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龍の目覚めと鉄の胎動

紫禁城、深宮の奥。夜更けの書斎には、灯りが一筋だけ揺れていた。その蝋燭の炎は、玉座という名の孤独を抱える若き帝王の心臓のように、仄暗がりの中で不規則に鼓動していた。溥儀は巨大な世界地図の前に佇み、指先でヨーロッパの戦火が燃え盛る地域——ヴェルダン、ソンム、タンネンベルク——をなぞる。その瞳孔の奥には、遠く離れた戦場の硝煙と塹壕の泥臭さが、生々しく映り込んでいるようだった。肌に纏わりつくようにして漂うのは、インクと埃、そして時間の古びた匂い。そして、そのすべてを覆い尽くす、冷たい鉄の予感。


「……たった二年か。人類が積み上げてきた文明と均衡が、たった二年の戦いで、これほどまでに音を立てて崩れ去ろうとは」


彼は低く呟き、目を閉じた。瞼の裏側には、蔡鍔さい がくの痩せぎすで、しかし熱い意志に満ちた面影がくっきりと浮かぶ。あの熱き思いと卓見を備えた将軍は、改革の道半ばで、志半ばで、この世を去った。その喪失感は、胸腔に空いた巨大な穴となり、冷たい風が吹き抜けるたびに、鈍い痛みを伴って彼の心を蝕んでいた。書斎の机の上には、蔡鍔直筆の「新軍建設計画書」の草稿が、大切に保管されていた。達筆な文字の一つひとつが、亡き将軍の息遣いを伝えているようで、時に溥儀はその紙面に触れることさえ躊躇った。


「蔡鍔よ……お前の炯眼けいがんなくして、誰がこの眠り続ける国軍という巨龍を鍛え上げ、目覚めさせ得るというのか……この溥儀ひとりに、その重責が担えると思うか?」


孤独。それは帝王という地位が常に背負う、逃れられないごうだった。幼い頃から、玉座は冷たく、周囲の恭順の言葉の裏には常に計算が潜んでいることを学んできた。しかし今、この瞬間ほどの孤独を感じたことはない。蔡鍔という理解者を失い、父でありながら政治的な重石でもあった載灃さい ほうを遠ざけ、自らが下した決断の数々が、彼をかつてない高みへと、そして孤独へと押し上げていた。


第一次世界大戦におけるドイツ帝国の圧倒的な優勢——その報せは、天津や上海の租界を経由し、電信という文明の利器によって、時に歪み、時に誇張されながらも、確実に紫禁城の深奥へと届いていた。世界の勢力図は、まさに地殻変動の様相を呈している。アジアにも、その余波は確実に、ゆっくりと、しかし容赦なく押し寄せている。ヴィルヘルム二世の野望は、遠く東洋の島国、日本をも刺激し、その膨張欲をかき立てていた。時間は残されていない。彼は、この古びて錆び付いた帝国を、急速に、しかし確実に、未来へと向けて変えねばならなかった。


目の前に広がるのは、「国民議会創設」と「立憲君主制」という名の、広大で未開の荒野だった。民主国家への道は、舗装された鉄路のように単純で一直線なものではない。それはまず、無数の民衆——文字も読めず、日の当たる場所でまっすぐに生きることさえ難しい大多数の民衆の意識という、泥と霧に覆われた痩せた大地に、「教育」と「権利」という種を蒔くことから始めねばならなかった。


「民に知識を……文字を読めぬ者に、どうして『権利』と『義務』という概念を理解させられよう。どうして、自らが国家の主人公たる自覚を持たせられようか……無理というものだ」


彼は深いため息をつき、執務机に向かった。机上には、孫文との間で交わされた密約の覚書の写しが置かれていた。革命の熱き理想を背負う男と、天命を継ぐ皇帝。この危うい同盟は、南方の熱気と紫禁城の冷めた現実主義を融合させ、かろうじて「新国家・中華帝国」という看板を掲げさせた。広東政府は表向きは清政府(新たに「中華帝国」と称する)に合流し、国内の大規模な内戦の危機はひとまず回避された。国内外の新聞には、ようやく一つの「中国」が誕生したとの期待が渦巻き、溥儀の英断を称える論調さえ見られた。


