息の苦しさに、前屈みになる。
胸の前で、ギュッと拳を握った。
もう、続けたくない。
こんな気持ちを繰り返したくない。
自分にこれ以上——失望したくない。
「ふぅっ……ふぅー……」
乱れた呼吸を整えて、そっと体を起こした。
そして、靴裏の端からゆっくりと剥がすように足を持ち上げて、再び静かに歩きだす。
「ひっく……ひっく……」
静まり返る住宅街に響く、情けない音。
明日に期待したって、何も変わらないことは分かってる。
それでも、私は——
明日こそはって、何度も思ってしまうんだ。
その言葉が、『まじない』ではなくて、
『呪い』だと分かっていても——。