しかし、溥儀にはわかっていた。この期待と歓声は、薄氷の上に築かれた楼閣に等しい。歓声の裏で、彼は静かに蔡鍔を悼み、その悲しみを「軍備増強」という鉄の意志へと昇華させていった。ドイツの覇権が欧州を覆う中、彼は国軍の「鋼の肉体」を築くことにより一層の情熱を注いだ。ドイツからの軍事顧問団の拡充、兵器供給ラインの確保、将校育成の加速——すべてが、時計の針を早回しにするかの如く、急ピッチで進められていた。ヴェルサイユではなく、ベルリンからの指令が、この東洋の古都で、より重みを増し始めていた。


---


改革の刃は、まず紫禁城という最も古く、最も硬い土壌に向けられた。ここは、数百年の時を経て、あらゆるものが因習と形式に縛られ、動くことすら困難な場所である。


朝廷で発表された「皇族身分法」改正は、静かなる、しかし深い波紋を広げた。溥儀は実弟である愛新覚羅溥傑あいしんかくら ふけつを「武親王」に封じ、「皇室の一員として、軍事、国防の近代化に心血を注ぐ」という新たな役割を明確に与えた。これは、皇室自らが軍の近代化の先頭に立つという、強力なシグナルであった。


一方で、粛親王善耆しゅくしんのう ぜんきをはじめとする世襲親王たちに対しては、巧みな懐柔と圧力による「無血削権」が実行された。彼らは、長い間、先祖の威光に寄りかかり、実態の伴わない特権と発言力を保持し続けてきた。


ある晴れた午後、粛親王は溥儀に呼び出された。謁見の間は、陽光が差し込みながらも、何故か冷え切っていた。溥儀は玉座に座り、穏やかながらも凛とした、刃物のように鋭い口調で告げた。


「叔父上、長らく朝廷を支え、ご尽力いただいたこと、深く感謝しておる。しかし、新たな国には、新たな制度が必要だ。時代は、血統のみに依拠した政治を許さない。故に、世襲親王の参政権については、いったん整理させていただく所存である」


粛親王は顔を上げ、溥儀を見た。その目は一瞬、抗議の色を浮かべたが、すぐにかき消えた。


溥儀は続ける。「もちろん、これまでのご功績に報いるため、皇室財産から十分な退職金をお支払いする。今後はご隠居として、悠々自適の生活を送っていただきたい。これも、皇室の一員として、新たな国造りのために負っていただく、最後の大役だと理解いただきたい」


その言葉は、拒絶を許さぬ優しさで包まれていた。粛親王は唇を噛みしめ、複雑な表情を浮かべた。かつての栄華は夢のようだった。眼前の若き皇帝の目には、逆らうことを許さない冷たい決意が光っている。彼はもはや、かつてのように幼帝を操ることも、はかりごとで翻弄することもできない。深々と頭を下げ、やむなくこれを受諾した。多くの世襲親王たちも同様に、多額の退職金という「金の鎖」と引き換えに、政治の中枢から遠ざけられていった。彼らの不満は渦巻いたが、皇帝の権威と、背後にちらつくドイツの軍事力の前では、表立った反抗はできなかった。


そして、最も象徴的な出来事が、摂政王であった実父・載灃の処遇だった。溥儀は父を「欧州視察特命全権大使」に任命し、主にドイツを中心とした長期視察団の団長とすることを発表した。表向きは、ドイツの先進技術と制度を学ぶための重要任務である。それは、かつての権力者に対する最大級の敬意を示すかのように見えた。


しかし、宮中で父子が対面した時、その空気は張り詰め、溥儀の口調は礼儀正しくながら、底流に氷の様な冷たさを帯びていた。


「父上。欧州は今、千年に一度の大変革期を迎えております。特にドイツの興隆は、我が国が範とすべき点が甚だ多い。この重任を、父上にお願いしたい。我が国将来のため、どうかご辛苦願いたい」


載灃は息子の目をじっと見つめた。そこには、もはやかつてのように操ることのできる幼い皇帝の面影は微塵もなかった。そこにあるのは、自らの権力を確固たるものとし、過去の桎梏しっこくから決別しようとする、冷徹な為政者の眼光だけだった。彼は無力感と、わずかな諦め、そして複雑な父性愛にも似た感情を覚え、かすかにうなずくしかなかった。自分自身が、息子の成長のための「生贄」として捧げられるのだ。


「……わかった。わしが行こう。……皇帝陛下」


(内心:儀児ぎじ……我が子よ。お前はとうとう、父をこの紫禁城から、この国から追い出そうというのか。玉座は孤独だと……よく言ったものだ。今、お前はその意味を、身をもって知ろうとしているな……)


この「永遠に近いドイツへの旅」は、溥儀が自らの過去との決別を宣言し、真の単独大権を掌握することを意味していた。宗室の長老として、最大の潜在的対抗勢力であった載灃を海外に送り出すことは、朝廷内の旧勢力の象徴を物理的に排除し、かつドイツとの連携を強めるという、一石二鳥の策でもあった。それは、痛みを伴う、しかし必要不可欠な外科手術であった。


行政機構の名称も、大胆に刷新された。「三省六部」「都察院」など、千年以上も続いた古めかしい役所の名は、「行政院」「監察院」といった近代的な名前に改められた。それは、古い体質そのものの払拭を目指す、意図的な行為だった。


そして、宦官制度の廃止。数千年にわたって宮廷の暗部を支配し、数々の悲劇と陰謀を生んできた影の権力は、溥儀の一声で歴史の幕を下ろした。去っていく宦官たちの表情は、怒り、諦め、不安、そして解放感と様々だった。年若い宮女たちには、十分な退職金が支給され、故郷に帰り、結婚というささやかな幸福を掴む自由が与えられた。紫禁城の空気は、文字通り一気に浄化され、重苦しい因習の瘴気しょうきが払われ、さわやかな風が吹き抜けるようになった。しかし、その風は、あまりにも冷たく、何もかもを新しく生まれ変わらせねばならないという、巨大なプレッシャーを運んでくるものでもあった。


---


溥儀の権謀術数が最も冴え渡ったのは、北洋軍閥という巨大な岩盤に対する処置だった。彼らは、袁世凱の遺産を継ぐ、実戦経験豊富で強固な結束(少なくとも表面上は)を誇る軍事集団である。力ずくで砕くのは得策ではない。内部から割き、巧みに御するのが上策である。


彼は、「北洋三傑」と呼ばれる王士珍おう しちん段祺瑞だん きずい馮国璋ふう こくしょうを個別に呼び出し、新たな役職を授けた。三人の性格、力量、野心を見極めた上での、絶妙な人事である。


まず、最も権勢欲が強く、辣腕らつわんで知られる段祺瑞。彼は「内閣総理大臣」に就任し、日常行政の一切を担うことになった。しかし、その権限は行政に限定され、彼が最も重視し、力を頼みとする軍事への介入は明確に禁じられた。


段卿だんけいちんは卿の行政手腕を高く買っている。新国家の内政一切を、卿に託す。どうか、その才覚を存分に発揮してほしい」


溥儀の言葉は穏やかだが、その眼差しは段祺瑞の奥底まで見透かすようだった。


段祺瑞は恭しく頭を下げる。

「陛下の御信任、光栄の至りに存じます。微力ながら、全力を尽くす所存でございます」

(内心:ふん……皇帝陛下……老臣をこのような閑職に追いやるおつもりか?行政という、利益よりも軋轢あつれきばかりが生まれる沼に沈めて、手も足も出なくさせようというのか? しかし……この地位も、利用の仕様によっては……)


次に、軍人としての名声が高く、北洋軍内での人望も厚い馮国璋。彼は「国軍総司令官」として、国軍の再編と訓練の全権を委ねられた。文字通り、軍の頂点に立つ地位である。しかし、その代償として、行政への口出しは厳禁とされた。


「馮卿。国軍の近代化は、我が国の命運を左右する。この大任を担えるのは、卿をおいて他にない。どうか、蔡鍔将軍の志を継ぎ、世界に通用する強軍を創り上げてほしい」


「臣、馮国璋、陛下の御期待に沿わんがため、粉骨砕身、尽力することを誓います」

(内心:国軍総司令官……名ばかりではない実権か。しかし……段祺瑞が内閣の座に就くとはな。くっ。あの男が、我が軍の糧秣りょうまつや予算を握るとなれば、こちらの首根っこを押さえられたも同然だ。陛下……我々北洋の者たちを互いに牽制させ、鷸蚌いつぼうの争いを演じさせようというおつもりか?老獪ろうかいな……)


最後に、最も沈着冷静で、知略に長け、そして比較的私欲が少ないと評される王士珍。彼は、「監察院長官」に就いた。行政と軍を監視し、不正や専横をチェックする「天の目」としての役割である。これは、彼の人格と力量に対する最大級の信任を示すものだった。


「王卿。新国家には、公正な目が必要だ。卿の公平無私な性格こそが、この役職に最も相応しい。どうか、朕の目となり、耳となって、国が正しい道を歩むよう輔弼ほひたまえ」


「陛下のお言葉、身に余る光栄です。臣、王士珍、私情を挟むことなく、法と公正のため、この職責を全うすることをお約束いたします」

(内心:陛下は我々三人の力量と弱点をことごとく見抜き、その上で互いに競わせ、牽制させようとされている。まさに帝王の術……たとえ傀儡にされるとしても、今はこの大きな船——『中華帝国』という船に乗り、その行く末を見届けるほかないだろう。)


こうして、三人は中央政府の改革という巨大な船を漕ぐための、三本の重要なオールとなった。しかし、それぞれの心の中には、互いへの猜疑心と警戒心という「毒の秤」がぶら下げられ、皇帝個人の意志とバランス感覚によってのみ、その均衡が保たれる巧妙な体制ができあがった。溥儀は、自らが最終的な調整者となり、三者の力を利用しながら、国政を動かそうとしていた。それは、危険な綱渡りであった。


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国際情勢もまた、溥儀の思惑通り、あるいはそれ以上に動き始めていた。欧州で敗色濃厚となったイギリスと、戦争特需で疲弊し、厭戦気分が蔓延するアメリカは、極東におけるドイツの影響力拡大を危惧していた。特に、膠州湾租借地こうしゅうわんそしゃくちを足がかりに、中国全土にその勢力を伸ばさんとするドイツの動きは、英米の伝統的な権益を脅かすものだった。


彼らにとって、ドイツと緊密な軍事協力関係を持ちながらも、独立した意思を持ち、国内を着実にまとめつつある「中華帝国」とその若き皇帝は、ドイツの野望に対する唯一の対抗馬となり得た。それは、地政学上の必然であった。


英米からの接近——それは、公使を介した非公式な会談、技術支援の申し出、留学生受け入れの拡大など、様々な形で現れた——は、溥儀にとって「天与の好機」だった。ドイツ一辺倒の外交から脱却し、国際的なバランスを取る絶好の機会である。


「毒をもって毒を制す……というわけではないが、ドイツの軍事力と組織力、そして英米の議会制度や経済知識。この両輪をもってして、初めてこの国は、列強の狭間で立ち行くことができる」


彼はそう確信し、行動に移した。若く有能で、外国語に堪能な官僚や学者を選抜し、イギリス、アメリカへの留学団として次々と送り出した。彼らの使命は、議会運営、金融制度、法律体系、産業技術など、近代国家の「血肉」となるソフトウェアを学び、吸収し、持ち帰ることだった。それは、ドイツから学ぶ「鉄と血」のハードウェアとは対照的な、もう一つの重要かつ長期的な投資であった。


同時に、財政再建も進められた。ドイツからの借款と、関税自主権の回復を目指した税制改革により、中央政府の財政基盤は少しずつ、しかし確実に安定し始めた。北方の巨大な隣人、ロシア帝国との関係も重要であった。溥儀はロシア帝国とも新たな通商条約を結び、友好関係を築いた。これは、イギリスや、特に日露戦争後に南満洲への野心を露わにしつつある日本という新興国の影響力を牽制し、北部国境の平穏を保つための現実的な策略であった。彼は、チェス盤の上の駒のように、各国の思惑を読み、自国に有利に導こうとしていた。


欧米諸国の駐華公使たちは、この「年齢の割に老獪」な若き皇帝の手腕に、深い警戒心とある種の畏敬の念さえ抱き始めていた。ある英国外交官の本国への極秘報告書には、こう記されていた。


「皇帝溥儀は、その若さと穏やかな外見から想像される以上に、冷徹で計算高い人物である。彼は我々の援助を受け入れながらも、決して傀儡とはならないだろう。むしろ、我々全てを利用し、将来最大の脅威となる可能性すらある。彼の背後には常にドイツ帝国の影がちらつき、その軍事力が彼の国内改革を下支えしている。この『眠れる獅子』は、いま、自らの力で目覚めようとしている。我々は、この新たな状況に細心の注意を払う必要がある」


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しかし、すべての改革と外交的成功、国内外の称賛にもかかわらず、中華帝国の屋台骨を揺るがす最大の暗部は、東北三省(満洲)に蟠踞ばんきょする一人の男——張作霖ちょう さくりんという形で存在していた。彼は、馬賊上がりの叩き上げで、その苛烈さとしたたかさで「東北王」の異名を取る実力者である。


溥儀は、この「東北王」の勢力を削ぐため、巧みな一手を打った。張作霖のライバルであり、同じく実力者である馮徳麟ふう とくりんを「盛京留守司令官」に任命し、奉天(現在の瀋陽)に牽制の楔を打ち込むと同時に、張作霖配下の精鋭・第二十八師団の指揮権を、皇帝直轄の近衛軍に編入することに成功した。これは、張作霖の力を直接奪う、痛烈な挑発であった。


張作霖は、表面上はこれに従った。北京に向けては恭順の意を表する電文を送り、皇帝のご威光を称え、馮徳麟の任命にも異議を唱えなかった。


「陛下の御命令こそが絶対でございます。臣、張作霖、微力ながらも陛下のご期待に沿わんがため、東北の安定と繁栄に尽力する所存でございます」


電文の言葉は丁重そのものだった。

(内心:ちっ……小賢しい小僧が。皇帝の位に座ったからといって、調子に乗るんじゃねえよ。この東北は、俺が血と汗で切り開いた土地だ。お前のような、生まれながらの貴様らに理解できるか!)


しかし、その裏で、奉天の張作霖官邸では、東北三省の最高実力者たちが密かに集結していた。吉林省督軍の孫烈臣そん れっしん、黒竜江省督軍の呉俊陞ご しゅんしょう、そして張作相ちょう さくしょう楊宇霆よう うてい李景林り けいりん袁金鎧えん きんがいら、張作霖の「虎の牙」たちである。


表向きの会議が終わり、一般の部下や顧問たちが退出した後、張作霖は最も信頼する腹心たち——呉俊陞、孫烈臣、張作相、湯玉麟とう ぎょくりん張景恵ちょう けいけいだけを居間に残した。重厚な扉が閉ざされ、外部との音が遮断された瞬間、張作霖はついに感情の堤防を決壊させた。


「ちくしょう! あの青二才が! 俺様をなめるんじゃねえ!」


彼は紫檀の机を拳で叩きつけ、上の景徳鎮の茶碗を跳ね飛ばした。陶器が砕ける鋭い音が部屋中に響き渡る。かつての馬賊時代の荒々しい本性がむき出しになる。部屋中を獣のように歩き回り、北京官話ではなく、なまりのきいた奉天の方言で罵声を浴びせ続けるその様は、まさに狂乱そのものだった。目は血走り、裏切りへの怒りと、自らの覇権を脅かされた恐怖で歪んでいた。


「民主だの、憲法だの、ふん! きれいごとじゃねえか! 俺たちが、血と汗と、命までも投げ打って、ロシアや日本や、いろんなもんとやりながら守り抜いてきたこの東北を、なんで北京の、乳臭い小僧と、その腰巾着どもに、ただで明け渡さにゃならねえんだ! 馮徳麟めが……あの役立ずが、俺の頭上に来るだと? 笑わせる!」


「大将、落ち着いてください」

最も冷静な孫烈臣が静かに諫めた。彼は張作霖の参謀長格として、常に沈着さを失わない男である。

「落ち着けだと?そんさん、どうやって落ち着けってんだ! あの小僧、馮徳麟を使ったり、わしの師団を奪おうとしたり……次は何をするつもりだ? わしの首をはねるのか? この東北から、俺たちを根こそぎにするつもりか!」

俊陞しゅんしょうの言う通りだ、雨亭うていよ」孫烈臣も加わった。「硬く立てば折れる。我々はこれまで、ロシアや日本と渡り合い、この地を守り抜いてきた。北京の小童ごときが、そう簡単に東北を呑み込めるものか。今は力を蓄え、時を待つ時だ」

「雨亭、」湯玉麟が荒々しい口調で付け加えた。「お前が一声かければ、兄弟たちはいつでもついて行く。命は惜しくねえ。だが今は…表立って刃を抜く時じゃねえ。時を待つのだ」

「雨亭…」無口な張景恵も言葉を継いだ。「我々はお前を頭と仰ぐ。お前の決断に従う。いつもの通りだ」


腹心たちからあざなの「雨亭」 で呼びかけられるたびに、張作霖の荒れ狂う激情は少しずつ収まっていった。この呼び名は、馬賊時代からの苦楽を共にし、生死を何度もくぐり抜けてきた者たちだけが使う、特別な符牒ふちょうだった。それは単なる名前以上のもので、揺るぎない結束の証であり、互いの絆を確認する合言葉でもあった。彼らは、皇帝でもなければ、官位でもない、この「雨亭」という男に忠誠を誓っているのだ。


彼は深く息を吸い、ようやく歩みを止めた。荒い呼吸を整え、紅潮した顔も徐々に平常に戻る。しかし、その瞳の奥には、消えることのない怒りの炎がくすぶり続けていた。


「……皆、言うことはわかっている」張作霖の声は、怒りに震えていた頃よりは低く、しかし危険なほどの冷静さを帯びていた。「だがな、このまま手をこまねいていれば、北京の術中にまんまとはまり、いずれ我々は骨までしゃぶり尽くされるだろう。あの小僧皇帝は、俺たちを甘く見てはいねえ。確信犯だ」


「ならば、どうするおつもりだ、雨亭?」張作相が尋ねた。


張作霖の口元に、冷ややかで、底意地の悪い笑みが浮かんだ。それは、獲物を狙うトラの笑みであった。


「表向きはな、皇帝陛下の忠実な臣下を演じてやる。立憲だ? 議会だ? 好きにさせておけ。だが……東北の実権は、絶対に手放さぬ。税収、軍権、人事……すべては我々の手の中に、これまで通りだ」


彼は部下たちを一人一人、鋭い眼光で見回した。


「馮徳麟め……あの小賢しい役立ずが、わしの頭上に立とうとはな。いつか必ず、思い知らせてやる。今は…じっと我慢だ」


「では、具体的には?」孫烈臣が聞いた。


「まずは、だな」張作霖は机の上の東北三省の詳細な地図を指さした。「表面上は北京の命令に従い、軍隊の再編成に協力するふりをする。しかし、真の精鋭部隊、特に砲兵と騎兵は別に温存しておく。装備の更新も、ドイツから直接手配するルートを確保せねばならぬ。北京を経由してでは、良い物は回って来ん。ヴィッカースだの、クルップだの、そういう奴らと直接話をつけろ」


「税制についても、」呉俊陞が言った。「中央政府への上納分は規定通り納めるとして、それ以外の部分——例えば、土地税や商業税の『徴収効率』や、密貿易の取り締まりの『程度』については、我々なりの『調整』が必要だろう」


「ああ、」張作霖は頷いた。「お前たちには、それぞれの地盤で、これまで通りに振る舞ってもらう。表立った反抗はするな。しかし、北京からの役人や調査団が来ようものなら……そいつらが自ら進んで、この『寒さの厳しい』東北から去りたくなるような『環境』を整えてやれ。現地の民衆の『不満』を煽るとか、些細な事務上の『困難』を山積みにするとか、方法はいくらでもある」


部下たちは互いに顔を見合わせ、冷笑を浮かべた。彼らには、その意味が十分に理解できた。それは、彼らがこれまで何度も行ってきた、お家芸のようなものだ。


「教育や新聞にも、目を光らせろ。」楊宇霆が付け加えた。「北京流の『民主主義』や『愛国心』が、我々の若者や知識人を惑わさぬようにだ。東北は、東北人自身で守る——その意識を植え付ける必要がある。」


「ともあれ、」張作霖は結論付けるように言った。「この東北は、我々が血で染めて手に入れた土地だ。皇帝だろうが、中央政府だろうが、それを簡単に奪えると思うなよ。この張雨亭ちょう うていが、生きている限りな……」


彼は自分自身に問いかけるように呟いてから、大きく息を吐いた。

「……これからが本当の戦いだ。覚悟しておけ、皆の者」

「おう!」「了解した!」「任せとけ、雨亭!」


腹心たちの力強い返事が、密閉された書斎に重く響き渡った。北京では立憲と改革の掛け声が高まり、紫禁城では近代化の足音が響く中、東北の地では、中央への反抗と地域自立への道が、静かに、しかし確実に歩み始めていた。張作霖――「雨亭」という字でしか呼ばれない男を中心に。その怒りと野望は、東北の凍てついた大地の下で煮えたぎるマグマとなり、やがて噴火の時を待つのであった。中華帝国という新たな船は、その船出の瞬間から、巨大な内部の亀裂と脅威を孕んでいたのである。龍の目覚めは、鉄の胎動を伴い、そして新たな暗雲をもたらそうとしていた。

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